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喫茶店は寮に五時ぎりぎりに着くように出た。
その判断は正解だったと思う。玄関前には既に人だかりができていて、遠くからでもわかるくらい騒がしいのだ。上級生が静かに、一カ所に纏まって並んで、なんて注意している声まで聞こえてくる。
「こっちよ」
姫の機転で新入生に見つからないよう裏口から寮に入れば、喧騒は中にまで伝染していた。
「あ、姫!」
「逃げたかと思って探しに行くところだったんですよ!?」
新入生対策だろう、4年生より上の生徒が中心となって皆走り回っている。廊下の至る所に注意書きを貼り、見取り図の立て看板を置いて、壊れそうな物は食堂奥に避難させて。
その光景に、姫は一つ息を吐いた。
「逃げないわよ、流石に。それよりあの騒がしさ、どうにかならないの?」
「四十人以上いるからどうにもならないんですよ! 姫もいないし康介先輩はいつの間にか消えるし」
「……逃げたわね」
「逃げましたね」
「去年みたいに門限ぎりぎりに帰ってくるつもりですかね」
姫に柚子先輩に蓮先輩。三人の息はピッタリで、こんな事が一度や二度ではない事をうかがわせる。
「兄がすみません……」
それしか言う事ができなかった。
「まあ、いつものことよ。そろそろ新入生を入れましょう」
午後五時、今いる寮生より見学者が多いという、荒れる予感がぷんぷん漂う見学会が始まった。
「わー、綺麗!」
「広いな!」
「この建物に五十人くらいしか住んでないんだろ!?」
「この油絵っていくらするんだろ?」
「本物でしょ? 高そうだよね」
「こんなところに住みたいな」
「だな! あ、絨毯も柔らかそう!」
玄関に入れただけでこの状態。姫は自室に籠もっていたいわ、なんて小声で漏らしながら新入生の前に立つ。
「ようこそ、先端技術科の見学会へ。あなた達が少しでも先端技術科に興味を持ってくれているというのは嬉しいわ。見学にあたっての注意は私からは一つだけ。ここはあなた達の見学のための場ではなく、あくまで寮生の生活のための場であることを忘れないように。後は注意書きと案内図を見て自由にして頂戴」
それだけ言った姫はさっさと奥に下がってしまった。流石に園香が説明を付け足そうとしたけれど、新入生は既に散らばり始めている。
「……私達も巻き込まれない内に下がりましょう」
「そうですね……慧、咲希おいで」
「談話室でケーキ食べてよ? 姫も多分談話室だから」
「はい」
寮生が玄関ホールに残っても仕方ない。一人、また一人と自室や風呂に向かい、寮生は散り散りになった。
驚く事に、談話室の廊下側の扉には正方形の付箋一枚だけが貼られていた。
【談話室では寮生がゆったりくつろいでいます。お喋りは人として許される範囲で】
「人として許される範囲って?」
「おおざっぱな説明だな」
「……姫ね」
「姫ですね」
「姫だな」
言葉遣いは丁寧なのに、文面にはやる気も親切心も感じられない。本当に嫌々なのが伝わってくる。
とりあえずこれでは何の説明にもなっていないので、園香が珈琲豆や茶葉、お菓子が常時数十種類置かれている事、夕食後は半数以上の寮生がここで会話を楽しんでいる事を書いた貼り紙を添えてから中に入った。
「あら、遅かったわね」
「あれでは何の説明にもなっていなかったので、書き足してきたんです」
「それはお疲れ様」
園香の嫌みも何のその。姫は全く気にする様子もなく、優雅に紅茶を口にするばかり。これ以上言っても無駄だと判断した園香は、姫の正面のソファーに腰をおろした。
「静かですね」
ホットミルクを飲みつつ、咲希がふと呟いた。
「当たり前だろ、防音なんだから」
「防音の部屋にいて大丈夫なんですか? 何か問題とかあったらまずいんじゃ……」
寮長と、その一番身近な人は隣のテーブルで優雅にティータイムを堪能中。そして、どうやら頼られる存在らしい康介も逃亡してしまっている。責任者がほぼ携わっていない中で、見学会などして大丈夫なのだろうか。
咲希が尋ねると、柚子と蓮は楽しそうに笑いだした。
