51話:なんで?
押し寄せる悔しさと無力感に苛まれ、俯いて床にぽろぽろと涙を零して咽び泣きつつも、バレッタは酷く冷静な思考をするもう1人の自分がいることに気付いていた。
隣では、震えながら涙を流している自分を心配して、一良が優しく背中を撫でてくれている。
ふと、このまま彼の胸に縋り付き、今まで溜め込んだ弱音を全て吐き出してしまってはどうかという考えが頭に浮かんだ。
彼のことだ、きっと全てを優しく受け止めて、自分の願いを汲み取ってくれるだろう。
何処にも行かないで、と泣いて縋れば、彼はずっと自分の傍に居てくれるだろう。
何を馬鹿なことを、と頭の中のもう1人の自分が叱責する。
父を救い、村を救い、その後も自分の事を毎日温かく見守ってくれた彼に、まだ何かを求めるつもりなのか。
彼の優しさに付け入って、自分の傍に居させることが出来ればそれで満足なのか。
彼に与えられ、守られるだけの存在ではなく、彼に必要とされるような存在になりたいのではなかったのか。
自身の身勝手な考えを即座に戒めながらも、バレッタはその甘美な誘惑を振り切れないでいた。
何故なら、今一良に泣きついてしまえば、一良は全てに優先して自分の傍に居ることを選択してくれるだろうという、確信めいた自信があったのだ。
日本という国からやってきたというこの青年は、どうしようもないほどのお人好しだ。
助けてくれと縋り付かれれば手を差し伸べずにはいられず、その結果自分が不利益を被る可能性があったとしてもそれを厭わない。
助けた人々からいくら敬われ、感謝されたとしても、それでいい気になって驕るような素振りは欠片も見せたことはない。
親しくなり、好意を寄せてくる者に対しては、その傾向はより顕著だった。
特に、自分に対しては。
「カズラさ……っ」
もう、弱音も我侭も全て彼にぶつけて楽になってしまおう。
そうしてしまえば、ゆくゆくは彼を自分だけのものにしてしまうことだって出来るかもしれない。
突如浮かんだ打算という名の誘惑に突き動かされ、バレッタは顔を上げた。
だが、心配そうな眼差しを自分に向けている一良と目が合った瞬間、まるで冷や水でも浴びせられたかのように、急速に頭の中が冷めていくような錯覚を覚えた。
「うん?」
呼びかけに微笑を交えて答える一良の顔には、疲労が色濃く残っていた。
目の下にはうっすらと隈が出来、頬も幾分かこけているように見える。
イステリアで一良と別れてから、僅か3日しか経っていないにもかかわらず、だ。
理由は考えるまでもない。
アルカディアの人々を救うために、この3日間イステリアで全力を尽くしていたのだろう。
一良が村に戻ってきてから、バレッタは一良の顔を何度も見たはずだった。
村の入り口で出迎えた時も、お互いの顔を見ながら会話もしたのだ。
それなのに、全く気付かなかった。
いや、気付こうとすらしていなかったと言うべきか。
今までバレッタは、一良のことを少しでも知ろうと、その様子をつぶさに観察しては、考え方や感情の斑を把握しようと努めてきた。
それは一良の体調についても同様だった。
少しでも疲れている様子ならマッサージを申し出たり、夜中に2人で勉強をしている時も早めに切り上げて、一良が寝たのを確認してから1人で勉強の続きをしていたりした。
バレッタがマッサージや早めの休息を申し出る度、一良は大丈夫だと言って遠慮していたが、バレッタはそこは譲らなかった。
一良の厚意を嬉しく思いつつも、なるべく負担を掛けないように気を使っていた。
畑仕事や薪拾いなど、放っておけばいつまでも村人達の手伝いをしようとしてしまう一良に、あまり気負わずに日々を過ごして貰えるよう、常日頃から注意を払ってもいた。
それなのに、とバレッタは思う。
今の自分は、何だ。
自分の事しか頭になく、一良のことなど全く考えていないに等しい。
ほんの数分前まで悩み続けていた、彼に必要とされるような存在になりたいという欲求は何処へ行ってしまったのか。
勝手に1人で塞ぎこみ、うじうじ悩んでいる間、一良はアルカディアの人々を救うために出来る限りの努力をしていたのだ。
しかも、一良は村が野盗に襲われたと聞きつけて、大急ぎで戻ってきてくれもした。
甘美な誘惑に煽られて、熱に浮かされたようになっていた気分は一転して最悪になった。
自分自身に、猛烈な嫌悪感が沸き起こる。
口の中がからからに乾き、胸が詰まって呼吸が止まりそうになる。
「あっ……わた……し……」
「大丈夫。落ち着いて」
様子のおかしいバレッタに、一良は努めて優しく声をかけ、その頭を優しく撫でた。
それでも変化が見られないと分かると、一良は彼女を自身の胸にそっと抱き寄せた。
そして、大丈夫、と何度も繰り返し言い聞かせながら、その頭をそっと撫で続けるのだった。
次の日の朝。
いつの間にか屋敷に戻ってきていたバリンが用意してくれた朝食を、一良はバリン親子と共に囲んでいた。
