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獄卒剣 明けの明星 上

 品方しなかた長屋の壁板は薄い。



 藩祖の頃につくられたという城下の土塀を一部取り崩し、そこから外側へと拡げるようにと建て増されたのが品方という土地である。

 もとは荒れ地であったという。城下に住む人の数が増え、ついには溢れかえって、ままならぬようになったのは、藩ができてから僅かに五十年ほどが過ぎた頃であった。

 もとより平野部の少ない土地ではあった。山間に挟まれた平地につくられた城下町は、藩内で唯一、自然の驚異に晒されず人が生きてゆける場所であった。

 であるからして、自然、藩内の人口は城下に集中することになる。

 山頂より川の水が流れ込むが如くに。人々は押し寄せた。

 一気呵成な流入。滞在。定着。そして、決壊。

 三代目であった藩主は、城下を囲む塞より最も損壊の激しいものを選び、その一帯を取り壊させた。

 その跡地から人の生息地域を伸ばすようにしてつくられたのが五か所の新地であり、品方はそのうちの一つである。

 五つの新地のうち、最後に拓かれたのが、品方である。はじめの計画では、拓かれる新地は四か所の予定であった。が、その後の調べで、四つぶんの土地では全住民の収容が難しいとわかり、新たに付け加えられたのである。

 つまり。品方に集められたものたちは、最も貧しく、最も差しさわりがないものたちであった。

 その状況は、それからいくつもの季節を重ねた今日でも変わってはいない。

 山から続く川べりに沿って建てられているのが、品方長屋だ。名前こそ長屋だが、その外見はむしろ掘っ建て小屋や破れ庵の連なりに近い趣を見せている。雨漏り隙間風なぞは当たり前で、割れ板や練り土で補修されていない家など一軒もない。そのような様相であった。

 曰く、「品方」から取って「びんぼう」長屋と人は言い、また住んでいるものたちですらそのように呼ぶ。またそれで、誰にも通じる辺りがもの悲しい。

 つまり。びんぼう長屋の壁板は薄い。

「だからな、おこう。そう、床を叩くのはやめねえか」

「叩かずにいられますか!」

 毛羽立ち、繋ぎ目が割れて所々木片の棘が生えている床板を、山吹の着物に萌黄の帯を締めた娘が眉を吊り上げ、ばしばしと叩いている。

吾市郎ごいちろう兄さま」

 妹がわざわざ兄の名をつけて呼ばわるときは、相当に怒っているときだ。海老茶の貧乏臭い着流しを纏った兄の吾市郎は、肩と首をすくめて丸く小さくなった。

「久々のお仕事であったというのに……お断りになったというのは、どういうことですか!」

 幼き頃より吾市郎と共に剣の稽古をしていたお幸の声音は大きい。おそらく隣近所にはまる聞こえだろうなあ、また嫁入りが遠のくなあ、とお幸が知れば怒りがいや増すであろうことを考えつつ、大音声を半ば聞き流している。こうして妹に難詰されるのは、兄の日常であった。

「だけどなあ、お幸。その仕事って……銭の取立てだったんだぞ。それも侍やお大尽からじゃねえ。俺らと同じ暮らしぶりの、貧乏な町人連中だ」

「ですが! 十日ぶりのようやくのお仕事でしたのに!」

「銭のないつらさは、俺らもよくわかってるだろ」

 妹の声がようやくにして萎んでゆく。熱しやすくまた冷めやすいのが、この妹の悪いところであり、またいいところだ。

「前の仕事の銭はどうした」

「溜まっていた支払いに、使ってしまいましたわ」

「そうかぁ……」

 十日前の仕事はなかなかにいい稼ぎだったのであるが、掛取りまみれの我が家の始末には、なかなかに追いつかぬようであった。

 お幸が盛大に息を吐き出す。

「はあ。断ってしまったものは仕方がありません。そのかわり、大家さんにはお家賃を待ってもらえるよう、お兄様からお願いしてくださいね」

「……まじでか」

「まじでです」

 これだけは譲る気がないぞという気迫で、お幸が吾市郎を睨む。吾市郎は後ろ頭を掻くと、降参を示すべく立ち上がった。

「……はあ。それじゃあ、さっさといって済ませてくるか」

「絶対待ってもらってくださいね。絶対ですよ。あと、新しい仕事があったら貰ってきてくださいよ。これも絶対ですからね」

 わかったわかったと後ろ手を振って、あばら家を出る。大刀は差さず、小刀だけを後ろ帯に差し落とした身軽な格好だ。時刻は巳の刻ほどか、日は中天に近く、強い光が降り注いでいる。

