第383話 サンディの湯 〜女湯〜(後編)
ここまで大きなトラブルはなく、女湯には穏やかな時が流れる。
女性が浸かる湯は、熱々の源泉をフィーニス山脈の雪解け水で調和しており、程よい温度となっている。故に苦も無く長時間リッカ温泉を堪能できるのだ。
血の巡りが良くなった彼女たちの疲れ切った身体が内側から解されていく。
一同、癒やしのひと時を過ごしながら談笑を交わしていた。
浴槽の一角にはソフィアとイエローラビット閣下の姿。
珍獣は浴槽に浮かぶ岩に腰掛けながら夫人を捕まえて自慢話をしていた。
「――以上が、トロイメライ料理の歴史であるのだ!」
「さすが閣下さん、何でも知っているんですね」
「ふんす! 当たり前だ。元々私は異国の公爵だったのだからな!」
得意げに鼻を鳴らす黄兎。
だがソフィアには前々から珍獣に対して抱いていた疑問があった。彼女は思い切って閣下に尋ねる。
「あの閣下さん……」
「なんだね?」
「前々から気になっていたのですが……どうして公爵様だった閣下さんが……そのお姿に?」
ソフィアの素朴な疑問。
それは元公爵を自称するイエローラビット閣下が何故『珍獣黄兎』の姿になってしまったのか?
その疑問に珍獣が憶測を交えながら語り始める。
「ふむ、そうだな……初めに言っておこう。公爵時代の記憶や真の名前、いつの時代に生きていたのか覚えていない」
「そ、そうだったんですか!?」
驚く夫人に珍獣が続ける。
「ああ。ひょっとしたら『公爵としての私』は今もどこかで生きている可能性もある。要するに私は生霊的な存在かもしれんということだ。ただ……先程も申した通り当時の記憶は持ち合わせておらん。覚えているのは私が『異国の公爵』だったという事実だけだ」
「そうだったのですね。――それで……その……どうしてそのお姿に?」
「おお、そうだったな。詳しいことまではわからんが……私はコウメの良からぬ実験によって生み出されたのだ」
「良からぬ実験ですか?」
「左様。あの女は『ぬいぐるみ』に様々な想素を宿して、生物を作り出す実験を行っていたそうだが、幸運なことに空気中に浮遊していた私の想素を取り込んだようだ」
「で、ですけど……想人から放出される想素で、新たな生命体を生み出すことなんてできるのかしら?」
「ふむ……確かに私はコウメの実験が失敗したことで偶然生まれた存在だ。私の仮説を立証する術はない。
とはいえ……原理的には決して不可能な話ではないと思っている。
想素は『想人の魂』と呼ばれているくらい、想人の想いが宿った物質だ。
更に想人の想いが強ければ強いほど、長期間消滅せずに空気中を彷徨い続けることができる。私のような誇り高き高貴なる偉人の想素ともなれば、半永久的に残り続けることだろう。
もしそこに、魂を宿すことができる身体があったとしたら……私のような高貴なる聖獣が誕生しても不思議ではなかろう?」
「これは……興味深い話ですね……」
「ふんす! 更に深堀りするとな――」
その後も珍獣の仮説をソフィアが興味深そうに聞き入るのであった。
そんな夫人と珍獣の向かい側では、出会って早々に意気投合した悪友同士――グレースとエスタが楽しそうに会話を交わす。
「――そうでしたか。あのガードが固い旦那様のハートを鷲掴みにされるとは、さすがエスタ様ですね」
「ウフフ……あの子も案外チョロいですよ。想像以上に隙があり過ぎて心配になるレベルです」
「あら? そうでしたか……なら私もワンチャンあるかもしれませんね。隙を見て旦那様のハートを奪っちゃおうかしら?」
「グレースさん。それはもう叶わぬ夢ですよ? ウィンターはもう私のモノです。誰にも渡しませんから……」
ニッコリと微笑みながらも背後から黒いオーラが立ち昇るエスタ。グレースが苦笑を浮かべながら言葉を返す。
「ウフフ……冗談ですよ。人の男には手を出しませんから……多分」
「多分?」
「ご安心ください。少なくとも旦那様には手を出しませんから。それにしても旦那様も幸せ者ですね。エスタ様みたいな美女に愛されて」
「ウフフ、あの子も私の愛ある束縛を受けて泣くほど喜んでおりますよ」
「愛ある束縛ですか?」
グレースが尋ねるとエスタが不気味な笑みを見せながらその内容を説明。
「――ということです……ウヘッ……ウヘヘヘヘへ……」
「そ、そうなんですね……」
