窮屈剣 遠野遣り 上
十四番部屋に入居者があった。
城下のはずれにある品方長屋、通称びんぼう長屋の十四番部屋は長らく空き家となっていた。
壁や格子は破れまくり。戸板の立て付けはこぞって悪い。雨漏り隙間風は当たり前。そんなびんぼう長屋の住環境はお世辞にもよいとはいえぬ。橋の下で寝るよりは、屋根と壁があるだけまし。そんなふうに吹聴されるし、それがまた間違ってもいないのがこのぼろ長屋である。
にもかかわらず、長屋の空き部屋は意外に少ない。これはひとえに、大家である善兵衛の采配によるところが大きい。
善兵衛は比間良屋という大手材木問屋の先代店主にして、今は隠居の身である。現役の頃、材木の商いだけでなくそれに伴う口入れ、人足集めの分野にも商売の手を伸ばし、材木商の生業と相乗させることで身代を大きくした手腕の持ち主である。
善兵衛が品方長屋を手に入れたのは、口入れ業の一環としてであった。要は、住処さえおぼつかない、酒や博打で身を持ち崩した人足や職人たちを住まわせるために長屋を丸々買い取ったのである。
であるからして、基本、空いた部屋には比間良屋の方からなにがしかの人間が送り込まれ、すぐさま埋められる。おそらくは、どこの大家が聞いても羨ましがるほどの堅実経営となっているはずである。
そんな品方長屋のうちで唯一、長らく空き部屋となっていたのが、十二番部屋と件の十四番部屋である。
原因は、隣の十三番部屋に住む老婆、おとらにある。
十三番部屋は吾市郎が居を構える東棟とは逆の西棟にある。東棟の裏手は川べりに面していて、土手に沿っては誰が植えたものか、梅の並木があり、春先には華やかな景色を見せてくれる。春の梅並木は、このびんぼう長屋に住むものたちの唯一といってよい自慢の種で、ここに住みはじめてまだ二年目の吾市郎ですら、密かに自慢に思っている。
そんなわけで、長屋の東棟と西棟では圧倒的に東棟の人気が高く、長屋の古株連中も多くは東棟に固まっている。
おとら婆さんは、西棟に住むたったひとりの、十年以上の古株である。
長屋に定住する意思のあるものは、西棟に住んでいたとしても、東棟の部屋が空けばそちらへ引っ越すのが常である。また、大家の善兵衛もそのように持ちかけている。そんな中で頑なに西棟の、はじめに住まったところに留まり続けているというのだから、それだけでも偏屈具合が窺い知れる。
ただ偏屈というだけであるならば、長屋の中にもそれなりにいる。そも、銭に詰まった人間というのは余裕がなくなり、偏屈に近づくものだ。それまでは許せていたような細々としたことも許せなくなり、目の前にあるわずかな望みに必死ですがりつく。そういうものになっていくのが常だし、またそれを上手く利用しているのが善兵衛のような輩であるといえる。銭の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、何も対手の薄情さのみで縁切りが行われているわけでもあるまい。
おとら婆さんが厄介なのは、その偏屈さを積極的に外に向けることだ。吾市郎も何度か目にしたことがあるが、おとら婆さんはとにかく黙っていない。常に口を動かし続け、目につくものすべてに嫌味を、文句をつける。外で出くわして姿を見つけられたらもうおしまいで、傍によっては着ているものから所作、あらゆるものに小言を言い続ける。こちらが反論しても何一つ耳を貸さずに、ただ一人でぐちぐちとしゃべり続ける。捕まった相手ができることは、無視して、後ろをおとら婆さんがついてきたとしても一切無視して、彼女がついてくるのをあきらめるまで歩き去ることだけだ。
そんなだから、おとら婆さんの両隣、十二番部屋と十四番部屋は大抵の場合、空き部屋になっている。そこにわざわざ入れられるのは、何らかの理由があるものばかりだ。
