旧街道と裸女。3
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「本当にすみません」
「だから気にしなくていいって」
レイモンドはスープを飲むために掴んでいた木製のスプーンを離すと、あいたその手でライナーの頭をガシガシと強めに撫でた。
村で一晩越してからほぼ休憩もなく歩き通しで森を進んだが、再び夜を迎えるときになっても、レイモンド達が森を抜けることはなかった。
ライナーの疲れは肉体的には軽微だが、代わりのように自責の念から、精神的には疲れているようだった。
そしてまたしても今日何度も聞いた謝罪のために、ライナーが頭を下げようとする。
「でもこの道をみつけたのは――」
「だからだよ。何度も言うけど、どれだけ探してもあの村の近くから続いていた道はこの道しかなかったんだ。君が見つけなくても他の誰かが見つけていたさ。だからそう君が気に病む必要はないよ」
レイモンドは心の底からそう思っていた。
フィルやエレナも思いは同じだろう。この思いはどちらかといえば慣れと言ったほうがいいが、旅ではよく――主に理由はエレナだが――あることだ。
何よりライナーを何時までに連れて行ってほしいとはテッペツに言われてもいないのだ。進みたい理由はあっても、急ぐ理由はそこまでなかった。
「でも――」
しかし、なおも何故か食い下がろうとするライナーに、内心めんどくさく感じはじめていたレイモンドを察してか、助け舟のごとくフィルが口を開いた。
「それにしても驚きですね。まさか街道の石畳を崩してこちらの道の舗装に使っていただなんて。誰も気づかなかったんでしょうかね?」
「まあ誰も気づかなかったと思うな」
目配せで感謝を送りレイモンドもライナーから視線を外した。
昨晩の雨のせいで湿っぽい木に腰を下ろし、皆で食事を取るため焚き火を囲んでいる。その中でラランだけが、少し森の方へ離れ、眠るように横たわっていた。
「この街道完成から時間が経っている上に、管理する人間が誰もいないんだ」
「でももしそうだとしたら、私たちみたいにこの道を利用する人は困りませんか? 下手をしたら森で遭難なんてことも」
スープのおかわりを椀によそったエレナが、大きなパンを口に含みながら疑問をのべた。
「それはないよエレナ。このことが誰にもばれていないってことは、そういうことが起きてないってことだろう。どうせ俺たちみたいに南から街道を上がってくる連中には、事前にあの村で石畳が壊れたとか言って街道まで案内してたんだろ」
「なるほど。反対にペンデュラム側から来る方々から見れば石畳がなくなっても道は道ということで、あの村までは迷うことなく辿り着けると……というかエレナ、口にものを入れたまましゃべるな! 行儀が悪いぞ」
フィルの叱咤にエレナは少しだけ悪びれながらも、やめようとはしなかった。
「元々人の行き来も少ないからな。あ、エレナ、俺にもおかわりを頼む。ライナー君は? ……そうか、エレナこの子にはパンを――冬場なんて特にだ。それこそ隣の村のライナー君ですら、あの村が無人になっていたのを知らなかったぐらいにな。あ、ありがとうエレナ」
本人が自重していると分かるため有無を言わさずパンを渡すと、エレナに礼を述べ、レイモンドはよそられたスープに口をつける。
「いえいえこんなこと。それとパンも、はいどうぞ。……あっ! そうだったそうだった。それでここまで来て今更なんですけどレイモンド様に聞きたいことがあって」
「なに?」
「あの、この道ってどこに繋がってるんですか? 石畳終ってもまだ続いていますし、獣道ってわけではなさそうですけど」
「あぁそのことか……たぶんここは旧街道なんだろうなきっと」
レイモンドは街道を見ず、森の方を向いた。
昼夜通しても光りが微かにしか届かない暗い森に、道幅が狭く乱雑に石が置かれた街道は人や馬車進には少し向かない。加えてそれだけの暗さだ。盗賊が根城には最高の環境ではあった。
