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骨董店シリーズ

シェ レ シュエット―訳あり専門骨董店―

作者: かこ

蒼玉のイミタシオン

 庭園の端に矢車草が咲いている。人気のあるものではないが、思い出のどこかに必ず咲いている、そんな花だ。だから、屋敷の主に気付かれないように咲いた花は、刈り取られずにそっと置かれていた。とばりに入る前の深い蒼のように美しく、可憐に揺れては見る者を楽しませる。


「お嬢様、約束のものです」


 秘密の場所でそう差し出された小箱をカロルはなかなか受け取らなかった。早く開けてみたい衝動と彼への不満がめぎ合う。

 一瞬、揺れる瞳がカロルの瞳とかち合い、すぐに戻された。

 カロルはいつものように根負けして、彼に優しく忠告する。


「ヒューゴ。二人の時は『お嬢様』ではなく、名前で呼んでほしいと言いました」


 改まった言い方にはなったが、ため息は我慢できたので上々だろう。

 は、と顔を上げたヒューゴはやっと気付いた様子で申し訳なさそうに力なく笑った。その情けなくも見える笑顔がカロルは堪らなく好きだ。


「開けてみてもいいかしら?」


 そんなことを口にするが、駄目と言われても聞くつもりはない。

 ヒューゴは目を右下に落としたまま頷いた。

 藍色の箱を開けると生成のベルベットに支えられた指輪が顔を出す。中心に輝く蒼い石を囲うように繊細な細工がほどこされていた。石台からアームにかけては黄金こがねの麦畑を思い起こさせるイエローゴールド。

 ヒューゴが口をまごつかせて何か言おうとするのを遮り、カロルは石と同じ瞳を細めて笑う。


「素敵な蒼玉サファイアね」


 恋人みたいね、とは続けなかった。身分や社会が、何より父がこの関係を許してくれないだろう。

 カロルは小箱をヒューゴに返し、左手をヒューゴの前にのばした。何も言わずに瞳だけでねだる。

 ヒューゴの瞳は困惑に揺れていたが、カロルが小さく笑うと喉が鳴った。

 ささくれた指が白くやわらかい左手におそるおそる触れ、指輪が通される。

 カロルの心はえも言えぬ幸福と感動で満ちていき、溢れんばかりだ。小説で読んだ何だってできそうな気がするという気持ちが沸き起こるようだ。

 薬指で輝く蒼玉サファイアは角度を変えるたびに光を反射した。

 元々は聖職者が持つ石。神の恩恵を受ける石として好まれ、最近では真実の愛を見極めるために恋人に贈られたりもする。そういう謂れは後からついてくるものだ。その石が持つ本来の意味を知るカロルには関係のないことだった。

 太陽に手をかざし、カロルは薬指に光る物を見上げる。どんな石よりも、夜空に輝く一等星よりも、きっとこの石は美しい。小さな口から感嘆の声がもれる。


「さすが、ヒューゴだわ。こんなすごいもの、どうやって作るのか見てみたい」

「お嬢様が来る所じゃ――カロルが来たら、びっくりしますよ」

「どうして?」


 指輪を見つめたままの蒼い瞳に曇りはない。

 ヒューゴは組み合わせた指をいじり、答えを探す。聞いているのは目の前にいる女性と矢車草だけだというのに、ひどく居心地が悪そうだ。


「汚ないし、火を扱うから危ないです」

「それぐらい、なんともないわよ」

「親方に叱られます」

「お得意様の娘が行くのだから、喜んで接待してくれそうよ?」

「あまり、見られたくないというか」

「では、心の準備ができたら見せてくれるのね」

「ぶ、不相応、かと」


 そこで会話は止まった。

 蒼い瞳が男を映す。


「あ、いえ、そういう意味ではっ」

「そうね」


 全てを飲み込んだ淑女の笑顔でカロルは短く答えた。彼は伯爵令嬢が来る場所ではないと言っただけで、この関係を不相応と言ったわけではない。そうと解かっていても、蒼い瞳は陰りを見せる。