つまりは、善兵衛が早いところ追い出したいと思ったものを、おとら婆さんの隣に入居させるのだ。
善兵衛、というか比間良屋の生業のひとつは口入れ屋であるから、当然そこには様々な人間が集まる。中には、受け入れたくなくともいろんなしがらみから受け入れねば仕方がない人間というのもいるのだろう。
おそらくはそういう人間を選んで、善兵衛はおとら婆さんの隣に入居させている。十四へ行け、はおまえは死んだという意味だと、住民のすべてが認識している。
入居させられたものは最悪だ。まず、毎日壁を叩かれる。びんぼう長屋の壁板は薄いから、それはもうがんがんと、うるさい音がのべつまくなし響くことになる。音が止むのはおとら婆さんが眠っている間のことだけで、婆さんの朝は長屋の誰よりも早いと聞く。
外に出ようと思えば、それを察しておとら婆さんも必ず出てくる。そしてすぐさま戸の前に立ちふさがり、日課である愚痴と小言を吐き出しはじめる。それは毎日、毎回続く。
大抵は三日ほどで音を上げる。善兵衛は、にっこり笑って手切れを行う。
三日であきらめないものはもっと悲惨だ。我慢が限界に達したおとら婆さんは、杓子と割れ鍋を打ち合わせはじめる。それから隣に向けて「ひっこーしー! ひっこーしー!」などと、可能な限りの大声で叫びはじめる。二軒隣の空き家まで、今ではすでに婆さんの縄張りなのだ。
そうして、長くとも十日ほどで、おとら婆さんの両隣はまた、空き家に戻る。
そんなところに、また入居者があったという。
吾市郎は善兵衛の邸宅を訪れていた。ここに来るのは、何と言っても家賃を払ったあとに限る。
古い友の水笠乃蔵が来るというので、わざと家を出てきたのだ。今頃は、妹のお幸が憤怒を隠して、たった一人で対応していることだろう。あの二人が、仄かに互いを好きあっているであろうことに、吾市郎は気付いている。こういう機会に親交を深め、あわよくば乃蔵がお幸相手に過ちを犯してくれんものかと思っている。そうすれば真面目な性格の乃蔵のことだ。間違いなくお幸を内儀に迎えてくれるだろう。そうなれば、吾市郎は念願のひとり暮らし、商売女も連れ込み放題である。結納金もたんまりせしめられるであろうから、ひと月はいやな仕事もせず過ごせるに違いない。
そうなりゃ肩の荷も下りるんだがなあ、何とかならんかなあ、とか思いつつ。どこかでまた、友の誠実さを信じてもいるのが悩ましいところである。
「あんたも複雑な御仁だねぇ」
呆れた顔をしつつ善兵衛が矢立を寄越してくれる。表の看板を書き直すために筆と墨を借りに来たのだ。ついでに長屋入口の標板も書き直してくれと頼むのが、善兵衛の抜け目ないところである。
「ところで、十四番部屋に人が入ったのは知ってるね」
「ああ、近所じゃその話で持ち切りだ。また訳ありかい」
「武芸者だそうだよ。路銀稼ぎに日雇いの仕事に就いたんだが、受け入れ先がどこにもなくてね。大きな槍を、いつも肌身離さず持っているんだよ」
「槍かぁ……」
確かに槍の武芸者は色々厄介である。刀と違い、槍はとにかく場所を取る。それなりの大きさの武家屋敷ならともかく、旅籠や長屋では保管が難しい。
そして武芸者は己の身から槍を離すことを嫌う。荒事を続けていれば恨みも多く買うであろうから、至極当然だろう。となれば、滞在できる場所はおのずと限られてくるというものだ。
「けど、このびんぼう長屋だって難しいのは同じじゃねえのか」
「まあ、多少なら壊してもよいし、造作もしてよいと言ってあるよ。今更だからね」
元から半分潰れかけているようなぼろ長屋である。そういう意味では惜しくないだろう。
「だけど、大丈夫かねえ」
「さて。とっとと出ていってくれりゃいいんだがね」