説明を終えたエスタは一人顔を蕩けさせながら妄想に耽る。流石のグレースも顔を引き攣らせ、侍女テレサも呆れた様子で三つ編みお下げを見つめるのであった。
――その様子を竹柵の向こうから覗き見るゴシック服の女性が、心底不愉快そうに舌打ちする。
「チッ……アンタの馬鹿面を見ていると私にまで馬鹿が移りそうだわ……」
だがその表情を不敵に歪める。
「――それよりも……大切なものは、肌身離さずそばに置いておかないと、簡単に奪われちゃうわよ? フッフッフッ……経験者の私が言うんだから間違いないわ――」
ゴシック服の女性――『ルーナ・ガルシア』は、一人呟きながら移動を開始。敷地内の最深部へと姿を消した。
――浴槽に浸かりながら幸せそうに寝息を立てるシオン。そんな彼女を見つめながらコウメ、カエデ、ノエルが微笑ましそうに見つめる。
「おーほほっ! シオンちゃんも長旅でお疲れのようね。それにしても……ホント幸せそうな寝顔だわ――」
シオンの寝顔を愛おしく見つめるコウメ。すると愛娘から寝言が聞こえてきた。
「ヒュバート……もうお腹いっぱいです……これ以上食べられませんわ……むにゃ……」
三人がクスリと笑う。
「あら? シオンちゃん、一体どんな夢を見てるのかしら?」
「ゆ、夢の中にも、だ、大好きな人が出てくるなんて、う、羨ましいです!」
「ヒュバートも幸せ者ですね」
ここでコウメがある事実を伝える。
「おーほほっ! 私もダーリンの夢を毎日のように見ているわよ!」
その言葉を聞いたカエデとノエルが興味深そうに瞳を輝かせる。
「そ、それは、き、気になります! ど、どんな夢なんですか?」
「私も気になります! 是非、お聞かせください!」
そしてコウメは自慢げに口角を上げながら答える。
「そうね〜、例えば……ダーリンにエスコートされながら南都城の庭園をお散歩する夢とか……」
「す、素敵です!」
「それと……敵襲に襲われた私を白馬に乗ったダーリンが颯爽と現れて助けてくれる夢とか……」
「わぁ……カッコいいです……」
「他にも……バスローブを着たダーリンがワイングラス片手に私を口説いてくる夢とか……」
「な、なんだか、ロマンチックですね」
「そして……赤い褌を着けたダーリンが夜の野獣となって私を襲ってくる夢とか!」
「「!!」」
「おーほほっ! ダーリンに捕まったら最後……もう逃げられないわよ? あ、ちなみに今話した内容は全部正夢ですからね!」
「「なっ?!」」
その想像し難い……いや、想像したくない内容にカエデとノエルの顔が引き攣る。と同時に恥ずかしさから頰が赤く染まった。
そしてコウメがノエルに言う。
「ノエル殿下。……ドランカド君も夜は野獣になるタイプだと思いますから、十分気を付けてくださいね!」
「……え?」
唐突なセリフに思考を停止させるノエル。だがコウメは構わずに言葉を続ける。
「おーほほっ! でも……毎晩泣かされるのもいいかもしれませんよ?」
「あ、あの……い、一体……な、何の話を……――」
ノエルが目を回しながら赤面させていたことは言うまでもない。
――話が弾み、盛り上がりを見せる女湯。
そんな中、イエローラビット閣下がソフィアに対して予想外の言葉を口にする。
「ソフィアよ」
「はい、なんでしょう?」
「ふむ……そろそろヨネシゲなど捨てて、私の妻にならんか? あの男にお前はもったいない」
するとソフィアがクスリと笑う。
「フフッ……私が閣下さんの奥さんですか? 飼い主じゃなくて?」
「むうっ! ソフィアよ! 私を馬鹿にしておるのか!?」
「ウフフ……怒ったお顔も可愛らしいですね」
「ぬ、ぬう……――そ、そうか?」
珍獣はソフィアに上手くあしらわれているとも知らずに、満更でもない笑みを浮かべる。
――だがしかし。珍獣の幸せなひと時もついに終焉を迎える。
イエローラビット閣下の背後を狙うように水面を高速移動する白色物体。
殺気を感じ取った珍獣が振り返ると、そこには湯の上を走る白猫――『ニャッピー』の姿があった。
「ぬほっ?! で、出たな化け猫! 私の幸せな時間を邪魔するではない!」
「お黙りザマスニャ! 今度こそ息の根止めてやるザマスニャ!」
迫りくる白猫。閣下は高速飛行で逃げ始める。そして珍獣は飼い主コウメに救いを求める。
「コウメよ! 助けてくれ! 何でも言うことを聞くから!」
しかし――
「おーほほっ! お友達ができて楽しそうね。思う存分鬼ごっこを楽しんでちょうだい」
