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獄卒剣 明けの明星 下

 子の刻。東町。

 暗い暗い夜闇の中を、女がひとり、立っている。常ならば到底、堅気の女が出歩いている刻限ではない。

 そんな闇の中を女はまんじりともせず立っている。

 ざらり、と足音がした。振り向こうした女の背から、低い声が飛ぶ。

「こちらを向くな。そのままで話せ」

 向けかけた顔を戻す。大きく息を吐いた。

五一六ごいちろく……どのですか?」

「そうだ。詳しい話を聞こうか」

「……息子が、死にました。事故だということになっていますが、事実は違います。息子は、殺されたのです」

 女の息子は材木問屋で奉公していた。ようやく丁稚から手代へと登ったばかりで、張り切っていた矢先の死であった。

 親の目から見ても、要領がよいとは言えぬ息子であった。年を経て大人になってもおそらく若衆どまりで、手代には登れないのではないかと思っていた。若衆になっても手代へと登れない小僧の多くは、商人の道をあきらめ、店を引き払うことになる。おそらくそういう道をたどるのではないかと覚悟していた。

「息子が店の銭を遣い込んでいたと、死んだ後に発覚したと知らされました。ですが、なりたての平手代にそのようなこと、できるわけがありません。女のあたしでも、それくらいのことはわかります」

「罪をかぶせて殺されたと。そういうことか」

「間違いねえです。仲の良かった小僧のひとりが、こっそり知らせてくれたもの」

 女の背で頷いたような感じがした。

「話はわかった。標的は」

「番頭の平助へいすけ。店主は見せにはほとんど出てこず、その番頭が取り仕切っているそうな。銭を遣い込んでいるのも、きっとそいつよ」

「頼み賃は、びんぼう長屋の質屋に。確認ができたら仕事にかかる」

 ふ、と人の気配が消えた気がした。

 女が振り返る。そこにはただ、夜闇が佇んでいる。

 強い風が女のうなじを撫で、通り過ぎていった。

 女から離れた五一六は鼻と口元を隠していた手ぬぐいを取る。そこに現れた顔は、吾市郎である。妹のお幸にも隠している、揉め事仲裁とは別の、もう一つの生業であった。

 傍にあった柳の木に寄りかかる。

 女の話は真なのかどうか。そう考えかけて、意味のないことであると気付く。何が真かは問題ではない。あの女が、それが真であると思っていることが、大事なのだ。世の中の多くのことは、そういうものでできている。

 とはいえ、今回に限ってはほぼ間違いはあるまい、というのが吾市郎の印象である。かたぎの女が吾市郎のような男を頼るというのは、相当なことであるのだ。

 標的。材木問屋。名前は吾市郎も知っている。

 材木問屋。比間良屋のもともとの生業。今も細々と続いている生業。

 材木問屋。比間良屋を真似て、今度新たに口入れもはじめるらしいと聞いた。

 標的。材木問屋の番頭。大黒柱。

 ぎり、と手のひらに力を込める。

 なぜ女が知ったのか。意図的に流したものがいるはずだ。

 悪党どもめ。一つ吐き捨て、歩き出す。

 闇が気配を流しゆく。柳の幹には、潰れた指の跡だけが残されている。



 件の材木問屋の号を相海屋そうかいやという。

 翌日、吾市郎は早速調べに出ていた。ぐるりを巡った感触では、相海屋の店屋敷は特に変わったところのない、よくある商家の間取りであるように思えた。

 倉の数は二つないし三つ。材木商に口入屋も兼ねようということで間口は広く取ってあるが、建物や垣の配置で用意に見通せぬように工夫してあるのがわかる。門扉は一見頑丈そうに見えるが、閂ともどもあまりいいのは使ってねえな、と商売柄の経験で読み取る。この辺りがなるほど、成り上がり者らしい。