「一応石もひいてあるみたいだし……まあ来た道を戻らなくてもこの先を進めば、街道に戻れるでしょう。もともとあの街道、こういう旧街道の道を分岐させて作ったはずだから」
「え? そんな道があるんですか?」
咥えていたパン噛み千切りライナー知らないと顔を驚かせた。
「そうだよ。まあ普通ならもう使われていない道だからね。それにたぶんライナー君の村走ってる街道も、元は旧街道だと思うから、知らなくても無理ないさ」
「そうなんですか?!」
「元々|ここら辺(国無しの土地)の都市同士は道が繋がってたわけじゃないんだ。今ある道はそれを繋げるために作られた道だったはずさ。安全を考慮してね」
「じゃあやっぱり引き返したほうがいいんじゃ」
「大丈夫大丈夫。言っただろう、分岐して作られたはずだって……この道を進んでいけばいいってのはそう言うことさ。この道を進めば必ず街道に戻るんだ。……だから少し遅れる程度で――もしかしたら近道になるかも知れないけど――旅には何の支障もないから、そこまで気にしなくても本当にいいんだよ」
「本当にそうなんですか?」
疑うようにライナーはフィルに顔を向けた。
フィルは困ったように一度目を開くとすぐに頷きを返し、次に顔を向けられたエレナも、自分も先ほどまで知らなかったということを忘れたように頷いた。
「そう……ですか……」
スープの椀を膝の上に下げ、ホッと胸を撫で下ろすように息を吐くライナーを見て、レイモンドはにんまりと笑みを向けた。
「そういうことだ。明日もこの森を進むんだ。今日はしっかり食べておいてくれよ!」
「は――」
「――――」
そのときだった。ライナーが返事をしようとしたとき、横たわっていたラランが急に首を上げ森を凝視したあと、吼えた。頭に響く声ではなく、馬の嘶きが夜の森に響いた。
□◇□◇
急な出来事にその場で皆が動きを止めるなか、レイモンドだけはいち早く立ち上がると、ラランの左へ剣を手に出し立った。その後一歩遅れて続くように、フィルがかばんの横に立てかけていた昨晩もらった剣を掴み、レイモンドとは反対に右に立ち、エレナはレイモンド達と距離を取り、庇うようにライナーを自分の背に隠した。フィルも剣を抜き、ピリピリとした場の雰囲気から、ライナーも何かが起き始めたのだと気づくと開きかけていた口を閉じた。
「数はわかるか?」
《一……二・三・四……今のところ四つです》
椀からこぼれたスープの湯気が辺りに立つなか、レイモンドの問いにラランが今度は全員の頭に声を響かせる。その声に同期して、森の中が騒ぎ出した。
「……野犬か」
騒がしさに混じるわずかな犬の声が耳の中で響き、レイモンドは剣の握りを再度強く握りなおす。
野犬の群れにしては少ない数だ。不思議と音は近づいて来ているにも関わらず犬の吠える声は遠くから聞こえた。
《来ます。数は一……3・2・1……》
カウントが始まりレイモンドは薮から出て来た瞬間切り上げるため剣先を右後ろに向けて構えを取った。
しかしレイモンドがその剣を振ることはなかった。
「なっ?!」
咄嗟に声を上げたエレナはライナーの視界を妨げ、フィルも紳士の如く女性から顔を背けた。
最初に野犬の変わりに薮を抜け現れたのは、全裸の女性だった。
レイモンドは女性が現れた瞬間振り上げそうだった剣を止めて片手を離した。
女性はレイモンド達を見るや安堵の表情を浮かべ、進路上にいたレイモンドに倒れるように飛びつくと、息絶え絶えとしゃべることなく耳元で呼吸を繰り返し、支えるために脇に腕を通すと力なく崩れるように膝を曲げた。
