47話:大切なもの
「この建物の壁に使われている石壁って、石と石の間を何かで接合させていますよね」
「ええ、石膏と砂を混ぜたものを使って接合させています。小さい石材やレンガの接合にも、石膏を使っていますよ」
「(石膏……建築材料でよく聞く石膏ボードのやつか。ホームセンターにも売ってたっけ)」
石膏と聞き、一良は日本で使われている石膏ボードを思い浮かべた。
家の壁に使われている、日本でも一般的な建築材料だ。
といっても、日本で使われている石膏ボードには、石膏以外にも混ぜ物がされていると思われるので、純粋な石膏とはいえないだろうが。
「なるほど……あの、石膏以外で石材とかの接合に使われているものって何がありますかね?」
「石膏の他には粘土が使われていますね。使い方などの詳細は私では分かりかねますので、後ほど街の建築士に聞き取りをして資料として纏めさせていただきます。明日中には用意いたしますので」
「あ……何か仕事増やしちゃったみたいですいません。よろしくお願いします」
やる気に満ちた表情で率先して動こうとするアイザックに、一良は少し尊敬の念を抱きながらも、
「(何だかよくわからないけど、元気になったみたいでよかった)」
と内心ほっと息を吐いた。
「あと、もう1つ聞きたいことがありまして。アイザックさんは石灰って聞いたことはありますか?」
「はい、床下などに虫がわいたときに撒く白いやつですよね? 確か領内でも取れる場所はあったかと思います」
何故一良がこんなことを聞いているのかというと、別に虫除け剤が必要なわけではなく、この世界にモルタルが存在しているのかを知りたかったからだ。
ここ2日、イステリア内に現存する土手の工事記録や、イステリア周辺の地図といった資料をひたすら纏めてはいたのだが、資料を纏めることに集中しすぎて現存する技術について調べることをすっかり忘れていた。
治水工事を計画する以前に、何が使えて何が使えないのかを知らないのではお話にならない。
ちなみに、一良の考えているモルタルとは、石灰と土や砂利などを混ぜた石灰モルタルである。
日本では、左官屋さんが壁や塀を塗る時に使っている、ごく一般的な建築材料だ。
アイザックが石灰と聞いて、真っ先に虫除けの話を出したことから、この世界ではモルタルはまだ発明されていないのかもしれない。
「カズラ様、石灰が必要ならばすぐに手配いたしますが」
「とりあえずはまだ大丈夫です。必要になったらその時お願いしますから」
「わかりました。虫除けに使われるものとしては、石灰の粉を撒く以外に、香草を燻して出る煙を使う方法が使われることもあります。虫除けについても調査して資料を……」
「あ、いや、そっちの報告書は今は必要ないです。衛生問題についてはまだ手を出しませんから」
更に自分の仕事を増やそうとしているアイザックを、一良は慌てて止めた。
どうやら、アイザックは石灰と聞いて、衛生問題の対策を一良が検討していると思い込んでいるようだ。
「そうですか……何か必要な物がありましたら、何でも私にお申し付けください。全てに優先して対応させていただきますので」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
「それと、本日より私とハベルはカズラ様の側近として仕えさせていただくことになりました。カズラ様の指示があれば何でもいたしますので、どうか我らのことは手足のようにお使いいただければと思います」
「え、側近? 側近って、私の部下になるってことですか?」
急に出た話に、一良は驚いた。
事前にナルソンやジルコニアから話を聞いていたわけでもなく、いきなり本人から「側近になりました」と言われたのでは驚くのも当然である。
もしかしたら、ナルソンは今朝の朝食の席で一良に話すつもりなのかもしれないが。
「そう思っていただいて問題ありません」
そう言ってアイザックは椅子から立ち上がると、その場に片膝をついて頭をたれた。