だが、その席はいつもと違って会話は無く、居間に響くのは食べ物を咀嚼する音と、時折ぶつかり合う木製の食器が立てる音だけだ。
何とも微妙な雰囲気が、居間を支配していた。
「(……何これ凄く気まずいんだけど)」
大豆の缶詰と村で採れた野菜が使われた熱々の汁物を啜りながら、一良はちらりとバレッタに目を向けた。
バレッタは昨晩と同様に沈んだ表情のまま、緩慢な仕草で食べ物を口に運んでいる。
ふと一良が視線を感じてバリンに目を向けると、バリンが一良に目で「何があったんだ」と問いかけてきていた。
そんなこと聞かれても、と一良は内心頭を抱える。
あの後、一良はバレッタが落ち着くまでずっと傍を離れず、安心させるようにバレッタを抱き締めていた。
無論、やましい気持ちなどは毛頭ない。
急に様子のおかしくなってしまったバレッタに、何かしてやらねばと咄嗟に思いついた末の行動だった。
だが、暫くの間そうしていると、バレッタは急に「ごめんなさい」と言って目も合わせずに一良から離れ、自分の寝室へと引っ込んでしまったのだ。
そして現在に至る、というわけである。
そんな微妙な雰囲気の中で朝食を済ますと、バリンはバレッタに後片付けを頼み、他の村人たちに会いに行くという名目で、一良を屋敷の外へと連れ出した。
「カズラさん、バレッタの様子がどうにもおかしいようですが」
バリンは昨夜一良とバレッタを2人きりにした時点で、後のことは一良が何とかしてくれるだろうと思い込んでいた。
なので、更にバレッタの様子がおかしくなるなどとは予想もしていなかったのだ。
昨夜、家の扉越しにバレッタの泣き声を聞いた時点で、これでバレッタも溜め込んでいたものを一良にぶつけることが出来るだろうと楽観していた。
それなのに、事態は悪化している。
正直、意味がわからなかった。
「いや、私にも何が何だかわからないんですよ。私が村にいない間、バレッタさんに何か変わったことはありませんでしたか?」
「何かですか……そうですな……」
一良に問われ、バリンはここ数日のバレッタの様子を思い返した。
その中で思いつくことと言えば……。
「イステリアでカズラさんと別れてから、バレッタはずっと塞ぎこんでいましてな。カズラさんに会えば元気になると思っていたのですが」
「ほ、ほう」
バリンから与えられた何ともいえない情報に、一良は反応に困りつつも返事をする。
自分と別れて塞ぎこんでいたというのならば、自分と離れることが余程辛かったということなのだろう。
その情報を当人の父親伝いに知るというのは、何ともおかしな話であるような気もするが。
「あと、野盗に屋敷を襲撃された際、バレッタが野盗の1人に押し倒されましてな。幸い、何かされる前にその野盗は倒すことが出来ましたが……」
「え!?」
先程のバリンからの情報に若干浮かれそうになっていた一良は、その後に出てきたとんでもない情報に驚愕した。
野盗に押し倒されたということは、つまるところ強姦されかけたということだろう。
普通に考えて、トラウマになっていてもおかしくはない。
ということはだ。
昨晩、一良がバレッタを安心させようとして抱き寄せた行為は、とんでもない地雷だった可能性が高い。
安心させようと考えて行動した結果、逆に傷口をえぐるような真似をしてしまったのだ。
そう考えれば、昨夜から今朝にかけてのバレッタの態度にも納得がいくような気がする。
「……バリンさん」
「はい?」
「それ、先に教えておいて貰えないと、どうにもならないです」
「は、はあ」
イマイチ事態を把握しきれていない様子のバリンに、一良は深く溜め息を吐くのだった。
それから1時間後。
一良はバレッタと仲の良い若い村娘の1人に事情を説明し、バレッタに対するケアとフォローをしておいてもらえるようにと頼み込んでいた。
「本来なら私が出来ればいいんですけど、ここは同じ女性の貴女にお願いしたいんです。いきなりこんなことをお願いして申し訳ないのですが、どうかお願いします」
「それは構いませんけど……」
一良の話を聞いた村娘は、どうにも合点の行かないような表情をしていたが、とりあえずは話をしてみると一良の頼みを引き受けてくれた。
また、屋敷に戻ってこっそりブレンドしておいたハーブも手渡し、ハーブティーの淹れ方も教え、バレッタと一緒に飲むようにとも頼んでおいた。
村娘に話を取り付けた一良は、今度は村の入り口で野営をしているアイザックたちの元へと赴いた。
「カズラ様、おはようございます」
一良が村の入り口に辿り着くと、既にアイザックとハベルが一良を待っていた。
2人とも、昨晩は久しぶりにゆっくりと休むことが出来たのか、表情も明るく体調も良さそうだ。
色々なことが気になって上手く安眠できなかった一良とは対照的である。
「おはようございます。何も変わりはないですか?」
