舞台の上の貴方
「いい店だろう?」
面倒見のいい上官に連れられてやってきてのは、公都の裏路地にある薄暗い酒場だった。
「お酒は強くないので、何とも言えません。雰囲気は、いいですけど」
この公都の軍人である女は、昨年成人を迎えたばかり。軍に籍を置いては長けれど、酒のたぐいはまだまだ素人である。
ドレススーツに身を包んだ彼女は、短くそろえた黒髪と、溌剌さを感じさせる目元が強い印象を抱かせた。所属が中衛の術式部隊故に一見細めに見えるが、それでも運動の基礎で劣ることのないようにしっかりと体は鍛えられている。
この度目出度く一つの分隊を任せられることとなった彼女は、その昇進祝いにと上官がお気に入りの酒場に連れてこられていた。
「軍でココを知ってるのは俺だけさ。こんないい店、あそこの連中には教えられんからな」
ロックグラス片手に上官は、普段の豪快な笑いとは違う落ち着いた笑みを浮かべる。
暗い色で統一された店内は、カウンター席より数段下がったところにテーブル席、その向こうには一段高いステージがある構造で、頭上の高いところで天井扇がゆったり回転していた。
確かにこの店は、上官の隊の粗野な男共には勿体ないかもしれない。それに余所行きの服を着てこいと言われたのも頷ける。独り言ちて、彼女はグラスの果実酒に口を付ける。
「いい店なのに、こんな小娘と2人っきりで来ちゃって、奥さんに怒られたりしませんか?」
「何言ってんだか。さてはもう酔ってやがるな?」
ぐわし、と頭を捕まえられてそのままわしわしと無造作に、しかし優しく撫でられる。
「ちょっと、髪が──」
「アイツだって喜んでんだぜ。何せ実の娘も同然に育ててきたお前の昇進だからな」
それにここはいつもアイツと来てんのさ、と上官は笑う。さらりとのろけやがってと彼女は内心で毒づく。
「まあ何よりもまずは、おめでとうさんだな。晴れてお前も一兵士から分隊長だ」
「……ありがとうございます」
乱された髪を直しながら、彼女は不満にも嬉しそうに返事をした。
上官でありながら、この男は物心つく前に両親を奪われた彼女にとって命の恩人であり、そして父親のような存在である。何だかんだと言っても、こうして祝われることは嬉しい。
これからは、ただ命令に従っていればいいだけでなくなる。自分の判断で動くことも増えるだろうし、何よりも部下ができて、彼らの命を預かることにもなり得る。そう考えると、自然と引き締まる思いだった。
「とすれば次は、男の1人くらい作ってこなくちゃなんねーなぁ」
「──はぁ!?ちょ、なっ!!お、おぉっ!?」
覚悟の思いを噛みしめていて、彼女は父親同然の上官のお節介な冗談に咄嗟について行くことができなかった。若き乙女であっても何せ軍人という華やかさのない職業柄、色恋沙汰のような話には疎ければ免疫もない。わざとらしいくらい極端に。
彼女の何とも間抜けな反応に、上官は苦笑う。
「男よりも、次の昇進のが先みたいだな」
見れば、カウンターの向こうのバーテンダーも笑いをこらえている様子だった。とにもかくにも恥ずかしくなり、彼女は思わず立ち上がる。そして語気を荒げ
「か、からかわないで──」
ようとして、遮られた。
遮ったのは、儚く優しい、しかし気丈さを感じさせる音色。
あちらこちらで交わされていた会話はぴたりと止み、ホールを艶やかな弦の音色が支配する。
振り返れば、テーブル席の向こう、一段高くなったステージの上で、提琴を構え佇む青年が1人。
彼女の同僚らと比べれば背丈や体格はさほどであるが、背中に流した長い銀の髪は襟元でひとつに纏められ、涼しげな目元は憂いた様に臥せられている。
彼女は言葉を失う。
流れる美しい音に、心を奪われる。
となりの男は、満足そうに目を閉じて提琴の音に耳を傾けていた。
淡く、切なく、儚く、危うい。そんな曲が、提琴の弦からうっとりと紡ぎ出される。
惚けていた。惚けたまま、立ち尽くしていた。
青年が発条仕掛けのようにゆっくりと動きを止めると、美しい曲が終わりを迎える。
臥せられていた目蓋がゆっくりと持ち上がり、銀色の隙間から覗いた地平間際のような空色の瞳が彼女の視線と交差する。我に返ったのはその時だった。
拍手とともにどよめきと他の音が戻ってきて、立ち尽くした自分の姿に気づけば募りに募った羞恥心は八つ当たることも出来ずに彼女の内側をぐるぐると巡った。