「ち、違う! 友達などではない! しかも全然楽しくないぞ!」
コウメは救いの手を差し伸べてくれず。
二匹は再び湯面で喧しい鬼ごっこを始めた。
「助けてくれ〜!」
「待つザマスニャ!」
二匹が湯面を移動する度、湯飛沫が入浴者たちに降り掛かる。女性たちは迷惑そうに腕や手で湯飛沫をガードするが――猫パンチを食らった珍獣が湯に叩きつけられると波が発生。落下地点に一番近かったノエルが大量の湯を浴びてしまう。
「――きゃっ!」
「「――!!」」
女湯から聞こえてきたノエルの悲鳴。
男湯にいたネビュラとトランカドが真っ先に反応する。
「ノエル?! 一体何があったというのだ?! ぬう……父が今助けるぞ!」
「ノエル殿下! 例え火の中、水の中、女湯の中……このドランカドが必ず救い出してみせます!」
その刹那。
国王と真四角野郎は浴槽から飛び出すと、石畳の床を蹴り、竹柵向かって一直線――
「こ、こりゃいかん!――マロウータン様!」
「ウホッ! 陛下とドランカドを止めるぞよ!」
ヨネシゲとマロウータンは二人の暴走を止めるため、その背中を追い掛け始めた。更にヒュバートとノアも角刈りたちに加勢する。
そうこうしている間に国王と真四角野郎が竹柵をよじ登り始めていた。透かさずヨネシゲたちが二人を引きずり下ろし、その身体を押さえつける。
案の定、ネビュラとドランカドからは怒声。
「お前らっ! 離せっ! ノエルが命の危険に晒されているのだぞ!?」
「そうッスよ! 今すぐお救いしないと……ノエル殿下が!」
そんな二人を角刈りたちが説得。
「陛下、落ち着いてください! あれは……ちょっとしたハプニングが発生しただけです!」
「父上、いずれにせよこの先は禁断の領域です! 少し冷静になってください!」
「ドランカドよ! あれは単なる女子たちの戯れじゃ! 危険に晒された訳ではない!」
「ドランカド殿、俺もそう思いますよ? 先ずは声を掛けて状況を聞いてみましょう!」
――ところが、ここで予期せぬ事態が発生する。
「「きゃっ!」」
新たに聞こえてきた二人の悲鳴――それはソフィアとシオンのものだった。
「ソフィア!?」
「「シオン!?」」
彼女たちの悲鳴を耳にしたヨネシゲ、マロウータン、ヒュバートが、押さえつけていたネビュラとドランカドの身体から手を離してしまった。
――直後。
突然解放された国王と真四角野郎の体は弓から放たれた矢の如く。物凄い勢いで竹柵に突っ込む結果となった。
言うまでもなく、二人の突進で男湯と女湯を仕切っていた柵が見事に倒れ――二つの空間が一つになった。
――その瞬間、空間が静寂に包まれる。
二匹の暴走のため、浴槽から退避していた女性陣が視線を向けた先には――倒れた竹柵と、呆然と立ち尽くす男性陣。
両者の目と目が合った刹那――大露天風呂は悲鳴に包まれた。
ただ三人だけ――コウメ、グレース、エスタが男性陣の下方を凝視しながらニヤリと口角を上げた。
「これはこれは……皆さんご立派な……」
「あらあら……可愛らしい殿方もいらっしゃいますね……」
「おーほほっ! やっぱりダーリンがナンバーワンね!」
そしてもう一人、実況する男も――
「説明しよう!―――」
――その後、トラブルの発端となった珍獣と白猫は、ヨネシゲとノアによって連行された。
――その頃。サンディ家屋敷・殿堂。
敷地内の最深部に位置するその場所には、人の背丈の倍以上はあろう『八切猫神』の神像前で正座する銀髪少年――『ウィンター・サンディ』の姿があった。
ウィンターは部屋着である薄青色の甚平を身に纏いながら、瞑想に耽っていた。崇拝する八切猫神の前で無心になることが彼にとって癒やしのひと時である。
とはいえ、彼も皆と一緒に湯に浸かりながら、疲れを癒やしたかったというのが本音である。だが、身体の至る場所にはエスタから施された恥ずかしいマーキング。例え相手が同性であっても身体を晒す訳にはいかない。なので少年は一足先に個室のシャワールームで身体を洗い終えていた。
一同が風呂から上がったら、家来がこの殿堂まで呼び出しに来ることになっている。――足音が聞こえたら瞑想終了の合図だ。
程なくすると、ウィンターの背後から襖が開く音。と同時にゆっくりとこちらに近付く足音が聞こえてきた。
しかしそれは――聞き覚えのない足音。
つづく……