 吾市郎が気になったのは、ひとりの男だ。

 一日張り込んで、一度だけ姿を見ることができた。賃金の支払いに文句をつけてごねていた人足を、表へ放り出したのだ。

 大柄な男で、頭を剃り上げている。いかにも強力の持ち主、というふうである。得物は後ろ腰に短い棒のようなものを挟んでいたから、武技か己自身の肉体を誇る風体の用心棒であると思われた。住み込みでの雇われであるようだから、どうにも相対は避けられそうにない気がする。

 割りにあわねえな、と吾市郎は思う。だが最早、請けた仕事だ。

 その夜、早速の報せが闇を走る。女の頼み賃が届いたのだ。

 するりと吾市郎が寝床を出る。お幸は眠っている。その気になった吾市郎は、同業でもなければ気付けぬほどに気配を殺せる。お幸に知られることは、吾市郎が他の何より恐れることだ。

 善兵衛の屋敷に隣接する倉のひとつ。そこに吾市郎は自由に出入りすることができる。そこには仕事の道具が一式、隠し収められている。

 墨よりも闇に溶け込む藍の装束。銘の削り取られた短刀一振り。その他、それはさまざまな仕事道具。それらから必要なものを選び、身につけてゆく。

 蝋燭の灯が消される。藍染の装束が音もなく抜け出す。

 吾市郎がこの稼業に「就職」してそろそろ二年近くになる。兄弟が家名を捨て、びんぼう長屋に移ったのは、それよりもう少し前のことだ。

 もとの家名を衿屋えりやといい、父は道場主であった。衿屋道場といえば、城下でもそこそこに知られたものであった。

 その父が、斬殺された。下手人は、未だ見つかっていない。

 理由はわからぬが、道場主が相対の上斬られるというのは、大層不名誉なことだ。自然、道場は立ち行かなくなった。

 当時高弟のひとりとなっていた息子の吾市郎は、道場を閉めると決めた。お幸も反対しなかった。

 それから差し伸べられた手のことごとくを振りほどいて、兄弟二人で逃れに逃れ、品方にまで流れついたのだった。

 暮らしに困窮していた兄弟に救いの手を差し伸べたのが、善兵衛だ。いや、はたしてそれは本当に救いだったのか。

 吾市郎にはわからぬ。わかるのは、もっともつらいのは今ではなく。父が殺されてから道場を閉めると決めたときまでの、あの短い短い期間であったということだ。殊に妹のやつれ具合は凄まじかった。あのときの妹の姿を、吾市郎は忘れぬと決めている。

 銭に追い回されるか。それ以外のものに追い回されるか。銭に追い回される方を、吾市郎は選んだ。そのはずだったが。

 誰に見つかることもなく。わけもなく、相海屋の門へとたどりつく。

 吾市郎が右袖を振る。ひゅ、と小さな風切り音がして、何かが飛び出す。

 細い細い糸のようなもの。実際は、とても長い鯨魚の髭だ。

 かちり、と塀のへりに糸先の金具が噛む。それに身体を預けるようにして、するりと塀を登った。

 店構えを抜けて奥へと進む。目指すところは一つ、番頭平助の寝所だ。

 番頭になったものは通常、店屋敷の外に自分の家を構えて、そちらから店へと通ってくる。だが、忙しい時期には泊まりにもなるので、手代たちのものとは別に仮の寝所が設けてある。

