第384話 溶解
――背後から近付く足音。
それはウィンターの記憶に無いものだった。
家臣や家来の足音を全て把握している彼は、すぐその異変に気が付く。
ウィンターは瞑想を中断、瞳を開き背後に視線を向けると、そこには女性と思わしき長身の人影があった。
「エスタさ……違う……!?」
その背丈、体付きは、彼の大切な人に酷似していた――が、よく見ると髪の色、顔付き、服装などは彼女とは全く異なっていた。
今目の前に居る黒髪の女性は、濃青を貴重としたゴシック服を着こなし、右手には折り畳まれた日傘が持たれていた。
「何方……ですか……?」
ウィンターが尋ねると、ゴシック服の女性は上品にお辞儀しながら名乗る。
「――はじめまして、サンディ閣下。私はルーナと申します。以後お見知り置きを――」
名乗り終えたルーナは、腰に左手を当てながら、右手のVサインの隙間から右目を覗かせて、謎ポーズを決める。
一方の銀髪少年が眉を顰めながらルーナに訊く。
「一体……どこから入ってきたのですか? この屋敷には強力な結界を張り巡らしており、門には見張りも置いているので不審者は入って来れない筈ですが……」
「フッフッフッ……初対面なのに不審者扱いとは失礼しちゃうわね」
自慢ではないがこの屋敷の警備・防御態勢はトロイメライ最高クラス。容易く突破できるセキュリティではない。
ウィンターの質問にルーナは得意げな表情で答える。
「フッフッフッ……あの程度の結界……私の前では無力よ」
「つまり……結界を破って侵入してきたということですか?」
「ええ。ほんの少しばかり穴を開けさせてもらったわ」
ルーナの返答を聞いたウィンターの表情が険しさを増す。
(この女性……只者ではありません……!)
銀髪少年は瞳を細めながらルーナをジーッと睨む。すると彼女はニッコリと微笑んでみせる。
「サンディ閣下、そんな怖い顔をしないでください。私は決して怪しい者ではありませんから」
「……怪しい」
「で、ですよね〜……テヘッ☆」
ルーナは自分の頭をコツンと叩いた後、猫ポーズしながらテヘペロして見せる。――ウィンターの警戒心は強まる一方だ。
ここでルーナが行動に出る。
彼女がウィンターに向かって歩みを進め始めたのだ。
一方の少年は正座の状態から片膝をつく体制に変えると、透かさずゴシック服の女性を制止する。
「止まってください! さもなくば氷漬けにしますよ?」
だがルーナは動じず。
「まあまあ、そう殺気立たないでくださいな。サンディ閣下の実力は把握しているつもりよ。貴方に正面から喧嘩を売るほど私も馬鹿じゃないわ」
ルーナはそう言いながらウィンターのすぐそばまで接近。だがその視線は少年ではなく前方の神像に向けられていた。
ルーナが予想外のセリフを口にする。
「ねえ、サンディ閣下」
「なんでしょう……?」
「『八切猫神』様にご挨拶してもよろしいかしら? 私も七戦神の一角『打尽蜘蛛神』様を崇拝する者の一人ですから」
ウィンターは迷いながらも首を縦に振る。
「……どうぞ」
「ありがと」
彼女は少年の隣で正座すると、瞳を閉じ、指を組みながら八切猫神の神像に祈りを捧げる。ウィンターはルーナを見つめながらその場に腰を降ろした。
今のルーナは無防備。捕まえてくれと言っているようなものだ。彼女をスマートに制圧するには絶好の機会である。
とはいえ、わざわざ断りを入れてから神に祈りを捧げている者を制圧する必要があるだろうか? 何より彼女から敵意が感じられなかった。自ずと自分の警戒心も緩む。
(彼女からは敵意が感じられません……まずは話を聞いてみましょう……)
――この判断が自分の運命を大きく変えるとは……この時は知る由もなかった。
祈りを終えたルーナは瞳をゆっくりと開くと神像に深々とお辞儀。
「心が安らぐわね……」
心が満たされた様子で微笑むルーナに、ウィンターが間髪入れずに問い掛ける。
「それで……一体、私に何の用でしょうか? そもそも貴女は何者ですか?」
ゴシック服は銀髪少年に身体を向けると静かに口を開く。
「皇妹殿下に婚約者ができたと聞いたものですから……一体どんな殿方とお付き合いしているのか気になりましてね……」
「それは……どこからの情報ですか……?」
ウィンターの顔が強張る。エスタと交際関係にある事実はごく一部の者しか知らない筈だ。しかし少年の疑問はルーナに軽くあしらわれる。
