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89話:できること、できないこと

 ジルコニアは自室に戻ると、扉を後ろ手に閉め、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。


「……っ、……うっ……ぐ……」


 こぼれそうになる嗚咽を無理矢理押さえ込み、小刻みに震える自分の身体を両手で抱きしめる。


 どうすれば一良に好意的な印象を持ってもらえるか、ジルコニアは少し前から一良のことを観察していた。

 リーゼが上手いこと一良に取り入っている様子を見て、それを手本にして似たような行動を取るようにもした。

 それが功を奏したのか、一良は自分に対して以前よりも好意的に接するようになったと感じていた。

 だが、まさかこれほど早く夜に呼び出されることになるとは、まったく思っていなかった。


 一良の好意を得ようと動き始めた時点で、いずれ夜伽に呼ばれるかもしれないと覚悟はしていたはずだった。

 力を得るためならば、何でもできると思っていた。

 もし可能ならば、その後も一良を誘惑して、夜伽相手のお気に入りになってしまえればとさえ思っていた。


 でも、いざその時になったら、過去の恐ろしい光景がフラッシュバックして、怖くて怖くてたまらなかった。

 自分の身体を差し出すという、ただそれだけのことなのに、どうしようもない恐怖で頭がいっぱいになってしまった。

 あの時とは違う。

 あんなふうに汚されるわけじゃない。

 あんな光景を見せられるわけでもない。

 いくら自分にそう言い聞かせても、震える身体を止めることができなかった。


「なんてっ……情けないっ……」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、自身のふがいなさに悪態をつく。

 せっかく舞い込んできた好機を、みすみす逃してしまったという後悔が、ぐるぐると胸の中に渦巻いていた。


 夜伽に呼んだわけではない。そう助け舟を出された時、思わずほっとしてしまった自分が情けなかった。

 なんとか勇気を振り絞って、再度夜伽を申し入れたが、考える様子もなく断られてしまった。

 恐らくもう、自分が夜伽に呼び出されることはないだろう。


 今後は、リーゼやエイラが上手いこと一良のお気に入りになることを祈るしかない。

 その結果として祝福の力や追加の支援が得られることになるかは分からないが、上手くいくことを祈らずにはいられなかった。


「お父さんっ……お母さんっ……みんな……ごめんなさい……」


 懺悔の言葉を吐き出しながら、ジルコニアは暫くの間泣き続けていた。 




 次の日の早朝。


 ベッド脇の小テーブルに置かれているアナログ時計に手をかけたまま眠っていた一良は、部屋の扉が叩かれる音で目を覚ました。

 実は先ほど、目覚まし時計のけたたましい金属音で、一度目を覚ましている。

 だが、あまりの疲労感に時計を止めてしまい、現在は二度寝している状態だった。

 

