69話:予定調和
次の日の朝。
ナルソン邸内の食事用の一室では、数名の侍女達が手際よく朝食の準備を行っていた。
部屋の中央に設置された150センチ程の長テーブルの上には、既に銀製の皿やコップなどの食器が配膳され終えている。
今は、侍女たちがそれらの食器の上にスープ入りの皿や焼きたてのパンなどを並べているところだ。
席にはいつもの4人――イステール一家と一良――が座っており、ナルソンと一良は早速昨日行った仕事の進捗について話し合っている。
朝食の準備をする侍女達の中には、一昨日からナルソン邸で住み込みで働くことになったマリーの姿もある。
マリーは新しい環境に若干戸惑いながらも、一緒に配膳に取り掛かっているエイラをはじめとした他の侍女たちに指示を受けながら、テキパキと食事の配膳を行っている。
マリーは幼い頃からルーソン邸で侍女として働いていたので、仕事の内容自体は手馴れたものなのだ。
テーブルに並べられている朝食のメニューは、1人分だけ他のものとは内容が若干異なっている。
料理の種類的には同じものなのだが、それに使われている材料が全く別物なのだ。
その1人分とは一良用のもので、皿に盛られているものは今朝一良がマリーに手渡したレトルトのスープやパンの缶詰である。
スープには調理場にあった野菜を刻んだものが少量加えられて量増しされているが、パンは缶詰から取り出したままの状態だ。
次々と料理が並べられていく中、リーゼは同じく席に着いている他のメンバーの顔をちらちらと伺っていた。
「(……この人たち、そろそろ倒れるんじゃないかな)」
リーゼと同じく朝食の配膳を待つメンバーは、皆顔に疲労が色濃く残っており、全員が目の下にクマを作っていた。
一良だけはまだ少し余裕があるようで、目の下にクマを作って疲れた顔をしながらも、朗らかな調子でナルソン相手に昨日の穀倉地帯での作業について言葉を交わしている。
一良は昨日は6時間ほど眠ることが出来たので、体の調子はそこそこいい。
また、昨夜は先日溶けてしまったアイスのチョコミントバーを冷蔵庫で程よく冷やし、激甘チョコミントドリンクとして3本分摂取した。
糖分による疲労回復効果と、残念な形とはいえ嗜好品を摂取することが出来たため、それなりに元気なのだ。
それに引き換え、ジルコニアは軽く意識が飛び掛っているのか、虚ろな表情で窓の外に見える青空を眺めていた。
その様子からはかなりの疲労と寝不足が伺え、顔色も少し白みがかっているように見える。
「あの、お母様……」
「……」
「お母様?」
「(……空きれい)」
リーゼがジルコニアに話し掛けるが、ジルコニアはそれに全く反応せずに空を眺め続けている。
リーゼの声が耳に入っていないのだ。
「ジル、リーゼが呼んでいるぞ」
「……」
「ジル!」
「えっ!? あ、ごめんなさい。何かしら?」
ナルソンに名前を呼ばれ、ジルコニアははっとした様子でナルソンに顔を向けた。
「大丈夫か? かなり疲れているように見えるが……」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
ジルコニアは表情を取り繕ってそう返事をするが、どう見ても大丈夫そうには見えない。
「ジルコニアさん、今日一日休んではどうですか? かなり辛そうですけど……」
「いえ、本当に大丈夫です。それに、ただでさえ仕事が溜まってしまっていますから、今私が休むわけには……」
「……昨日どれくらい寝ました?」
「……半刻くらい」
気まずそうに呟くジルコニアに、一良とナルソンは顔を見合わせた。
半刻とは約1時間程であり、それっぽっちの睡眠では足りるはずが無い。
「ジル、今日は休め。そんな状態ではすぐに倒れるぞ」
「……じゃあ、午前中だけ休ませてもらうわ」
「いや、午後も休んだほうがいいですよ。ちゃんと寝てください」
「でも……」
休むわけにはいかない、といった風に、ジルコニアは苦しげに言葉を返した。
本当ならば今すぐにでもベッドに潜り込んで寝てしまいたいのだが、仕事が溜まりすぎていて休むわけにはいかないのだ。