 ヒューゴの口は縫いつけられたように動けなくなった。

 動けない二人をよそに、矢車草だけが風に揺れている。

 遠くで令嬢の名前が呼ばれた。火急のことか、騒々しい。

 困ったように眉を下げたカロルはひと言詫びて、ドレスを翻した。



═•⊰❉⊱•═



 父の書斎に呼び出されたカロルは嫌な予感がしていた。

 仕事や夜会に忙しい父は家を開けることが多く、領地で療養する母と同じぐらい娘とも顔を合わせない。

 社交界シーズンでなければ、カロルも領地に引き込んでいただろう。血の繋がった家族のはずなのに食事を共にすることもなく、会話すら片手で済む程だ。わずかな会話でさえ、一方的に命じられるもので、ほとんど形を成していなかった。

 言い付けられることはたいてい決まっている。仕事で家を空けるから、その間は商売道具これをつけて夜会や茶会に参加しろというものだ。熱も色もない言葉を引きづり部屋に戻れば、アクセサリーが山と積まれた状態。

 自分は娘ではなく、宣伝用の人形だとカロルは諦めていた。寝食に困り、路頭に迷うことのない生活に贅沢を言ってはバチが当たる。

 そんな生活を送ってきたため、書斎に呼ばれるということはあまり喜ばしい提案ではなかった。

 しかし、逆らうわけにもいかず、扉の奥に声をかける。


「お父様、カロルです。入ってもよろしいでしょうか」


 間を置かずに扉が内側から開けられた。

 執事に目礼して、娘は奥に座る父を見据える。


「お久しぶりです、お父様」


 血の繋がった相手に淑女の礼を取り、カロルは頭をたれたまま言葉を待つ。

 父が書類を眺めていた顔を上げた。娘と同じ蒼い瞳が礼を取る姿を写しても声をかけずに自分の用件だけを口にする。


「サクタリス公爵次男との結婚が決まった。準備を進めなさい」


 いつか来るとは思っていたが、簡潔な言葉は無情に響く。

 浮かれていた分、カロルは信じられない気持ちでいっぱいだった。

 件の婚約者は途切れることなく浮き名を流し、とうの婚約者には一切顔を見せに来ない。他の女に現をぬかすなら、婚約を取り消して欲しいとカロルは常々思っていた。そう願っていても、さすが公子と言うべきか、王族に連なる者というべきか。事実はわからないが一線を越えたという情報は手に入らなかった。

 噂だけで、上の立場の者に婚約破棄を申し入れることもできない。


「お前が肩入れをしている職人は外国に飛ばす。邪魔だからな」


 追い討ちをかけられ、カロルは絶句した。綺麗な礼を保つ足が揺れ、氷付けされたように体が言うことを聞かない。

 そして、思い至ったのだ。愛のない家族に義理をもつ必要はない、と。


「仕事をする。出なさい」


 ほの黒く灯った憤怒(ふんぬ)に熱のない言葉が落とされる。

 カロルは体が震えて動けなかった。同じ姿勢をしていたからではない。形だけの結婚が怖かったわけではない。確かに、ヒューゴのことは許せないがこれ以上、彼に関わることはいけないと分かっていた。せめて、別れの挨拶ぐらいはしたいが、難しいかもしれない。

 唇を噛みしめ、口の中に鉄の味がにじむ。

 カロルは決断した。父の悪事を明かす、と。人の不幸の上で、己の幸せなど願ってはいけなかったのだ。卑劣な自分は幸せが手に入らないとわかって、やっとそれを理解する。


 娘はもう合わすことのない顔に深く礼をし、部屋を後にした。



═•⊰❉⊱•═



 霧が立ち込める中、カロルは先を急いでいた。

 高級商店街(パサージュ)の裏に位置する道は、馬車一台がやっと通れるだけで行き交う人はまばらだ。下水道が整備され始めたとはいえ、人々の習慣はなかなか変わらない。空気が動き出す明け方はあらゆる臭いが立ち込め、混ざり合い、吐き気をもよおすほどの悪臭を作り上げていた。

 カロルは腐敗臭に少しだけ気を取られたが、吐き気を無理矢理押し込め歩を進める。街道に散らばっている(ごみ)も小さな骨も目に入れずに足を動かした。

 通りを挟んだ先のクレーニュ通りに入る。足の踏み場もなかったような道は魔法をかけられたように石本来の色を見せた。

 国随一の銀行へ抜けるクレーニュ通り。

 カロルはその五番地に位置する場所で足を止め、建物を見上げた。ブロンズのふくろうがこちらを見下ろしている。扉にはベルが無く、朝早い時間に人の有無を確かめる手段がない。

