42話:視線の先
グリセア村へと戻るバレッタたちと別れた後、一良はハベルを連れてイステリアの中を流れる川の視察に赴いていた。
今、一良たちが立っている場所は高台で、イステリアの街並みと、その中に流れている川を望むことが出来る。
本当はナルソンかジルコニアあたりに案内をして欲しかったのだが、当の2人は一良に要請された道具や人員の手配と通常業務で一杯一杯であり、とても視察に同行できるような状態ではない。
アイザックも同様で、一良に命じられた3000もの同じ大きさの布袋を用意するために奔走しているのか、あれから姿を見つけられなかった。
そんなわけで、唯一手が空いているハベルに白羽の矢が立ち、川の視察に同行してもらっているのだ。
「結構大きな川ですねぇ。洪水が起きるのはどの辺りですか?」
「えっと、地図によると大体あの辺りから水が溢れ出して、建物の浸水が度々発生しています。他にも何箇所か洪水が発生しやすい場所がありますが、本流よりも支流側で洪水になることが多いようですね」
ハベルは持っているイステリアの地図に目を這わせると、遠目に見える川を指差した。
地図には所々に書き込みがされており、洪水発生箇所と発生した年月、被害の程度がメモされているようだ。
ハベルの指し示す方角に目をやると、川の両脇には土がうず高く盛られ土手が築かれていた。
この土手を用いて洪水の発生を防いでいるのだろうが、大雨が降ると洪水が発生してしまうのであれば、土手の構造や設置箇所に何らかの問題があるのだろう。
「これだけ土を盛っていても洪水が起こるのか……ハベルさん、後で土手の設置工事をした際の資料を見せてもらえますか?」
「わかりました。私の権限では資料の閲覧は出来ませんので、後ほどナルソン様にお伝えしておきます」
「お願いします。あと、ちょっと後ろを向いていてもらえますか」
「え? あ、はい、わかりました」
後ろを向け、と急に言われ、ハベルは少し戸惑った様子を見せたが、素直に従って後ろを向く。
一良はハベルが後ろを向いたことを確認すると、懐からデジカメを取り出して川を中心に写真を数枚撮った。
「よし、もうこっちを向いてもいいですよ。もう少し近くで土手を見てみたいので、川の近くに行ってみましょう。あと、他にもイステリアの中には川がありますか?」
「川は街の西側と東側に大きなものが2本流れていますが、その支流まで数えるとかなりの数になります。全部見て回りますか?」
「そうですね……視察できる日数にも限りがあるので、過去に洪水の起こったことのある場所を優先的に見て回りましょう。時間が余ったら、残りも見て回るということで」
本当ならば全ての河川と土手を見て回り、一良が計画している洪水対策に必要な、とある手段のために写真を撮りまくっておきたいのだが、3日後にはグリセア村に向けて出発せねばならない。
なので、まずは洪水が発生したことのある場所を最優先とし、その他の箇所は後回しとするべきだろう。
「わかりました。かなりの距離を移動することになるので、ラタを使いましょう。すぐに用意しますので、ここでお待ちください」
「あ、私1人じゃラタに乗れないんですけど……」
「失礼しました。では馬車を用意させていただきます」
ラタに乗れないと一良が言うと、ハベルは特に意外そうな顔をするでもなく、爽やかな笑顔で一良に一礼して駆け出していった。
「あれ?」
イステリアの高級商業区画の一角に、1人の侍女の姿があった。
イステール家の一人娘であるリーゼの従者、エイラである。
エイラは今、数メートル先に停車している馬車に目を奪われていた。
エイラの視線を釘付けにしているものは、馬車それ自体ではなく御者の後ろに乗っている若い男だ。
その男は馬車を降りると、商業区画を横断するように作られている用水路を覗き込み、同じく馬車を降りてきたもう1人の男に話し掛けている。
「(あの人、どこかで……)」
「エイラ様、どうかなさいましたか?」
用水路を覗き込んでいる男をエイラが見つめていると、彼女の背後に控えていた2人の若い男の内の1人がエイラに声をかけた。
2人の男はイステール家の所有する奴隷であり、主な職務はイステール家の人間やその周囲で働く者たちの荷物持ちである。
