第2話 雪舞うあの日
(俺は、3年前のあの日のことを、絶対に忘れない!! そして、あの男を絶対に許さない!!)
――3年前。
この日もヨネシゲはいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
一つだけいつもと違う点を挙げるとするなら、朝から雪が舞っていることだろうか。
ヨネシゲは目覚まし時計を止めると、勢いよくベッドから起き上がる。
「ヨッシャ! 起床、起床! 今日も一日頑張るぞ!」
気合が入った様子で起床したヨネシゲは、お気に入りの黒縁メガネを掛けると、2階の寝室から外の景色を眺める。これが彼の朝の日課だ。
重機の部品工場に勤務するヨネシゲは、7年程前に念願だったマイホームを購入。小高い丘の住宅街に建てられた、2階建てのマイホームからの眺めは格別。周りには遮る物が殆どなく、遠くにあるビル群も一望できる。ヨネシゲはこの家から見る景色が大好きだった。
外はまだ薄暗く、雪が舞ってるためか遠くのビル群も掠れて見えた。その景色を眺めるヨネシゲは、何やら落ち着かない様子だ。
「まだ積もる程じゃないが、帰りの電車が止まらないか心配だな……」
この日は午後から大雪の予報となっており、ヨネシゲは出勤前から帰宅の心配をしていたのだ。昨年の大雪で帰宅難民になってしまったのは記憶に新しい。
時折、仕事を休もうという考えが頭を過るが、まだ積もってもいない雪のために仕事を休んで、同僚たちに迷惑を掛けるわけにいかない。
「考えても仕方ない。よし、着替えて朝メシにするか!!」
ヨネシゲは考えるのをやめると、寝室で着替えを済ませ洗面所に向かう。
ヨネシゲは自慢の角刈りヘアーのセッティングを始める。毎度おなじみの頑固な寝癖には、たっぷり水を掛けて後は自然乾燥。大概の寝癖はこれで直る。
ヨネシゲは身支度を済ませると、朝食をとるため1階にあるリビングへと向かった。
リビングの入口に到着したヨネシゲは、その扉を開く。
彼の視界に最初に映り込んできたのは、4人掛けのダイニングテーブル。そこには既に朝食をとっている息子ルイスの姿があった。ヨネシゲはリビングに入るなり、ルイスの向かい側の席に腰掛ける。
「おはよう! ルイス、相変わらず早いな」
「おはよ。今日も朝練があるからね」
「雪が降っててもやるのか。名門サッカー部も大変だな」
彼の名は「ルイス・クラフト」
17歳になるヨネシゲの一人息子だ。
母親譲りの透き通った青い瞳と金色の髪。それに加え180センチ超えの長身に、中性的な顔立ちは、誰もが見惚れる美男子そのものだ。
通っている高校ではサッカー部に所属しており、スポーツも勉強も万能である。
性格も優しく思いやりがあり、後輩たちの面倒見も良い。上級生や教師からの信頼も厚く、ヨネシゲにとって自慢の一人息子なのだ。
ヨネシゲとルイスが、今後の雪の見通しについて話していると、キッチンの奥から妻ソフィアが姿を現す。
「おはよー。今あなたの分を用意してるからもう少し待っててね」
「おはよう。ありがとう、よろしく頼むよ」
彼女の名は「ソフィア・クラフト」
おっとりとした心優しいヨネシゲの妻である。
ルイスと同じく、金色の髪と透き通った青い瞳の持ち主。ハリのある肌と誰もが振り返るような美貌。それに加え、175センチの高身長、着ているセーターがはち切れそうになる程大きな胸、おまけにモデル顔負けの曲線美――ヨネシゲは思う。美女とは彼女のことであると。
これで38歳とは反則である。その若々しい見た目から、20代に間違われてしまうのが毎度お馴染みの光景だ。
また、ヨネシゲが彼女と2人で歩いていると親子と間違われることも。酷い時は、客とホステス、パパ活などといった、あらぬ関係を疑われることもある。
だが、ヨネシゲは自分でも思う――ソフィアは自分には勿体なすぎる妻だと。
ソフィアとの出会いは職場内だった。
元々彼女はヨネシゲが勤める工場の後輩であり、事務員として努めていた。
言うまでもなくソフィアは全男性社員の注目の的。ヨネシゲもその内の一人だった。
彼女に一目惚れしてしまったヨネシゲは、猛アタックを仕掛ける。その甲斐あってか、なんとか結婚まで漕ぎ着けることができた。
