さよならヒーロー
世界はいつだって二極化であるとは、ずっと昔に二人で星を眺めながら晶さんが言っていたことで。「だから世の中には、愛される人と愛されない人に分かれるんだ」って晶さんは呟いた。
思えば当時、僕も晶さんも中学三年生で。今まで一緒に過ごしていた女の子とあまり過ごさなくなってしまったようだったから、多感な時期にそれも相まって、少しナーバスになってしまっていたのかも知れなかった。
僕は当時、「そんな馬鹿なことあるもんか」なんて怒って、癇癪を起こしてしまって。「そんな世界、僕が全部変えてやる」なんて言えば、晶さんは真っ暗な夜のような瞳で「ありがとう」って言って微笑んだ。
────その日から、僕の世界の中心はいつだって晶さんで。晶さんが笑うこと、晶さんが幸せであることが最優先だった。晶さんのことを、僕が必ず守るんだと思っていた。
────とは言え、晶さんは本当は僕なんかに守られなくとも強い人で。本当に守られたかったのは、僕の方だったのだけれど。
「────お前は何てことをしてくれたんだ!」
時計の音がこちこちと響くリビングに、静寂を切り裂くような怒号が響いた。僕が作った夕食のロールキャベツのコンソメの香りが、ぷうんと辺りに漂う。
僕はその怒号にびくりと肩を震わせて、「大変申し訳ございません」と呟いた。生来声が大きいこともあってか、リビングによく通ってしまうその声に反省の色を微塵も感じなかったのだろう。目の前の父は苛立ち紛れに残った缶ビールの中身を僕に浴びせると、隣で啜り泣く母の髪を掴んで「お前も母親なのに何やってたんだ!」と怒鳴った。
「ひっ」と小さく声を上げた母を庇うように身体を割り込ませて、「僕が悪いんだ!母さんは関係ない!」と言えば、僕の短く切られた髪を掴んでフローリングの床に叩き付けた。
「────お前が悪いことなんか決まってんだろうが!」
予想以上の痛みに小さく呻き声をあげると、それも気に食わなかったのか僕の腹を勢いよく蹴る。普段は整って温厚な面影は、もうどこにもなかった。
「恥かかせやがって」と怒鳴りながら僕の腹を何度も蹴れば、満足したのか小さく舌打ちをして自室へと戻ってゆく。
────良かった。今日は母さんが殴られない日だ
ほっと息を吐いて身体を起こし「母さん、大丈夫だった?」と言えば、母は啜り泣く声の間から「どうして」と呟いた。
「────して」「────え」
「────どうして日色ちゃんは、ママを裏切るの?」
「あんなにいいこだったじゃない」と大声で子供のように泣き出してしまった母の背を擦りながら、「ごめんなさい」と何度も何度も繰り返し呟く。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい────
────産まれてきてしまって、いいこになれなくて、ごめんなさい
呟いた言葉は母の泣き声に掻き消され、どこにも届かないまま部屋の中で霧散した。
────その事件を起こしてしまったのは、今から二週間前のことだった。クラスメイトの山本花から、僕の携帯宛に電話が掛かってきたのだ。
僕は家族分の夕食を出し終えて、洗い物をちょうど終えたところで。「うるせーな」と舌打ちをする兄の声に慌てて携帯電話をひっつかむと、廊下へ出て通話ボタンを押した。
「プッ」と言う間抜けな機械音が鳴ると、すぐに山本さんの携帯電話に接続した。通話中を表す画面が僕の携帯電話の画面一杯に広がる。
「────もしもし、山本さん?電話に出られなくてごめんね。どうしたんだ?」
通話越しにざわざわとする音が聴こえていた。車のクラクションと、子供の明るい笑い声が電話越しに響いている。
「もしもし?」と再度言葉を発しても、山本さんは何も話し出さない。歩いている様子も無いから、恐らく立ち止まっているのだろうと辺りをつけて、再度「もしもし?どうしたんだ?」と言葉を吐き出してゆく。
「もしもし?もしも────」『────聞こえてるよ』