遂にはずり落ちるように膝を地に着け、力尽きるように傾いてきたとき、やっとレイモンドは女性の異常な状態に気づいた。全裸、ということもそうだが体中、女性は直視しがたいほど負傷していた。背中に二箇所と腕と太ももに一箇所ずつ突き刺さった矢に、身体は傷だらけの上、傷は変色し手足には拘束のあとがくっきりと残されていた。加えて身体を何ヶ月も洗っていないだろう異臭と、襲われたのだろう生臭い男の臭い。そしてそれ以上に強く臭う腐乱臭が女性の置かれていた環境を物語るかのようにレイモンドの鼻をつんざいた。
そんな女性の扱いにレイモンドがどうしようか迷うのは自然の流れであった。
女性の裸にたいして慌てることはなかったが、負傷に関しては対処が難しかった。横にしようにも矢が邪魔で、何よりもドス黒く変色した背中の肉を見たため背を下にするわけにもいかず、かと言ってうつ伏せにしようにも、この体勢から一度離れる必要が生まれ、周りが動けない今は女性が倒れることはほぼ確実だった。
結果どうすることもできず、レイモンドには動かずに女性を抱くように身体を支えることが精一杯だった。
こんなとき一番に何かを言ってくるだろうラランが一向にこちらを見ない(馬なので見えてはいる)ことに目を向けようとしたとき、レイモンドの耳元で抱き上げた女性が苦しそうに小さな声を上げた。
「――にげ……て……」
女性はそう言って意識を失った。
「フィル!」
《続いて三つ……来ます!》
レイモンドは女性から目をそらしたままのフィルに怒気の混じった声を上げ、ほぼ同時に未だ森を睨むラランが頭に声を響かせた。
女性を支えているレイモンドは動くことはできず、フィルが守るように前に出た。
ラランの言葉通り直後、女性が現れた茂みから野犬が三匹飛び出てくると、レイモンド達を見て驚くように一度止まった。
野犬達は、焚き火の光りだけのせいか異様に濁って見える目で左右に広がるように動きながら見回し、女性を見つけると差し出せと言わんばかりに歯をむき出しにして唸り声を上げた。フィルが野犬達に剣先を向けると、敵対行動とみな最もな脅威対象と定めたのか女性からフィルへ目標を変えると動き出した。
はじめ動いた犬は、右の犬だった。
一斉にではなく確実に仕留めるために一匹ずつ時間をずらすように、予備動作すら起こさずに動き出し襲いかかった。
野犬達の行動は咄嗟であったが、フィルは終始冷静だった。
レイモンドの声に慌てふためくような様子もなく、静かに犬の行動を見てから、脇まで矢を引き絞るように持っていた構えを解くと、近づく犬の横を潜るように手に持つ細剣でなで斬り通り過ぎた。地面に堕ちた犬の苦悶とも絶命とも取れる鳴き声が森に響く。
しかし残った野犬達はそれに怯えるようなことはなかった。続くように中央の犬が動き飛びかかる。フィルは犬を潜り抜けた先で再び矢のように構えると、地面を蹴り穿つように剣を突き出し、気づいた時には口から入った剣先が中央の犬の耳の間から生えるように突き出ていた。
同時に最後の右の一匹が、フィルを無視してレイモンドの担ぐ女性目がけて走り出す。視界の端で捕らえていたフィルは、犬の口を穿ったまま、勢いをそのまま利用するようにその場でつま先でくるりと回ると、もう一度犬目がけて地面を蹴った。誰がどう見ても犬が女性に辿り着くのは無理だった。そしてラランの目の前を通り過ぎようとした犬の脳天を細い剣先が貫いた。
《……汚れなくてよかった》
最後の犬が力なくその場で崩れ、刺さったままだった中央の犬がぶつかるように地面に落ちると、ラランはそう呟き、いつの間にか上げていた前片足を静かに降ろした。
□◇□◇
「エレナ来てくれ」
辺りを警戒する空気が途切れたのは、レイモンドのその一言からだった。
返事を返す時間も惜しいとその場から離れるとき、エレナは背後でライナーがホッと胸を撫で下ろすのが聞こえた。
注意深く慎重にレイモンドが意識のない女性を焚き火のそばまで連れて行くと、エレナも手伝うためにそばへ駆け寄った。その代わりに犬の口から剣を抜き血を飛ばしたフィルが、鞘に収めながらライナーの前に移動した。
「うっ……これは?!」