今でも「自分なんかがよくソフィアと結婚できたな」と、つくづく思う。
暫くの間、夫婦で同じ会社に勤めていたが、妊娠を機にソフィアは退職した。当時の彼女を知る社員たちからは、未だに結婚を羨む声が聞こえる。
ソフィアが妻であることはヨネシゲにとって自慢の一つだ。
――ソフィアはヨネシゲの朝食をテーブルに並び終えると、不安そうな表情で夫に尋ねる。
「やっぱり、午後は雪凄そう?」
「ああ、大雪の予報は変わらんよ。帰りの電車が心配だな」
「そっかぁ……今日は残業断ったら?」
「ああ、流石に今日は断るよ。去年は残業して痛い目に遭ったからな。もう帰宅難民は懲り懲りだぜ」
ルイスが、特大の弁当箱を鞄に詰め込みながら、会話に加わる。
「正解だな。この予報じゃ間違いなく電車は止まるよ。バスも当てにならないし」
「ルイス。お前も早めに、部活を切り上げた方がいいかもしれんぞ?」
「その点はご心配なく。今日は一斉下校になると思うよ。先生がそう言ってたし。学校も昨年の雪には懲りたようだからね」
ソフィアがホッと胸を撫で下ろす。
「良かった。これで一安心だね!」
ソフィアは安堵した表情を見せた後、何か閃いた様子で、あることを2人に提案する。
「じゃあ、2人とも! 今日は鍋にしましょ!」
いきなりのソフィアの提案であったが、ルイスがすぐさま反応する。
「おっ! いいね! 俺も久々に食べたいと思ってたんだ!」
ルイスは即賛成の模様。ソフィアとルイスは、ヨネシゲを同時に見つめる。返事を待つ2人に、ヨネシゲは苦笑いを浮かべながら伝える。
「おいおい。まだ早く帰れると決まった訳じゃないぞ? 定時で仕事を終わらせても、電車が動いている保証もないしな。鍋なら休みの日でも良くないか?」
首を縦に振らないヨネシゲに、ソフィアとルイスが透かさず説得を始める。
「電車が止まってる前提で考えるなよ。今日くらい、早く帰る努力しようぜ!」
「そうだよ! たまには平日の夜も、家族3人で夕食食べましょ? 雪の日に食べる鍋は格別だよ!」
いつにも増して2人の圧は凄かった。ヨネシゲは少し考えた後、答えを出した。
「わ、わかったよ」
「決まりだね!」
目をキラキラと輝かせながら説得してくる2人に、ヨネシゲはとうとう折れた。
(確かに、言われてみればそうだ。ここ最近は残業続きで、平日は家族で夕食を食べる機会が減ってたからな……)
ヨネシゲは気合いの入った声で宣言する。
「ヨッシャ! 今日は鍋だっ! 3人でガッツリ、アツアツの鍋を楽しもうぜ!」
リビングに響き渡るヨネシゲの力強い宣言。するとルイスが父に向けて拳を突き出す。
「じゃあ父さん、約束だからな!」
「おう! 任せとけ!」
ヨネシゲはルイスと約束を交わすと、突き出された息子の拳に、己の拳を合わせた。ルイスは嬉しそうな表情を見せると、登校のため家を出発した。
一つ小さな楽しみができた。ヨネシゲはそう思いながら胸を踊らせた。
「おっと、もうこんな時間だ」
家を出発する時間が近付いていた。
朝食を終えたヨネシゲは、ルイスの後を追うようにして身支度を始める。彼は通勤用のリュックサックに黄色の特大弁当箱を詰め込むと、お気に入りの革ジャンを羽織り、玄関に向かった。
ヨネシゲが靴の紐を結んでいると、ソフィアが見送りのため玄関に姿を現す。
「あなた、忘れ物よ……」
彼女はそう言うと、紺色のマフラーをヨネシゲの首にそっと掛ける。
「ありがとう。忘れていたよ」
「あなたは本当にせっかちだね」
ソフィアは言葉を終えると、優しい笑みを浮かべた。ヨネシゲの口角も自然と上がる。
ヨネシゲはマフラーを巻き終えると、玄関の扉を開き外へ出た。
「それじゃあ、行ってくるよ!」
「いってらっしゃい! 気を付けてね。早く帰ってきてよ〜!」
愛らしく手を振り続ける妻の姿。
ヨネシゲは、何度も後ろを振り返りながら、ソフィアに向かって手を振り返す。彼女もまた、夫の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
いつもと変わらぬ朝のひと時――この朝が、もう二度とやって来ないなんて、一体、誰が想像しただろうか?
