0点の星座
「貴方がレイスケさんですね。あたしはテストの神様です!」
そう言って、勉強机の引き出しから飛び出してきた女の子は、私に勉強をしろと言った。
私にとって、引き出しからいきなり出てきて小言を放っていいのは、ドラ何とか様だけである。それ以外は絶対に許されないという思想を持っていた。だから、彼女が淡い後光を伴いながら出現した時、怒りにも似た感情を抱かされた。まさに自分の聖域を侵されたかのような。
「なんと、あたしは女神なのです!」
たいへん化粧の濃いオリエンタルな顔立ちの、少々日焼けした肌の、まるでキャバ嬢のごとき見た目をした彼女は、自らを女神だと名乗り、私に勉強しろと言った。
「なぜ、私のところに?」
分厚いメガネを持ち上げながら訊ねてみたら、自称テストの女神さんは、こう言った。
「貴方の悲惨な貧乏学生ぶりを見て、応援したくなったんです!」
クソ余計なお世話である。
「だって貴方、薄汚い四畳半に住んでる上に、ご本やおゲームばかり買ってて、せっかく痩せてて良いスタイルしているのに、ちっともオシャレしてないから、天上から見てて可哀想で……だから、せめて、テストでがんばったら、ご褒美に素敵なお洋服を出してあげたいなって」
「服なんぞいらん。どうせなら、美味いもんでも出せよ。しもふり。しもふり食わせろ」
「それは……」
自称テストの女神さまは、そう言ってすぐに、むせび泣きをはじめた。たぶん嘘泣きだと思う。こいつからは、悪女オーラがぷんぷん漂ってきやがる。
ただ、私も、もう二十歳を越えた大人の男だ。女の嘘泣きに乗ってやるくらいの度量を持ち合わせているのである。
「まぁまぁ泣くなって。話くらいは聞いてやるから。お茶でも出そうか?」
「おえばいしばす……ぐすっ」
ものすごい泣いていた。しきりに涙をぬぐってぬぐって、それでも溢れ出てくるようだった。
差し出したホット緑茶を啜って、ようやく落ち着いたギャル女神は、礼儀正しく有難うと言ってから、
「ルールを説明しますね」
藪から棒に何を言っているのやら。
「レイスケさん。貴方は、毎日学校で小テスト受けてますよね」
「ん、そうだな。確かに受けているけども」
大学ってのは、そんなにいっぱいテストがあるわけではないが、今年度の授業選択の仕方だと、毎日何らかの授業で小テストがある。
「それでですね、よく聞いてくださいレイスケさん。何と、そのテストでゲットした点数に見合う分、帰宅時にあたしが着飾って出迎えをします。その時に私が着てる服は、全て、貴方のものに!」
「別にいらない。帰って下さい」
「そう言わずに」
「玄関はあちらです」
「しょぼーん」
テストの女神はあからさまに落胆した。
こういう風に、まるでネット言葉みたいなのを呟きながら落ち込むのも、実に腹が立つ。フフン、どうせイケテナイヲタクな貴方はこういうのが好きなんでしょ、みたいなことを考えていそうだ。まことに失礼な女である。
「もー、あたしのような、チョー可愛くて美しい女性がお願いしてるのに、そんな態度って無いんじゃないですかね。まして、あたしは女神ですよ。全智全能のゴッドの隠し子なんですよ。本当、よくこうもアッサリと断れますよね。失礼しちゃう」
どうやら、互いに相手を失礼だと思っているらしかった。
争いは何も生まないというのは二十年以上も生きていれば当たり前のことであろう。しかし、押しかけられてハイドウゾと言えるほど、四畳半は広くはないのだ。
「帰れ。ゴーホームだ。ていうかゴーヘヴンだ」
「いやです」
「勉強の邪魔だ。帰れと言っている」
「帰りません!」
互いに譲らない。
しかし、こんな意味のわからんものに居座られてはたまらない。私は引き下がらない。
帰れよ、帰らない。帰れよ、帰らない。何度も同じ言葉が行き交った末、折れたのは私の方であった。これ以上大声で騒ぐと近所迷惑だと考えたからである。決して、泣き落としに負けたわけじゃないのである。
「ぐすん、お願いですぅ。ずっと部屋に居座るようなことはしませんから。あなたが大学から帰ってきて三分。たったの三分だけで良いんです。あなたに、頑張った分だけ素敵なお洋服をプレゼントしたいのです」
「仕方ないな……そんなに言うからには、少しだけ……でも、すぐに居なくなれよ」
「それは、貴方次第ですよ!」
言って、すぐに、彼女は煙になって消えた。
「なに、消えた?」
メガネを外し、こすって戻す。やっぱり彼女の姿は無い。
「引き出しから飛び出してきて、跡形も無く消えた……。本当に女神だというのか……」
