10‐(4).杯中の蛇影
どうやら、夢を見ているようだ。
きっとこれは昨日の続きなのだろう。知っている暗闇がそれを物語っていた。
昨日と違うのは、暗闇の濃度が薄くなっているというところだろうか。
一面を覆い尽くしていた暗闇が、途切れ途切れになっている。途切れた箇所からは……何やら見覚えのある壁紙や床板が見えていた。
あと、地に這い蹲らなくても声が聞こえてくるところも昨日とは違う。立っている今この状態で、昨日感じた熱が耳を蝕んでいる。
今聞こえてきている“知っている声”は、昨日と同じ内容のようだった。繰り返し、繰り返し、同じ内容ばかりが聞こえてくる。今聞いているので三巡目。
「……怒鳴り声が聞こえて、どうしたのかしらーって……こんなことになってる……」
「え……娘さ……」
「……旦那さん心筋梗塞でしょ? もしかしたら……あ、多分……」
「多分そう。……の声だったけど……じゃなかったからね」
「……朱鳥くんも妹の千景ちゃんも……の子だけなんか……」
「わかるわあ……ないし」
「あのおうちで……ない?」
「わかるわかる……にしてもお兄ちゃんは優秀よねえ……」
立ち止まって聞いている間に声はどんどん明瞭になり、その内容もはっきりとしてきた。
まだ全てを理解できたわけではないが、私は、これを聞いて、「嫌だ」と思っている。
嫌な単語ばかりが聞こえるのだ。
頭の中にブザーのような警告音が響いている。冷や汗が流れ落ちた。
なんとなく、立ち止まって聞いているからいけないのだと思った。ここから遠ざかれば声は聞こえなくなるはず。私は逃げ出した。
最初は歩いていた。声が少し遠ざかる。
小走りに。もっと遠ざかる。
走り出した。もうほとんど聞こえなくなったけれど、構わず全速力で走る。
走って走って。何度も転びそうになって。どこに行くかもわからないのに走り続ける。
どのくらい走ったのだろうか、という頃。ある時ふと、唐突に。瞬きをした一瞬の間で、目の前に見覚えがある襖が現れた。
見覚えがある。見覚えがあるというか……いや、さっきから途切れ途切れに見えている壁紙や床板もそうだ。これは私の家の。
◇ ◇ ◇
身の内を何かが這いまわる感触を感じ、私は目を覚ました。
「う……」
起きぬけに一つ呻く。全身が倦怠感に包まれていて、身を起こすというひとつの動作とっても億劫だった。苦労した末、やっとのことで座った途端、窓から入り込む陽ざしに目眩を起こす。額を押さえて下を向いた。
倦怠感だけではない。首筋の傷……呪傷が疼くような感覚もあった。外傷的というよりは、内側から何かが這いあがってくるような不可解な疼きだ。
おかしい、どうしてこんなに体調が悪くなっているんだろうか。昨夜はここまでではなかった気がするのだが。
額を押さえて俯いた姿勢のまま静止して、目眩の波をやり過ごしていたら、がちゃりと音を立てて部屋の扉が開いた。人が入ってくる。
「……ヤマト!?」
入ってきた人物は、虎耳に虎尻尾の若い男のエディフ……ソルだ。ソルは私の名前を小さく叫ぶように呼んでばたばたと駆けこんできた。入ってくるなり私が具合悪そうに俯いていたから驚いたのだろう。
「あ……おはよ、ソル」
「挨拶してる場合じゃ……大丈夫?」
すぐに傍までやってきたソルは、すごく心配そうに私の顔を覗き込んでくる。ソルは本当にいい奴だ。感心すると同時に、朝っぱらから心配させて申し訳なく思う。
「うん、大丈夫」
目眩はいまだ収まらないが深刻なほどではない。体調を心配する言葉に頷きを返す。
しかし、ソルは納得しなかったようだった。
「そんな顔色じゃねーって! とりあえず、先生呼んでくるよ」
ソルはそう言うなりすぐさま立ち上がり、踵を返す。私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
大丈夫だ、我慢できる。少し休んでいたらすぐ治ると思う。
来てくれて早々のソルに慌ただしく席を立たせるのは嫌だった。それに、リュミエレンナ先生も忙しいだろうから検診の時などあらかじめ決まっている私に使う時間以外に手を煩わせたくない。
「大丈夫だから」
重ねて言えば、ソルの眉間に皺が寄る。
「ヤマト、我慢してるだろ」
問い詰める口調だ。咎めるような強い視線に、思わず目を逸らす。
私はソルの顔を見ずに正面を向いたまま喋る。
「我慢してないよ。ほら……俺寝起き悪いから」
心配してくれるのはありがたいのだが、迷惑をかけたくなかった。
「それだけでそんな顔色にならないって。なんでそんな」
「あ、エナとかパーシヴァルさんはどうしてるの? 出かけてるのかな? このあたりって北地区なんだってね。普段来ないから、俺も退院したら見て回ったり……」
「ヤマト!」
ソルの言葉を途中で遮って話を逸らそうと適当なことを言うと、突然ソルが声を荒げた。大声にびくりと体を震わせた私は、恐々とソルに視線を戻す。
目の前のソルはすごく怖い顔をしていた。
それを見たら、ぐるりと何かが内側で蠢く感触。
(どうしよう。ソル、怒ってるんじゃないの? ……嫌われた?)
