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87話:急がば回れ

 その日の夜。


 月明かりに照らされた屋敷の庭先で、バレッタは湯浴みで濡れた髪を布タオルで拭いていた。

 既に着替えのチュニックだけは着ているが、ズボンは履いておらず、足も裸足のままだ。

 足元には湯浴みで使う板が敷かれているため、庭の土で足が汚れることはない。

 山への行きと帰りで大汗をかき、だいぶ身体がしょっぱい感じになってしまったが、石鹸で全身を泡だらけにして洗ったおかげですっかり綺麗になった。

 髪を結んでいた革紐は解かれており、肩にかかるほどの長さの美しい金髪が、月明かりに照らされてキラキラと輝いている。

 いつものように石鹸ではなく、シャンプーとコンディショナーを使って髪を洗ったため、手触りはいつもより格段に滑らかだ。


 時折庭を抜ける涼やかな風が肌に心地よく、周囲の草むらでは虫たちがりんりんと美しい音楽を奏でていた。


「(鉄鉱石は見つかったから、あとは実際に製鉄をして技術をものにしないと。土木工事ももっと色々試しておかないといけないし、農業機械や工作機械も、全部1台ずつは作っておきたいな……)」


 バレッタは今後、この村で実践しうる金属精錬や工作機械の製作など、できることは全てやってしまうつもりだった。

 一良が持ってきてくれた本の内容を全て暗記したとしても、実際に試してみないことには不安が残る。

 まずは、書籍から得られる土木や精錬の知識を元に、この村で行えることは可能な限り実践して、自分の力にしなければならない。

 その次は、作りえる機械や道具の仕組みを製作を通じて理解し、可能であれば効率的な量産手法を模索するのだ。

 村で使うために機械や道具を数台作るだけならば、量産化を念頭に置く必要はまったくない。

 だが、バレッタは近い将来、身につけた技術と知識を手土産に、イステリアにいる一良の元へと馳せ参じるつもりだった。


 今得られる技術を可能な限り取得し、かつ実用的な運用手法を会得した後ならば、きっと一良も自分の力を必要としてくれるようになるはずだ。

 前にイステリアで一良と別れた時のように、先に帰っていろ、などといったことは、もう言われなくて済むだろう。


 あの時バレッタは、一良がどこか手の届かない場所にいってしまうかのような感覚に襲われ、恐ろしいほどの喪失感を味わっていた。

 何故あそこまで自分の心が打ちのめされてしまったのかはよくわからないが、あのような思いは二度としたくない。

 一良が絶対に必要とするような存在に自分はなるのだと、バレッタは強く決意していた。


「(あと、毎日基礎訓練もしないと……アイザックさん、次はいつ来てくれるのかな)」


 昨日、一昨日と、バレッタはアイザックから軍隊式の基礎訓練のやり方を教えてもらっていた。


 普通、軍隊に新兵が入ると、マラソンや腕立てなどの筋トレによる基礎体力の向上と、集団生活を送ることで規律に慣れることが最初の訓練になるらしい。

 だが、バレッタの場合は身体能力だけで言えば新兵どころか神兵レベルなので、基礎体力の向上訓練についてはやり方を教わるだけに留まっていた。


 とりあえず剣と盾の持ち方と振り方、そして基本姿勢を習ったのだが、訓練開始2日目早々に、アイザックから「……合格です」と合格判定をもらった。

 以前、バレッタは嫌々ながらもバリンから武器の使い方は教わってはいたので、その成果もあったのだろう。

 それに、今は嫌々どころか訓練を熱望している状態なので、身の入り方もまるで違ったはずだ。


 今後行うように言われている訓練は、1.8メートル程度の高さの丸太を敵に見立てて切り倒すといったものだ。

 訓練用にと渡された木剣と盾は実戦で用いるものよりもかなり重いものらしいのだが、今のバレッタにとっては大した問題にはならない。

 切り、突きといった攻撃方法の型はアイザックに習ってしっかり覚えたので、あとは繰り返し練習して身体に攻撃方法を染みこませる必要があるとのことだ。


 それらに慣れた後は、投げ槍や弓、騎乗の訓練も行うと言われている。

 バレッタの目的は一良を守れるようになることだったので、近接戦闘のみできればいいのではないかとアイザックに申し出てみたのだが、「全部できないとダメです」と即座に却下されてしまった。 