何処か呆れたような声で、電話越しに山本さんが苦笑いする気配を感じた。「ふっ」と笑った音だろうか、一瞬、ガサガサと大きなノイズが携帯電話越しに聞こえた。
その日は、雪が降る酷く寒い日で。────そうだ確か、その日の朝の情報番組で今年一番の大寒波が襲来したと気象予報士が告げていたから、残り少ない石油ストーブの中身を入れないとななんて考えていたんだ。
僕は「ストーブとめますね」と家族に伝えて石油ストーブの電源を切って。玄関の右端に置いてある灯油を入れたポリタンクの中にポンプを突っ込んで、溢さないように注意をして空になったタンクの中を満たしてゆく。
機械音が鳴って、ゴポゴポと言う音と共に空になったタンクが少しずつ満たされてゆく。その様子を見つめながら、携帯電話にマイクつきイヤホンを差し込んでハンズフリー通話に切り替えた。
「────もしもし、ごめんよ。それで、一体────」
通話を再開すると、ザザッと言うノイズ音に紛れて微かな音が聴こえた。少し低く透明な硝子のような声が、ノイズ音に紛れて言葉を紡いでゆく。
『────ね』『────え?』
くっくっと山本さんが笑う声が聞こえた。面白いと言うよりは、何処か自嘲的な声で。そして何処か────僕を憐れんでいるようでもあった。
『────日色ちゃんも、可哀想なんだね』
────私達、一緒。一緒だね、日色ちゃん
『────ねぇ、日色ちゃん、』
私ね、と彼女は静かに言葉を続ける。何処か泣いているようなその言葉は、どんな表情をしているのかわからない。
『私、今、歩道橋にいるの。それで、これから────』
────これから、居なくなっちゃおうと思ってるの
予想外の言葉に、一拍返事を返すのが遅れた。「は、え?」と間抜けな声が飛び出してゆく。
疑問だらけに埋め尽くされてゆく思考を何とか切り替えて、「今、どこの歩道橋?」と尋ねれば、『南町』とだけ言葉を返される。
「南町?わかった、今────」
何とか彼女をその場に留めようと話を伸ばすも、ぶつりと通話を切られてしまって。焦ってゆく脳を責め立てるように、ポンプから満タンになった音を知らせる機械音が鳴った。
────ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ────
「────日色!」
怒鳴り声にはっと意識を引き戻して、ポンプをポリタンクから取り出す。滴っている灯油を切ってかちりと蓋を閉めてから、ポリタンクの蓋も同様に閉めた。
慌てて灯油をヒーターに入れると、ピッと電源を付ける。ボッと言う音が鳴って、青と橙色の炎が隙間からちらちらと瞬いていた。
僕はやるべき家事を全て終えると、靴箱からスニーカーを取り出して二階に上がり、両親の目を盗んで窓から飛び降りた。この時ばかりは身軽さが役に立った瞬間だったと思う。
受け身をとってから体勢を立て直すと、アスファルトの上を駆け出した。冬の夜の冷たい空気が肺に入り込んで、酷く息苦しい。
今年一番の大寒波のせいか、それとも夜のせいか、外出している人はほとんど居なくて。だからこそ、息を切らせて駆け回っている自分がまるで異物のように見えた。
近所にある南町公園を突っ切って左側に街灯の増えた街中へ出ると、クリーム色の歩道橋が見えて。そこの縁に腰掛けて、今にも落ちてしまいそうな体勢を取る山本さんを見つけると、大きな声で「山本さん」と呼んだ。
「────ああ、日色ちゃん。こんばんは」
山本さんは何処かぼんやりとした様子で、歩道橋の上から夜空を眺めていて。真っ暗な瞳に反射したような光が瞳の奥で瞬いていた。
「────こんばんは。…………そこ、寒いだろ?」
「帰ろう」と暗に言えば、山本さんは全て見透かしたように微笑んで、「帰らないよ」と呟いた。
「帰らないよ、私。だって────」
「だって、日色ちゃんが私を連れ戻しに来たから」
言われた意味が解らずに思わず眉間に皺を寄せれば、彼女は特に気にしたようすもなく、「そんなことよりも、よくここだって解ったね。もっと迷ってくれるかと思ってたんだけど」と言葉を吐き出した。