こうして女神は、大学から戻った私を毎日出迎えることになったのである。
翌日、私は大学に行き、講義を終えて戻ってきた。今日も教授たちの珠玉の研究成果を受け取り、たくさんの知識を蓄えることができた。素晴らしい日であった。
四畳半のアパートの扉を開けると、そこには、美しい女がいた。
長いまつげ、通った鼻筋。健康的な日焼け。すこし化粧の濃い、お人形さんのような、とても美しい女神だ。
男物のぶかぶかストライプ柄のワイシャツを着て、おかえりなさいませー、と満面の笑顔を見せつけてきた。
下半身は、美脚が見えているのみ。シャツが男物なので、丈が長く、下をはいているのかどうかすらわからないようになっている。なんというかこう、見えそうで見えないギリギリのラインを保っている。なんという色気。思わず目を背けてしまうような、非常にいやらしい格好である。
女神は、シャツの胸の辺りを指先でつまんで引っ張りながら、得意げに笑った。
「これブランドなのですよ。貴方がそこそこ良い点数とったので、ご褒美です。この素晴らしい洋服が貴方のものに!」
「ほう、それを古着屋に売ればいいのか?」
「レイスケさんは意地悪ですね。とはいえ、このお洋服はもう貴方のものなので、売ったお金で霜降り肉を買うなり、おゲームに課金するなり好きに使ってくれて構いません。でも……できれば着て欲しいと思いますけどね」
「まぁ、そうだな。何で私に良くしてくれるのかわからんが、もらえるものは有難く受け取ろう」
「それではっ」
目の前で脱いで渡してくれるのかと思ったのだが、女神はまたしても目の前から一瞬で消え去った。
しゅるるん、と消滅して、ふぁさっとシャツが地面に落ちた。
それからというもの、小テストでそこそこ良い点を取り、良質な男物の服を着た女神の出迎えを受ける日々が続いた。しかし、服を渡して消滅するだけの彼女に、それほど大きな思い入れは生まれようはずもなかった。
学校から帰れば、美しい彼女に会える。けれど、三分足らずで服を残して消えてしまう。休日には会うこともできない。
私は、次第に彼女を一個の人間としてみなさなくなった。最初のうちは、服をくれるのだからお茶くらい出すのが礼儀かな、などと思っていたものだが、面倒になってやめた。
私には、彼女と出会った頃から気になっていることがあった。彼女は、「点数に応じた質のメンズ服を譲渡する女神」であったが、もしも……もしも、0点を取ったらどうなるのか。
「……試してみよう」
そして彼女は、「ただの裸の人」に成り下がった。
家族以外の成人女性の裸体を目の当たりにしたのは、初めてのことであった。
目を奪われた。美しいと思った。ぼんきゅぼん。引き締まった完璧なスタイルだ。日焼けした小麦色の肌は、きめこまかく一切の肌荒れも見当たらない。
恥じらいがあるのか、見られたくない箇所はしっかりと隠していたけれど、それでも、いや、それだからこそ最高に美しいと感じた。
「レイスケさん、わざとですね……」
「ああ」
女神だから美しいのかもしれぬと思った。感銘を受けた名画や彫刻といったものすらゴミだったと気付くほど、桁違いに美しい。生身の女神様が、創作されたものの遥か上を行くのは当然のことだ。何度でも見たいと思った。
彼女の裸体をじっくりと観賞するのが平日の楽しみになった。
こうして、私に新しい日課ができた。学校から帰ってくるたびに、裸の女神を三分ほど観賞することだ。自分だけが知っている癒しの時間。この上なく満たされていた。
ルールの悪用。
じろじろ、じろじろ。
一日三分、恥ずかしがる彼女を、ひたすら観賞し続けた。さまざまな角度から、楽しみ続けた。それが私の唯一の喜びとなり、人生に於ける唯一の目的になっていった。
やがて、大学が長期休暇に突入する頃になった。かつては貧乏学生なりに頑張っていた私だったが、すっかり堕落し、四畳半で毎夜小麦色の女神を舐めるように見つめるばかりの男になっていた。
いつも頭の隅には彼女の裸体が鎮座している。授業に全く身が入らない。
――さすがに、まずい。
このままにしておくわけにはいかない。
長い夏休みに入ったら、ちゃんと勉強を再開しようと決意して帰った。前期で0点を重ねた分は、後期で取り返せば良い。さいわいにして私の通う大学は、おおむね通年制を敷いている。もし春と秋で分かれていたならば、春は単位を落としてしまったに違いないが、一年間を通して評価されるのだから、まだまだ挽回が可能なのである。
そんな考えに至りつつも、その日の小テストもしっかり0点を取っていた。