「いやー、本当はまずいよ?」
「だけど姫にあの騒音の中にいろっつったら逃げちまいかねないからな」
「まぁ大丈夫でしょ。昨日あみだで決めた係十人が頑張ってると思うから」
そう言い終えたのとほぼ同時で、柚子の携帯が震えた。メールだったようで、柚子がその場でチェックする。
「あー……姫、園香先輩、早速問題発生。勝手にジムの器具使って遊んでたって」
「やっぱり十人は少なかったかしら?」
「まず姫がここにいること自体が間違いなんです」
開始二十分でこの騒ぎ。先が思いやられる筈なのだが、談話室の寮生はみんな笑うばかりだ。
夕食の時間になり揃って食堂に行くと、そこには既に疲れ顔の係の寮生と、数人の新入生がいた。
「私達これから夕食なのだけど」
「あ、はい、知ってます!」
「そろそろ帰らないとあなた達も夕食に間に合わないわよ?」
「大丈夫です」
「一食くらい抜いても、ねぇ?」
「ショップ街で何か買って帰ればいいし」
悪気はないようだけど、暗に帰れと言っていることには気づいてくれない。ちょうど出張シェフ達が入ってきたため、仕方なくこのまま食事になった。
「すごい豪華!」
「美味そうだな」
「懐石料理ってやつだろ? あれでいくらするんだろ……」
「あんな料理、一般家庭じゃなかなか食べられないよねー」
突き刺さる視線。普段の和気藹々とした空気が息を潜める食堂には、ひそひそ声もよく響く。綺麗な漆の器に盛り付けられた刺身や和牛ステーキも、あまり美味しいとは感じられなかった。
「姫、落ち着かないんですけど……」
「我慢しなさい。私だって逃げてないんだから」
「いや、逃げる方がおかしいんですけど」
呟いた慧は姫に睨まれ、口を噤んだ。そうこうしている間にも、食堂に集まる新入生の数は増えている。それにつれて声も大きくなっていった。
「美味しそう! 先端技術科に入れたら、毎日こんなのが食べられるんだよね?」
食べたくて仕方ない! そんな想いが伝わってきそうな声には聞き覚えがある。
「いいよなー」
「あ、あれがさっき言った双子の姉だよ。咲希の奴、すまして食べてるや」
「へー」
認めたくないが、自分の半身の声と自分の名前を聞き違えるわけもない。恐る恐る振り返ると、やはり尚人と理沙がいた。それにランチの時に見た、達哉と呼ばれた男の子もいる。
「あ、咲希!」
咲希が考えたことはただ一つ。余計なことをされる前に、食堂から出さなければ。そのために咲希は残りの料理をかきこんだ。
「何でいるのよ!」
食後、尚人を呼びつけて発した第一声はそれだった。流石に理沙までは怒れないけど、尚人には思わず語気も強まる。
「何だよ、見学しちゃ悪いのかよ」
「そうじゃない! 食事してるところなんて普通見られたくないってわからないの? しかも大きな声で呼ばないでよ!」
昔からこうだ。意見が交わらない。尚人はいつも元気に友達と外に遊びに行き、咲希は大抵室内で読書や宿題をしている。趣味も嗜好も合わないし共通の友達もいない。何か用事がある時以外、お互い話しかけたりしない。
「咲希は寮も決まって余裕なんだから、それくらいで怒るなよ!」
「怒らないと、また人前で良からぬこと言ったりするからでしょ?」
「良からぬことって何だよ?」
「色々あるでしょ。前は人の風呂事情まで言っちゃったんだから」
「あれは悪かったと思うけどよ……」
尚人が返答に困ったことで、いきなりの喧嘩に戸惑っていた二人が口を挟んだ。
「咲希、それくらいに……」
「俺達も騒いで悪かったから……」
尚人はまだしも他人である二人を怒ることはできないし、今は見学会の真っ最中。咲希は大きく息を吐き、わかったとだけ言って顔を尚人から背けた。
「まだ見学していくなら、お願いだから静かにしていってね」
これ以上一緒にいれば、尚人に案内しろだの部屋を見せてだの言われるに決まってる。
咲希は自室に帰るべく踵を返した。
見学会終了まで残り二十分。後は自室に籠もっていればいい。テレビを見ようか、それとも、今日買ったばかりの雑誌でも読んでみようか。
そんな未来が実現することはなかった。