59話:クラリセージ
その日の夕方。
太陽が山の向こうに半分ほど身を隠し、辺りは薄暗くなり始めている。
そんな中、グリセア村の雑木林の入り口には、バリンとバレッタを含めた数十名の村人に混じり、ジルコニアとアイザックの姿があった。
彼らは小山のように地面に積まれている堆肥を、2人1組でせっせと布袋に詰め込んでいる。
彼らの傍らには既に大量の堆肥袋が積み上げられており、もう数十分も作業を行えば袋詰めを終えることが出来るだろう。
積み上げられた堆肥袋の隣には、ガソリン入りのドラム缶やガソリン携行缶、山積みになった石灰の袋、更には大小様々な大量のダンボール箱が置かれている。
今この場に一良はおらず、日本へ最後の大荷物である冷蔵庫を取りに向かっていた。
ハベルは少し離れた場所で、連れてきた1台の馬車の荷台に乗り、村人が運んでくる堆肥袋を受け取っては馬車の奥に詰め込んでいた。
「それにしても凄い量ね……一体何が入っているのかしら」
ジルコニアは村人から借りたシャベルを地面に突き刺して一息吐くと、堆肥袋の隣に置かれているダンボール群に目を向けた。
布袋の口を広げていたアイザックも、ジルコニアに釣られてダンボールに目を向ける。
「今朝カズラ様に教えていただいたのですが、あの箱の中身はカズラ様が普段神の国で口にしている食べ物や、以前拝見させていただいたランタンなどの道具らしいですよ。出来るだけ丁寧に運ぶようにと指示されました」
「ふーん……道具はともかくとして、食べ物までこんなに持って行くなんて……私達の出した料理は口に合わなかったのかしら」
「そうですね……この間カズラ様に食べさせていただいた缶詰は、かなり濃い味付けでしたからね。我々が普段食べているものでは、カズラ様には薄味に感じられてしまうのかもしれません」
「確かに、結構濃い味付けだったわね……後で料理の味付けについて、カズラさんに相談してみないと」
イステリアでジルコニアが一良と一緒に食卓を囲んでいた時は、一良は出された料理に特に不満そうな様子は見せていなかった。
だが、これほど大量に食料を持参されてしまうと、それはジルコニアたちを気遣ってそう振舞っていたのではと考えてしまう。
「以前、ハベルの屋敷にカズラ様がご宿泊された際は、出された料理を非常に気に入っていた様子だったとハベルから聞いております。料理に関しては、ハベルに相談するのがいいかと」
「あら、そうだったの。それなら、後でハベルに相談しようかしら。いっそのこと、その時料理を作っていた者をこっちに引き取らせてもらえると助かるんだけど」
「それが一番手っ取り早いですね」
ジルコニアとアイザックがそんな話をしていると、雑木林の奥から爆音が響き始めた。
それから数分して、農業用運搬車を運転した一良が雑木林の奥から姿を現した。
農業用運搬車の荷台には大きな長方形の箱が横倒しになって積まれている。
箱の下には、農業用運搬車を走らせる時に出る振動を吸収させるためか、毛布が何枚か敷かれていた。
一良は雑木林の入り口に到着すると、農業用運搬車のエンジンを切って運転席から降り、ぐっと背伸びをした。
「あー、やっと終わった」
「カズラさん、お疲れ様でした。はい、お水です」
一良が到着するとすぐに、バレッタが水の入った皮袋を持って一良の元へ駆け寄った。
一良は礼を言って笑顔でそれを受け取ると、喉を鳴らして水を飲む。
その光景を見て、ジルコニアが小声でアイザックに話しかけた。
「前々から思っていたんだけど、カズラさんはあの娘を気に入っているようね?」
「そのようですね。イステリアで野盗による襲撃の知らせを聞いたときも、第一声がバレッタさんの安否の確認でしたから」
「……うーん」
何か思うところがあるのか、ジルコニアは一良とバレッタを遠巻きに眺めながら首を傾げている。