「細かいことは気にしない気にしない!」
「……やっぱり怪しい」
再び強まる警戒心。ところがルーナの口から意外な真実を告げられる。
「実はねえ……エスタは私が通っていた帝国学院の後輩なのよ」
少年は身を乗り出すように確認する。
「帝国学院ですか!? もしかして貴女は……ゲネシスの方でしょうか?」
「ええ、私は生粋のゲネシス人よ」
驚いた様子の少年にゴシック服が語り始める。
「――エスタとは親友と呼び合っていた仲だったのよ。故にあの女の事なら色々と知ってるわ。性格は勿論、生年月日、身長、体重、スリーサイズ、好きな食べ物、好きな男のタイプ、それに趣味や性癖も……裏の顔まで知っているわよ」
「裏の顔……ですか?」
表情を固くする少年を見つめながらルーナが不敵に口角を上げる。
「ねえ、サンディ閣下。貴方はエスタのことをどこまで知っているのかしら?」
彼女の問にウィンターは自信なさそうに答える。
「まだ……お付き合いして間もないものでして……まだわからないことが沢山あります……」
「へぇ〜、相手の事も知らずによく婚約する気になったわね?」
「エスタさまは……命の恩人ですから……」
「ほう……サンディ閣下は恩を売られただけで結婚しちゃうの?」
「そう言う訳では……他にも色々と……」
「色々と〜?」
次第と声が小さくなるウィンター。一方のルーナはニヤリと歯を見せながら質問を続ける。
「ひょっとして……誰にも言えない弱みを握られているとか……?」
「……っ」
身体をビクッとさせる少年を見つめながら、ゴシック服が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「図星ね。まあ、そんなものを首に付けてたらバレバレだけど――」
ルーナはウィンターの首元に視線を移す。そこには鈴が付いた空色の首輪が装着されていた。
恥ずかしそうに俯くウィンターにルーナが続ける。
「知ってるわよ。その首輪がただの首輪じゃないことくらい。その首輪は……首輪型の空想錠。それも特殊な細工が施されており、持ち主の任意で錠の効果を発動できる仕組みになっている筈よ」
「ど、どうしてそれを……知っているのですか?」
困惑するウィンターにルーナが不気味な笑みを見せる。
「だってそれ……私が発明した代物ですもの」
「……え? 貴女が?」
「ちょっとそれ……もっと近くで見せて――」
「あ、あの……ちょ、ちょっと……!」
突然、四つ這いでウィンターに迫るルーナ。一方の銀髪少年は腰を落としたまま後退り。ゴシック服から逃れようとする。――しかし、気付けば退路を塞がれ壁際まで追い詰められていた。
そして彼女は少年の首輪を至近距離で凝視。
「――やっぱり私が開発した物で間違いないわ。これねえ……当時あの女に頼まれて私が作ってあげたのよ」
「エスタさまに頼まれて?」
「ええそうよ。でもまさか……男を繋ぎ止めておくために使われていたとは……呆れて物も言えないわ」
彼女はそう言いながら首輪に手を伸ばす――が、その手を少年に掴まれてしまう。
「触れてはなりません! エスタさま以外の者が不意に触れてしまうと……感電してしまいます……」
この特殊な首輪型空想錠の恐ろしい機能――それは、持ち主以外で不意に触れた者を感電させてしまうことだ。最悪の場合、手が吹き飛ぶ恐れもある。
そのような事情をエスタから知らされていたウィンターは、首輪に触れようとするルーナを制止する。が――
「問題ないわ。言ったでしょ? 私はこの首輪を開発した張本人なんだから。仕組みくらい理解しているわよ」
彼女はそう告げると躊躇いもなく首輪に触れた。
――その刹那。
首輪とルーナの手が淡い光に包まれた。その様子を呆然と見つめるウィンターだったが――
「光った……? 何かしまし――っ?!」
――それは一瞬の出来事。
ウィンターの唇はルーナによって奪われていた。
思考を停止させる少年にゴシック服は悪戯っぽく微笑む。
「フッフッフッ……油断しましたね? いくらなんでも隙があり過ぎですよ。――その一瞬の隙が命取りになるってことを教えてあげる」
「え?」
ルーナが指を鳴らした直後。
ウィンターの全身が突然脱力。少年はそのまま壁にもたれ掛かった。彼は顔を青くさせながら尋ねる。