 急がなければ、とわかっているのに、そこへ飛び込むには決意がいった。

 準備を終え、思わぬ情報が転がり込んできたのは数日前だ。骨董店、シェ レ シュエットの存在を一度は頭から追い出したが、告発する前夜にその欲望が舞い戻ってきた。無駄な足掻きだと理性が警告を鳴らし、渦巻く衝動は止められないと本能が嘆いていた。

 早鐘を打つ胸をなだめ、右手の指で薬指の指輪を撫でる。

 これは最後の賭けだ。

 カロルは大きく息を吸って、ドアノブを捻った。

 古い油の臭いが鼻腔を刺激する。隙間から朝日が差し込むだけの薄暗い部屋を見渡しても人影はない。声をかけるか迷い、中の様子をうかがった。

 左右には高級商店街(パサージュ)のようにガラス棚が並び、宝石、貴金属から始まり、磁器やろうそく立ても整然と置かれている。

 中央に一組のソファとローテーブル、その奥に控えている小振りな書斎机、突き当たりの壁には分厚いカーテン。暗がりのせいで細工は読み取れないが、それらを避けるようにところ狭しと絵画が飾られていた。

 足元に目を動かせば、壁に立てかけられた板が布と紐で巻かれている。何処かに運ばれるものかもしれない。隙間から中の物が見えないものかと目を凝らしていると、奥から子供特有の高い声が響いた。


「おはよう、お姉さん」


 落ち着いた声音と愉快さを孕む音がひどく耳に残る。

 カロルは声をした方へ急いで振り返り、笑顔を貼り付けた。


「ごきげんよう。朝早くに失礼します」


 カロルは声の主に向けて言ったつもりだったが、その姿は朝日の影になっていた。

 小さな体躯が部屋のカーテンを開け、振り向く。光の加減で葡萄酒色にも見える赤毛を首の後ろで結び、揃いのリボンが胸元を飾る。簡素なデザインながらも質のよさがわかる服に身を包んでいた。黒曜石のような双眸で、面白いものを見つけた子供のように遠慮なく観察される。


「パンの押し売りにも見えないし、お客様と見ていいのかな?」


 あどけない顔が小首を傾げ、軽やかに問うた。

 カロルは揶揄できない不気味さに表情を強ばらせながら口元に手を添える。十を過ぎたぐらいの子供を相手に怖じ気づくほどの歳でもない。指先の触れた唇を意識して動かす。


「探し物をしておりますの。店長はいらっしゃいますか?」

「ええ、目の前に――申し遅れました。この店の主人、クリスと言います」


 そう名乗ったクリスは胸に手を当て頭を垂れた。

 カロルは瞬きをするだけで応えることができない。


「どうぞ、こちらへ」


 クリスは、呆気にとられるカロルを気にも止めずに部屋の中央に置かれたソファへと案内する。

 促されるままに腰を下ろしたカロルは、もう一度、瞬きした。座ると同時にティーカップが置かれている。顔を上げれば、灰髪(アッシュブロンド)の青年が控えていた。

 この店の者は気配がないらしい。周りの美術品の方がまだ存在感がある。

 表情ひとつ動かさない青年は完璧な所作で部屋の隅へ下がった。

 カロルの視線が戻るのを見計らったようにクリスは満面の笑みで口火を切る。


「ようこそ、シェ レ シュエットへ。お求めのものは何でしょうか? 小さなボタンから、名誉ある絵画、東国の磁器までお客様のご要望のものをご案内致します。貴方をさらに輝かせるアクセサリーも先日、入荷したばかりです。取り揃えのないものはお時間をいただければご用意致しましょう。ああ、でも、ご注意いただきたいことが。由緒ある当店でも、神々の私物は受け付けかねますので、ご容赦ください」


 口調を改めたクリスは優雅な動きで部屋全体に手を差しのべ、締めに首を傾けておどけた。

 クリスの見た目からは想像できない商売文句にカロルは舌を巻く。しばらく時間を置いて、だんだんと理解していくと、あまりにも滑稽な話で笑いが込み上げてきた。声を上げるわけにはいかず、口の前に拳を持ってきて誤魔化す。

