79話:神兵
次の日の朝。
宣言どおりに明け方に戻ってきたバリンを加え、3人は朝食を済ませた。
朝食後に小休憩がてら、バレッタは一良と2人で雑談をしながら、日本で調達する品物を大学ノートに羅列する。
数日後には一良は再びイステリアへ行きっきりとなってしまうので、買い忘れのないように慎重に確認をとった。
30分程じっくりと確認をした後、日本へと向かう一良をバレッタは屋敷の入り口から見送った。
土間の洗い場で食器を手早く洗い、洗濯物を入れたカゴと石鹸を入れた水桶を抱えて屋敷を出る。
そのまま村の入り口を出て、川の水が流れている水路へと向かう。
「(やっぱり、村の中にも常に水が流れてる水路が欲しいかな)」
村の溜め池に水を送っていない時は、水車が汲み上げた水は村の入り口手前で川の下流へと戻してしまうので、村の中にある水路に水は流れていない。
そのため、今のように村の溜め池が満水状態のときは、新鮮な水を使うために一旦村の外にまで出る必要がある。
一良が村にやってくる前は、炊事や洗濯に使う水は背負子と水瓶を使って川から運んできたものを貯め置きし、節約しながら使っていた。
その頃に比べればはるかに便利な生活を送れるようになってはいるのだが、より便利な生活を送りたいと思うようになるのは当然の帰結だろう。
ちなみに、現在川に設置されている水車は、以前一良が日本から調達してきた水車に戻してある。
バレッタが水路にたどり着くと、既に水路の脇ではアイザックの部隊の使用人たちが洗濯を行っていた。
バレッタは使用人たちに挨拶をすると、使用人たちと同じように水路の傍にしゃがみ込んで水桶に水を汲み、中に入れた洗濯物を石鹸で丁寧に洗い始める。
10分程かかって全ての洗濯物を洗い終えると、一旦立ち上がって周囲を見渡した。
水路から少し離れた場所に設営された野営地には沢山の天幕が張られており、天幕の傍には荷馬車が繋がれている。
バレッタは野営地のはずれに探していた人物の後姿を見つけると、洗濯物を抱えて小走りでその人物の元へと駆け寄った。
「アイザックさん、おはようございます」
近くにいた兵士と何やら話していたアイザックは、バレッタの声に振り向くと笑顔を見せた。
「おはようございます。昨夜は夜分遅くすみませんでした。カズラ様はすでに神の国へ?」
話していた兵士を下がらせ、周囲に人がいないことを確認してからアイザックは一良の所在を確認する。
「はい、先ほど出かけました。明日のお昼には一旦戻ってくるって言ってましたが、もしかしたらその後もう一度出かけるかもしれないとも言ってました」
「そうですか……イステリアでもそうでしたが、カズラ様は我々の国のために、寝る間も惜しんで本当に一生懸命に尽力してくださっています。カズラ様がお戻りになられた際には、どうかこの村にいる間だけでものんびりできるように応対していただきたいです。私にお手伝いできることであれば何でもしますので、お声掛けください」
そう言って微笑むアイザックには、貴族の驕りなどは微塵も感じられない。
やはりこの人は他の貴族とは違うと、バレッタは嬉しくなった。
ハベルやナルソンもとても丁寧な応対をしてくれたが、アイザックと比べると何かが違うとバレッタは感じていたのだ。
彼が一良の傍についていてくれるのならば、一良の周囲で何かあっても一番に力になってくれるだろう。
「わかりました。それで早速なのですが、アイザックさんに1つお願いがあるんです。よろしいでしょうか?」
「もちろんです。何でもおっしゃってください」
「私に、武術を教えていただきたいんです」
バレッタからの予想外の申し出に、アイザックはきょとんとした表情になった。
「武術……ですか? 何故です?」
問い返すアイザックに、バレッタは真剣な表情を向ける。
身長差が頭1つ分以上もあるので、バレッタがアイザックを見上げるような形だ。
「以前村が野盗に襲われたとき、私は恐怖のあまりに何もできませんでした。なので、次に同じようなことがあったとしても、今度はきちんと戦えるようになりたいんです」
そこまで言って、バレッタは続きを言おうか少し悩んだが、アイザックが真剣な表情を自分に向けていることに気付くと決意を固めた。