「まさか……空想錠の効果を……?」
「フッフッフッ……今頃気付いたの? お察しの通り、チョチョイのチョイでロックを解除して首輪の効果を発動させちゃいました!」
ルーナは先程首輪に触れた際、一瞬でロックを解除。細工を施した模様だ。発明者だからできる荒業なのかもしれない。
そしてルーナは脱力したウィンターの身体を抱き寄せると、その耳元で甘く囁く。
「ねえ……ウィンター……あの女と別れて……私のお婿さんにならない?」
「な、何を言ってるのですか……!?」
突然の言葉に動揺を隠しきれないウィンター。一方のルーナはエスタの野望について語り始める。
「エスタはねえ……貴方を利用して……トロイメライを我が物にするつもりなのよ……」
「ご、ご冗談を……エスタさまに……そのような野心は……」
「貴方は知らないだけよ……男たちを籠絡して……自分に有利な状況を作り出すのは……あの女の常套手段……その証拠に……早速男湯に乱入して……男たちを魅了しようとしていたんだから……」
信憑性に欠ける話。ウィンターが反論する。
「ちょ、ちょっと待ってください! 確かにエスタさまは突拍子もない行動に走ったりしますが……少なくともトロイメライを乗っ取ったり、男性たちを籠絡するような考えはありません!」
ルーナは鼻で笑う。
「フフッ。エスタの手の上で転がされている貴方が言っても、全然説得力ありませんよ?」
「私は決して……エスタさまの手の上で転がされている訳では……」
「へぇ~。首輪を装着されて飼われているのに?」
「……っ」
反論の言葉が見つからずに唇を噛む銀髪少年。するとゴシック服から衝撃的な事実を告げられる。
「私の彼氏たちはねえ……皆……あの女に寝取られてしまってね……その中には将来を誓った大切な人も居たんだよ……」
「……え?」
「皇族の者というだけで……周りからチヤホヤされて……私が苦労して残した功績は……全てあの女の手柄……終いには……人の男たちを寝取って逆ハーレム構築とは随分と良い身分じゃないの! 流石大国の皇妹はやることが違うなっ!」
感情を露わにするルーナ。一方のウィンターはエスタを庇おうとするも――
「エ、エスタさまは……そのようなお方では……!」
「全てが事実なのよっ!!」
「!!」
怒号。
少年は萎縮した様子で身体を硬直させる。すると正気に戻ったゴシック服が優しい声と共に彼の頭と背中を撫でる。
「ごめんなさい……ウィンターを怒鳴っても仕方ないよね……貴方も被害者の一人なんですから……」
そして再び彼の耳元で甘い吐息を漏らす。
「悪いことは言いません。エスタと別れて、私のお婿さんになりなさい」
だが、ウィンターはきっぱりと断る。
「お断りします」
「これは貴方の為に言ってるのよ? あの女の傀儡として、不幸な運命を辿ることがお望みだというの?」
「ええ……それでも構いません。例えエスタさまにそのような過去と思惑があったとしても、私の気持ちは変わりません」
ルーナは大きく息を漏らす。
「これは重症ね……――仕方ないわ」
――直後。
ルーナは抱きかかえていたウィンターの身体を押し倒す。そして困惑する少年に馬乗りになると、見下ろしながら不敵に微笑む。
「――なら、強制的に私のモノにしてあげる♡」
ルーナはウィンターに向かって十本の指を構える。するとその指の先端から細長い白色の糸――『蜘蛛の糸』が絶え間なく放たれた。
粘着性あるそれは瞬く間にウィンターの身体に絡みつき、身動きを奪っていく。元より首輪の効果で既に脱力しているが、『蜘蛛の糸』により彼の脱出は叶わぬものとなった。
ルーナが満悦の表情を浮かべる。
「アハッ♡ 捕まっちゃったね〜。もう逃げられないわよ〜。大人しく私に捕食されちゃいなさい!」
「ほ、捕食って……」
顔を強張らせる少年にルーナが不気味な質問を行う。
「ねえ……蜘蛛って、捕まえた獲物をどうやって食べるか知ってる?」
「わ、わかりません……」
「フフッ……なら教えてあげる。消化液を獲物の体内に流し込んで、溶かしたものを吸い取るんだよ……」
ルーナが不気味に顔を歪める。
「だ・か・ら……貴方の心と身体も……ルーナちゃんが食べやすいように――ドロドロに溶かしちゃいます♡」
ウィンターの全身に悪寒が走る。
一方の彼女は舌舐めずり。
「フッフッフッ……でもその前に……味見させてちょうだい……――」