「今のところは何も問題ありません。定期的に周囲に複数の斥候を出してもいますが、村に近寄るような者はいないようです」
グリセア村の襲撃を受けてか、アイザックは尾行にかなり気を使っているようだった。
近衛兵というベテラン兵士を使っての周辺偵察で何も見つからなかったのであれば、この周辺は本当に安全なのだろう。
「後続はいつ頃の到着になるのかは分かりますか?」
「今朝にはイステリアを出発しているはずなので、遅くとも明日の夜までには到着すると思われます。道の途中に斥候を配置しておきますので、到着の数刻前にはカズラ様にお知らせできるかと」
「(ということは、あと2日近くは時間に余裕があるのか)」
ハベルの返事を聞き、一良は今から自分が取れる行動を逆算しはじめた。
2日後には3000もの布袋と、それを運ぶための大量の馬車や荷車が到着する。
当初の予定では、それらを1日か2日の間村の入り口で待たせておき、その間に一良が日本で物の手配などを行う予定だった。
だが、グリセア村襲撃の知らせを受けて早めにイステリアを出た結果、少しばかり作業の内容が当初の予定とは変わるが、より効率的に時間を使うことが出来そうだ。
「わかりました。それでは、後続の到着に間に合うように私は準備に取り掛かります。少しの間神の国へ行ってしまうので連絡がつかなくなりますが、心配しないで待っていてください」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします」
恭しく頭を下げるアイザックとハベルに見送られ、一良は日本へと繋がる雑木林へと足を向けた。
「あー、何か物凄く久しぶりに帰ってきた気がするなぁ」
石畳の通路を抜け、一良は7日ぶりに日本の屋敷へと戻ってきた。
この7日間、一良を取り巻く環境が目まぐるしく変化した所為もあり、いつもと変わらないこの屋敷に戻ってきた途端、何ともいえない安心感に包まれたのだ。
少しの間屋敷の風景を楽しんだ一良は、ポケットから携帯電話を取り出すと電源を入れた。
そして、いつものようにインターネットで欲しい情報の検索をかける。
「えっと、堆肥直売は……お、ここが近いかな」
『堆肥直売 群馬』といった検索ワードで検索を掛けると、すぐに数十万件ものWEBページが検索に引っかかる。
それらの中で、今いる屋敷から比較的近い『有限会社グンマー牧場』という牧場の堆肥販売の項目を確認した。
この牧場は堆肥の生産量も多く、備蓄量もかなりあるようだ。
グリセア村で行ったような小規模な支援ならば、ホームセンターで肥料の買い付けを行えば事足りたのだが、今回行う支援は規模が違う。
以前、イステリアに徒歩で赴いた際に目にした、地平線の彼方まで続いているような大穀倉地帯を復活させなければならないのだ。
とはいえ、グリセア村で行った肥料散布の経験から、日本で一般的に行われているような肥料の与え方をすると作物が異常発達してしまうということは分かっている。
作物を復活させるには、グリセア村で行った肥料散布よりもかなり肥料の量を減らしても平気だろう。
とりあえずは10分の1、作物の育ち具合によっては100分の1程の量に薄めて散布してしまっても問題はないかもしれない。
それでも、肥料散布を行う規模はグリセア村の比ではないのだが。
「うお、1トンあたり3000円って、安いにも程があるだろ。これが相場なのかな……」
今までホームセンターで入手していた肥料よりも遥かに安い直売価格に驚愕しつつも、一良は住所を確認して車へ向かおうと屋敷の出口へ向けて歩き出しかけ、ふと歩みを止めた。
そして、今自分が歩いている畳の敷かれた床に目を向ける。
「……これ、さすがに今度ばかりは床が抜けるんじゃないか」
今回、一良は大量の堆肥を、少なくとも500キロはまとめて運ぶつもりだった。
運ぶ際はリアカーか台車を用いるつもりなのだが、自分の身ひとつで牽引するにはかなり骨が折れる。
そこで、牽引用に四輪バギーか小型牽引車でも購入してしまおうと考えていたのだ。
だが、それ以前の問題があることに、たった今気が付いたのだ。
初めてこの屋敷に来る前に、一良の父親である真治から聞いた話では、この屋敷は先祖代々伝わる相当古い建物らしい。
そんな骨董品のような木造家屋に、500キロもの肥料を載せた台車を、バギーなどの牽引車で引きながら何度も往復したらどうなるか。
例え床が抜けなかったとしても、陥没くらいはしてもおかしくはない。
ただでさえ、今まで何度もリアカーを引いて畳の上を往復しているのだ。
目には見えなくても、そろそろ限界がきているかもしれない。
そう不安に思った一良は、畳の端を掴んでそっと持ち上げてみた。
そして、畳の下から現れた、予想もしていなかった光景に、思わず目を見開いた。
畳の下には、一面に鉄板が敷き詰められていたのだ。