 カロルがこの骨董店(シェ レ シュエット)を選んだのには理由があった。最大の理由は父の息がかかっていないからだ。歴史がある店にも関わらず、常連と言われる人は極々わずか、しかも曰く付きで噂が絶えない。一級品が並ぶ店内に期待したが、店長は子供。ある意味、型にはまらない店だからこそ、父も手出しができなかった店。他に従業員がいるかもしれないが、それも見込めない。もう他を探すあても時間もない。

 カロルは、一世一代の賭けがこんな風になるなんて思っても見なかった。自分より年下相手に頼むには気が引ける。でも、もう後がないとカロルは腹をくくった。指輪を撫でて、真っ直ぐにクリスの目を見る。


「有能な店長さん、わたくしのお願いを聞いてくださいます?」


 挑むような瞳にクリスがやわらかく頷いた。

 それに偽りがないのを汲み取って、カロルは口を開く。


「とある職人を探してほしくて、こちらに伺いました」

「そういったご用件は、頼む先が違うと思われますが」


 予想通りの反応にカロルは力なく首を振る。


「工房や宝石商に頼ろうにも、どこまで父の息がかかっているのかわからないので、身動きが取れません。探偵や情報屋にお願いしようとも思ったのですが、この界隈には詳しくないと思いまして」

「僕ならできるとおっしゃるのですね」


 クリスの言葉に、カロルは頷き、左手の薬指から指輪を抜き取った。

 カロルが机に置こうとする前に、横からベロア調のトレイが差し出される。目を見張ったカロルが視線を滑らせれば、控えていたはずの青年が立っていた。

 カロルは一瞬戸惑った後、指輪をトレイに置く。

 青年は無駄のない動きで、クリスの前に指輪を運んだ。

 二つの視線が指輪に落ち、眉間をわずかに歪めたカロルは重い口を開く。


「この指輪を作った職人を探してほしいのです。一級の鑑定士は情報がなくとも材料、技法、癖から作者を言い当てると聞きました。仕入れや修繕のために工房や宝石商との繋がりもあるでしょう?」


 カロルの言葉にクリスはあいまいな笑みで応え、手袋をした手で指輪に触れた。あらゆる角度から眺め、胸ポケットからルーペを取り出す。細やかな部分まで目を光らせ、透かし見た。

 カロルはその姿を凝視するのも気まずく、乾いた喉に紅茶を流しこむ。味も香りも感じられない。わずかな時間なのに息がつまるようだった。

 黒い瞳がカロルに向けられる。


「きれいな蒼ですね。なかなか手の込んだ仕様です」

「サファイアがきれいでしょう? まだ駆け出しの職人だけど、きっと歴史に名を残す逸材になるわ」


 カロルは、まるで自分が誉められたように相好を崩した。指輪を見つめ、数拍の間があく。愛しそうに細められた目が夢から覚めたように見開かれた。

 カロルの視線はクリスに戻されたが、真実を見透かすような黒い瞳を直視することはできなかった。

 一方のクリスは指輪を見下ろしたまま、神妙な顔つきで考え込んでいる。熟考する姿は子供の身でありながら、聡明な学者を思い起こさせた。無言を貫いていたクリスは、身じろぐカロルを見止めて口を開く。


「おそらく、ピエリック工房のものですね」


 カロルの引き締められた表情がすぐに崩れ、ぽつぽつと言葉をこぼす。


「申し上げにくいのですが、彼はその工房から追い出されてしまったようで……」

「その後にあてはありますか」


 クリスの問いに答えはない。

 カロルは項垂れ、唇を噛み締めた。

 豪奢なアンティークが並ぶ店内に暗い影が落ちる。

 クリスが断りを入れるようと口を開きかけた時、カロルは今すぐじゃなくていいんです、とか細い声を上げた。涙を耐えるように顔の中心に皺を寄せ、間を置かずに続ける。


「何年かかっても構いません。この指輪を作った職人に手紙を渡してほしくて。名はヒューゴ・マルティネスと言います。お金は先払い致しますわ。どうか、どうか頭の片隅にわたくしの我が儘を留めておいていただけないでしょうか」