 寝ぼけ眼を擦りながらベッドから起き上がり、「どうぞ」と扉に声をかける。

 すぐに扉が開き、マリーが部屋に入ってきた。

 寝起きで間抜けな表情の一良とは違い、すでにお仕事モードのマリーはきりっとした表情だ。


 マリーは手にカゴを持っており、中にはひのし(平たい青銅製の鍋に焼けた木炭を入れて使うアイロン)がかけられた衣服が入っている。

 カゴに入っている服は、襟の張ったシャツに上質な布のズボンだ。

 普段、一良がナルソン邸で着ている服は、だいたいこのようなものが多い。

 寝間着として使っている服は、無地のゆったりとしたシャツとズボンである。


「カズラ様、おはようございます。本日も1日、よろしくお願いいたします」


「うん、おはよう。今日もよろしくお願いします。ちょっと、こっちに来てもらってもいいですか?」


 ぺこりと頭を下げるマリーに一良は笑顔で返事を返すと、ベッドから降りて壁際に置かれている冷蔵庫へと向かう。

 マリーはカゴを持ったまま、早足で一良の後を追った。


「えっとですね、これ、冷蔵庫っていう道具なんです。今から使い方を説明するんで、覚えてください。今後は、ここから食材を取っていってもらうんで」


 隣に来たマリーに、一良は冷蔵庫の冷蔵スペースの扉を開いてみせた。

 中には、鮭フレークやパスタソースの瓶、チューブバターやレトルトの野菜スープといった、さまざまな食品が入れられている。


「この中は常に涼しい状態に保たれていて、中に入れておけば食品を長持ちさせることができるんです。……あの、大丈夫ですか?」


「は、はいっ!」


 冷蔵庫が開けられる様を初めて目にしたマリーは、目を見開いて身体を硬直させていた。

 今まで、一良から「今日はこれを使ってください」と言われて缶詰や凍った野菜や肉を渡されたことはあったが、冷蔵庫の中を見せられるのはこれが初めてだった。

 なぜこの真夏に凍った食品が出てくるのだろうと不思議に思ってもいたのだが、疑問は持ってもそれを口外したり一良に問うような考えはマリーは全く持たなかった。


 というのも、マリーはハベルから、一良の身辺について探ったり口外するような真似は絶対にしないようにと、前もってきつく言い渡されていたからだ。

 また、与えられた仕事を忠実にこなすことのみに集中するよう、マリーは幼い頃から母に教育されてきた。

 下手な手出しをしたり噂話に加わっても、ろくなことにはならないということも常日頃から教え込まれてきていた。


 ルーソン家の者たちも、何かと気を使ってくれるハベルと、日頃からやたらときつく当たってくる兄のアロンドを除けば、マリーに対しては特に干渉してこなかった。

 そのため、マリーはなるべく目立たないように、自分の仕事のみに集中することをモットーとしていた。

 一良の部屋に出入りする際も、部屋に置かれている珍しい道具類には絶対に手を触れなかった。

 それがここにきて、いきなり道具の説明を受けた上に、使い方を覚えろと言われてしまった。


 事態の急展開に、マリーは早くもぷるぷるし始めていた。


「で、この下の棚が製氷室といって、中には氷が作られています」


 ぷるぷるしているマリーに構わず、一良は冷蔵庫の製氷室を引き出した。

 中には、四角い氷の塊がいくつも入っている。


「この氷は自由に使ってもらっていいんで、冷たい飲み物を飲みたくなったりしたら勝手に使ってもらっていいですよ。料理で冷たいものを作りたいときにも、使ってもらって構いませんから」


「はいっ!」


 まるで体育会系のような張りのある返事を返しながら、マリーはこくこくと必死で頷く。


「それで、この下にあるのが冷凍庫といって、中には凍った食材がたくさん入っています。隣に置いてある大きな箱も冷凍庫です」


「はいっ!」


「この中のものを自由に使って料理を作って欲しいんですけど、慣れるまでは味とか想像つかないと思うんで、しばらくは一緒に選びましょうか。何なら、調理場で一緒に料理しても構わないんで」


「はいっ!」


「じゃあ、早速朝食に使う食材を選びましょう。……といっても、朝から冷凍食品使って料理ってのもあれなんで、レトルトスープでいいですかね。パンは缶詰のを使えばいいか」


「はいっ!」


 同じ返事を繰り返すBOTのような状態になってしまったマリーと一緒に、一良は朝食の食材を選び始めた。




 それから1時間後。


 調理場でマリーと食事の支度を行い、一良はマリーを伴っていつも食事をとっている部屋に向かった。

 一良たちが部屋に着くと、部屋ではすでにリーゼとナルソンが席に着いていた。

 部屋に入ってきた一良に、2人は柔らかく微笑んで、「おはようございます」と挨拶をする。


「カズラ様、長旅お疲れ様でした。お身体の調子はどうですか?」


「おはようございます。昨晩はゆっくり休ませてもらったんで、すっかり元気になりましたよ……えっと、ジルコニアさんは?」


 リーゼに笑顔で答えながら、一良はちらりと普段ジルコニアが座る席に目を向ける。

 その席には、食事が用意されていなかった。


「それが、過労がたたって今朝から体調を崩してしまったようでしてな。今日のところは大事をとって、部屋で休むと連絡を受けています」


「そう……ですか」


 表情を曇らせた一良に、ナルソンは不思議そうに首を傾げた。

 だが、ジルコニアのことを心配しているのだろうとすぐに納得すると、席につくよう一良に勧める。


「カズラ殿がいない間、ジルはいつも以上に働きづめでしたからな……張り切りすぎて、溜まっていた疲れが一気に出てしまったのでしょう。数日の間は休ませたほうがいいかもしれません」


