70話:しがらみ
朝食後、リーゼは自室の青銅の鏡台の前で、エイラに髪を結い上げさせていた。
今リーゼが作っている髪形は、一般的にシニヨンと呼ばれているものである。
別名、お団子頭と呼ばれているものだ。
先程の朝食の席で一良から聞いた話によると、今日は夕方まで穀倉地帯で水車の設置作業を行うらしい。
移動はラタを使わずに徒歩とのことなので、身軽な服装はもちろんのこと、髪型も動きやすいものに変更しているのだ。
「ねえ、さっきのことだけど、エイラは何でだと思う?」
それまで黙ってエイラに髪を結われていたリーゼが、不意に鏡の中の自身の姿からエイラに視線を移して話し掛けた。
「えっと……私がカズラ様の従者を兼任するというお話のことでしょうか?」
「うん、それ。他にもカズラ様に付いてた侍女はいたのに、何でエイラが指名されたんだと思う?」
「何で、ですか……」
髪を結わえる手は止めずに、エイラは考えるように「うーん」と唸る。
「私の侍女の経験が比較的長いことと、私の年齢がカズラ様の年齢と近いからでしょうか。見たところ、カズラ様は20代半ば程のお歳に見えますから、その所為かもしれません」
「……うーん」
それは違うんじゃないか、とリーゼが言い掛けると、エイラが
「もしくは」
と言葉を被せてきた。
「ジルコニア様は、リーゼ様がカズラ様に興味を持つように仕向けようとしているのではないでしょうか? 私がカズラ様の従者に宛がわれたのは、お2人の接点作りのようにも思えます。今までご家族だけでとっていた食事の席にカズラ様を招いていることも考えると、そう考えて間違いないかと」
「うん、それは私も考えた」
自身の考えと同じエイラの意見に、リーゼは同意するように頷く。
「何日か前にも、お母様はわざわざ私の部屋に来てカズラ様の話をしていったし、私に興味を持たせようとしているのは間違いないと思う。でも、それだと1つ分からないことがあるのよ」
「分からないこと?」
エイラが聞き返すと、リーゼは訝しむような表情で軽く首を傾げて見せた。
「カズラ様が何処の国の貴族なのかをお母様が教えてくれないことよ。別に隠すようなことじゃないと思わない?」
「……確かに」
リーゼがジルコニアから一良の話を聞いた時、一良はとある国の大貴族出身だと言っていた。
だが、何処の国の貴族なのかをリーゼが尋ねても、ジルコニアは答えてくれなかったのだ。
普通に考えて、そんな情報をリーゼに隠す必要性など見当たらない上に、リーゼに興味を持たせようとしているのならば尚のこと意味が分からない。
「もしかして、バルベールの貴族だったりして」
「えっ、それはさすがに無いのでは……」
「でも、近場の国の大貴族って北のバルベールくらいしか考えられなくない? 東のクレイラッツにはそこまで目立つ貴族はいないはずだし、プロティアはクレイラッツの向こう側な上に、アルカディアとそれほど親しいわけじゃないし」
東の隣国であるクレイラッツには、大きな力を持つ大貴族は存在しない。
その理由は、クレイラッツが古くからとっている直接民主制という政治形態にある。
直接民主制とは、市民1人1人が直接政治に参加できる政治方式である。
クレイラッツにおいては、18歳以上の市民全てに参政権が与えられ、議会にかけられた案件に対して投票権を持つ。
平時における国政の推進者や外交担当官など、あらゆる要職に就く者は全てくじで選出され、しかも任期は1年間と限定されている。
そのため、特定の人物に対して利権が集中するということが起こらない。
貴族中心に政治運営がなされていた過去の名残で貴族もいることはいるのだが、クレイラッツにおいての立場は平民と大差はない。
要は、クレイラッツは一般市民が中心の国家なのだ。
貧富の差はもちろん存在するが、富んでいる者も貧しいものも権利は平等であり、その殆どが一般市民である。
クレイラッツには首都のほかにも複数の都市が存在し、それらが強い同盟関係にある都市国家群を形成している。
それゆえ、『クレイラッツ都市同盟』と称されることもある。