「────南町って言ったのは、君だろ?」
この地区で南町の歩道橋と言えば一つしかない。南町と北町を繋ぐ歩道橋だ。
────つまんないのと山本さんは退屈そうに呟く。もっと迷ってくれれば、面白かったのにと呟く声に、頭の芯がじんと熱くなった。
「────っ、申し訳ないけど、ふざけてるのかい?」
精一杯怒りを抑えて言葉を紡げば、「私はいつだって真面目だよ?」と山本さんは笑った。
「そう、真面目で、優しくて、良い子で────…………そうやってずっと生きてきたから、こんな人間のままで。…………だから、なんかもうさ、」
────疲れちゃったんだよねと彼女は笑った。力の無い、独りぼっちの暗闇の中で迷子になっているような笑みだった。
「────っ、それなら、僕が必ず君を助ける。僕の全部の時間を、君に渡すよ。────っ、だから、」
「────何にも知らないくせに、勝手なことばかり言わないでよ!」
怒鳴り声にびくりと肩を跳ねさせたのは、今まで生きてきた中の条件反射のようなもので。膝が震えてしまうのは、積み重ねてきた記憶の残骸のようなものだ。
「────日色ちゃんって、いつもそう。自分が正しいって顔して周りを掻き回して、ヒーローごっこのつもり?なのに、本当に大変なことには目を向けてくれない。────だから、」
ずりっと山本さんが体重を外側へかけ始める。ひとつひとつ、僕の反応を確かめるように。
「────っ、山本さん、危ないから!だから、もう止めてくれ!」
山本さんはぴたりと動きを止めて、顔を俯かせる。その表情は深くなり出した夜の闇に紛れて見えないはずなのに、何故だかゆっくりと微笑んだような気がした。
「────さよなら、ヒーロー」
────その後のことは、あまり気持ちの良い話ではない。
結果的に、山本さんは歩道橋の下に生えていた木の上に落ちて、怪我はしたものの亡くなることは無かった。救急車を呼んだのは僕で、山本さんは手当てを受けた後、頭を打ってしまったことで少しの期間入院し、その後教室に姿を現すことはなかった。
僕はと言うと、彼女が歩道橋から飛び降りた翌日に、一緒に居たと言うことで職員室に呼び出され事情を聞かれた後、両親を呼ばれ早退となった。
両親は僕のことなんかよりも、この先の高校受験への影響についての心配の方が大きかったらしい。…………当然だと思う。
中学三年生の高校受験を控えた時期に問題を起こす生徒はどうやら前例が無かったようで、職員室は皆対応に追われていたようだった。
────塩瀬さんは優等生で、私達も信頼していました。なのに、こんなことになるなんて────
担任の先生は、そう言って声を詰まらせて。僕の目の前で、両親は何度も「大変申し訳ございませんでした」と頭を下げ続けていた。
────冒頭のやり取りのあと、僕自身も少しの間学校に行くことが出来なくなった。人の視線が怖くて、家族の目が怖くて、彼女を傷つけた自分自身が許せなくて。カーテンを閉めて、部屋の電気を消して、暗くなった自分の部屋に踞った。幸いなことに心配する人も居なかったから、自室のベッドに横になって食事も摂らずに延々と眠っていた。
何も考えたくなかった。何も知りたくなかった。誰にも、僕の世界に干渉してこないで欲しかった。
幸いなことにずっと横になっていたから、お腹が空くこともなかった。入浴と排泄以外は部屋に引き籠り、後は延々と眠っている。次第に時間が朝か夕方かも解らなくなってきたけれど、三日も経てばそんなことですらどうでも良くなった。
────もう良い。僕はもう、このままで構わない。どうせ最初から、僕はどこにも行けないんだから。
部屋の前で、母さんが泣いていた。「日色ちゃんはそんな子じゃなかったでしょう?」って、「ママのことはどうするの?」って、そう言っていた。
父さんは怒っていた。ドアを蹴り飛ばして、「誰のお陰で生活できてると思ってるんだ」って、そう言っていた。