近づいたおかげでエレナにもよく見えるようになった女性の姿は一言“酷い”に尽きた。
襲われた女性なら今までにも幾度も目にしてきた。人を殺すことにももう躊躇はなく、異性との性行為についても経験なら既にある。それでも慰みものにもされたのだろうが、ここまで酷い臭いは、ましてや拷問されたんだと目に見えて分かる身体をエレナは見たことがなかった。
「確かまだ度数の高い酒が一本残ってたよな? 悪いが持って来てくれ……それと極力綺麗な布も」
「わかりました」
冷静な声色のレイモンドに従い目を逸らしたい気持ちを抑えながら、エレナは火のそばに置かれたままのフィルのバックを漁ると茶色い小瓶を取り出し、腰の少し大きめなポーチから出した布とともに手渡した。
「たしか……ここに……あった。どうぞ!」
「ありがとう。それじゃあ悪いが彼女を頼む……まずは腕の方からだ」
そう言って渡された女性の身体を、レイモンドが支えていたように腕が浮く程度には高い、膝枕をするような体制に斜めに傾けると、レイモンドが腕に刺さる矢に手をかけた。違和感があるのかレイモンドの顔がムッと一瞬だけ変わった。
止血の観点から言えば蓋のように傷を密封している矢を安易に抜かないほうが良かった。だが背中に刺さる矢を抜かなくては横にして治療することもままならない女性を考えると、背中の矢は抜いていいものか、または抜けるのか、確認のために無理やりにでも一本は取り出すしかなかった。
「いくぞ、抑えていてくれ……せーの」
ゆっくりと慎重にレイモンドは矢を抜く。女性が気を失っているのが救いだろう。
静かでそれでも無意識にうめくような女性の声が口からもれた。
エレナはそんな傷口からこぼれる血と、何よりも女性の背中から目を背けたい思いに負けて顔を上げてしまった。
息を吐き気を持ち直して再び下げようとしたとき、レイモンドの背後でライナーが食い入るような目でこちらを眺めているのが見えた。
「あ、あの女の人は大丈夫ですよね?」
「……静かに。あまり見るものではありませんよ。下がっていなさい」
大きな声だ。治療に専念しているレイモンドが気にしているかは分からないが、邪魔なことは確かだった。
エレナがレイモンドの肩越しから睨むように見つめると、気づいたフィルが話しかけてきたライナーの視線を遮るように手を上げた。
「で、でも」
「レイモンド様に任せておけば大丈夫です……ですからせめて今は邪魔をしないよう静かに、じっと見守ることに専念しなさい」
治療と言われ途端にライナーは静かになった。
気にするものもなくなり目を戻すと、女性の身体から矢が引き抜かれた。終始不思議そうな顔を浮かべていたレイモンドは、その先端を見て安堵するように息を吐いた。
「……っな?! 何ですかその矢……返しが」
逆にエレナは矢の先を見て驚くように目を開けた。
矢の先端、鏃に反りがまったくなく、ただ先端が尖っただけの棒に過ぎない矢。
エレナが矢と言われて想像する抜けづらい構造の鏃とはその形状が異なっていた。
「ッペ……毒もなしか。ここはこれでいい……何している、次へ移るぞエレナ! 一応確認のために足のも抜くから、もう一枚布をくれ」
「あ。は、はい。わかりました。すぐに」
だがそれはエレナだけだったようで、レイモンドから叱咤が飛んだ。
先端だけでも見えただろうフィルは大して反応せず、レイモンドは無言で血の着いたままの鏃を舐めると吐き出し、アルコールで傷を洗い流すと布を回して縛り上げた。
同じ要領ですぐに抜かれた足の矢も、同じ鏃のついた毒なしの矢だった。
「よし、これでいい。これなら残りも同じもんだろうから、背中のも簡単に治療できるな。エレナ、身体の方は俺が支えるから、誰のでもいいからマントを……お前の後ろの……そこの辺りにひいてくれ」
「なら私のを……火から少し遠いですけどここでいいんですか?」