「今後、カズラ様の御身は私が命を掛けてお守りいたします。全身全霊で仕えさせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします」
まるで騎士の礼のようなものを捧げられ、一良は
「お、おう」
と返事をしながらも、
「(……何か重い)」
と心の中で呟いた。
一良とアイザックが話し込んでいる頃、ハベルはナルソン邸の広場で馬車の準備をしていた。
馬車にはまだ御者は乗っておらず、馬車の周囲にいるのはハベルだけである。
「おや、ハベルじゃないか! 久しぶりだねぇ!」
イステリア内の地図や工事記録書の入った木箱を馬車に積み込んでいたハベルは、背後からの声に振り返って声の主の姿を見るなり顔を顰めた。
「兄上……」
いつの間に近寄ってきたのか、ハベルのすぐ後ろには、彼の実兄であるアロンド=ルーソンの姿があった。
アロンドは身長が180cm少々はあり、ハベルと比較して15cmは背が高い。
そのため、近くに来られるとハベルは見上げるような形になってしまう。
顔つきも、少々童顔なハベルとは対照的で目付きは鋭く、初対面の者であれば何処と無く理知的な印象を受ける顔立ちだ。
歳はハベルより5つ上の、25歳である。
「こらこら、実の兄に対してその反応はあんまりじゃないか。久しぶりの再会なんだから、もう少し嬉しそうにしなよ」
「……予定よりも、随分早くお帰りになられたのですね」
大げさに肩をすくめて見せる兄の姿に、ハベルは内心舌打ちした。
先日、自分の屋敷の執事に確認した予定では、アロンドがイステリアに戻ってくるのは明後日になるはずだったのだ。
予定通りならば、ハベルは明後日の早朝から一良と一緒にグリセア村へ向かう予定だったので、アロンドとは顔を会わさずに済むはずだった。
だが、どういうわけか、アロンドは予定よりも早くイステリアに戻ってきてしまったらしい。
「グレゴリアでの取引が思いのほか早く済んでね。折角だから観光してきてもよかったんだけど、可愛い弟の顔を早く見たくて急いで帰ってきたんだよ!」
「そうですか。ですが、このとおり私はもうすぐ任務に出ねばなりません。残念ですが、兄上の相手をしている時間はないのです」
「えっ、こんな朝早くからかい!? 普段なら、まだ朝食の時間にすらなっていないじゃないか!」
「兄上のように貴族社会に身を置いている方と、軍属の人間は時間の流れが違うのです。私が毎朝早く軍部に出勤していることは、兄上もご存知でしょう?」
目を丸くして驚いているアロンドに、ハベルは溜め息を吐きながら相手をする。
この男の相手をしていると、ハベルはイライラして仕方が無いのだ。
態度に出すまいと努力はしてはいるのだが、顔を合わせるたびにわざとらしく軽口を叩いてくるので、表情や態度に嫌悪感が出てしまうことはハベル本人も半ば諦めている。
「ん、ああ……そう……だったかな? まあ、時間が無いんじゃ仕方がないね」
「……」
毎朝、屋敷での朝食の席にハベルが居ないことに全く気付いていなかったかのように惚けた表情で言うアロンド。
先程ハベルを指して、可愛い弟と表現したのは一体何だったのか。
……絶対にわざと言っている。
アロンドの態度にハベルが頬を軽く引きつらせていると、広場の入り口から見知った壮年の男が姿を現した。
「む、ハベルじゃないか」
「父上、おはようございます。長旅お疲れ様でした」
ハベルは自分の父――ノール=ルーソン――の姿をみとめると、すぐにアロンドから向き直って軽く頭を下げた。
「うむ。ハベルも変わりないか?」
「はい、私のほうは特には。父上こそ、グレゴリアからずっと馬車での移動でお疲れなのではないですか? 少しお休みになった方が……」
「ああ、だがグレゴリアでの取引と視察の成果をナルソン様に報告するのが先だ。報告が終わったら暫く羽を伸ばすさ」
長旅をしてきた割には元気そうに見える父の様子に、ハベルは内心ほっと息を吐いた。
長旅のせいで病気でもして、万が一死んでしまうようなことがあったら、家督は長男であるアロンドが継ぐことになるのだ。