一気に頭が混乱する。
ソルに嫌われたら、私、どうすれば。想像できない。ソルは私がこの世界に来てからずっと仲良くしてくれる一番の友達なのに。ソルに嫌われてしまったら、辛い。悲しい。
「ご、ごめん。ごめんなさい。俺、ソルを怒らせようとしたんじゃ」
「……違う、怒ってないよ。デカイ声だしてごめん」
必死で謝れば、ソルは複雑な顔をした。そして声を落として逆に謝ってくる。
怒ってない。その言葉に少しはほっとしたが、ソルの表情が硬いことに気付いた。笑ってない。いつもみたいに笑ってない。
私がそうさせてるのだろうか。こんな風な顔、させたら……させ続けたら、嫌われる。
「あ、あのねソル。ほんとに大丈夫。ほら、俺、けっこう丈夫でしょ」
精一杯おどけて、頑張って笑みを浮かべる。
だけどソルは笑ってくれない。浮かない顔をしていて、私の事を険しい顔で見ている。
焦りばかりが募る。ソルの顔を見ていられなくなった。部屋の中を落ちつきなくキョロキョロと見回し、何か他の会話の糸口を探る。
「……あ、い、今ってどのくらいの時間?」
視界に時計が入った。針は十一を指している。今は明るいから、もう明け十一の刻ということだ。
「もう、明け十一の刻なんだ……俺寝過ぎだね。あはは」
油断すれば不安に崩れそうになる表情を無理矢理笑顔のままキープし、冗談めかして会話を続ける。
しかし努力も空しく、ソルの表情は厳しいままだった。いつもなら私なんて及びもつかないくらい楽しいお喋りをしてくれる口も閉ざされたまま。
少しの間はへらへらと笑っていた私だが、やがて乾いた笑い声は途切れ、表情を作る余裕も失せたほどの不安でいっぱいの心を抱えることとなる。
私はソルを見上げた。
「……そ、る。ソル、ごめんなさい。やっぱり怒ってる?」
「違う、怒ってなんかないって。でもほんとに無理しないでよ」
「大丈夫だよ。無理なんてしてない……」
「そんなこと言いつつ、相当顔色悪いから。……やっぱ先生呼んでくるよ」
そう言ってソルは立ち上がった。
なんで、信じてくれないの。笑ってくれないの。そう思ったら、一気に頭に血が上る。
「だから……!」
無理なんかしてないって、何度も言ってるのに。
「だから、無理なんてしてないんだって!!」
つい、声を荒げてしまった。
直後、ハッと我を取り戻す。なんで私は、ソルに怒鳴っているんだ。
慌ててソルの表情を窺えば、驚いた顔をしていた。取り繕う様に言う。
「あ、ちが……そ、ソル。ごめ、ごめんなさい。俺、なんか、変で」
うまく言葉を紡げない自分を見苦しいと思いつつも、言い訳と謝罪を連ねる。
「……ヤマト、俺ら心配なんだ。ヤマトは気ぃ遣いすぎなんだよ」
「……ごめん、なさい」
「謝ることなんかないって。ただ、我慢しないでほしい。いつも言ってるけど、こういう時こそ頼って」
「……うん」
消えてしまいたいくらい申し訳なかった。怒鳴った私を、ソルは心配してくれている。
私が黙ると、ソルは場の雰囲気を和らげるような明るい声で喋り出した。
「あ、ほら、俺らもリュミエレンナ先生もお仕事でヤマトを世話してるんだって考えれば、頼りやすくない? 勿論、俺らがヤマトと一緒にいるのは仕事だからってだけじゃないからね」
努めて穏やかに、私を宥めるように、朗らかに微笑んでの言葉だった。
しかし、私は。その言葉を聞いて気付いてしまった。
ソルの顔を見る。いつも気を遣ってくれる彼。優しいソル。
ソルだけじゃない。私の周りの人は、みんな、優しい。
(……なんで、気を遣ってくれるかって……優しいかって)
私のことが「仕事」だからじゃないか。きっと、今の言葉も、本音は前半で、後半は建前だ。
は、と浅く息を吸い込んだ。何を甘えてたんだろう、私は。
みんな仕事で、仕方なく私と一緒にいて、面倒まで見てくれて。
それに、寄り掛かって……私って、どれだけ自己中心的で、気持ち悪い、身勝手な人間なんだろう。
嫌われる、なんて思ったけど、もとから嫌われてるかもしれない。皆は優しいからそれを表に出さないだけだ。
私は面倒を引き起こすだけの厄介者じゃないか。
(……さっき私は何をした? 私を、厄介者だというのに、優しく心配してくれるソルに向かって……怒鳴っ、た?)