アパートに戻った私はいつものようにドアノブを勢いよくまわして、部屋に駆け入った。
日課の三分間女神観賞がはじまる――かに思われた。
しかしながら、そこに居たのは、上半身裸の大男であった。浅黒い肌、隆々とした筋肉。そのうえ、ひげや胸毛がもじゃもじゃ生えていて、かなりむさ苦しい。尋常じゃないほどの巨体で、もし立ち上がったら部屋の天井に穴を開けてしまいそうな大きさである。地上最大の人間を想像して、そのさらに二倍くらいのサイズを思い浮かべていただけると丁度いいくらいであり、寧ろどうやってこの部屋に入ったのか気になるくらいだ。
私は、足がすくんで動けなくなった。
ヘビに睨まれた蛙というのは、まさにこのことを言うのだろうか。
部屋を間違えたのかとも思ったが、部屋の中は私のものばかりが置いてあり、違う部屋だと言い張るのは難しそうであった。
「あ……あなた様は?」
恐る恐る。勝手に私の部屋にあぐらをかいていた大男に尋ねた。
「わしは全智全能のゴッドである。わしの娘が、世話になっておるようじゃのう」
「まさか……彼女の、お父様……?」
「しくしく」
真っ裸の彼女が姿を表した。お父様の陰に隠れていたようだ。お父様の大きな腕にしがみついて泣いている。
「どうしたのだ。いつものようにジロジロとさまざまな角度から観察してみたらどうだ?」
「あ、いやぁ、その……」
どうやら私は、ゴッドの怒りに触れてしまったらしかった。
「わしの娘は、いつも泣いておった。『ド変態にお裸を見られて悲しい』とな。わしの娘は、お前に望むことがあった。『オシャレをして、イケメンリア充になって欲しかった』と、かねてから言っておった。だが貴様の本性を知ってひどく落胆してしまった。はっきり言って、見ておれんかった。これでも我慢して改心を待った方であるぞ。あやまちに自ら気付き、故意に0点を取るのをやめれば、いつでも赦してやるつもりであったのだからな。しかし、もはや時間切れというやつだ」
「す、すみませ――」
「今更! 謝罪など! 貴様は、わしの娘の、素直な善意をないがしろにした! わしの愛娘を故意に裸にして泣かせた! ならば、全智全能のわしが重い腰を上げるのも当然であろう!」
「お父様、このド変態に、神の鉄槌を!」
「ぬぉおおお!」
勢いよく振り上げられた神のハンマー。一体、どこから取り出したんだと言いたくなるほどの巨大ハンマーは、私の身長よりも遥かに長くて銀色に輝いている。
「ぐはぁ!」
顎にヒットして、身体が宙に浮く。
私は天井を突き破って、空高く舞い上がった。
舞い上がって、舞い上がって、そのまま地上に戻ることは無かった。
思えば、女神の来訪は、つまらない私の、つまらない負け組人生における一大試練、すなわちターニングポイントだったのではないだろうか。言い換えれば、ビッグチャンスであった。それなのに私は、目先の欲望を追い求めてしまった。
しっかりと自分の将来を現実的に見据えていれば、もっと崇高な目的に立ち向かうことができていれば、彼女が勝利の女神になってくれた可能性も十分にあったというのに。
私という名の雑魚は、無残にも先を見通せず、あえなく大敗したのだ。
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「――ねえねえ、オトウサン。あの空に浮かんでるドーナッツみたいなのは何?」
「ハハハ、あれはな、『変態0点男』の星座だよ。よく見てごらん。足の爪先を手の指先で掴みながら、膝を曲がってはいけない方向に曲げている。よく見ると、そういう星の配置になっているんだ。身体の硬いインドアな彼は、ずっと天上で苦痛を味わい続けているんだよ」
「――どうしてそんなことに、なっちゃったの?」
「それはね、女神様の意に反して、勉強をしなかったからさ。勉強をせず0点をとりまくり、変態行為ばかりをしていた。おまえは、あんな風にならないように、しっかり勉強しろよ」
「――うん! する!」
0点。最低。クズ。変態。女の敵。
空に昇って星座と化してから、地上からも天上からも罵声を浴びせられ続けた。幾度と無く恥ずかしいと思ったけれど、最近は、変態星座も悪くないかも知れないと思っている。
さっきの親子みたいに、私を反面教師として真人間に育ってくれるケースが、少なからずあるからだ。
「0点ばかりとっていると、夜空に晒し上げられるわよ」
「0点は変態の証だ」
「0点をとるような変態は私の息子ではない!」
今日も私は解放の時を待ちながら前屈し、地上の会話に耳を傾けている。
【おわり】