 どれだけ時間がかかるかは分からないが、バレッタの習熟具合を見て、所々で模擬戦闘も挟んでいくとのことだ。

 本当ならばアイザックにも日本の食べ物を継続して食べてもらい、同じ土俵に立った状態で手合わせを願いたいのだが、こればかりはバレッタが勝手に判断して秘密を教えてしまうというわけにはいかない。

 村には従軍経験のある者が何人もいるので、その者たちに手合わせをお願いしてもいいだろう。

 確実にバレッタよりも強いはずなので、訓練相手としては申し分ないはずだ。


 バレッタは髪を拭いていた布タオルをカゴに入れると、薄手の腰巻きをした上にズボンを履き、草履を履いて乗っていた板を屋敷の壁に立てかけた。

 明日から、やらなければならないことは山ほどある。

 怠けている暇など、あろうはずがない。


 一良と一緒にいるためならば、いくらでも頑張れる自信があった。

 どんなことでもやってのける、覚悟があった。

 もう二度と、あんな想いをしてなるものか。


「……でも、先にお風呂場作ろうかな」


 自身の髪を鼻元に当てて少し頬を緩ませながら、バレッタはぽつりとつぶやいた。

 バレッタの髪からは、昨夜一良に渡したアロマペンダントと同じ、ラベンダーの優しい香りがほのかに漂っていた。




 一方その頃。


 パチパチと燃える焚き火の前で、一良はアイザックやハベルと共に談笑していた。

 一良が座る長椅子の隣にはマリーも腰掛けており、先ほど一良が淹れたハーブティーの入った取っ手付きの銅のコップを手にしている。

 マリーは少し恐縮している様子で、コップを手にしたままちらちらと一良の顔をうかがっていた。


 周囲でも部隊の兵士や使用人たちが思い思いの場所でくつろいでおり、沢山の天幕が張られた野営地は穏やかな雰囲気に包まれている。

 澄み渡った夜空には沢山の星がキラキラと輝き、まさに星降る夜といった見事な景観だ。


「言われてみれば、確かにマリーさんはハベルさんに少し似ていますね。でも、まさか兄妹だとは思わなかったなあ……初めに言ってくれればよかったのに」


「伝えそびれていて申し訳ございませんでした。職務上、特に必要な情報ではないと思っていたもので……」


 先ほど初めて、一良はマリーがハベルの妹であることを知らされた。

 マリーのことはただの若い使用人だと思っていた一良は、2人が兄妹であると知ってとても驚いていた。


「でも、親元を離れてナルソンさんの屋敷に住み込みでは大変でしょう? 今さらですが、お2人とも仕事時間を夕方くらいまでに減らしても構いませんから、一緒に帰るようにしてはどうです?」


「お気遣いありがとうございます。ですが、今のままで大丈夫ですので、今後とも兄妹そろってカズラ様のお傍に置いていただきたく思います。少しでもカズラ様のお役に立てるよう、精一杯努力いたしますので」


 気遣う一良の言葉に、ハベルは笑顔で答える。

 そんな2人のやり取りを、アイザックは何ともいえない表情で眺めていた。


「あれ、でも、貴族のご令嬢なのに、侍女として働いているんですか?」


 ふとわいた疑問を一良が口にすると、ハベルは少し悲しげな表情を作ってみせた。

 心の中では、「よしきた!」と拳を握り締めているのだが。


「……実は、マリーは父が奴隷との間に作った子でして、腹違いの妹なんです」


「えっ?」


 ぽつりとつぶやくように言うハベルに、一良は驚き目を見開く。


「奴隷の子は生まれたときから奴隷身分と決まっております。なので、マリーは家族ではなく奴隷として家で働かされていたのです。マリーの所有権は父にあるので私ではどうにもできず、マリーにも毎日辛い思いをさせてしまい、歯がゆい思いをしていたのですが……カズラ様のお傍に仕えさせていただけるようになってからは家に帰らなくてもよくなりましたし、普段もとても良くしていただいて、本当に感謝しております。な、マリー?」