この人には、本当のことを言おう。
「私、カズラさんを守れるようになりたいんです。そのためには、武術も必要なんです」
バレッタがそう言うと、アイザックはすっと目を細めた。
「武術も、ですか」
「はい。武術も、です」
そして数秒の間アイザックは黙り込んでいたが、1つ息をつくと口を開いた。
「カズラ様をお守りしたいとのことですが、武術は一朝一夕で身につくものではありません。人を守るための技術ともなれば、さらに時間はかかるでしょう。それに、私がグリセア村に来ることのできる機会は限られています。申し訳ありませんが、武術の訓練に関しては、私がバレッタさんのお役に立てるとは思えません」
「それでも、お願いします。基本と訓練の仕方を教えていただければ、アイザックさんが村にいない間は自分だけで訓練します」
バレッタの台詞に、アイザックは少し顔をしかめた。
「私は1ヶ月の間に、グリセア村へは1回来れるかどうかといったところですよ? 自分で訓練をするとは言いますが、私がいない間に変な癖がついたら取り返しがつかないでしょう。それに、バレッタさんはとても戦いに向いているとは思えません。もっと別な方向に努力を向けるべきでしょう」
「……なら、試してください」
「……何をです?」
いぶかしげな視線を向けてくるアイザックを、バレッタは真っ直ぐ見据える。
「私と、手合わせをしてください。もし私が勝ったら、私に武術を教えてください。負けたらその時は諦めます」
「……」
突拍子もない申し出をするバレッタに、アイザックは「何を言っているんだこの娘は」といった表情になった。
だが、バレッタの雰囲気にふざけた様子は微塵も感じられない。
まぎれもない、本気だった。
アイザックは1つ溜め息をつくと、やれやれといった様子で頭をかいた。
「そこまで言うのなら、手合わせしましょう。ですが、あなたが負けたらそれでこの話はおしまいです。それでいいですね?」
アイザックが了承すると、バレッタはほっとした様子で微笑んだ。
まるで、もう自分が勝負に勝った後のような、安心しきった微笑みだった。
「はい、ありがとうございます。ちょっと洗濯物を干してきちゃうんで、その後でもいいですか?」
「わかりました。装備はこちらで用意しましょう。剣と盾でいいですか?」
「それで構いません。盾は重いものでも大丈夫ですから、皆さんが使っているような円盾をお願いします。それと、手合わせしていただく場所は、村はずれの森の中がいいです」
「村はずれの森ですね。わかりました、準備が出来たら向かいましょう」
「はい、よろしくお願いします」
バレッタはそう言ってぺこりと頭を下げると、軽い足取りで村へと駆けていった。
アイザックは何やら釈然としないものを感じながらも、装備を取りに野営地へと戻っていった。
それから30分後。
村はずれの森の中で、バレッタは円盾と訓練用の木剣を手に、アイザックと対峙していた。
木剣は柄の部分が青銅で補強されており、ちょっとやそっとの衝撃では折れないように作られている。
盾は部隊の兵士が一般的に使っている、ふちが青銅で補強された円盾だ。
前腕部分が皮ベルトでしっかりと固定できるようになっており、持ち手の部分を握りこむことで、盾の重さを分散させる造りとなっている。
アイザックもバレッタと同様の装備をしており、2人の距離は5メートル程離れていた。
「えっと、よろしくお願いします。勝ち負けの判定はどうしましょう?」
「相手にまいったと言わせることができたら勝ちとしましょう。または、状況によってその都度判断ということで」
少し緊張した様子で問いかけるバレッタに対し、アイザックはいつもと変わらない様子でバレッタを見据えている。
相手が自分より5つも若い小柄な少女だからといって、アイザックは油断や手加減をするつもりはさらさらない。
きっとバレッタは自分が手心を加えてくれると思っているのだろうと、アイザックは考えていた。
だが、そのような期待に応えるつもりは全くない。
中途半端な優しさは、後々本人の命を刈り取ることにもなりかねないのだ。
厳しく向き合ってこそ、この娘にとっての将来のためになるだろうと、アイザックは心を鬼にしていた。