兄さんは何も言わなかった。まるで最初から何も無かったみたいに僕を無視することで、自分の心を守ろうとしていた。
────ごめん、ごめん、ごめんなさい。良い子になれなくて、優しくなれなくて、傷つけてごめんなさい
僕はと言えば、情けなく膝を抱えて蹲っているだけで。頭を壁に打ち付けてしまいたいような、強烈な自責の念からくる衝動を抑え込みながら、譫言のように何度も何度もそんなことを繰り返しているだけだった。
────だけど、
ある日、部屋のドアが開いた。ずっと鍵を掛けていなかったから、開くのは当然のことなのだけれど。
けれど────ドアを開けた人物は、家族でも、ましてや学校の先生でもなかった。
「────っ、あきら、さん?」「────やあ、日色」
そこに立っていたのは、別々の中学校へ通っていたいとこの塩瀬晶で。「久しぶりだね」なんて変わらずに笑うその表情に、ほっと息を吐いたことをよく覚えている。
「────っ、どうして、」
とは言え、まともに他人と話していなかったせいか、すぐに言葉が出ては来なくて。つっかえてしまった言葉から意図を汲んでくれたのか、「遊びに来たんだよ」と言って、その整った顔をふわりと緩ませた。
「────遊び」「そう。ちなみに兄さんも一緒だ」
兄さんと言うのは、僕のもう一人のいとこであり、晶さんのお兄さんの塩瀬秋一のことで。優しい人ではあったものの、背が高くて年上の男性だからか昔からあまり得意な人では無かった。
「────兄さん、自動車免許を取ってね。二人でふらふらドライブしてたんだけど、良ければ日色も誘おうと思って」
晶さんは、ベッドに横になっていた僕と目線を合わせるようにその場に座り込んで、「どう?」と微笑んだ。
「────っ、晶さん、僕が中学校で何をしたのか、聞いていないのか?」「聞いたよ」
「だったらどうして」と言えば、晶さんは小首を傾げて。「だって」と呟いた。
「────だってそれは、今の話には関係がないことだろう?」「────────は」
呆気に取られてぼんやりとその顔を見つめれば、晶さんはごそごそと僕のクローゼットの中を探すと、紺色のダッフルコートとマフラーを取り出して、ぼんやりとその様子を見つめている僕に着せた。
「────さ、これ着てくれ。外は寒いから」「そ、外って、どこに────て言うか、晶さんも僕も明日学校じゃ────」
晶さんは「さあ?」と笑うと、「因みに今日は金曜日だから、明日は学校は休みだよ」と笑うと、何かを思いついたように「そうだ」と呟いた。
「そうだ、日色はこのままボクの家に泊まれば良いよ。今日、明日って泊まって日曜の午後に帰れば、翌日の学校には間に合うし問題ないだろ?」
「た、確かに問題はないかもしれないけど────泊まるだなんて急に行ったら晶さんのご両親にも迷惑だし、僕はまだ今日の分の家事も終わらせていないんだ。僕がやらなきゃ────」
そう言うと、晶さんは眉間に皴を寄せてから溜息を吐いた。それに思わず身を竦ませると、静かな澄んだ声で「わかった」と呟いた。
「────わかった。じゃあせめて、兄さんに顔だけでも見せて貰ってもいいかな。心配してたんだ」
僕は暫く逡巡してからこくりと頷くと、晶さんは「良かった」と微笑んだ。
「じゃあ、申し訳ないけど先に行ってて貰っても良いかな。ボクはまだ、やらないといけないことがあって」
晶さんはそう言うと、ぐいと僕を外へ連れ出して。四人乗りの軽自動車の後ろのドアを開けると、僕を最初に乗せてからその後に自分のダッフルコートを僕の膝に掛ける。
「────っ、い、良いよ。晶さんが風邪ひくだろ」「残念だけど、ボクの家族は風邪はひかないよ」
晶さんはそう言うと、くすくすと笑い声をあげて。少し低めの優しい夜のようなその声が、「たまには甘えてくれたって良いだろ?」と微笑んだ。
「────っ、で、でも!」「ああもう、ボクは長いこと話してるのは得意じゃないんだ。頼むよ、日色」
────晶さんは、狡い。僕がそう言われれば従うしかないことを、きちんと理解したうえでやっているのだから。