 光が出入り戸の傍に立て掛けられた戸板に当たり、吾市郎の目をしばたかせる。戸板には薄くなった墨で「よろすもめこと うけたまはりさうらふ」と記されているのが辛うじて読み取れる。万揉め事、承り候。それこそが吾市郎の生業である。

 そろそろ文字を書き直さねば、と家を出入りするたびに思うのだが、戸を潜るか歩きはじめると、つい忘れてしまう。何より、筆と硯を借りねばならぬ。父より受け継いだ文房四宝が仕舞われているのは四軒隣の質屋である。かくして、戸板の文字は今日も今日とて薄い字のままである。

 品方通り、いや、これまたびんぼう通りと呼ばれている、向かい合った長屋を貫く大通りを歩く。南北に伸びる長屋の東棟は川べりに面しており、誰が植えたものか、梅の並木が長屋と川とを隔てている。その梅の木は春先には一斉に咲き誇り、この長屋に住む者たちのただ一つの自慢、身を寄せるよすがとなっている。

 今はもう葉だけになってしまったそれらを見やりながら、吾市郎はぶらぶらと歩く。せめてもの刻限稼ぎである。川の向こうには丘があり、丘より先には高き山々が連なっている。それらの山々の上から、靄がかって頭を覗かせているのは比間良山ひまらやまである。都や江戸では比間良詣でなるものが流行っていると聞いたが、もちろん吾市郎にはまったく縁なきものであった。

 ふと、足を止めた。長屋には五軒ごとに区切りの小広場が設けてあり、そこから長屋の裏手へと回れる構造になっている。その、川に面した側の小広場で、見知った顔を見つけた。

 並のものより頭一つ高い長身に、お仕着せの黒羽織。その奥に朱房の十手が見え隠れしている。知り合いの同心、水笠乃蔵みのがさないぞうに違いなかった。

「乃蔵」

 声を掛けると、振り向いた。どことなく女子のようでもある、ほっそりとした顔。やはり水笠乃蔵であった。

「やあ、吾市郎か」

 吾市郎はゆったりとした歩みで近付く。吾市郎も大柄な方だが、乃蔵の方が背はやや高い。肩幅や腕は、吾市郎が勝っている。だが見かけによらずこれでなかなかの剣の遣い手であることを、吾市郎は知っている。

 近付いた吾市郎の格好を見て、乃蔵が眉をひそめた。

「またどこぞのやくざ者のような格好だな」

「いや、やってみるとわかるがな。これが何とも勝手がいいんだ。ここに差料を置いとくとな。逃げるときや相手を蹴りつけるときに楽なんだ。あいつらあれで、結構考えていやがるぜ」

「暮らしぶりまで、相変わらずのやくざ者か。お幸さんの苦労が偲ばれる……」

 わざとらしく天を見上げる。仕草がいちいち芝居がかるのが、この男の悪いところだ。

「それで、お前さんがこの辺りをぶらついてるってことは、十日前の事件か」

「ああ、そうだ」

「下手人はまだ見つかってねえんだな」

「そうなのだ。上役はもう手を引けと言うし、困ったことだ」

 ちょうど十日前。長屋裏のこの川に、死体が浮いた。びんぼう長屋に住む大工で、吾市郎も顔だけは見知っていた。

 なかなか腕のいい大工だったそうで、長屋に住むものたちの中では羽振りがいい方の部類だった。大工にしては珍しく穏健で人当たりもよく、仕事場や長屋での評判もよかった人物であったらしい。