「ああ、そこでいい。よしじゃあ移動させてそのまま寝かせるぞ。足を持ってくれ。胸のほうを下に……そう、そのまま。ゆっくりと」
マントの上に女性を置くと、苦しそうな声がもれた。
「さて、最後の大仕事だ。エレナまだ綺麗な布はあるかい?」
「……たしかはい。まだ三つほどありますけど、何に?」
「ならそれを彼女の口に咥えさせてくれ。しっかりと噛めるように」
ポーチに手を入れていたエレナは驚き、固まった。
「まさかあれを使うんですか?! でもそんな!」
「傷も見てみろ。抜けばすぐに血におぼれて彼女が死ぬ」
「でもあんなのを使うとなればまた別の意味で危険が!」
「そこはもう仕方ないとしか言えない。だから背中だけに使うんだ……これだけ広範囲の傷だ。こんな小瓶と布だけじゃ物も時間も足りないのさ。さぁ、迷っている時間もない。無理やりにでも口に咥えさせたら身体を押さえてくれ」
これ以上論ずるつもりはないとレイモンドは半ば強引に矢を抜いた。
慌ててエレナは布を取り出すと、タイミングがいいことに、無意識のうめき声で開いた女性の口へ放り込んだ。
そのまま溢れる血を無視できず拭おうとするエレナの腕をレイモンドは止め、胸元からカップを取り出して蓋を開けた。
「意識が飛んでいようとこの傷なら絶対に目を覚まして悲鳴を上げるぞ」
中にははちみつのような粘りと光沢のある緑の液体が詰められ、それを手に塗りこむようにまとわせると、レイモンドは女性の変色した背中にあてがった。
言葉通り動かぬようにエレナは両肩を押さえる。
途端に辺りには甘い匂いが立ちこめ、薄く薄く延ばすように肌と傷口に塗りこまれていくと、女性の背中からは肉が焼けるような音とけむりが立ち昇り、そのまま女性の背中は視認できなくなった。
『――――?!』
それは時間にして十秒にも満たない短い時間だった。
一見死んだのではないかと思うほど動きを止めていた女性も苦しそうに悲鳴を上げ、もがき、額からたまのような汗を浮かべると苦悶の表情で布に噛み付いた。
エレナはこのときようやくレイモンドが火から遠ざかった理由に気づいた。
暴れ狂う女性を抑え、その後けむりが晴れたとき女性の背中は嘘だったように血色のいい無傷の肌へと形を変えていた。
□◇□◇
結果で言えば薬はその効果は発揮し、女性は一命を取り留めた。未だ打撲や骨折など、手足の傷は消えていないものの、命に関わるような傷は存在しない。
そんな女性は今、再び意識を失いエレナの膝の上で規則正しい寝息をたてている。
レイモンドはホッと一息吐いた。
「それじゃあエレナ、あとは頼む」
レイモンドは想像以上に疲れが溜まった――いつもより若干だが重く感じる――体を動かし、まだ刺さったままの剣を抜きに向かう。
命を奪うことには慣れていても、まだ救うことへの経験不足は否めない。若干遅い程度の移動速度の変化に気づくものは皆無だ。
エレナからの返事も大して期待はしていない。
立つ瞬間わずかに見えたエレナの、言われる前から行動していたのか顔は真剣そのものだった。
剣を掴み、形が変わる。親指に吸い込まれるように体積が縮み銀色の指輪が炎を鈍く反射させる。
レイモンドはフィルが殺した野犬達に目をやる。
飼い犬が野生に返ったか、誰かに追われていたのか。
今のところ二択だが野生の犬ということは可能性は低いだろう。
凶暴性は野生で培えるものだろうが、犬達の毛並みは手入れされたものだ。何より剣を向けただけで襲ってくるなどどう考えても野生とは考えられない。
人の手が入っているのならば猟犬の類だろうか。
レイモンドは女性をどうするべきか振り返る。
《兄様!》
突然、またしてもラランが声を響かせた。
レイモンドはラランをすぐには見なかった。
振り返り女性を見ると、気づいていないのかはたまたラランが伝えていないのか、エレナに動く気配はない。
ほぼ間違いなく後者であろう。特に動く様子もなく女性の首に指を押し付けたまま額や口の中を調べていた。