クレイラッツの東に存在するプロティアという国は王政であり、力を持った貴族も存在するが、近年になるまでアルカディアとは国家間での交流はあまり盛んではなかった。
4年前までの戦争において、クレイラッツの仲介によってバルベールに対抗するために同盟を結んだ結果、ようやく国家間の交流が盛んになったのだ。
それまでにも交易自体は陸路と海路を通じて盛んに行われていたため、国同士の関係性は良好である。
ちなみに、クレイラッツとプロティアの関係は現在非常に良好である。
4年前の戦争が起こるまでは海上利権の問題等で時折険悪になったりもしたが、バルベールという共通の敵が出来たことによって互いに手を取り合ったのだ。
もっとも、共通の敵に対抗するという利害関係が一致しているために一時的に関係性が改善している状態なので、バルベールとの戦争が落ち着いた後はどうなるのかは分からない。
また、プロティアの更に東にはエルタイルという王国が存在し、この国も前回の戦争においてはアルカディアと同じ同盟に加わっている。
国の大きさはプロティアと似たり寄ったりだ。
アルカディアとエルタイルとの関係性は、距離的な問題からプロティアとの関係よりも更に薄い。
陸路では距離がありすぎる上に国境を3回も跨いでしまうので、主に海路での交易が行われている。
「ですが、大のバルベール嫌いのジルコニア様が、バルベールの貴族を屋敷に招くだけならまだしも、屋敷に住まわせたりご家族での食事の席に同席させるとはとても思えません」
「でも、それだとプロティアくらいしか……そういえば、お母様って何でそこまでバルベールを嫌ってるんだろ。いきなり難癖付けて侵攻してきたから嫌うのは当たり前だとは思うけど、それにしては何かこう、凄みがあるっていうか……」
この屋敷に住む者や働く者たちにとって、ジルコニアがバルベールを毛嫌いしているということは周知の事実である。
4年前に休戦協定が結ばれることが国家間での話し合いで決定した際、ジルコニアがかなり激しい口調でナルソンと言い争っていたというのは有名な話だ。
噂では、ジルコニアは休戦協定など結ばずに、北方の蛮族の動きに連携してバルベールに攻め込むべきだと強く主張していたらしい。
現在のアルカディアの状況や他国の状況を説明してもジルコニアは主張を変えず、あまつさえナルソンのことを腰抜け呼ばわりしたらしい。
その際、かなり口汚くバルベールを罵り、バルベールの人間は皆殺しにするべきだと言っていたらしいが、真偽の程は定かではない。
また、休戦協定締結後の数日間、ジルコニアは頗る機嫌が悪く、ナルソンやリーゼですら話しかけることが出来ないほどだったのは確かだ。
何日か経った後でようやく頭が冷えたらしく、ジルコニアはナルソンとリーゼに謝罪し、それ以降はいつもの温厚な彼女に戻っている。
むしろ、以前よりも性格が丸くなったと感じられる程、周囲に対して柔らかく接するようになった。
ただし、軍事関係になると話は別で、訓練等に一切の妥協を許さないというのは以前のままだ。
だが、過去のバルベールとの戦争の話題になるとジルコニアの目付きが急に恐ろしいものに変わるので、リーゼはあえてその話題は避けるようにしている。
「……噂で聞いた話なのですが」
考え込む様子のリーゼに、伏し目がちにエイラが口を開く。
「バルベールとの戦争が起こる数ヶ月前に、北方の山岳地帯にあったイステール領の村のいくつかが野盗に襲われたことがあったらしいんです。襲われた村は住民全てが虐殺されるか攫われるかしたとのことで……その……」
言い難そうに言葉を詰まらせるエイラを、リーゼはじっと見つめる。
「ジルコニア様は、その時に襲われた村の生き残りらしいんです。どういう経緯かはわかりませんが、その後に兵士としてイステリア軍に志願して、ナルソン様に見初められて、戦争直前にご結婚なされたとか」
「……それ誰から聞いたの?」
「ナルソン様とジルコニア様がご結婚なされた時に、先輩の侍女たちが噂話しているのをたまたま耳にしまして……ただ、あくまで噂なので、本当かどうかはわかりません」
「……」
初めて耳にするジルコニアの過去の話に、リーゼは複雑といった様子で黙り込んだ。