「な、何を……?!」
そしてルーナは唾液が滴り落ちる長い舌を――彼の頬に這わせる。
「ウフフ……美味しい……やっぱり若い子の肌は張りがあって最高だわ……」
「ダ……ダメ……――」
再びルーナはウィンターの頬や額、首筋に舌を這わせながら、唇を当てていく。その最中、悪意ある笑みを浮かべながら言葉を漏らす。
「ウッフッフッフッ……エスタ〜……アンタの大切な人……ルーナちゃんに汚されちゃってるわよ〜……でも安心して……もっともっと汚してあげるから……喜んでちょうだい♡」
そして――
「や、やめっ……――ん!?」
ルーナはウィンターの唇を奪い……深い……深い……とても深い接吻を交わす。
長い口づけを終えたルーナが顔を蕩けさせる。
「――ぷはっ……ハァ……ハァ……久々過ぎて夢中になっちゃったわ……でもこれで仕込みは完了……――もう貴方は……私のモノよ♡」
直後、ウィンターの全身が火照り始める。そのモゾモゾした感覚に困惑。
「うぅ……何……これ……?」
「フッフッフッ……どうやら溶解が始まったようね」
「溶解……?」
「そうよ。さっき仕込んだルーナちゃん液が、ウィンターという想人を溶かし始めてるのよ。貴方の理性や記憶をね……」
「そ、そんな……」
顔を真っ青にさせる少年にゴシック服が満面の笑顔を見せる。
「でも安心して。溶かされたと同時にルーナちゃん大好きなウィンターが構築されるから。良かったね〜! エスタのこと忘れられるわよ〜!」
「い、嫌です……そんなの……」
絶望するウィンターにルーナが予想外の言葉を口にする。
「ウフフ……ですので、貴方に猶予を作ってあげました」
「猶予……?」
「ええ。溶解のスピードはすご~くゆっくりにしておいたわ。溶解が完了するまで二、三ヶ月は掛かるでしょう。その間に気持ちの整理を付けておきなさい」
「どうして……わざわざ……猶予なんか……?」
ウィンターが尋ねると、ルーナが明るい声で答える。
「ルーナちゃんの慈悲でーす!
――ま、実際のところはこのあと長旅を控えているもんでね。貴方をすぐにお持ち帰りできないのよ。だから溶解速度を遅らせて時間調整しているの。長旅を終える頃には貴方もちょうど食べ頃って訳よ」
「長旅……ですか?」
「ええ。ルーナちゃん帝国を築き上げる為の超重大な任務よ!」
「ルーナちゃん帝国……?」
「無駄話はここまでよ。任務が終わり次第、貴方を迎えに行くから、それまでエスタと最後のひと時を満喫してなさい――」
ルーナはその場から立ち上がると、ウィンターを見下ろしながら警告。
「――くれぐれも下手な真似はしないように。間違っても私と会ったことは誰にも言っちゃダメよ? もし約束を破ったら――瞬時に貴方のほっぺやおでこに一生消えないキスマークがたくさん浮かび上がっちゃうんだからね」
その場から立ち去ろうとする彼女を少年が引き止める。
「ル、ルーナ殿、お待ちください……!」
「アハッ♡ 初めて名前で呼んでくれたね。でも……ルーナ様って呼ばないとお仕置きだよ?」
「ルーナ……様……」
「フッフッフッ、お利口さんね。戻ったらたっぷりと可愛がってあげるから、大人しく待っていなさい……――」
「る、ルーナ様! まだ話が――」
ウィンターが呼び止めるもルーナはそのまま殿堂を後にした。
程なくすると少年に絡み付いていた蜘蛛の糸が消滅。空想錠の効果も解除されたようで、彼は再び自由を手にする。
――だが、身体の火照りが消えることは無かった。
ウィンターは、瞳を潤ませながら大好きな人の顔を思い浮かべる。
「――ど、どうしよう……エスタさまのこと……忘れちゃうなんて……そんなの嫌だよ……――」
――少年の孤独な戦いと恐怖に怯える日々、そしてカウントダウンが始まった。
――その頃。
ルーナは、夜空へ放った蜘蛛の糸に引っ張られながら高速飛行。不気味に顔を歪めながら独り言を漏らす。
「クックックッ……エスタ、楽しみにしていなさい。私が受けた屈辱をアンタにも味わわせてあげるから――」
そして彼女の次なる行先は――
「さ〜て、まずは南都の雄『オジャウータン』氏のお墓に向かうとしますか。レジェンドの想素をたくさん手に入れて――ルーナちゃん親衛隊を作り上げるのです!」
――蜘蛛女の暴走は始まったばかりだ。
つづく……