ついでに視界の端に入ったのはライナーを背後へ隠すフィルの姿だった。
そんなライナーの視線の先は傷ついた女性に向かっていた。
あれを見たのだから当然のことか。
レイモンドはフィルがついているのだ、と不安になることすらなかった不安を頭から消し去る。
ここでやっとレイモンドはラランに目をやり横に立った。
《誰かが来ます》
「誰か? ……人か? 犬ではなく」
《はい……すみません。この森、どういうわけか音が乱れすぎていて近づかれるまで特定できませんでした》
「そうか……いや、いい。気にすることはない。現れる前に知れただけでも十分だ」
レイモンドは頭を下げるラランの背中を優しく撫でる。
追って来て当然か、と思う一方で、野犬の次は人か……何とも騒動が多い旅か、とも思ってしまう。
ため息がでそうにはなるが、精神的疲労は一瞬で吹き飛んだ。
睨み付ける先は女性が出てきた薮。
近づく誰かに対し微かに感じる不快感を探るようにレイモンドは見つめていると、月が雲に隠れ、暗い闇の中で焚き火の炎だけが辺りを照らしだす。
再びラランのカウントダウンが始まり、変化を感じる。
レイモンドは顔をしかめ背けたくなる気持ちを抑える。背後ではフィルもムッとした表情になり、集中していたエレナもこちらに顔を向けた。
カウントの数が減るにつれてガサゴソと小さな音が聞こえ始め、薮が動いた。
陰にいる者の顔は見えない。が、レイモンドは姿を見た瞬間違和感を覚えた。
「やっと、出られた」
そう言って薮の中から顔を出したのはひょろりとした男だった。
弓を背負って見えるためレイモンドは狩人だろうかと推測する。
男はそのまま薮から姿を現しレイモンドへ近づこうとすると、背後でフィルが剣の柄に手を掛けた。
「おっと、危害を加える気はありませんよ」
男は両手を上げると大げさに驚き、すぐに足を止めた。最初から警戒されるとわかっていたような何とも芝居じみた白々しい態度だ。
近づき男の顔が見える位置にまでよったことで違和感の正体と、男から感じる危険に顔をしかめた。
男の歳はそう高くない。精々いってもいても二十代前半程度だろう。
何かの動物の皮で作られた帽子をかぶり、いくらか羽織っているマントは汚れているが身綺麗で、細目の狐のような顔立ちが特徴な男だ。
そんな男は今、レイモンドの頭を見て驚いたように目を開けている。
無意識なのか微かに頬を上げ、値踏みをするような男の視線は、髪が黒いことで慣れているはずなのに、非常に不愉快だった。
だがその視線も声をかけるとすぐに消えた。
「何者ですか、あなたは」
レイモンドは一歩前に出て、抑揚のない冷たい言葉を男に向けた。
声を掛けると男はハッとなり辺りを見回した。帽子についた幾枚もの緑色の羽根が、首の振りに合わせて静かに揺れる。左右を往復し、横になっている女性を見ながら男は口を開いた。
「……見たところ彼女を助けているあたり、あなた方も旅人のようですが?」
「……そうですが、何か?」
レイモンドは肯定したものの、男も同様に警戒しているのだろう。一歩近づくと同調するように後ろへ下がった。
「そうですか。よかった。……ならあなた方も早く逃げたほうがいい」
「? 何故?」
「実はこの森の先で盗賊が出たんですよ!」
「盗賊ですか……」
「ええ。俺もそこの彼女を追って逃げている最中なんで、正確な数はわかりませんけど、最低でも二~三十ほどの大人数が今この森で好き勝手してますよ」
想像していた通りの厄介ごとを聞いても、レイモンドは終始落ち着いていた。
何か来たら出る前にラランが知らせてくれるだろう、と考えているせいもあるが、盗賊・夜盗の類は大した脅威と感じていないのが本音だった。
それよりも女性をどうするべきかと考えていたせいで、男の言葉への反応が遅れた。
「そうですか……なるほど、盗賊ですか……ん? というか彼女? ……あなたもしかしてあの女性の知り合いですか?」