男たちの手には木箱が抱えられており、中身は肉や野菜などの食料品だ。
「……あっ!」
エイラは声を掛けて来た男に返事をするでもなく、そのまま数秒考え込んでいたが、その男が誰なのかを思い出し、思わず声を上げた。
「(前にこの辺で私とぶつかった人だ……隣にいるのは、第1仕官練兵隊の副官のハベル様かな)」
そこまで考えて、エイラは内心首を傾げた。
以前あの男と顔を合わせた時は、男は地方の農民が身に着ける様な無地のシャツとズボンを着ていたのだ。
それが今、男は貴族が着ているような上質のローブを身に纏い、貴族であるハベルと話をしているのである。
それどころか、話している様子からはハベルがその男に従っているような雰囲気さえ感じられる。
もしエイラが普通の一般人であったなら、人違いだろうと考えて見過ごすところなのかもしれないが、生憎彼女に限っては見間違えるといったことはあり得ない。
というのも、彼女は常日頃、彼女が仕えているリーゼが様々な人物と顔を合わせる度に、そっと耳元で名前と身分を囁く『氏名告知従者』という仕事をしている特殊技能を持った従者なのだ。
分かりやすく言うと、人の名前と顔を暗記するプロフェッショナルである。
「(おかしいなぁ。貴族様なら、何でこの間あんな格好をしてたんだろ。お忍びだったのかな……)」
エイラがそうしている間に、水路を覗き込みながら話していた男はハベルと共に馬車に乗り、何処かへと走り去ってしまった。
本当ならば、直接話しかけて何処の誰なのか聞き出したいところなのだが、彼が貴族かもしれないのであれば問いただすわけにはいかない。
領主の娘であるリーゼの従者という、かなり高位の職についているエイラだが、出身は貴族ではなく平民である。
名前や立場を聞くために貴族に話しかけるなど、出来るような立場ではない。
「エイラ様?」
後でリーゼに報告するべきか、とエイラが考えていると、背後に控えている男が再度声を掛けて来た。
「何でもないわ。屋敷に戻りましょう」
エイラは男に答えると、屋敷に向けて歩き出した。
一良がエイラに目撃されている頃、バリンとバレッタはグリセア村へと向かう馬車の中にいた。
馬車の中には動物の皮で作られた柔らかな絨毯が敷かれており、土がむき出しの街道のためにガタガタと揺れる車内にあっても、座り心地はさほど悪くない。
馬車の前方と後方ではラタに乗った護衛の兵士が2人ずつ周囲を警戒しており、車内にいるのはバリンとバレッタだけである。
そんな中、車内の壁に背をつけ膝を抱えて顔を伏せてしまっている自分の娘に、バリンはどう声を掛けたものかと途方に暮れていた。
イステリアを出発してから3時間以上が経過しているのだが、バレッタはずっとそんな様子だった。
心配して何度か声を掛けたりもしたのだが、「うん」とか「ごめん」といった返事しか返ってこないのだ。
「(参ったな……こんな時シータだったらどうするんだろうか)」
今まで見たことも無い程に落ち込んでいるバレッタに、バリンは亡き妻を思い出しながら溜め息を吐いた。
4年前、バリンが出兵先からバレッタの待つグリセア村に戻り、妻の戦死を伝えた時ですら、バレッタはこれほどまでに落ち込んだ様子は見せなかったのだ。
むしろ、あの時はバレッタを抱き寄せて涙を流しながら詫びる父の姿に、バレッタは自身の嘆きよりも父を支えることに意識が向き、母を失って悲しむ自分の姿を見せまいとしていたのだろう。
事実、それからのバレッタはいつも明るくバリンに接し、畑仕事や家事も進んでこなした。
母を失った悲しみを微塵も見せず、いつも元気に過ごしているバレッタの姿に、バリンはどれだけ救われたか分からない。
そんなバレッタが、ここに来てこの落ち込みようである。
情けない話だが、バリンにはどうバレッタに接すればいいのかさっぱりわからない。
「バリン殿」
バリンが1人で頭を抱えていると、馬車の後方を守っていた護衛兵の男ががラタを馬車に寄せ、バリンに話しかけた。
「隣に座っても?」
「あ、どうぞ」
男はバリンの返事を聞くと、素早くラタを降りて手綱を馬車の尾部に縛り付け、動き続ける馬車の後部に器用に飛び乗り腰掛けた。
「俺にも娘がいてな、今年で16になるんだ。……飲むかい?」
