378話:フライス領に行こう
翌朝、バレッタとマリーが朝食で使った食器を水路で洗っていると、一良が歩いて来た。
「あ、カズラさん」
バレッタが明るい笑顔を一良に向ける。
「あの、ちょっとまた日本に出かけてきます。買ってこないといけないものができちゃって」
「えっ、今からですか? 何が必要なんです?」
「サイレンです。ナルソンさんから無線連絡があって――」
一良曰く、バルベール北の国境沿いにいるバルベール・部族連合軍が、少々困った事態になっているらしい。
国境線には多数の部隊が到着しつつあるのだが、あまりにも国境線が長すぎるため、異民族の襲撃に効率的な防衛ができずに困っているそうだ。
彼らは夜の闇に紛れて少数の部隊で複数個所から渡河をしてくるそうで、守備部隊は気付くのが遅れ、内地への侵入を許してしまうことが何度かあった。
異民族は嫌がらせのように弓による攻撃を行っては逃げ回るということを繰り返し、少なくない被害が出つつあるらしい。
彼らは威力偵察を行っているようで、こちらの地理を確認しつつ、油断している兵士を狙撃したり、新たに作った集落を襲って作業の妨害を行っている。
このままでは、彼らに国境付近の地理を完全に把握されてしまうのも時間の問題とのことだ。
「それもこれも、異民族の部隊を一部の兵士が見つけても、守備軍全体に連絡する手段が手持ちの警鐘しかないせいらしくて」
「それなら、万里の長城で使われていた連絡手段をそのまま流用しちゃえばいいですよ」
当然、といったようにバレッタが言う。
「あ、確かに……でも、どんな方法で連絡してたんですか?」
「狼煙と篝火です。昼間に敵の襲撃を受けたら、黒煙を上げて。夜は炎の灯りで、近場の駐屯地に連絡するんです」
「なるほど……確かに、古代中国の人たちだって、連絡手段を持っていたはずですもんね。俺、手回しサイレンを買ってきてあちこち配ろうと思ってましたよ」
「そ、それはちょっと大変だからやめたほうがいいですね。というか、設計図に篝火台は記載しておいたんですけど、バルベールの人たちは気付いてなかったんですね」
「あ、そうだったんですか。ただの照明としか思ってなかったのかな」
2人のやりとりを聞き、マリーが、ふふっ、と笑った。
「さすがバレッタ様です。抜かりなしですね」
「そんなことないよ。ちゃんと説明してなかったから、こんなことになっちゃったんだし」
「ううむ。防壁よりも先に、篝火台を建設しないとだなぁ。俺、ナルソンさんに連絡してきます」
一良が屋敷へと駆けて行く。
「はあ、やっちゃった。分かるだろうって思って、説明を省くなんて」
皿洗いを再開しながら、バレッタがため息をつく。
「ちゃんと言わないと、伝わらないこともありますもんね」
「だよね……あ!」
バレッタが、はっとして立ち上がる。
「黒煙を上げるのに使う燃料、肉食動物の糞を使うってこと、設計図にも書いてない! マリーちゃん、後はお願い!」
そう言うと、バレッタは慌てて一良を追って行った。
マリーはそれを見送り、残りの洗い物を続ける。
――でも、カズラ様とバレッタ様なら、言わなくても大丈夫かな。これから、ちょっと大変そうだけど。
昨夜の一良にまとわりつく女性陣のことを思い返し、マリーは苦笑するのだった。
数時間後。
グリセア村を発った一良たちは、ナルソン邸の広場に帰って来ていた。
また騒ぎになってしまっては困るので、穀倉地帯で馬車に乗り換えて、分散して移動してきたかたちだ。
荷馬車から降りたウリボウたちを、一良が集める。
「それじゃ、ウンチはそこのトイレでお願いしますね」
急遽用意された複数の大きなタライを、一良が指差す。
オルマシオールがそれをウリボウたちに伝えると、皆が一様に嫌そうな顔をした。
いつもは、本来の習性どおりに自分で地べたに穴を掘って埋めていたのだ。
ティタニア(獣の姿)にも馬車の中でこのことは伝えたのだが、『カズラ様といえどもぶち殺しますよ?』と底冷えした声を直に脳に響かせられてしまった。
というわけで、ティタニアだけはこの任務は対象外である。
オルマシオールは特に気にしないとのことで、せっせとプリプリ出してくれるとのことだ。
巨体の彼ならたくさんのウンチを出してくれるはずなので、頼もしい限りだ。