――予報通り、午後になると雪の降り方が強くなる。道路にはしっかりと雪が積り始め、人の足跡やタイヤの轍ができていた。
パートの仕事を終えたソフィアは、下校したルイスと共に、近所の商店街に向かっていた。
ルイスは胸を踊らせながら、ソフィアに尋ねる。
「母さん、今日は何鍋にするの?」
「まだ決めてないけど、今日は奮発するつもりだよ。入れたい具材があったら遠慮なく言ってね!」
「うん、わかった。そんじゃ、何入れようかなぁ……鶏肉は外せないよな……」
嬉しそうに鍋の具材を考えるルイス。その隣でソフィアがある重大なことに気付く。
「あっ! いけない! お財布忘れちゃった!」
「マジかよ~。まったく、相変わらず母さんはドジだな」
「ごめんごめん。お財布、取りに戻らなくちゃだね!」
財布を取りに戻ろうとするソフィア。するとルイスがある提案を持ち掛ける。
「母さん。俺の財布の中、少し入ってるから、これで買い物しようぜ。雪も凄いし、戻るの面倒だよ」
息子の提案を聞いて考えるソフィアだったが、首を横に降った。
「やっぱり、お母さん戻るよ。お金足りなかったら嫌だからね。それに高いお肉も買いたいし。今日は特別な日だからね」
ソフィアはそう言うとニッコリと笑みを見せた。
「ルイスはここで待ってて。すぐ戻って来るから」
一人財布を取りに戻ろうとするソフィア。その母親の後をルイスが追う。
「俺も一緒に戻るよ。ここで待っててもしょうがないからね」
「ごめんね〜」
親子は自宅へと引き返す。
――この選択が運命の分かれ道だった。
この後、2人は悲劇の一途を辿ることとなる。
――その頃、クラフト家の住居には一人の見知らぬ青年が忍び込み、リビングを物色していた。
青年は、黒いジャンパーのフードを被り、白い紙マスクで顔を覆っていた。彼がどのような顔をしているのか確認できないが、黒い前髪の隙間からは、赤い瞳を覗かせていた。
「ダミアン・フェアレス」22歳。
彼は学生時代からプロボクサーを夢見ていたが、2年程前の怪我が原因でその夢が絶たれてしまう。
ダミアンは自暴自棄になり、働きもせず、酒とギャンブルに溺れていく毎日を過ごしていた。所持金が底をつくと、恐喝や空き巣を繰り返し、生活費を工面していた。
大雪の為か皆外出を控えており、在宅中の家が殆どである。言うまでもなく、空き巣にとっては不都合な状況だ。不在宅を探すことにダミアンは苦戦していた。そんな中、外出するソフィアとルイスの姿を目撃。ダミアンはクラフト宅をターゲットにして侵入したのだ。
ダミアンは、かれこれ数十件の空き巣を繰り返している。運が良いのか、警察には一度も捕まっていない。彼には妙な自信が生まれていた。「今日も絶対捕まらない」と。だが、その自信は打ち砕かれることになる。
突然、玄関扉の開く音がダミアンの耳に届く。
(しまった! もう帰ってきたのかよっ!?)
ダミアンは咄嗟に物陰に隠れ息を殺す。
「ルイス、ちょっと待っててね」
「はいはい、わかったよ」
ソフィアはルイスを玄関に待たせると、一人家の中へと進んでいく。
近付く足音――ダミアンに緊張が走る。急いで逃走のための考えを巡らす。
(よし! あの大窓から逃げよう……!)
ダミアンはリビングの大窓から逃げることに決めた。こっそり窓を開けて脱出すれば、存在を気付かれずにこの場を離れることができる。
ダミアンは逃走のため、窓際への移動を開始する。ところが、タイミング悪くソフィアがリビングに入ってきた。彼は慌てた様子で再び物陰へと身を潜める。
やがて、ソフィアの独り言がダミアンの耳に入る。
「お財布、お財布。どこに置いたかしら?」
(財布だと? この女、財布を忘れて取りに戻ってきただけか? だとしたら、すぐに家から出て行く筈だ!)
女は財布を持って再び外出する筈。このまま気付かれず隠れきれば、この場をやり過ごすことができる。ダミアンは淡い期待を抱いた。しかしその期待も直ぐに打ち砕かれてしまう。
ソフィアがリビングに入るなり、すぐある異変に気が付く。
(え……? なに……? この足跡……?)
ソフィアが恐る恐る足跡を辿る。その足跡の終点には、隠れていたダミアンの姿があった。
猛獣のような赤い瞳が、涙を潤ませた青い瞳を捉える。
「きゃあぁぁっ!!」
ソフィアの悲鳴が家中に響き渡った。
つづく……