 今日、平助はそちらに泊り込んでいるはずだった。

 内部の間取りはやはり、それほど奇をてらったものではない。すぐに当たりをつけて、離れへと向かった。

細く奥まった砂利道。飛び石に足を置くようにして静かに歩むその先に、大柄な人影。

 件の用心棒。どうして倉の側でなく、こちらにいるのか。

「屋敷を調べていたものだな。感付いていたぞ」

 野太い声。咄嗟に右袖から鯨髭を撃ち出した。

 男の腕が首元をかばう。喉を狙って撃った線糸が、その腕に阻まれる。

 衿屋に伝わる闇の技。表芸の剣術では決して教えなかった、ただ殺すためだけの技。

 糸を引く。先端の金具が引き戻される。

 射線上から男が逃れた。金具が手元に戻りきる前に、横薙ぎ。

 半円を描き再び襲う線糸。巻き付いたのは、男が抜き出した得物だった。

「むん」

 男が払う。強力。素早く糸を緩め、手元に回収する。

 じゃらり、と鎖の音がなった。

 男の得物。短い棒。だが抜き出されたそれの先には、鎖と小さな鉄球が繋がれている。

 それの存在を、吾市郎は知っている。

 振入ふれいり。天竺渡りの武具。もとは農作業の道具であったという。

 男が鉄球を回転させる。ふおん、ふおんと不穏なる音。耳障り。気配が殺される。細かな機微が聞き取れぬ。

 線糸。撃ち出す。先端金具を狙っての鉄球の迎撃。見かけからは信じられぬ命中精度。そして見かけどおりの、破砕力。

 左袖。撃ち出される小柄。二本。男は左半身で弾く。肩。腕。足。左側だけを甲で固めてあるようだ。

 音もなく接近。鉄球の回転がはじまる。振るわれる振入。一重でかわす。反動を利用して放たれる連撃。吾市郎は守勢に回る。

 サイドステツプ。スウエイバツク。ダツキング。ぶんぶんぶんぶん。つつかれた蜂の巣のごとし。

 吾市郎はもちろん、男も決して玉砂利を踏まない。誰も起こさない。己で仕留めるという矜持。

 屋敷の壁。追いつめられる。振入が横から襲う。吾市郎は跳ぶ。

 壁に着地。何てことはない、ちょっとした軽業。

 男の背後へと跳ぶ。男がはじめて驚きの表情を見せる。

 左腕を突き出す。装束がやぶれる。左右に展開し飛び出す仕掛け弓。吾市郎の奥の手。

 近距離からの射撃。短矢。半回転しながら振入を引き戻した男が、その反動で撃ち落とす。おそるべき技巧。

 吾市郎は踏み出している。至近距離、懐に入る。鎖状武器の、射程外。

 男の頭部を太い指が掴む。吾市郎の本当の武器。柳の幹に跡を残す、指の力。

 その他の武器は、すべてブラフ。

 一挙動。男の頭骨と脛骨が折り割られる。

 ひと言も発することなく、男が崩れ落ちる。矢と小柄を回収し、何の感慨を抱くこともなく吾市郎は去る。

 首を絞められ殺された平助の死体が見つかるのは、翌朝のことだ。

 獄卒の仕事を見ていたものは、明けの明星、ただ一つ。



 「そ・れ・で。朝帰りですの、お兄さま」

 明けの明星が出ていたということはそういうことだ。男に時間を取られ過ぎた。

 というわけで、帰りをお幸に見つかった吾市郎は、今日もまた板間の上で正座し、縮こまっている。

「いや、だからそれは、仕事でだな……」

「ほう。お仕事。わたくしに言えないお仕事ですか。それも真夜中に。わたくし知っておるのですよ。道場が退けたあと、お兄さまが師範代の皆様といかがわしい場所に出入りしていたことを」

「なっ! お幸、おめえどうしてそれを! はっ! 乃蔵だな! 乃蔵のやつだなあの告げ口屋め!」

「水笠さまは自分が言っても聞いてくれぬからと、わたくしに相談なさったのです! でもわたくしは、そ、その、殿方のそういうことにも理解あるおなごであるつもりですから! だから何も申さなかったのです!」

「やっぱりあんにゃろうか……!」

 ばん、と、ひと際大きな床を叩く音。

「で・す・が! あのときと今とでは、違います! いったいどういうおつもりか! 返答次第では……」

 お幸の右側には木刀がある。とてもよく使いこまれている。その一撃は、おなごの繰り出すものとは思えぬほど痛い。痛いのだ。

 さて、いかに返答するべきか。吾市郎のこころうちで、言い訳の種が不穏、不穏と振り回されている。



(完)



文学フリマ短編小説賞2017に参加しております。

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