これからは、毎日彼らの糞がバルベールに向けて運ばれていくことになるだろう。
「カズラ殿、祭りは楽しめましたかな?」
出迎えたナルソンが、一良に歩み寄る。
シルベストリアとセレットも一緒だ。
「ええ。思いっきり楽しめました。異民族のほうは、どうなりました?」
「少々手こずってはいますが、我が国の軍も支援に向かっているので、まあ大丈夫かと。それに、プロティアとエルタイルも軍を向かわせているようですし」
「おっ、それは助かりますね。彼らは無傷ですし、頼りになりそうだ」
「はい。それに、バルベールには井戸掘り機、クロスボウ、スコーピオンの貸与をすることになりました」
「それなら、なおのこと安心ですね。敵が大軍団で攻めてきても、やっつけられそうだ」
「ええ。なので、カズラ殿は何も気にせず、旅行をお楽しみください。船の手配は済んでおりますので」
ナルソンが一枚の封筒と布の小袋を差し出す。
何だろう、と一良が受け取って中身を出すと、それはフライシアの名所のメモ書きだった。
袋の中身はお金のようだ。
「ヘイシェルに領内の見どころを聞いて、まとめておきました。あちらに行ったら、それを目安に観光してみては?」
「おお! ありがとうございます! そうしますね!」
「それと、護衛にはアイザックとハベルに加えて、シルベストリアとセレットも付けさせていただきます。大丈夫だとは思いますが、念のためです」
「頼もしいです。フライス領って、治安はどんな感じなんですか?」
「我が領よりも良いですよ。税率が我が領に比べてやや低く、食料品や塩の価格が安いせいでしょうな。貧困からくる犯罪は、ほとんどないそうです」
「へえ、よくそれで財政が回ってますね?」
「フライス領は軍の規模が小さいので。軍備費がかからない分、内政に振り分けられるのです」
「ああ、前にもそんな話を聞きましたね」
「ねえ、カズラ。そんな話してないで、早く旅行に行こうよ」
リーゼが一良の袖を引っ張る。
「こら、そんな話なんて言いかたがあるかよ」
「だってー」
一良に叱られてむくれるリーゼ。
「はは。まあ、話はこれくらいにしておきましょう。シルベストリア、カズラ殿たちのことは任せたぞ」
ナルソンが背後に控えているシルベストリアに振り向く。
「はっ! 承知しました!」
「うむ。お前たちも楽しんでくるがいい。ただし、護衛任務はしっかりな」
ナルソンが懐からずっしりとした布の小袋を2つ取り出し、シルベストリアに渡す。
「えっ。あ、あの、これは?」
「小遣いだ。買い食いでもお土産でも、2人で好きに使いなさい」
「ありがとうございます!」
シルベストリアがとろけそうな顔になる。
1つをセレットに渡し、彼女もナルソンに礼を言って頭を下げた。
「では、私は国に戻ります。カズラ様、ご教授ありがとうございました」
カーネリアンが、一良に頭を下げる。
「カズラ様も、そのうち我が国にいらしてください」
「もちろんです。大変かとは思いますけど、頑張ってくださいね。困ったことがあったら、何でも相談してください」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
一良が、さて、とティタニアとオルマシオールを見る。
「それじゃ、着替えて出発しますか。ティタニアさんたちは、お留守番でお願いしますね」
「「クゥン……」」
それまでぶんぶんと振っていたティタニアとオルマシオールの尻尾が、へにゃっと垂れる。
「あ、あの! 私たちも一緒に行っていいんですよね!?」
はい、と手を挙げるフィレクシア。
そんな彼女の頭を、ラースが小突く。
「いいわけないだろ。俺らは、バルベールに帰るんだよ」
「ええっ!? で、でも、私もフライシアを見てみたいのですよ!」
「それは次の機会にしとけ」
「フィレクシアさん。あんまりカズラ様たちに気を遣わせてはいけませんよ」
ティティスにまで言われてしまい、フィレクシアが縋るような目で一良を見る。
「え、えっと……またいつか、連れていきますから」
「うー。行きたかったのです……」
「近いうちに必ず誘いますって。約束です」
「分かりました……」
しょげかえって頷くフィレクシアに一良は苦笑し、屋敷へと入っていった。