 迫るカロルにクリスは考えあぐねている様子だ。黒い瞳に青年の姿を映し、微塵も変化のない顔に何か書いてあるのか、視線をずらした。

 にわかに表の通りが騒々しくなる。

 青年が様子を伺いに窓辺に寄り、クリスは不思議そうに小首を傾げた。

 しだいに罵声が近づき、声量も言葉も明確になる。

 瞳の温度を下げたカロルは、もう見つかったのね、と吐息をこぼした。言葉の真意をはかるクリスにカロルは笑顔を返す。


「店長さん。その指輪、差し上げますわ」


 カロルは言葉と同時に重みのある袋を机に押し付けた。クリスの返事を待たずに席を立ち、扉に向かう。

 出ていこうとする背に声を投げかけたのはクリスだ。


「いただいても困ります」


 カロルはクリスの言葉を背中で受けた。姿勢を正して、軽やかに声をはる。


「もし彼に会えなくても恨まないのでご安心ください。指輪は邪魔なら売り物にしていただいても大丈夫ですわ」


 取られるよりマシですもの。続くカロルの呟きは、明るい声に反して諦めがにじんでいた。

 何も声をかけず、クリスはカロルを見守る。


「それでは、ごきげんよう」


 精一杯の笑顔で振り返り、カロルは別れを告げた。初対面の彼らに泣きすがるなんて、彼女の矜持が許さない。

 すぐさま踵を返した背中が扉の外に消えていく。

 小さく嘆息したクリスは隙間から見えるか細い背中に頭を垂れた。青年もそれに倣う。


「よい一日を」


 きれいな笑みでクリスは彼女を見送った。



═•⊰❉⊱•═



 大通りから外れた、クレーニュ通り五番地。ヒューゴはそこに建つ骨董店(シェ レ シュエット)を見上げた。

 曇りのせいか、暗い色をした外観は薄暗い森を彷彿とさせる。その壁を飾る、くすんだ梟が存在感を増していた。

 ヒューゴは意を決して扉を開けた。

 カーテンが開けられた店内は想像に反して宝石店のようだ。棚に並べられた物が、 雑多な種類であることを除けば整然と並べられている。

 奥の机で作業をしていた子供が顔を上げ、ガラス棚の商品を点検していた青年は一礼した。


「こんにちは」

「こんにちは、お兄さん」


 ヒューゴが挨拶すれば同じように返される。

 返ってきたのは子供の声だ。青年よりも子供の方が立場が上らしい。


「手紙をいただいた、ヒューゴ・マルティネスです」


 ヒューゴの名乗りに合点がついたようで、子供は満足そうに笑った。


「僕はクリス。どうぞ、座って」


 ヒューゴは上質のソファに一瞬戸惑うが、クリスに促され大人しく座ることにした。

 周りを盗み見れば、いつの間にか青年は消えている。

 クリスはトレイを机に置き、ヒューゴの目の前に座った。

 トレイにはイエローゴールドの指輪。

 それを見たヒューゴは顔を強ばらせた。

 何も言い出さない男を一瞥したクリスは軽く組んだ手を足の上に置く。


「名前も知らないお姉さんから、預かったものだよ」


 クリスは言い聞かせるように口にして、返事を待った。

 ゆっくりと目を上げたヒューゴはクリスを見る。その瞳は不安と嫌疑がない交ぜになっていた。


「……預かった? 売られた、ではなく」


 戸惑いを隠せない問いに、そうだよ、とクリスは簡単に返す。

 ヒューゴは決まり悪そうに視線を泳がせた。口を何度も開けたり閉じたりしている。

 クリスはその様子に呆れ、指輪の中央で光る蒼い石を見た。それも一瞬のことで感情の読めない黒い瞳を男に向ける。


「どうしてそんなにも蒼いの?」


 ヒューゴが息を飲む。

 クリスは口元を歪め、首を傾げた。嘲笑に彩られた口から言葉が流れ出る。


「答えなくてもいいよ。答えはもう分かっているんだ。興味もないしね。その素晴らしい指輪には似つかわしくない模造品がついているのが残念で、残念で、つい意地の悪い聞き方をしてしまったんだ」


 雰囲気に飲まれたヒューゴは青ざめたまま動けない。

 どうでもいいものなど目に入らないクリスは気付かずに続ける。


「歪みのない(アーム)に、花を模した石座。爪も石を引き立てるよう、繊細に作られているね。石の色に合わせて矢車草を模しているのかな。差し込む光も計算されて素晴らしい。見れば見るほど、職人の仕事ぶりに感心させられるよ」