決まり悪く座り直すと、上官が閉じていた目を開いた。
「どうだ、良い店だろう?」
その言葉に、彼女は惚けた顔をしながら無言で頷く。
美しい音色と青年の澄んだ瞳は、知らず彼女の心に焼き付いていた。
◇
公都の西のレトーキー河を挟んで繰り広げられた対立同盟との大規模な戦闘は、同盟下にある王都軍の持ち込んだ新型装備の活躍もあり、公都軍の快勝に終わった。しかし、被害は少なからず出ている。今回の決戦では、公都の庇護の元にある町が戦闘の影響を受けていた。
兵、民間の死傷者、建物の損壊への対応が行われ、復興作業に一段落が着いた頃、町で慰問演奏会が開かれる報せが届く。
「なのになんで、俺らの隊はこんなとこでお仕事させられてんすかねぇ」
隊員の1人が愚痴をこぼす。
先日昇進した彼女らは、演奏会が行われている真っ只中にも関わらず警備の任務に当たっていた。
「仕方ないでしょう、順番なんだから」
口では言えるが、実際彼女も今のこの状況に文句のひとつふたつは覚えている。
「公都が生んだ奇跡の提琴弾き、聴いてみたかったなー」
覚えても口には出せない言葉を、部下が代弁するように口にした。とは言えあんたの場合は、音楽なんて聴いてもどうせ途中で寝てしまうでしょうがなど内心で毒づきながらも、その煽り文句には引き付けられるものがあった。
今回やってきたというその奇跡の提琴弾きとは、いったいどんな人だろうか。
彼女は、公都の路地裏の落ち着いた酒場で見たあの青年を思い出していた。艶やかな銀の髪と、透き通った青色の瞳。
彼女はあの日演奏を聴いて以来、暇があればこっそりと酒場に通った。しかしあの青年が提琴を弾く日は不定期で、行ったものの酒を1杯だけ飲んで帰るなどということもあった。それでも運良く彼に会えた日は、どうやって部屋に帰ったかも覚えていないほど浮ついて、青年を夢にまで見た。
しかし、レトーキー河での作戦が始まって以来公都には帰っておらず、彼の提琴は久しく聴いていない。
交替の兵士がやってきたのはそれからしばらくしてからで、彼女が部下の漏らす不満に激励叱咤諦念無視といろいろな反応をしてみた後だった。
祭騒ぎが一段落して、どこか興奮醒めやらぬといった雰囲気の街を歩く。
復興は進んでいても、まだ所々には手がつけられていない。もっとも被害を受けた一部の区画はまだ壊されたままになっている。公都側の被害は多くはなかったが、それは決して0ではなかったことを知らしめる光景。
そんな一角に差し掛かり、崩れた煉瓦や木材を眺め歩いていると、まばらに歩いたり立ち止まったりする人々の中に彼女は見覚えのある銀色を見つけた。
瓦礫を見つめ佇む華奢な背中。どこかから焦げ付いた匂いを運ぶ風が、その背に流れる銀を弄んでいる。
体の奥からこみ上げた昂ぶりと高鳴りが、喉元を詰まらせる。緊張と戸惑いが手を震わせる。
彼は箱を携えていた。持ち手のついた、黒い直方体の箱だ。
それをそっと地面に置き、銀髪の青年はいつか見た燕尾服姿で片膝をつく。後ろ姿で分かるのはそこまでだったが、おそらく彼は今、左手を胸元に当てているはずだ。そしてそれは、彼女らの仰ぐ神への祈りの姿だった。
「ああ、こんばんは。何かご用ですか?」
またしても呆然と立ち尽くしていたらしい。澄んだ青色に見つめられ、彼女は慌てて頭を振る。
「失礼しました!あっ、違うんです!あの、そのっ──!」
しかし言葉に詰まる。用もないのに見つめていたというのはどういうことだろうか。どう考えても不審者だ。でなくとも気味が悪いのは違いない。初手の失敗に気付けば気も動転して、さらに挙動は不審なものに。
「貴女は、もしかして公都の店に何度か来ていた?」
「──え、あっ、はいっ!」
それほど低くはない、優しげな声だった。
覚えられていたらしい、という事実に高鳴りが増す。喜びがわき上がる。
「今までどちらに?会場にはいらっしゃらなかったようですが」
「それは、あの、私の隊は演奏会中の警備の任務をあてられていて」
「部隊長さんでしたか」
「え、いや、まだまだただの分隊長でっ」
らしい、が確証に変わった上、気にかけられていたという事実が判明して、彼女は嬉しさのあまり気がどうにかなりそうだった。