アイザックはジルコニアの考えていることを察しているのか、やれやれといった様子で溜め息を吐くと、一杯になった布袋の口を縛った。
「ジルコニア様、私は袋を馬車に運んでまいります」
「ということはどちらでも……あ、わかったわ。私も後から行くから」
一礼して堆肥袋をハベルのいる馬車に運んで行くアイザックを見送ると、ジルコニアはバレッタと談笑している一良の元へ歩み寄った。
「カズラさん、荷物はそれで全部ですか?」
ジルコニアが一良に声を掛けると、一良は笑顔で頷いた。
「ええ、ようやく全て運び終わりました。後は、これらを馬車に積み込むだけですね。ですが、そろそろ暗くなってきましたし、続きは明日にして今日はもう休みましょう」
一良が運び込んだ大量の荷物の重量は、堆肥や石灰を含めると全部で52トンちょっとである。
この場に馬車を持ってきて、村人総出で積み込みを行えば、1時間もあればイステリアへ持っていく予定の全ての荷物を積み終えることが出来るだろう。
だが、今日は既に日が落ちかけているので、続きを行うのは明日の朝が良さそうだ。
ちなみに、持ち込んだ堆肥は全部で50トンだが、布袋に詰めることが出来たのはおよそ45トン程だった。
余ってしまった堆肥は、このままグリセア村で使うことになっている。
「わかりました。ですが、明日は馬車をここまで運び入れようと思いますが、御者を村に入れることは出来ません。なので、何人かの村人に馬車の牽引を手伝わせたいのですが」
本来ならば御者に命じて馬車を村の中に運び入れたいのだが、村内の景観は作物の巨大化によって凄まじいことになっている。
それらを村人以外に見せるわけにはいかないので、村内に馬車を運ぶとなると、どうしても人手が足りないのだ。
「では、私の方から村の皆さんには言っておきます。明日の朝、そちらへ向かうようにお願いしておきますから」
「ありがとうございます。では、我々は野営地に戻らせていただきますね」
ジルコニアは一良に礼を述べると、堆肥袋を馬車に詰め込んでいるアイザックたちの元へと歩いていった。
それから数時間後。
バリン邸の居間では、一良とバレッタが2人並んで囲炉裏の前に座り、ハーブティーを飲みながら談笑していた。
二人の前には精油の入った小瓶が数十本並べられ、それらの効能が記載されているフルカラーの専門書が広げられている。
現在、バリンは屋敷にはおらず、雑木林に置きっぱなしになっている荷物の警備をしに行っている。
屋敷に戻ってくるのは深夜を回ってからと言っていたので、それまで一良とバレッタは屋敷に2人きりだ。
「精油って凄いんですね。こんなに沢山効能があるなんて……」
専門書に記載されている精油の効能を読みながら、バレッタは感心した様子を見せていた。
専門書には数十種類の精油の効能が記載されており、精油をブレンドして使う場合の参考レシピも紹介されている。
その他にも、様々な精油の使い方や、精油の精製方法などが記載されていた。
「精油自体の種類も多いですし、色々試してみると面白いですよ。ただ、こちらの世界の人に対する効能の効き目がイマイチよく分からないんですよね……」
今まで一良が持ってきた食べ物やリポDなどの凄まじい効能を考えれば、精油も通常では考えられないほどの凄まじい効能を発揮してもおかしくはない。
だが、今までに精油はアイザックとマリーに使ってみたことはあるものの、その効果がどの程度出ているのかはよく分からなかった。
凄まじく凹んでいた様子のアイザックに抗鬱作用や鎮静作用のあるラベンダーの精油を使った時は、ものの数分でアイザックは持ち直したように見えた。
だが、その時は一緒に抗鬱作用やリラックス作用のあるハーブティーを飲ませていた上に、一良自身もアイザックを気遣って色々と話したので、どれが効いてアイザックが持ち直したのかがよく分からないのだ。