 だからこそ、信じられないよ。そうため息にも似た一言を置いたクリスは男を冷めた瞳で睨み付けた。


「これがよくサファイアと言えたね。疑似ガラス(カラーストーン)と言うなら、文句はないよ。あれにはあれの素晴らしさがある。石座か石に何かして上手く誤魔化したつもりだろうけど、僕の目はごまかせないよ。こんな色で、しかも気泡入り、その上サファイアの美しい色帯もない。宝石にも木目のような歳月と物語があるのに。君も職人の端くれだ。それを知らないとは言わないよね? 自然の生み出した奇跡に成り変わろうなんて傲慢にも程がある」


 クリスの体から生み出される純粋な憎悪が男にぶつけられた。

 ヒューゴが喉を鳴らし、何か言おうとしたのをクリスは次の言葉で黙らせた。


「お姉さんはサファイアだと言っていたよ」

「それは」


 それは、とヒューゴはあえぐように繰り返す。背中を丸めているさまは懺悔する姿に酷似していた。

 無情な時間が過ぎていく。

 宝石を冒涜した職人にも、事情を話さない男にもクリスは苛立っていた。

 クリスが指輪に手を伸ばす前に、二人の間にティーカップが置かれる。自分の仕事を全うする青年はクリスを瞳で捕らえた後、隅に下がった。

 不承不承ながらもクリスは香りで気分を落ち着かせ、紅茶を一口飲んだ。クリスに合わせて作られた紅茶は程よく冷めている。

 ヒューゴは膝の上で拳を握ったまま俯き、肩はわずかに震えていた。

 ティーカップを置く音にも過敏に反応するヒューゴに憐れなものを見る目が向けられる。

 クリスは抑えた声で訊ねた。


「どうしてお姉さんにサファイアじゃないって言わなかったの? お兄さんはわかっていたでしょ、それが、ただの作り物(イミタシオン)だって」


 クリスは残りの紅茶を口に運び、長い間待つ。

 ずっと唇を閉じていたヒューゴは慎重に息を吸った。何処か遠くを見つめ、話し始める。


「ほんの出来心で蒼いガラスを使ったんだ。本当の恋人達みたいに蒼玉(サファイア)を渡して見たかった。そんな夢物語、ありえないってわかっていたのに。俺が言い訳する前に、彼女が――カロルが、その石をサファイアだ、って言ったんだ」


 ヒューゴの顔が、くしゃりとゆがみ、本心が吐露される。


「カロルへの愛が違うなんて言えなかった」


 身分が違うのに夢を見てしまったんだ、とヒューゴは小さく呟き、自分の両手に顔をうずめた。

 ここは教会ではないんだけど、とクリスは嫌みを口にして続ける。


「サファイアは愛の絆を守る意味もあるけど、他にも意味があるよ。慈愛、高潔、徳望」


 誠実、と最後を締めくくった。

 ヒューゴは肩を揺らすが、その後は身じろき一つせず顔も上げない。

 クリスは遠慮なくため息をついて、青年に向けて片手をあげた。

 青年は心得たとばかりに目礼して、書斎机から袋と手紙を取り出す。それらはクリスではなく、ヒューゴの前に置かれた。

 ヒューゴは視界に入ってきたものにすぐには反応できない。崩れ落ちそうな顔を上げ、掌にのる程度の袋と、愛しい人が綴った自分の名前を見つけた。頭がついていかず、問うような顔がクリスに向けられる。

 黒い瞳は刑を執行する役人のように冷たく、小さな口から言葉が落ちていく。


「ここにお姉さんの置き土産がある。別に僕がもらってもいいけど、後味が悪いものをもらうほど僕も困っていないんだ。そして、僕は政界や財界で幅をきかせたジュエリー狂いを知っている。僕も何度か助けてもらった御仁でね、変人だけど仕事ができることは折り紙付きだ。僕の名前でオンショントモール侯爵に手紙も送っておいた」