 話を振られたマリーは、緊張した様子で身をすくめながらも、こくこくと何度も頷いた。


「は、はい。カズラ様にはいつも本当に優しくしていただいて……」


「いやいや、マリーさんはいつも本当に一生懸命働いてくれていますし、私の方こそお礼を言いたいです。いつもありがとうございます」


「っ! いいい、いいえ! あ、ありがとうござ、ございま」


 そう言って一良がマリーに軽く頭を下げると、マリーは極度の緊張で涙目になり、言葉をどもらせながら勢いよく頭を下げた。


「え、いや、そんな緊張しなくても」


「もも、申し訳ございません!」


 壊れた玩具のようにぺこぺこと頭を下げるマリーに、一良は苦笑した。 

 仕事中のマリーはいつもキリッとしていて、何をするにも手際が良く頼りになる。

 だが、そのくせ実は小心者であるらしく、ちょっとした切っ掛けですぐにおろおろしてしまうのだ。


 最近ではそれもいくらかマシになってきたと思っていたのだが、今日のマリーの緊張ぶりは少し異常だった。


「(……ああ、奴隷だと知られてクビにされるんじゃないかと怯えているのか)」


 何でそこまで緊張しているのだろうと考えた末、一良はそんな結論に至ってしまった。

 マリーがぷるぷるしている本当の理由は、一良を利用して丸め込もうという兄の恐ろしい計画に加担してしまっているという罪悪感からくるものなのだが、そんなことを一良は知る由もない。


「(そういえば、あの時のハベルさんの台詞はこのことを言ってたのか)」


 雨に打たれる子犬のようにぷるぷるしているマリーを見て、一良は以前ハベルが言っていた『軍に志願した理由』を思い出した。

 確かあの時、「なぜ軍に志願したのか」という一良の問いに、ハベルは「守りたいものがあるので」と答えていたはずだ。

 きっと、その守りたいものとはマリーのことなのだろう。

 マリーの所有権はハベルの父親にあると先ほど聞いたので、ハベルは父親に認めてもらえるぐらい軍部で昇進して、マリーの所有権を譲ってもらい、奴隷身分であるマリーを保護するつもりなのだろう。

 身分の差などものともしない、素晴らしい兄妹愛だと一良は感動した。

 これは是非とも、自分が影ながら応援してやらねばならない。

 自分がこっそり後押ししてやれば、ハベルの努力はいずれ報われるはずだと一良は内心頷いた。


「大丈夫ですよ、別に私は身分なんて気にしません。これからもよろしくお願いしますね」


「は、はいっ!」


 そう言って一良がマリーに優しく微笑みかけると、マリーは反射的に頭を下げて返事をした。


「それで、話は変わりますけど、皆さんに聞きたいことがあるんですよ。イステリアで使われている薬なのですが……」


「え?」


「ん?」


 突如話題が切り替わり、自分の思惑がほぼ上手くいくことを確信していたハベルは、思わず声を上げた。

 そんなハベルに、一良もハベルに目を向けて首を傾げる。

 一良の隣では、マリーが未だにぷるぷるしている。

 一良の対面で黙って話を聞いていたアイザックも、ぽかんとした表情で目を点にしていた。


「どうかしました?」


「あ、いえ……その、マリーのことは……」


「あ、本当に気にしなくて大丈夫ですよ。今までどおり、これからもよろしくお願いしますね」


「は、はい」


 そう言って微笑む一良に、ハベルは混乱しながらも頷いた。

 なぜそこまでマリーの境遇を知っておいて、「奴隷身分から解放してやろう」と一良が言ってくれないのかが不思議でならないのだ。

 ハベルは、一良は親しい者が困っていたり不幸な状態を見れば、無条件で手を差し伸べて何としてでも救おうとする性格だと思っていた。

 だが、実際の一良の性格は、ただのお人よしというだけではなかったのだ。


 一良は、一生懸命頑張っている人が大好きだったのだ。

 頑張っている人を見るとそれをなんとか応援してあげたくなるという、ハベルが想像していた斜め上を行く性格だったのだ。


「で、ですが、その……」


「……あ、そうか! それもそうですね」


 なおも食い下がろうと言葉を発するハベルに、一良は何かに気づいたように頷いた。


「マリーさんにも、私がグレイシオールだということを教えておいたほうがいいですよね。詳しくは後でハベルさんから説明しておいてください」


「……かしこまりました」


 やっと意図を察してくれたかとほっとしかけたハベルだったが、完全に間違った方向に解釈している一良に肩を落とした。

 自分の意図通りに話が進まなかったことは残念だが、一良がグレイシオールであることをマリーが知る許可をもらえたことの意義は大きい。

 今後はもっと、一良とマリーの距離は近くなっていくことが期待できるだろう。

 そうなれば一良からの庇護は強くなるはずなので、とりあえずはこれでよしとハベルは満足しておくことにした。

 

 一良の隣では、状況を把握できていないマリーが、相変わらずぷるぷると震えていた。

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