馬車酔いしてしまったマリーに精油を使った時は、マリーはすぐに気分を持ち直して元気になっていたのだが、その効能と作用にかかるまでの時間は日本で精油を使った時と同じである。
元々即効性のある使い方であったため、効くのは当たり前なのだが、効き具合まではよく分からなかった。
「食べ物とか栄養ドリンクは、効果が出るまでに2時間くらいかかるみたいですけど、精油はどうなんでしょうね……消化して栄養を取り込むわけじゃないから、効果の出方も違ったりするんでしょうか」
「どうだろ……もし精油がどれも即効性で効能も大きなものになっているとしたら、使い方によってはかなり便利ですね。使い方を誤ると大変なことになりそうですけど」
「あの、今ここで私に使って試してみませんか? それならすぐに判別が付くように思うんですけど」
自らを被検体とした人体実験を申し出るバレッタに、一良は少し考えた後で頷いた。
別に毒薬を使うわけではないので、特に悪影響が出るといったことは起こらないだろう。
それに、精油はアイザックやマリーで使用済みであるので、尚のこと安心して実験することが出来る。
ただ、バレッタは既に一良が持ってきた食べ物によって身体能力が強化されてしまっている。
そのため、今から行う実験で得られる結果は、強化済みの人間に対する精油の効能として分けて考えねばならない。
とはいえ、もしバレッタに精油が凄まじい効能を発揮したならば、身体能力が強化されていない人間に対しても同等以上の効果が期待できるはずだ。
実験を行うだけの意義は十分にある。
「そうですね。そしたら、そこにある物の中から何か好きなのを選んでみてください。どんな香りがするのかは本に載ってますから、それを参考にしてもらえると」
「わかりました。どれにしようかな……」
バレッタはぱらぱらと本を捲りながら効能と香りを流し読みする。
そして、気になった精油を見つけたのか、並んでいる精油瓶の中から1本をつまみ上げた。
「……これにしてみます。ここに1滴垂らせばいいんでしたっけ」
「あ、垂らす前に水も少し入れないとダメですよ」
一良は土間に下りると、土間の隅に置いてある瓶の中から柄杓で水を掬い、バレッタの前に置いてあるキャンドル式のアロマポットの受け皿に水を注いだ。
受け皿が水で満たされると、バレッタは精油瓶の蓋を開け、精油を一滴だけ受け皿に垂らす。
そして、ポットの下部に設置してある蝋燭にライターで火を着けた。
火を着けて暫くすると、受け皿の水は蝋燭の火で熱されて気化し、辺りに精油の甘い香りが漂い始める。
「これでよし……ん、これは……なんだろ。わからないや」
漂い始めた精油の仄かな甘い香りに鼻をひくつかせ、一良は精油の種類を当てようと試みた。
だが、一良はあまり使ったことのない精油であるらしく、それが何なのかが分からない。
「クラリセージを使ってみました。もし食べ物みたいに凄い効能を発揮するなら、私は凄くリラックスした気分になると思います。あと、眠くもなるのかな……」
「へー、そういう効果があるのか」
香りを嗅いですぐに効果が発揮されるわけではないらしく、今のところバレッタの様子に変化はない。
バレッタに精油の効果が出るまでの間、一良とバレッタは村の工事の進み具合や、一良が日本で買い物をした時の様子について談笑しながら過ごした。
そして、精油を焚いてから約10分が経過しようとした頃、バレッタの様子に変化が見られた。
「ん……ちょっと眠くなってきたかも……」
バレッタはそう言うと、少しとろんとした眼差しで一良を見た。
その表情は囲炉裏で燃える薪の炎に照らされているせいか微かに赤く、妙な色っぽさを感じる。