 ヒューゴは困惑した顔で何も言い出せずにいる。

 つまらなそうな顔をしたクリスは、まだわからないの、とヒューゴを馬鹿にした。


「その袋の中身は王室のジュエリーとも肩を並べられるような一級品だ。それと君の作品をいくつか侯爵に見せてみるといい。気に入ってもらえたら、望みの一つぐらい叶えてくれると思うよ」

「そんなこと、できるはずない」

「できるかできないかなんて、僕には知ったこっちゃないよ。やるかやらないかは、お兄さんしだい。この件はもう僕の手から離れた。出口はあっち」


 狼狽えるヒューゴに畳み掛けるように言ったクリスは扉に掌を向けた。声を荒げながらも所作は美しい。

 訳もわからず慌てて袋と手紙を抱えたヒューゴは席を立った。忘れ物だよ、と掌にのった指輪を差し出される。

 ヒューゴの目は見開かれ、深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


 かすれた感謝の言葉は店主の機嫌をなおすことはない。

 足を組み、クリスは無邪気な笑みを浮かべた。天使とも悪魔とも言いがたい笑みだ。


「僕は聖人じゃないよ。お兄さんの名前、覚えておくね、ヒューゴ・マルティネス。今度、無理なお願いをするから頭に入れておいて」


 ヒューゴは震える体を叱咤して、指輪を取り扉に向かった。これ以上に機嫌を損ねてはならない。愚直なヒューゴでもそれぐらいはわかった。


「よい一日を」


 背中に言葉をかけられてもヒューゴは振り替えることができない。軽く礼をしてその場から逃げ出した。



═•⊰❉⊱•═



「リュカ、来て」


 唐突な呼びかけにリュカは食器を片付ける手を止めた。声をした方へ顔を向ければ、主が書斎机で新聞を読み更けている。


「クリス様、また虚構ばかりの新聞を読まれているのですか」


 リュカの苦言にクリスは聞く耳を持たなかった。紙面を机に広げ、やっと、わかったよ、と声を上げる。

 リュカは小言を言いたいのを我慢して、指差す先を覗きこんだ。


 ――鉱山王 一家断絶――


「また、こんな露骨な煽り文句を」

「いいから、読んで」


 ――某日、『鉱山王』ヴァンクトリーヌ伯爵が監獄送りとなった。世界の半数の鉱山を有すると謡われた男も己の欲と身から出た錆に足をすくわれたようだ。稚拙なカラーストーンを本物だと偽り、貴族は愚か、王族にも虚偽を売り付けた。強欲で傲慢で狡猾な男の罪は密告者により暴かれ、裁かれる。爵位剥奪、一族離散となり、ヴァンクトリーヌ伯爵は終焉を迎える。先日結ばれた令嬢と公子との婚約も破棄された。彼の元で悪事を働いていたピエリック工房も取り潰しとなる。刑が執行されれば、麗しき紛い物(イミタシオン)も世に出ることがないだろう――


「また、見た(・・)のでしょう」


 新聞を読み終えたリュカの第一声はひどく冷ややかだった。

 クリスは肩をすくめ、素知らぬ顔で言い返す。


「言いがかりはよしてほしいな」

「そうでなければ、あの指輪だけで、あの職人を見付るなんてできるわけないでしょう」


 リュカは瞳に居座る感情を取り下げなかった。聞き分けのない主に反省を促すのも、自分の宿命だと思っている。

 観念したクリスは仕様がないだろう、見えてしまうのだから、と口を尖らす。

 従者は大袈裟にため息をついて見せ、やれやれと首を降る。


「厄介事が耐えませんね」

「それは嫌みかい?」

「クリス様は物好きですから」

「それ、そっくりそのまま君に返すよ」


 うろんげな瞳を向けられてもリュカは何処吹く風で冷笑している。その新緑の瞳に映るのは机に置かれた蒼玉(サファイア)。つい先日、名も知らない令嬢から預かった代物とはかけ離れた本物の逸品だ。


「彼女は騙されていたのでしょうか」

「本人もサファイアじゃないって気付いていたと思うよ」


 従者の問いにクリスも皮肉げに笑い、サファイアを持ち上げた。

 リュカは面白くなさそうにクリスの横顔を見返す。


「気付いていて、あえてサファイアと言う必要があるのでしょうか?」

「必要がなくても嘘はつける。それが人間ってやつさ」


 軽い口調に似合わない皮肉に言い返す者はいなかった。




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