ナルソンがそれを見送りながら、さて、と息をつく。
「プロティアとエルタイルの将軍たちと話してくるか。ラース殿、同席してもらえるか?」
「了解した」
ナルソンがラースを連れ、将軍たちを待たせている客室へと向かう。
一良に気を遣わせないように、早馬でやって来た彼らのことは伏せておいたのだ。
まだしばらくの間、彼の忙しい日々は続きそうである。
平民服に着替えた一行は、馬車で船着き場にやって来た。
小さな漁船や渡し船に混じって、やや大きめの輸送船が停泊している。
川魚を販売している者たちも見られ、何人かの市民が買い物をしていた。
シルベストリアに先導され、輸送船へと向かう。
「こんにちは。フライシアまでお願いね」
シルベストリアが、ナルソンから預かっていたメモ書きを船の前にいた男に渡す。
多めに着替えやレトルト食品を持ってきたので、全員が大きなズダ袋を1つ背負っている状態だ。
もちろん、ヘイシェルたちへの手土産も持参している。
「お待ちしておりました。どうぞ、ご乗船ください」
タラップを渡り、ぞろぞろと船に乗る。
船の中央部には客室が付いていて、中で仮眠や食事ができるらしい。
乗客は他にはおらず、貸し切りのようだ。
すぐに出航の鐘が鳴り、船が動き始めた。
「船なんてひさしぶりだなぁ」
一良が嬉しそうに言いながら、船の先頭へと向かう。
バレッタとリーゼが、その後をすぐに追いかけた。
エイラたちは船員に呼ばれ、荷物を手に客室へと入って行った。
「気持ちいい風ですね……カズラさん、船に乗ったことがあるんですか?」
手すりに手をかけ、風に髪をなびかせながらバレッタが聞く。
「ええ。秩父の長瀞に行った時にライン下りをしたのと、河口湖で遊覧船に乗ったことがありますよ」
「楽しそうですね。ライン下りって、小さな船に乗るんですっけ」
バレッタが雑誌の記事を思い出す。
十数人乗れる細長い船で、船頭に川の解説を聞きながら楽しむ遊びだと読んだ覚えがあった。
「ですね。水がばっしゃんばっしゃんかかって、すごく楽しかったです。子供の頃は、よく連れて行ってもらったなぁ」
「ねね、遊覧船っていうのは? 大きな船なの?」
手すりに背を預けながら、リーゼが聞く。
「うん、大きいよ。二階建ての船でさ、湖を一周するんだ。大学生の頃行ったんだけど、富士山がすごく綺麗だったな。皆、おおはしゃぎでさ」
「へー、いいなぁ。私も行ってみたいな」
「はは。皆も連れていけたらいいんだけど」
「連れて行ってよ。方法、あるんでしょ?」
「い、いや、どうかな。父さんが教えてくれないからさ」
「なら、方法が分かったら連れて行って! お願いね!」
にっ、とリーゼが笑う。
一良は少し困った顔をしながら、曖昧に頷く。
「か、河口湖には、お友達と行ったんですか?」
バレッタが話題を変えようと、口を挟む。
「ええ。5人で行きました。そういえば、あいつらどうしてるかな。社会人になってから、全然連絡取ってないや」
「あらら。疎遠になっちゃったんですね」
「まあ、仕方がないっていえばそうなんですけどね。そいつら結婚してから、仕事で地方に引っ越しちゃいましたし」
「それは寂しいですね。でも、それだと皆さん、年齢的にずいぶんと早い結婚だったんですね?」
「そうなんですよ。小学校から一緒だった連中なんですけど、いつの間にかくっついてて大学卒業と同時に結婚しちゃって。めちゃくちゃ驚きました」
「ん? その4人って、男2人、女2人だったってこと?」
リーゼが聞くと、一良は「うん」と頷いた。
「ほんと、危なかったよ。あやうく俺、卒業式に告白するところだったしさ。決心した次の日にそんなこと言われて、正直しょげたよ」
「「……」」
途端に2人が黙り込む。
「ど、どうしたのさ?」
「「別に……」」
妙な空気に一良が戸惑っていると、ジルコニアたちがお盆や小テーブルを手にやって来た。
パン、ローストされたカフクの肉、果実酒が載っている。
「軽食を用意してもらったわ。景色を見ながら……どうしたの? 2人とも、怖い顔して」
「「何でもないです」」
その後、テーブルに料理を並べ、食事を取りながら船旅を楽しんだ。
バレッタとリーゼは名前も顔も知らぬ恋敵にもんもんとしながら、しばらく怖い顔をしていた。