「そうですね……そうさせてあげてください」


 席に座りながら昨晩のことを思い出し、気まずい心境で一良は答える。

 自分がイステリアを離れている間に、そこまでジルコニアが必死に働いていたとは知らなかった。

 だが、彼女がこの場にいない理由は、どう考えても昨晩の自分のせいだろう。

 後で何かしらのフォローは入れておく必要がありそうだ。


「本日のジルの仕事は私が引き受けますので、心配なさらないでください。他にも何かあれば、何なりと」


「いえ、特には大丈夫です。ありがとうございます」


 ナルソンのこの様子からして、ジルコニアは昨晩の出来事をナルソンには話してないようだ。

 もし話していたら、それこそこの場の雰囲気はお通夜のような状態になっていたに違いない。


「カズラ様、今後は私もできる限りお手伝いいたします。水車の設置も全て終えましたので、今日からは別のお仕事もお手伝いできますわ」


 暗い顔をしている一良を気遣うように、リーゼが横から口を挟む。


「え、全てって、東側と南側の水路にも全て設置し終えたんですか?」


 驚いた様子で一良が聞き返すと、リーゼはにっこりと微笑んだ。


「はい、皆とても頑張ってくれたので、予想以上に早く作業を終えることができました。水車の精度についても、近日中に改善する見通しです」


「そりゃすごい……でも、精度が近日中に改善するって、いったいどうやったんですか? 人手が足りなくてどうにもならなかったはずだと思いますが」


「大工職人のところに来ている仕事の一部を、以前軍役に就いていた傷病兵に肩代わりしてもらったんです。前線での生活が長かった方は陣地構築や武具の補修の経験があるので、ある程度の工作技術は身についていると思いまして」


「うむ、カズラ殿がイステリアを発った次の日から、リーゼは大工職人を伴って市民の家を一軒一軒訪ねていきましてな。怪我の程度を見ながら実務に耐えられるか選別して、その者たちに新たな職を見つけると共に、大工職人の負担を減らそうと動いてくれたのです。仕事の報酬は大工職人が支払う形にリーゼが上手く話をまとめてくれたので、我々の懐も痛みません」


 ナルソンが付け足した説明に、一良は思わず目を剥いた。

 まさか自分がいない間に、リーゼが自ら考えてそこまでやってくれるとは思っていなかった。

 言われたことだけをやるのではなく、どうすればもっと上手くいくのかを考えて率先して動くことができるとは、リーゼは若いながらにかなり優秀な人材のようだ。

 もちろん、彼女が今まで市民に対して非常に親密に接していたからこそ、これほどまでに上手く事が運んだのだろう。

 誰にでもできる芸当ではない。


「工作や製材作業だけではなく、買い付けなどの使い走りや炊事などの雑務も行うように指示しておきましたので、職人たちの負担はだいぶ軽減できるはずです。1つの工房に複数人あてがったので、無理のない程度に交代で作業に当たることができると思います」


「なるほど、雑務がなくなれば、職人は作業に集中できますもんね……しかもきちんと交代制か」


 今まで、職人たちは物品の買い付けや納入、それに加えて炊事や洗濯まで、全て自分たちだけで行っていた。

 軽作業に加えてそれらの雑務の大半をやらなくて済むとあれば、工作作業に充てる時間を大幅に増やすことができるだろう。

 仕事に就けなかった傷病兵たちも、そこまで高い賃金は望めなくとも、一応は職にありつくことができる。

 しかもリーゼが後ろ盾として構えていてくれるのであれば、傷病兵たちは安心して働けるはずだ。

 双方の利害が一致した、素晴らしい方策といえる。


「職人たちも時間に余裕ができれば、おのずと工作精度も向上するはずです。あと、カズラ様に相談したいことがありまして……もしよろしければ、食事の後で少しお時間をいただけませんか?」


「分かりました。大工関係のことですか?」


「はい、水車の設計図を職人の方が手直したので、カズラ様にも見ていただきたくて……設計図は資料室にありますので、食後に一緒に参りましょう。お父様、よろしいですよね?」


「うむ、カズラ殿ならどこの部屋でも入ってもらっても構わんよ」


 ナルソンが頷くと、リーゼはほっとした様子を見せた。

 リーゼが一良を連れて行こうとしている資料室には、イステール領にとって重要な書類が多数保管されている。

 もしナルソンが難色を示したとしても、本当ならば資料室からリーゼが書類を運び出してしまえばいいのだが、それではリーゼは困るのだ。

 一良と共に、2人きりで資料室へ行けなければ意味がない。

 あの場所ならば、邪魔は入らないはずだ。


「資料室ですか。そういえば、まだ行ったことなかったな」


 そんなことをつぶやいている一良に、リーゼはいつものように可愛らしく微笑んだ。

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