「効いてきましたか。眠気は強烈ですか?」
「それほど強烈ってわけではないですけど、何て言ったらいいのかな……今横になったら、すぐに気持ちよく眠れるだろうなって感覚です。なんかこう、ほっこりした感覚っていうか」
バレッタから体と精神状態の変化を聞き、一良は傍らに置いてあった大学ノートを開いた。
そして、ボールペンでバレッタが体感している効能と、効果が出るまでに掛かった時間をさらさらとメモ書きする。
「なるほどなるほど。ということは、前にアイザックさんに精油を使った時はそれなりに効いていたって事か……個人差とかもあるのかな」
アイザックにラベンダーの精油を使った時は、もっと急激にアイザックの様子は変化していた。
だが、バレッタに現れた症状がこの程度のものならば、精油の効能のみであそこまでの変化が起こったとは考え難い。
食べ物で体が強化されているかされていないかの違いもあるかもしれないので、今この場で完全に決め付けることは出来ないのだが。
どちらにせよ、こちらの世界の人間には、精油の効能は他の食べ物と同様とは行かないまでも、少々強めの効果を発揮するようだ。
濃度や使用頻度によっては、また違った結果が得られるかもしれない。
「カズラさん、1つお願いしてもいいですか?」
一良がふむふむと頷きながら一良が大学ノートにメモ書きをしていると、その様子をじっと見ていたバレッタが声を掛けてきた。
「ん、何ですか?」
「……この前みたいに、ぎゅってして欲しいです」
バレッタから突如発せられた衝撃的な一言に、一良は思わず手に持っていたボールペンを取り落として固まった。
そして、実は聞き間違いなんじゃないかと自身の耳を疑い、ぎぎぎと音を立てそうな程のゆっくりとした速度でバレッタに顔を向ける。
「……」
バレッタは少し上気したような表情で、一良のことを見つめていた。
一良の耳に聞こえてくるのは、囲炉裏でパチパチと燃える薪の音と、急激に早鐘を打ち始めた自分の心臓の音だけだ。
一良とバレッタの距離は、ほんの数十センチ程度しかあいていなかった。
手を伸ばせば、すぐにでも触れることの出来る距離だ。
実に良い雰囲気が、居間を支配していた。
「(……え、マジか。そういうことなのか!? ……でも、この前のあれは地雷だったんだよな!? どういうことだ!?)」
一良は内心酷く動揺しつつも、平静を保とうと必死に表情を取り繕った。
「……だめ、ですか?」
そんな様子の一良に何を感じたのか、バレッタは不安げな表情で一良に再度問いかける。
瞳が少しだけ、潤んでいた。
「……おいで」
一良はバレッタの肩を抱いて引き寄せると、その小さな身体を優しく抱き締めた。
バレッタは緊張しているのか、一良に抱き締められた瞬間、びくっと肩を震わせて身体を強張らせた。
だが、時間が経つにつれて次第に力が抜け、暫くすると完全に力を抜いて一良の胸にその身を預けた。
そして、どちらとも何を話すでもなく、そのまま数分が経過した。
「カズラさん……」
一良は若干体勢が苦しくなり、バレッタに声を掛けようかと悩み始めていると、不意にバレッタがぽつりと一良の名を呼んだ。
「うん?」
「……」
一良は返事をしたが、バレッタから反応が返ってこない。
暫く待っても何の反応も無いので、一良はもしやと思い、バレッタの肩に手を添えて顔を覗き込んだ。
「……ですよねー」
いつの間に眠ってしまったのか、バレッタはすやすやと寝息を立てていた。
その表情は実に幸せそうであり、見ているこちらも思わず頬を緩めてしまうような、実に満ち足りたものだった。
一良はまるで漫画のようなお約束的展開に苦笑しながら頭を掻くと、さてどうするべきかと暫し考えた。
そして、バレッタをその場に静かに横たえると、布団の準備をするべくバレッタの寝室へと向かうのだった。