「では、全力で向かってきてください。後悔などしないように、全身全霊で戦うのです」
「全力で……ですか」
全力と聞き、バレッタは少し不安そうな表情になった。
一言で全力と言われても、どうすればいいのかと戸惑っているのだ。
「そう、全力です。殺す気で向かってきてください。憎い相手に復讐を果たすようなつもりで、全力で」
「そ、そんなこと言われても……」
「なら、私がカズラ様を手にかけた仇だと思いなさい。大切な人の命を奪った仇を、今こそあなたのその手で討ち取るのです」
変に戸惑った戦い方をして後悔や心残りが生まれないようにと、アイザックはバレッタに全力を出させようと試みる。
怒りを持った状態で戦うのは冷静な判断ができなくなるので、本来はいい戦い方ではない。
だが、この際そういった細かい話は無視するべきだろう。
素人のバレッタと生粋の軍人であるアイザックとでは、戦闘技術やとっさの判断力、さらには身体能力にも隔絶した力の差があるのだ。
大切なのは全力を出させることであり、その結果としての敗北を受け入れさせることだとアイザックは考えていた。
「……カズラさんの、仇」
バレッタはつぶやくと、そっと目を閉じて意識を集中させる。
「……」
目の前のアイザックが、一良を斬り殺す様を想像する。
長剣が振るわれ、一良の腕が切り落とされる。
胴体を刺し貫かれ、傷口から鮮血が勢いよく噴出す。
無残にも斬り殺され、物言わぬ骸となって地面に崩れ落ちる大好きな人。
その様子を、自分はすぐ近くにいるのに何もできず、ただ呆然と見つめている。
じっと静かに、繰り返し繰り返しその状況を頭の中で再現する。
すさまじい集中力の中で構築したかりそめの惨劇に、憎悪という名のどす黒い感情が、ふつふつと心の底から沸き起こる。
殺してやる、と心の中で一言つぶやくと、殺意の本流が一気に頭の中を埋め尽くした。
「っ!?」
そっと目を開いたバレッタの変わり果てた雰囲気に、アイザックは思わず息を飲んだ。
バレッタの顔からは、表情が消えていた。
自分を見据えるその瞳の奥には、すさまじいほどの殺気が宿っている。
いつの間にか、先ほどまで森の中に響いていた、鳥のさえずりや虫のさざめきが止んでいた。
「いきます」
短い宣言と共に、バレッタはえぐれるほどに地面を蹴ってアイザックに向けて突進する。
5メートル近くあった距離が、瞬きするほどの時間で一気に詰まる。
あわや衝突。
その直前、バレッタは右手に持った木剣を力任せに横なぎに振りぬいた。
「ぐっ!?」
技術もへったくれもない、それでいてすさまじい破壊力が込められた強烈な一撃。
それをアイザックは、脊髄反射によってぎりぎりのところで盾で防ぐ。
がつん、という耳障りな衝突音と共に、盾から腕に伝わる桁外れの衝撃。
そのあまりの衝撃に、アイザックは後方によろめきながらも、手にした木剣をバレッタに向けて袈裟懸けに振り下ろす。
不安定な体勢からとはいえ、手加減など一切していない、本気の一撃。
だが、バレッタの肩口に当たるかと思われたその一撃は、空しく虚空を切り裂いた。
「……」
バレッタは素早く身をよじり、ぎりぎりのところでアイザックの攻撃を回避。
即座にバックステップで2メートルほど後方に跳び、一旦距離をとって体勢を立て直した。
深く腰を落とし、さらにもう一度地面を蹴ってその距離を一気に詰める。
再度、渾身の力を込めた横なぎの強烈な一撃。
2度も同じ手を食うものかと、アイザックはバレッタが振りかぶるのと同時に自らも盾を押し付けるように踏み込んで、バレッタの剣撃を殺しにかかる。
「何っ!?」
バレッタの木剣とアイザックの盾とが衝突する直前、アイザックの持つ盾のふちが、木剣を手放したバレッタの右手に掴まれた。
逆に勢いを利用され、桁外れの腕力で無理矢理に前方へと引き寄せられる。
「ぐあっ!」
大きくバランスを崩したところに、蹴り飛ばすかのような強烈な足払い。
アイザックは完全に重心を崩し、つんのめるような形で地面に叩きつけられた。
「勝負ありです」
うつぶせに倒れるアイザックの後頭部に、バレッタは左手に装着した盾の端を押し当てた。