ここ数日、ジルコニアは一良を追ってグリセア村へ行ったり、穀倉地帯での作業を一良と共に行ったりしていたため、今まで何とかこなしていた領内の事務仕事や武官や文官からの報告の処理などが軒並み後ろ倒しになっている。
他の武官や文官に任せられる内容の物は任せてしまっているのだが、ジルコニアの立場でなければ処理出来ない仕事もかなりの量がある。
溜まった仕事をジルコニアがいつまでも放っておくと、玉突き式にその後の作業が遅延していくため、ジルコニアが休むわけにはいかないのだ。
それに加え、一良に直接指示された水車の部品製造に付帯する仕事は、他の者には任せるわけにはいかないといった頭がジルコニアにはある。
結果としてどうしても手が足りなくなるので、睡眠時間を削って他の作業を処理する以外に方法が無いのだ。
「お母様、私にも何かお手伝いをさせてください。事務処理などは無理にしても、現場に出向いて作業の進み具合を見るような仕事なら私にも出来ます」
ジルコニアが苦悶していると、不意にリーゼが手伝いを申し出た。
予想していなかった台詞に、皆が「え?」といった表情でリーゼに目を向ける。
「現場にって……あなたには他に予定があるでしょう? 面会の予定はどうするの?」
「使いを出して、今回は中止にさせてもらうように伝えさせます。領内の仕事の方が大切です」
「……今日会う予定の相手は誰?」
「えっと……」
リーゼはちらりと壁際で待機しているエイラに目を向ける。
「グレゴルン領の貴族のギュンター=ブランデン様、同じくグレゴルン領の豪商のニーベル=フェルディナント様が午前と午後に分けて面会する予定となっております。お二方とも、2日連続での面会です」
「ニーベル……あぁ……」
「……アレか」
エイラが面会者の名前を挙げると、ジルコニアとナルソンが何故か納得したような表情をした。
「はい……あ、別にアレ……じゃなくて、ニーベル様が嫌だからというわけでは」
「(あ、アレ呼ばわり……)」
ニーベルのことをアレと言いかけ、リーゼは一良を見てはっとした様子で慌てて取り繕うように胸の前で手を振った。
だが、彼らの様子からして、3人はニーベルという人物にあまりいい印象を持っていないのだろう。
一良は知らないことだが、昨夜の夕食の席にリーゼが出席出来なかったのは、ニーベルがいつまで経ってもナルソン邸から帰らなかったためだ。
リーゼは何とか話を切り上げて面会を終わる流れに持っていくべく努力してはいたのだが、ニーベルの空気の読めなさは圧倒的だった。
結局リーゼはニーベルと2人で夕食をとる羽目になり、解放されたのは夜の8時を回ってからという散々な一日だったのだ。
「……まあ、昨日会ってるなら今日は断っても平気かしらね。カズラさん、今日の穀倉地帯での作業には、私の代わりにリーゼを付き添わせても構わないでしょうか?」
「構いませんよ。でも、やることは昨日と同じなんで、別に私だけでも構いませんが」
「いえ、そういうわけには……それに、リーゼにはそろそろ政務に関わってもらおうと考えていたところなんです。これを機会に色々と勉強させていただければと思うのですが……」
「色々と、ですか……」
どうしたものかと考えながら一良がリーゼに目をやると、リーゼは真剣な表情で一良に向き直った。
「カズラ様のお役に立てるよう、精一杯頑張ります。どうか、私も一緒に連れて行ってください」
「あ、そんなに肩肘張らなくても大丈夫ですよ。そんなに難しいことはやらないんで、気楽にいきましょう」
一良が了承すると、リーゼはほっとしたように笑顔を見せた。
「夕方まで外で歩き回ることになるんで、服装は身軽なものにしてください。昼食も現地で済ませるんで、お弁当か何かを用意する形でお願いします。私の分は別に用意するんで、個々に用意するって形で」
「わかりました。エイラ、準備しておいてもらえる?」
「かしこまりました」
「あ、エイラ、ちょっと待ちなさい」
リーゼに指示を受け、部屋を出て行こうとしたエイラをジルコニアが呼び止めた。