善兵衛が煙草盆を引き寄せる。おそらく、いろんな行く末をこころの内に巡らせているのだろう。
こっちにお鉢が回ってこなきゃいいが。巻き込まれそうな気配を察しつつ、吾市郎は善兵衛宅を辞した。
帰り着いた吾市郎が怒髪天を突いたお幸に追い回されるのは、これまたいつものことである。
おとら婆さんが死んだと聞いたのは、長屋の皆が気にしていた、男が越してきてちょうど三日目のことだった。
気付いたのは二件隣、十一番部屋に住む、日雇い人足の男だ。
十三番部屋付近に住むものたちは夜明けや一番鶏よりも、おとら婆さんの起床にあわせて日常を送っている。婆さんは起き抜けてすぐさま、わざわざ大きな音と声をがならせ、己の縄張りを主張しはじめる。だから人足はこのびんぼう長屋に越してきてからというもの、それまで常習であった遅刻を一度たりともせぬようになった。
その日、人足は寝過ごした。そんなことはこの長屋に越してきて以来はじめてで、目を覚ましたとき、外がすでに明るくなっていたことに驚いたほどだ。
男は元来ものぐさであった。最早今日の仕事には間に合わぬとわかった時点で、すっぱりと一日ぶんの稼ぎを諦めてしまった。さりとて蓄えがあるわけでもないのであるが、そこはそれである。
それからふと、どうして己が寝過ごしたのか、ということにようやく思い当たった。この刻限なら必ず聞こえていたはずの、婆さんの怒声や鍋を打ち鳴らす音がしない。面妖なことであった。
気になった男は、覗きに行くことにした。もちろん婆さんに見つかったらただではすまないことになるのだが、好奇心がそれに勝ったのだ。おとら婆さんが静かにしているなどというのは、それほどにあり得ないことであった。
そうして、男は死体の第一発見者となった。
おとら婆さんが死んだという報せは、瞬く間に長屋じゅうに広まった。長屋に住んでいるもので婆さんを知らないものはいなかったし、誰もが多少なり何らかの迷惑を被っていた。人死にがあったというのに、長屋に安堵や楽観の入り混じった空気が漂っているのが、死者の生前を偲ばせる。
吾市郎は質屋の店主から話を聞いて知った。名を善吉といい、これもまた、善兵衛子飼いのひとりである。無口であまり無駄話を好まない男であるから、あちらから話題を振ってくることは珍しい。
「下手人は」
「隣に越してきたとかいう武芸者だろう。雨龍斎、と名乗っているらしい。ちらりと見たが、婆さんにけしかけられて黙っているような質には見えなかった」
「どうして捕縛されてねえんだ」
「証拠がないんだろう。それにまあ、もと侍だという話だからな。町人同士なら、また違ったんだろうが」
「なるほど」
善吉がもともと細い狐目をさらに細くして言う。
「腕前のほどを確かめておくといい。あんたも武芸者みたいなもんだ。気になることもあるだろう」
言うなりになるのは癪だったが、確かに少々気になったので、質屋からの帰りにこっそり覗いてみた。
表戸を出たところで、同心たちから尋問にあっている。上背は吾市郎よりやや低いくらいか。槍遣いらしい、太い腕と脚をしている。見かけ倒しでなくよく鍛えられているな、と感じた。
太い眉に四角い顔。なるほど、何かをされて黙っているような男ではなさそうだった。
決して引かないもの同士がぶつかり合えば、被害は最大限に大きくなる。それが今回の結果のように思えた。善兵衛はこれを予測していたのだろうか。いや、それはないな。おとら婆さんがいなくなって雨龍斎が居つくのは、善兵衛にとっても想定外のはずだ。
追い出し屋としての婆さんは、上手く機能していた。これまでは。
でもまあ、俺には関係ないか。ああいう手合いには近付かないのが一番だ。
そう心に決め、吾市郎は西棟をあとにしたのだが。