「あ、いや、知り合いっていうわけじゃなくて……実は盗賊達が追っているの彼女みたいで、急に俺が同行してた商隊の野営地に飛び出してきて、それで巻き込まれるように襲われてしまって。商隊の方が最後俺だけになったんで逃げようと思ったら彼女がまた前に現れて、そこからは見捨てるのも気が引けてなし崩し的にここまで一緒に逃げて来たんですよ」
だから詳しくは知らないんですよ、と続ける男に、ライナーは同情の眼差しを送る。
対照的にエレナは男が口を開くたびに嫌悪の表情を浮かべた。
「それでは名前も、何者なのかも」
「はい。何も……」
「そうですか……そういえば襲われた場所は遠いんですか?」
「それはまぁ多少は。そこから何とか守るように足止めしながらあとを追って進んでたんですけど、途中で人数が増えた上犬を放たれてしまって、そこからは別々に」
「それで盗賊を撒いてようやく合流した、と」
「その通りです」
そうですか、と答えつつ男の言葉に違和感を感じ、レイモンドは一瞬目を細めた。
レイモンド自身違和感の原因が何なのか理解できていなかった。
熟考し、ふっと頭に浮かんだのが女性の体だったため、確認するべく振り返ると、エレナと目があった。
――言い訳はいいから、ちゃんと彼女を守れよ。
言葉では何も言わないが、その怒気を含んだ目から言いたいことは大体察することができる。
男もエレナの視線に気づいたのか、頬を引きつらせながら話題を変えた。
「まあこの話は一旦わきに置かせてもらって、今はこの森から早く逃げることを優先したほうがいいと思うんですよ」
傷だらけの女性を見てレイモンドは違和感の正体に気がついた。
そのまま考え込むように黙っていると男は話しを続けた。
「盗賊達の話しを少しだけですが聞けたんですけど、あいつら犬を放ったり結構本格的な山狩りを今夜するみたいで、このままここにいると犬達に見つかってしまうと思うんですけど」
「犬? 犬のことなら印は安心してもいいと思いますけど」
犬の屍骸にレイモンドが目を向けると、続くように追った男がハッと驚くように固まった。
「どのくらい犬が放たれているのかは知りませんが、襲ってきたのならそこに」
男がそう声を上げたのは少々間をあけてからだった。
「――そ、そうですか……もうこっちに追いついていたんですね」
その口調は穏やかではなく、驚くとも違う膝から崩れるような放心に近いものに感じる。
「俺が見たのも三匹でしたからこれで少しは時間が稼げるかもしれませんね」
「しかしそうですか。彼女はやはり追われているんですか」
男の言葉が信用できるものとは思えないが、全てが嘘だとも判断できない。
だがそれでも男との会話でこれからどう行動すべきかは固まった。
「教えてくださり感謝しますよ。彼女の方は、まだ安静にしていないと傷に触るので半日、いやせめて起きるまでは動かせないので、彼女については私たちが引き受けます。ですからもうあなたは逃げてください。丁度ここは旧街道ですからね。進めばすぐにでも拠れそうな場所があると思うので」
有無を言わさずレイモンドは一礼すると、そのまま視界の端に男を捉えたながら指示を飛ばす。
「フィル、ライナー君二人ともこっちに。すぐに支度してくれ。彼女の目が覚めたらすぐにでも発つぞ。エレナはそれまで他に異変がないか調べてくれ。ライナー君は、悪いが俺たちの荷物を纏めてもらえるかな。あと自分の荷物も。フィルは誰も来ないか森の方を見てくれ。俺は彼女をラランに乗せられるか調べてみる」
フィルは焦る様子もなく、無言でエレナ達の元へ向かった。ライナーもそのうしろを黙ってついてく。ライナーが焚き火の近くまで行くと、フィルは離れ森を見るべくレイモンドへ近づいてくる。
「あ、あの!」
「……何か?」
そう言ってその場からレイモンドが離れようとすると男が焦ったように声を掛けてきた。