「昨夜は遅くなってしまって伝えていなかったのですが、カズラさんの従者としてマリーとエイラを付ける事にしたんです。2人とも屋敷に住み込むことになっていますから、今後は何なりと2人にお申し付けになってください」
「「え!?」」
ジルコニアの台詞に、リーゼとエイラは同時に驚いて声を上げた。
「リーゼとエイラには言ってなかったわね……ごめんね、忘れてたわ」
「あ、あの、エイラは私専属の従者では……」
エイラが自分の従者の任から外されてしまうのかと、リーゼは酷く狼狽した様子をみせた。
エイラはリーゼが3歳の頃から、かれこれ11年もの間、リーゼ専属の従者を勤めている。
幼い頃からリーゼの傍らには常にエイラがおり、リーゼにとってエイラ以上に心を許せる相手は他にいないのだ。
そんなエイラが自分から引き剥がされてしまうとあっては、リーゼが狼狽するのも当然である。
「あ、別にあなたの従者を辞めさせるってわけじゃないわ。エイラにはカズラさんとリーゼの従者を兼任してもらいたいの。マリーはまだ屋敷に来たてで慣れてないから、その指導もしつつ従者として働いてほしいってこと」
「指導……ですか……」
自分の従者も兼務すると聞き、リーゼは少しだけほっとした様子だったが、まだ不安そうに見える。
そんな様子のリーゼに構わず、ジルコニアはエイラに顔を向けた。
「エイラ、今日中に屋敷の中にあなたの部屋を用意させるから、すぐに引っ越してきなさい。引越しには屋敷の使用人を使って構わないわ」
「す、住み込み……」
問答無用での住み込み指示に、エイラは顔を引き攣らせた。
今まで、エイラは屋敷から歩いて30分程の場所にあるイステリアの街中の実家から毎朝通っていたのだ。
季節によって出勤時間は微妙に変わるが、エイラは基本的に6時30分頃になるとナルソン邸に出勤し、そのまま中庭で早朝訓練をしているリーゼの元に向かうというのが日課だった。
それが住み込みに変更されるということは、そうでなければ業務内容的に無理が生じるということなのだろう。
そういった考えに至り、エイラは気分が滅入ってくるのを感じた。
だが、雇い主であるジルコニアの指示は絶対な上に、エイラの家庭環境的に住み込みが不可能というわけでもない。
給金も増えるはずなので、ここは甘んじて指示を受け止めることにした。
実際に業務を開始してから仕事量的に不可能だという結論に達したら、その時は再度ジルコニアに相談すればいいだろう。
ちなみに、侍女の休暇は10日の間に2日ある。
休暇をどう取得するのかは主人との間の取り決めや、他の侍女との仕事の兼ね合いなどによって様々である。
中には給金の増加を条件に、自ら申し出て休日返上で働くという強者もいる。
「給金とかの条件も変わってくるから、後で内容を記載した書類を渡すわね」
「かしこまりました……」
エイラはジルコニアの説明に何とか返事を返すと、外出するリーゼの仕度をするため、一礼して部屋を出て行った。
部屋を出て行くエイラの背を、リーゼは少し不安な表情で見送る。
「エイラは今までどおりあなたの従者のままだから、別に心配しなくても大丈夫よ。何かあってあなたとカズラさんが別々に行動するような時は、エイラはあなたに付けるから」
「はい……」
「(……あれ?)」
ふと一連の会話の流れに違和感を覚え、一良は小首を傾げた。
何か、何かが微妙におかしい気がするのだが、すぐにはそれが何なのかという答えが出ない。
そうこうしている内に朝食の準備も整い、4人は用意された食事に手を付け始めた。
4人が食事を食べ始めた頃、エイラは昼食用の材料を確保するために、屋敷内を調理場に向かって歩いていた。
「……あれ?」
そして、調理場の前まで来た時、ふと立ち止まると首を傾げた。
「(さっき、ジルコニア様は私の部屋を屋敷の中に用意するって言ってたような気がしたけど、聞き間違いかな?)」
普通、住み込みで働く使用人は、専用に作られた使用人用の建物に住まわされるのが普通なのだ。
ナルソン邸でもそれは例外ではなく、屋敷の敷地内には使用人用の家屋も存在している。
エイラは聞き間違いだろうと頷くと、調理場へと入っていった。