 その男が、長屋そばの川に浮かんでいた。とても細い紐のようなもので首を絞められるという、珍しい殺しであったとは長屋の風聞である。

「恨みを持つような、それらしい人物も一切浮かんでこぬのでな。とおりすがりの物盗りの犯行であろう、ということに落ち着きそうなのだが……」

 びんぼう長屋の住人を選んで襲うような物盗りなぞいない。界隈を知っているものであれば、自明の結論であった。

 そして吾市郎は知っている。外面はよかったその男だが、自分の女房には手酷い暴力を振るっていたことを。しかも、顔は決して殴らなかったことも。

 もちろんそれを、この友である同心に告げるつもりはなかった。

「その上役の言うとおりだぜ、乃蔵。この界隈じゃあ、珍しいことでも何でもねえ。そんなことをしてるうちに、またぞろ次の事件が持ち上がるってもんだ」

「それはそうなのだが。いやしかし。ううむ……」

 同心としてはきっと優秀なのだろうな、と吾市郎は思う。だがそれが成果に結びつくかどうかは別の話である。

「ま、ほどほどにな。あんまり首を突っ込みすぎると、ろくな事にならねえ」

 それだけ言い捨て手をひらつかせると、吾市郎は歩きはじめた。そろそろ昼時、大家のところに押しかけるにはちょうどいい刻限だった。

「おやじどのの件、私はまだ諦めぬぞ」

 その声に、一瞬だけ足を止める。だが聞こえなかったふりをして、振り向きもせず歩みを進めた。

 吾市郎は、もと侍である。



 大家の邸宅は長屋の端にある。

 五棟ぶんを丸々ひとつ使った屋敷とでもいうべき構えで、そこだけが佇まいも他とは隔絶している。

 長屋づくりのままなのは五棟のうちの二棟だけで、そこは倉や物入れとして使われている。住まいの側は床を上げられ、庭を造作し、板塀が渡されている。まったくもって屋敷である。

 そこに設えられた表戸を、身体を縮こまらせながら吾市郎は潜った。

「ご隠居、いるかい……」

 できればいないようにと思いつつ訪いを入れると、反応があった。

「吾市郎かい。よくもまあ、顔を出せたもんだね。裏へお回り」

 甲高い声に首をすくめつつ、いそいそと庭の方へ回る。果たしてそこには、縮緬を着込んだ小柄な老人が、煙草盆を傍らに帳面をめくっている。

「どうもご隠居、おひさしゅう」

「おひさしゅう、じゃないよ吾市郎。あんた掛け取りの仕事断ったんだってね」

「ええ、まあ……」

「仏心はほどほどにしておきな。でないとあんたが先にほんものの仏になっちまうよ。あんたが受けなくても、どうせ誰かが受けるんだ。何も変わんないよ」

「そいつは、わかってるんだが……」

 帳面をじゃらりと閉じて、老人が顔を上げる。この品方長屋の大家にして大店、比間良屋ひまらやの先代店主、今は隠居の善兵衛ぜんべえである。

 比間良屋の前身は中堅の材木問屋であったと聞いている。だが善兵衛は材木商には欠かせぬ口入れ、人集めをも自分のところで一括して扱おうと考えた。比間良屋の中に部署をつくり、もう一つの商いの柱として立ち上げたのだ。

 日雇い人足の中には、酒や博打で身を持ち崩したものも多い。そこに目をつけた善兵衛は、人足連中を相手にした少額の金貸しをはじめ、当時売り出されていて誰も手を出そうとしなかったここ品方長屋を買い取って、人足たちの囲い込みを図ったのである。

 結果として、比間良屋は身代を一挙に膨らませた。比間良屋で雇われる人足の給金は、他の材木問屋で支払われるものの半分ほどでしかないと聞く。しかも渡されたそれらの大半は、借金の返済として比間良屋に還元されるのである。

 そしてそういうものたちを逃がさぬように、ここ品方長屋へ住まわせる。大家は隠居したとはいえ元店主の善兵衛であり、そこへまた家賃というかたちで残ったなけなしの銭金が吸い上げられる。何ともうまくできているものだと吾市郎は思う。

 だがそれでも、他と比べても特段に安い家賃で済むところが与えられるのなら、それはありがたいことでもあるだろう。善兵衛は確かに銭の亡者だが、それだけに限度を心得てもいる。

 そうして雁字搦めにされるのは、何も雇われ人足だけではない。

「で、家賃はどうするんだね」

「それなんだがね、ご隠居……」

 老いて衰えぬ鋭い眼光が吾市郎をねめつける。吾市郎は流れるような所作で庭の土に膝をつけ、下座の体勢に移った。今やもう、手慣れた所作だ。

「何とかひと月、待っていただければ、と……」

「あてはあるのかい。ないだろう」

 ばっさりであった。

「だったら仕事だね。顔を上げな」

 顔を上げ、吾市郎が土を払う。その表情は、それまでのものとは違っている。

「十日前に、やったばかりだぜ」

「今度はちぃと遠くだ。わからないよ」

 表情が消え、能面のごとくになった吾市郎が問う。もと侍である吾市郎から冷たい瞳を向けられても、一向に顔色を変えない。善兵衛もなかなかの胆力であるといえた。

「依頼元は」

「今度も女だね。東町だ」

 折りたたまれた懐紙が差し出される。吾市郎はそれを素早く受け取った。

「あんたには、銭の取り立てよりそっちの方がいいだろう。しっかり稼ぎな」

「どちらも地獄か。渡世ってのはよ」

 土を払って立ち上がる。小さく礼をして踵を返す。

「地獄にゃ獄卒が必要だろう」

「違いねえ」

 吾市郎は去る。表戸を通った姿を見たものは誰もいない。

 仕事がはじまったのだ。


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