車に乗り込めば、晶さんがバンと後部座席のドアを閉めて。車内は僕と晶さんの兄しか居なかった。
「────寒くないか」「────あ、ああ、はい」
「すみません」と言えば、こちらの方へ温かいお茶のペットボトルを差し出して。おずおずとそれを受け取って「頂きます」と言えば、ひらひらと手を振った。
暫く車内で黙ったまま座っていると、少ししてからバンと乱暴に扉を開ける音が聞こえた。
「────さ、行こうか」
晶さんはそう言うとにこにこと微笑んで僕にリュックサックを押し付けると、「ごめんね。荷物の準備、勝手にしちゃった」と微笑んだ。
「────い、いや、それは大丈夫だけど────」「そう、じゃあ問題は無いね」
晶さんはそう言って笑うと、扉を閉めた。僕はその背中に向かって、「晶さん」と問い掛けると、晶さんは窓の外を見たまま「どうしたの」と言葉を返した。
普段の晶さんは、こんな風に言葉を返したりはしない。きちんと相手の目を見て、丁寧に言葉を返してくれる人だから。
「────その、僕の両親が何か言ったりしたんだろうか。……その、もしそうなら、本当にごめんなさい」
晶さんはその言葉にぴくりと肩を跳ねさせてから、深いため息を吐いた。
「────ごめん、何でもないよ。ボクが大人げなかっただけだ。……ご両親には、「お願いします」とだけ言われたよ」
晶さんはそう言うと、自動車のラジオを弄って音楽を掛ける。ロックともポップスとも似つかない音が、車内に静かに響いていた。
晶さんも秋一さんも────もちろん、僕も。誰も何も話さないまま、静かに車を走らせていた。
────その日から、晶さんは紛れもなく、僕の世界の秩序で、ヒーローになった。
────だから、お互いに受験前に、「ボクはここを受けるつもりなんだ」と晶さんから私立星花女子高校のパンフレットを渡された際には、嬉しくて小躍りしてしまうそうになったことを、とてもよく覚えている。
その頃、僕は両親に勧められた通りの県内の進学校へ行くことに疑問を抱き始めていた時期で。このままで良いのかと改めて自分自身について考え直し始めた時期だったから、晶さんと同じ高校へ通うことが出来るなんて夢のようだと思っていた。
────だけど、
「────────これ、」「────────うん」
晶さんから一緒に手渡されたのは、高校のパンフレットと入寮時のパンフレットだった。「どういう事」と言えば、「日色はあの家にいない方がいい」と晶さんは呟く。
「────────って、なんで、そんな。だって、」「────────悪いけど、ボクもいつまでも、君の手を引いてあげられる訳じゃない」
その時、晶さんは真っ暗な夜のような瞳をしていて。────いつまでもそこにいない人の影を追い求めているみたいだった。
「────星花女子高校は、入寮の際に二人部屋の桜花寮と一人部屋の菊花寮に分かれていてね。成績上位者や一芸に秀でた人は、菊花寮へ入寮することが出来る。日色の成績なら、間違いなく菊花寮へ入寮することが出来るから────」「────────っ、そうじゃなくて!」
思わず大声で言葉を遮れば、晶さんはびくりと肩を震わせて。そうしてからゆっくりと、重い息を吐き出した。
「────君は、ボクたち以外の世界を見るべきだ。日色」「────っ、なんで!だって、だって晶さんが────」
────晶さんが、僕の世界を変えてくれたのにと呟けば、「だからだよ」と晶さんは呟いた。
「────申し訳ないけど、君の家族の家庭は完全に崩壊している。このまま君がここに居れば、君は完全に壊れてしまう。────っ、君は、ボクの、」
────ボクの、大切な子に似ているから、心配なんだ
「頼むから、もう殴られないで。……殴られて、頼られて、それでも平気で傷つけられることを当たり前だって思わないで」
晶さんは泣いていた。思えば昔から、晶さんはよく泣いていたような気がする。
────そんな世界、僕が全部変えてやる!