男は懐から皮袋を取り出すと、栓を抜いて一口飲み、バリンに手渡した。
「ありがとうございます。娘さんとは一緒に暮らしているのですかな?」
男に答え、バリンは馬車の後部に男と同じように並んで腰を掛けると、皮袋に口をつけた。
口にした水は仄かに酸味があり、薄っすらと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。
以前、一良が作ってくれたハーブティーもこんな香りがしたなとバリンは思った。
「畏まらなくていい。敬語は苦手なんだ。さっきの坊やには仕方なく使っているがね」
軽く笑いながら冗談めいた様子で言う男に、バリンもつられて笑う。
どうやらこの男は、落ち込むバレッタを見て一緒に凹み始めたバリンを心配して話しかけてきたようだ。
「娘は半年前に結婚してな。今は相手の家で暮らしているよ。たまにあっちの家で採れた香草を届けてくれたりするが、10日に1度顔を見れればいいほうさ。寂しいもんだよ」
男はそう言うと、小さく振り返って馬車の奥に座っているバレッタをちらりと見た。
「ずっと塞ぎこんでいるように見えるが、何かあったのか?」
「いや、それがよくわからんのだ……イステリアを出るまでは、ああではなかったのだがな」
「……さっき領主の屋敷で別れた男が原因じゃないのか?」
「いや、カズラ様には何も落ち度などないよ。だが……うむ……」
男に小声で指摘され、バリンは一良と別れた時の事を思い返しながら唸った。
一良とバレッタは非常に仲が良い。
それこそ、傍から見れば恋人同士に見えるくらい、村で2人は常に一緒におり、何をするにも一緒だった。
それが、数日とはいえ一良と別れることになってしまい、バレッタが落ち込んでいるというのなら、分からないでもない。
だが、いくらなんでも落ち込みすぎに見えるのだ。
いつものバレッタなら、多少辛いことや悲しいことがあったとしても、すぐに元気を出して明るく振舞う。
それに、今回一良と離れ離れになるとはいっても、3日後にはイステリアを立つと本人から聞いているし、5日もすればまた会うことが出来るのである。
ナルソンたちは一良がグレイシオールであると信じたとはいえ、やはり一良の身が心配なのだろうかと考えたりもしたのだが、どうにも違う気がする。
「まぁ、もし色恋沙汰だとしたら、あまり父親が心配して口出ししても碌な結果にならないだろ。ここは暫く放っておくか、同じ女に任せたほうがいい」
「うむ……」
女と聞いて、バリンはバレッタと仲の良い村娘たちを思い浮かべた。
村に戻ってもバレッタが落ち込んだままだったら、彼女達に相談したほうがいいのだろうか。
「失礼だが、奥さんは村に?」
「……いや、4年前に死んだよ」
バリンが答えると男は溜め息を吐き、今通ってきた道に目を向けた。
「……戦争でか?」
「ああ、国境沿いの丘……今は英雄の丘って名が付いているんだったか。そこでの最後の会戦で」
「……俺も、弟と兄貴をその戦いで亡くしたよ」
「……」
「……」
娘を持つ2人の父親は、そのまま暫く何を話すでもなく、流れていく景色に目を向けていた。
グリセア村へと向かうバリンたちを乗せた馬車の数キロメートル後方に、一台の薄汚れた幌付き馬車が道を進んでいた。
馬車の中には10人近い男たちが乗っており、彼らはみな寝転んだり、隣の者とだべったりしてだらけている。
馬車を操っている男の隣には、人相の悪いスキンヘッドの男が前方を睨むように眺めている。
「頭!」
暫くすると、道の先からラタに乗った1人の男がやってきた。
「どうだ?」
「ガチガチに見張りをしてて近寄れねぇ。馬車の中に何人いるのかもわからないから、昼間に襲い掛かるのは無理だ」
頭と呼ばれた男は、ラタに乗った男の言葉に舌打ちをした。
彼が聞きたいことはそんなことではない。
「そんなことは分かってる。奴らの行き先は何処だと聞いてるんだ」
「恐らく、ここから馬車で1日くらい進んだところにある村だ。詳しくは知らないが、あまり大きな村じゃなかったはずだ」
苛立ちの篭った声に、ラタに乗った男は若干焦った様子で答えた。
頭と呼ばれた男は、その言葉を聞くと考え込むように腕を組んだ。