それだけが理由ではないが、まだまだ父には長生きしてもらわねば困る。
「そうしてください。……あ、あと、父上に1つお願いがあるのですが」
「ん、何だ?」
「明後日より、私は暫くの間、軍の任務でイステリアを離れなければなりません。そこで、その間はマリーを従者として連れて行きたいのですが……」
マリーとは、ルーソン家の屋敷で働いている若い侍女である。
4日前、一良たちがルーソン邸に宿泊した際に、一良たちの身の回りを世話していたのが彼女だ。
ハベルがマリーを連れて行きたいと申し出ると、ノールは少し渋るような表情を見せた。
「……ハベル、分かっているとは思うが……」
「おいおい、あんな奴連れて行ってどうするんだ? お前は……」
「アロンド」
先程の惚けた様子とは打って変わって、嫌悪感剥き出しでハベルに何か言いかけたアロンドを、ノールは名前を呼んで黙らせる。
「いいだろう、連れて行くといい。ただし、妙なことを考えるんじゃないぞ。あれは、私の所有物だ。お前のものではない」
「はい。わかっております」
ノールの承諾を得て、ハベルはどことなくほっとした様子で答える。
「……チッ」
そんな2人のやり取りを見て、アロンドは実に不愉快そうに舌打ちをした。
その日の夜。
ハベルは自宅の敷地内にある、使用人にあてがわれている建物内の、とある部屋の前にいた。
時刻は夜中の12時過ぎで、もう屋敷の中の者は一部の私兵や使用人を除いて全員が寝静まっている。
ハベルは昨日と同様に、昼間は一良とイステリア内の視察を行い、その後は工事書類と地図の整理を手伝っていたのだが、先程一良に
「そろそろ帰って休みなよ」
と言われ、礼を述べて帰路に着いたのだ。
帰る間際に、一良から何やら凄く甘い味のする小さな黒っぽい食べ物を1粒もらった。
連日早朝から深夜まで働いていたせいで、かなり体と頭に疲労が溜まってきていたためか、その食べ物の甘さは胃に染み渡るように美味しく感じられた。
「さすがにもう寝てるか……」
静まり返る暗い廊下で、目の前の扉に向かってハベルはぽつりと呟いた。
使用人たちには蝋燭がいくらか支給されているので、部屋で何か作業を行っているのなら、扉の隙間から灯りが漏れているはずだ。
「……ハベル様?」
ハベルが屋敷に向かおうと踵を返しかけた時、部屋の中から声が聞こえて扉が開き、1人の少女が顔を出した。
「マリー、起きてたのか」
「はい、ハベル様のご帰宅をお待ちしていたのですが、あまりにも遅いので今日はもうお帰りになられないのかと……」
周囲に声が響くのを気にしているのか、マリーは小声でハベルに答えた。
マリーは今は侍女服姿ではなく、寝間着として使っている足首まで長のある粗い布地のチュニックを着ている。
侍女服姿の時は凛として見えたが、こうして寝間着姿になると、歳相応のあどけなさが感じられる。
ちなみに、マリーの年齢は13歳だ。
「あの、よろしければ中へ……」
「うん」
マリーに招き入れられてハベルは部屋に入ると、壁際に設置されている木製の粗末なベッドに腰をかけた。
部屋の中はベッドの他に小テーブルと洋服掛けがあるだけで、部屋の広さは日本で言うところの畳3畳分程しかない。
「今日、旦那様から……」
「マリー、こっちにおいで」
立ったまま話し始めたマリーにハベルは微笑むと、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いた。
マリーは少し戸惑った様子だったが、恐る恐るといった様子でにハベルの隣に移動すると、ハベルと並んでベッドの上に腰を下ろした。
「……今日の夕方に旦那様から、明後日から暫くハベル様に付き添って屋敷を出るように言われました。……あの、ありがとうございます。私……」
「マリー」
ハベルの隣で、床に目を落としたまま話し始めたマリーの頭に、ハベルはそっと手を置くと、その髪を梳くように優しく撫でる。
「兄さんでいいよ。誰もいないからさ」
「……兄さん」
マリーはハベルを見上げ、優しく微笑むハベルにぎこちない笑みで応えると、ハベルの肩にそっと頭を預けた。