事態をはっきりと認識し、頭部から血の気が下がる。
優しくしたくもないのに優しくしてやってる相手に怒鳴られて、なんて。嫌わない方が、おかしくないだろうか。
(……嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌!)
疎まれるのは、嫌われるのは嫌だ。
(嫌わないで。ごめんなさい……ごめんなさい!)
「ご、めんなさい……ゆるして」
「え?」
震える声でようやく口に出せば、ソルから返ってきたのは一文字。許されないのか。
瞬間、腹の底で何かが胎動する。ずるずると……これは何?
身の内を這いずり回る黒い気配の何か。耳鳴りがする。頭が痛い。割れそうだ。
痛みで崩れる思考をまとめようとした。しかしうまくいかない。
そして、その時。耳鳴りにまぎれて、言葉が聞こえた。
『見舞いに来てやってるっつーのに怒鳴るかフツー……。キチガイ、ウゼェ。気持ち悪』
ソルの、声だった。
信じられないほど冷たい声色だ。今まで聞いたことのないような。心底、私を軽蔑する声。
あまりのショックに、視界がすごいスピードで滲む。あっという間にぼろりと涙が零れ落ち、ぱたぱたと音を立ててシーツを濡らす。
「ごめんなさい……ごめんなさい! 許して!! 嫌わないで!!!」
「ヤマト……!?」
必死で謝る。叫び声のようになった。ソルは驚いた顔をしている。
驚かせた? 大声を出したから、また、気持ち悪いって、キチガイだって?
(落ち着かなきゃ……嫌だ、嫌だ……嫌われたくない!)
「ど、怒鳴ってごめんなさい。で、でも、違うの。ご、ごめんなさい。ごめんなさ……気持ち悪くないようにするから、頑張るから、ごめんなさい、嫌わないで……!!」
落ち着いて、と念じながら紡ぎ始めた言葉は言い募るごとに破綻した。最後には、泣きながらソルにしがみつく。
ソルは、私の肩を掴みながら何か言っている。大きな声が怖い。今すぐ微笑んで優しく「許す」と言って欲しい。
しかしその願いも空しく、縋りつく手をはがされそうになる。慌てて掴み直した。
(ソルは私から離れたがってるんだ、気持ち悪いから!!)
ソルが体を離して行ってしまいそうになるのを、見苦しいくらいに必死で追い縋って止める。ここで、嫌わないと、許すという言葉の確約を貰わずに離れたら、きっと二度と笑いかけてもらえない。
「あ、ああ、嫌、嫌だ、ソル……!! なんで、私、違う、違うのお……!!! 気持ち悪くないようにするからあああ……お願い、お願いします……!!」
泣きすぎて、頭が痛い。鼻も。でもそんなことに構っていたら、ソルに見捨てられる。
複数の足音が入ってくるのが聞こえたけど、それも無視した。
「うあぁ……! 違う、違う……嫌だ、ソル、嫌わないで……!! 嫌わないでくださいぃー……! お願いします、許してぇー……!!」
ソルに縋りついて泣き喚く私に向かって何かが近づいてきたと思った数秒後、私は意識を失った。