「あのどちらか逃げるあてがおありなんですか?」
「……まあ少しは、商隊ということなら、この森に入る前に無人の村を通って来たでしょう。あそこなら門を閉めさえすれば篭城もできそうなので、彼女がある程度回復するまではそこへ非難していようかと思いまして」
伝えるべきか考えてから、さして隠す必要もないかと答えると男は申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「あのそれなら相談があるんですが」
「何ですか?」
「せめて彼女が意識を取り戻すまでは一緒に同行してもいいでしょうか」
怪訝そうな顔を向けると男は頬をかきながら森を見た。
「あ、いや、あなた方を信用していないというわけではなくて……実は俺、どこに逃げればいいのか分からなくて。今夜馬車を降りるまで荷台で寝ていたのでここら辺の地理については全く知らないもので。ですから――」
レイモンドは相談すべきか、と思ったが周りには誰も居ない。
ラランはすで男が現れた瞬間首を振り逃げるように静かに下がり、今はエレナの隣で地面に腹をつけて、起きてはいるであろうが興味なさげに休んでいる。
ならば近づいているフィルに相談するか、とも思ったが、レイモンドは考え始めてすぐに思案するのをやめた。
二人も何か一言二言苦言を言うだろうが、きっと否定はしないだろうと――事実その通りなのだが――自己完結して考えるのをやめた。
「まあ、一人ぐらい増えても大丈夫でしょう」
「それじゃあ」
「ええ、一緒に向かいましょうか」
「そうですか! ありがとうございます!」
一瞬クラトトと名乗った男の口が醜く歪んだ。笑み、というには毒々しすぎる気味の悪いその顔は、頭を下げたことで誰にも見られることはなかった。
「あ、今更ですみませんが、俺、クラトトって言います」
「クラトトさんですか。私はレイモンドと言います。村までの短い間になるかも知れませんがよろしくお願いしますね」
「はい。お願いします」
「他のみんなについては移動のときにでも紹介しますよ。今はすみませんが彼女が起きるまで待っていてもらえますかね」
その時、丁度フィルがレイモンドへ近づいてきた。その目はクラトトが信用できないと疑うような懐疑的な目だった。
だがそれでもフィルは何も言うことはせず通り過ぎ、二歩ほど離れたクラトトの右斜め後ろで止まった。そこから森を見ることはできないだろうが、信用できない相手に対するフィルにとっての不躾にならない最大限の譲歩だった。
「わかりました。何でしたら俺も森の方を見てきましょうか?」
「そうして下さると助かります」
レイモンドはそう返事をしてエレナの方へ振り返るとき、クラトトと目があった。その顔は濁り切った目を開き、愉しそうに目と口を歪めた狂気に満ちた顔だった。
それでも止まることはしなかった。
レイモンドが完全に振り返ると、この時森から現れて初めてクラトトの姿が全員の視界から外れた。
同時にそれを悟ったクラトトが動いた。
姿勢を急に低く変え、ふわりと浮いたローブの中で装飾された綺麗な矢筒に隠れたナイフを掴むと、レイモンドへ一歩、跳ぶように近づき振り抜いた。
ザンッと切り裂かれる音が鳴り、直後ストン、と何かが刺さる音が鳴った。
レイモンドは興味がない能面のような顔を浮かべていた。ラランもエレナもフィルも同様だった。
そして悲鳴が森に響いた。
ライナーだけが驚いて、悲鳴の聞こえた方を向いた。見た瞬間ライナーは持っていた空の食器を手から落とした。
唖然、としたライナーが見る先はレイモンドの背後。
そこにはいつの間にか移動し加盟の剣を振りおろしたフィルの姿と、肘から先にあるはずの腕を無くし悲鳴を上げ左手で傷口を押さえるクラトトの姿があった。
このすぐあとドサッ、と唖然とするライナーの横に、指先が緑に汚れた右腕が落ちた。
来年は1月中に2本は投稿したいです。