「そうでしたか。それでも警備の仕事、お疲れさまです。そして、ありがとうございます」
立ち上がり、膝の土を軽く払った青年は、彼女に向かって頭を下げた。離れた場所からステージ上にいるのを見ているのと近くで見るのとではずいぶんと違うらしく、彼は彼女が思っていたよりも背が高かった。ちょうど5.6フィートの彼女の背丈と同じくらいである。
「そんな、こちらこそありがとうございます。ずいぶんと長旅でしたでしょう?」
ゆっくりと礼を解いた彼は、いいえ、と言ってわずかにはにかんで見せた。
「故郷ですから、遠くなんてありません」
今まで見ていた涼しげで、どこか冷たい表情とは全く異なる初めて見る柔らかな笑み。直面する彼女の内面は、激しく揺れ動いていた。
「この街の生まれなんですか?」
「はい。この度は、かの衆都よりこの街を護っていただいて、ありがとうございます」
「いえ、私はほんと何にもしていないというか、直接戦ったのは他の部隊の人たちだし、それに今回は王都の新型銃槍が活躍してくれたおかげっていうか」
舞台の上に見ていた彼は、今、目の前で微笑んでくれる。決して遠くはない場所に、今、彼はいる。
彼に引き寄せられるような感覚を、いつしか覚えていた。
「あっ、あの、そういえばさっきのお祈りは……?」
「それは、──」
すっと目線を反らされて、彼女の昂揚は一気に温度を失う。調子に乗って出過ぎた真似をしたと、彼女は悔いた。
「祖母の下宿屋があったんです、あそこに」
彼があそこと目線で示した場所、彼が祈りを捧げていた瓦礫の山には、何本もの献花が置かれていた。
「弟や妹みたいなやつが、何人もいましたよ。祖母は身よりのない子供を集めて住まわせていたんです」
彼の言葉が示す過去は、彼女を苦しめた。
被害は無しではなかった。
守りきれなかった存在が、ここにたくさん居たのだ。
「──ごめん……なさい」
初めて感じた類の昂揚は、霧となって消え去る。
初めて感じた類の後悔が、代わって彼女を満たしていく。
「貴女が殺したんじゃないから、謝られても困りますよ」
俯いて、前を見ることもできない彼女に向かって、彼はもう一度優しく微笑んだ。
「そうだ、祖母たちに一曲聴かせようと思っていたんですよ。せっかくだから貴女も聴いていきませんか?」
下がった目線の先にかがみ込んだ青年が、地面に横たえた黒い箱を開く。
「えっと、あの……」
「聴いてくれる人は多い方が、今は嬉しい」
すっと伸ばされた彼の腕が、彼女の黒髪を撫でる。
触れられたことに気付いて、初な彼女は一瞬で頬を朱に染めた。願わくば、街灯の灯りの橙が、この紅潮を誤魔化してくれますようにと彼女は祈る。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、彼は三度微笑んで見せる。
浮き沈みする感情に振り回される彼女を傍らに、彼は提琴を構えた。
聴いたことのない曲だ、と彼女は気付く。彼の曲は今まで2、3曲ほど聴いてきたと思う。そのどれもが落ち着いたものだったが、この曲はそのどれよりも儚く、そして何より切なかった。しかし、曲は次第に力強く、激しさを顕していく。
引き込まれていた。そして、自然と涙が流れていた。
辺りにちらほらといた人々も歩みを止めて、突然始まった野外演奏に驚いたり戸惑ったり、多者多様に反応しながらも彼の提琴の音に聴き入っていた。
曲はいつしか、始まりのような静かな調子に戻っていた。しかし、同じようで異なった音色は、切なさを感じさせない、穏やかでも確かな決意のように聞こえた。
彼が動きを止めるとともに、辺りに他の音が戻ってくる。少しだけ増えていた聴衆らから自然と起こった拍手が鳴り止むまで、彼は礼をし続けていた。
「ごめんなさい、泣かせるつもりはなかったんですが」
再び2人の会話に戻ると、彼は苦笑いながら謝罪を口にした。
「あの、え、いや──」
「ああ、そろそろ時間だ。戻らないと。公都に戻ったらまた店に来てくださいね。弾く日は決まってないですが、週末には店に居るようにしますから」
手短に、でも丁寧に荷物をまとめると、彼は早口にそう告げて、はにかんだ控えめな笑顔を見せて去っていった。
流れる銀色の髪とその背中がみっつ先の角に消えるまで、彼女はその場に立ち尽くしたままだった。