嗚呼、そうか。僕はただ、晶さんに笑っていて欲しかったんだ。二極化した世界で、晶さんが途方に暮れないように。────晶さんが、自分自身を嫌いにならないように。
だから、目の前で泣いている誰かを救いたかった。いじめも陰口も、誰かを傷つけるものがない世界にしたかった。
────だけど、それは本当は、必要のないことだったんだな。
「────────晶さんは、その人のこと、好きかい?」
唐突に紡がれた言葉に、晶さんは一瞬戸惑ったように動きを止めて。少し間を開けてから、子供のようにこくりと頷いた。
「────────好きだよ。……誰よりも、何よりも、彼女のことが好きだ」
心臓がひどく痛んでいた。息も出来なくなってしまいそうなほどの鋭い痛みが、じわじわと僕の心を蝕んでゆく。
晶さんは、きっといつか僕のことなんて忘れてしまうだろう。だって、あんなに守りたいものが出来てしまったのだから。
僕は滲んでゆく痛みから顔を背けて、「そうかい」と呟いた。
「────寮、行くよ。……星花女子高校、受験する」
人は必ず、大きなものの中から何か一つを選び取らなければいけない時期が来る。それが晶さんにとっては、高校だったのだろう。
「────わはははは!だから、お互いに何かあれば教えあおう!晶さん!」
────僕が必ず、何処にいたってあなたを助けに行くから
────だって、僕を見つけてくれたのは、いつだってあなたなんだ。僕を変えてくれたのも、救ってくれたのも、いつだってあなたで。だから、僕の世界の秩序も、正義も、全部あなたのためにあるものだ
「────だって僕は、あなたのためのヒーローだ!」
家族のためじゃなく、同級生のためでもない。だからもう、「さよなら」だけは聞きたくない。誰かを傷つけないために、僕はちゃんとヒーローになる。
────その後、僕も晶さんも無事、星花女子学園へ合格して。成績も申し分ないとのことで、菊花寮への入寮が決まるはずだった。
────そのはず、だった。
「────桜花寮!?」「────ええ」
告げられた言葉は、桜花寮への入寮で。驚いてぼんやりとしていれば、二年前の「あの事件」について触れられる。
告げられた内容は、成績は申し分ないものの二年前の事件から、菊花寮への入寮は難しいとのことだった。
両親に告げれば、「恥ずかしい」と一言だけが返って来て。結局、荷造りを手伝ってくれたのも晶さんと晶さんの兄だけだった。
「────ボクもこれから星花に通うから、何かあればいつでも相談してね」「────わはははは!晶さんは心配性だな!でも、ありがとう!」
入学式を終えると、教えられた部屋のドアをノックして。嗅ぎ慣れない寮の空気を肺一杯に吸い込んでから、大きな声が寮中に響き渡った。
「────わはははは!正義を貫け、悪をくじけ!高等部1年1組、塩瀬 日色です!よろしくお願いします!」
世界はきっと、やむことがなく日々移り変わってゆく。それでも、どうかそれに取り残される人が居ない様に、僕は「みんな」を救い続けるヒーローでありたい。
────さよなら、ヒーロー
もう二度と、誰も傷つけないように。もう二度と、あんなことにならないために。身も骨も心さえも、全てを皆に捧げ続けよう。
────さよなら、日色。そして────
────そして、こんにちは、ヒーロー。
────この日、塩瀬日色はもうどこにもいなくなってしまって。あとに残されたものは────
────傷だらけの、ボロボロのヒーローだった。