もしその噂が本当だとすると、北方の山岳地帯にあった村々を襲った野盗というのは、バルベールの手のものなのだろう。
それならば、ジルコニアがバルベールを強く憎んでいることや、バルベールの話題に敏感なことにも納得できる。
何故ナルソンと結婚することになったのかまではよく分からないが、恐らくバルベールに関係してのことだろうとは何となく予想がついた。
「どうして今まで話してくれなかったの?」
「あえて話題に出すような類の話でもないので……それに、あくまで噂ですから」
「そう……そうよね。エイラ、手が止まってるわよ」
「あっ、申し訳ございません」
いつの間にか手が止まってしまったエイラに注意し、リーゼは視線を鏡の中の自分に戻した。
リーゼが身支度を整えている頃、ルーソン邸の一室では、ハベルがテーブルを挟んで父親のノールと相対していた。
ノールの表情が険しいのに対し、ハベルは平然とすましている。
「父上、それは誤解です。私からマリーを売り込むような真似は致しておりません」
「ならば何故マリーが指名されるようなことになったのだ。お前がこうなることを見越して、カズラとかいう貴族を家に泊めた際にマリーに世話をさせたと考えるのが普通だろう」
ノールは詰問するようにハベルを問いただすが、声を荒げはしていない。
だが、その瞳の奥には若干の怒りが見え隠れしていた。
「料理に熟練した他の侍女に比べればマリーの腕は若干劣るので、調理については手伝い程度にさせた上でカズラ様の身の回りの世話を申し付けたに過ぎません。父上の言い分こそこじつけの様に聞こえますが」
「……ふむ。ならば、何故この間の外出時にマリーを従者として連れて行ったのだ。別に他の者でもよかっただろう」
「あの時は父上と兄上がグレゴルン領から戻ってきた当日だったので、それの対応をする使用人の中から引き抜いても問題ない者を選んだのです。それに、兄上はマリーのことを嫌っていますし、マリーは私に懐いています。それを考えれば、従者にマリーを選ぶのは自然な流れかと」
「随分と口が上手くなったものだ……まあ、それに関してはよしとしよう」
それまで険しかった表情を緩め、ノールは軽く息を吐いた。
ハベルがマリーを売り込んだということはノールの中ではほぼ確定しているのだが、理路整然と理由を述べるハベルに感心しているのだ。
「こちらからの提案で、マリーは一時的にイステール家に貸し出されることになった。その男がイステリアを離れる時には、またマリーはルーソン家に戻ってくることになっている」
「……貸し出し、ですか」
「うむ」
貸し出しと聞き、ハベルは僅かに顔を顰めた。
先程ノールから、ジルコニアが直々にマリーの身請けを申し出にルーソン邸に来たと聞いていたので、てっきり所有権自体がイステール家に移ったものだと考えていたのだ。
「ハベルよ、以前に交わした約束は覚えているな?」
「はい、もちろんです」
「ならば分かっているだろう。何も焦らずとも、お前が軍部で昇進して然るべき役職に就き、ルーソン家に益を成すようになれば、マリーはお前に譲ってやる。マリーが解放奴隷になるための資金付きでな」
「……はい」
「分かっているなら、下手な小細工は止めろ。お前だって、私の心象を悪くして約束が反故になったら困るだろう?」
ノールがそう言うと、ハベルがノールに向ける視線が少しばかり鋭くなった。
これをネタに難癖を付けられるのではないかと懸念しているのだ。
それに対し、ノールは軽く笑って手を振ってみせる。
「そんな目を向けるな。別に約束を無しにしたりはせんよ。ほれ、そろそろ軍部に出勤しないといけない頃合じゃないか?」
「……」
ハベルはノールに軽く腰を折って礼をすると、部屋の出口へと向かう。
「ハベルよ」
ハベルがドアの取っ手に手を掛けた時、ノールがハベルを呼び止めた。
「何か?」
「今回のやり方は少し強引過ぎたが、まあ、なかなかにいい方法ではあったな。下手な小細工と言った事は訂正しておくよ。次はもっと上手くやれ」
「……失礼します」
ノールの台詞にハベルは今度こそはっきりと顔を顰めると、静かに部屋を出て行った。