295話:伝令いらず
4日後の午後。
砦の厩舎では、バレッタがラタから血液を採取していた。
ラベンダーの精油をたっぷりとかがされて朦朧としているラタの首に注射器を挿し、採血管に血液を移していく。
血液で満たされた採血管をリーゼが受け取り、くりくりと何度か回して中の凝固剤と混ぜている。
その様子を、一良とナルソンが眺めていた。
傍では、マヤを始めとしたグリセア村の娘たちが2人1組で別のラタから採血を行っている。
「ふむ。この血で薬を作るのか」
ナルソンが木箱に納められた採血管を1つ手に取る。
「はい。この後しばらく放置しておくと赤いものと透明なものに分離するので、その後遠心分離機にかけるんです」
「そうすると薬ができるのか?」
「できるはずです。一応、次の戦いに備えてできるだけ作っておきます」
「そうしてくれ。病気で死ぬ者を可能な限り減らしたいからな」
先日の戦いでは、重傷軽傷含めて多数の怪我人が出た。
それらの者は医者による手術と一良が持ってきた食べ物、それに加えて抗生剤(金魚用)の投与がされ、かなりの人数が助かった。
しかし、中にはあまりにも傷が酷く、コルツのようにガス壊疽のような症状を起こして手の施しようがなくなり、死んでしまった者も何人かいたのだ。
「街でもあの病気になって死んじゃう人は毎年いるみたいだから、薬ができれば皆助かるね。血清って言うんだっけ?」
「はい。血清は氷式冷蔵庫で保管できますから、街に戻ったら冷蔵庫と一緒に治療院に無償提供するのがいいと思います」
「そうだね。お金がなくて治療できないってことが起こらないようにしないと」
「……カズラ殿。もしや、この時のために氷室と冷蔵庫を作っておいたのですか?」
はっとした様子で言うナルソンに、一良が苦笑する。
「いやいや、偶然ですよ。両方ともお金儲けの手段として提案しただけです。こんなことになるなんて、あの時はまるで考えていませんでしたし」
「そうでしたか。偶然とはいえ、あれこれ手を出しておいて正解でした。何がどこで役に立つか分かりませんな」
「そうですねぇ。去年の大飢饉だって、作物の納税ができない代わりに木材の代替納税が増えたおかげで木炭高炉の燃料に事欠かなくなりましたし。巡り巡って、いろんなところに繋がってくるものですね」
「まったくそのとおりで。飢饉がなければ、カズラ殿にこうしてお会いできることもありませんでしたし」
「そ、そうですね」
『ナルソン様、ニィナです。どうぞ』
そんな話をしていると、ナルソンと一良の腰の無線機から声が響いた。
ナルソンが無線機を手に取る。
「ナルソンだ。どうした? どうぞ」
『アイザック様から無線連絡が入っています。宿舎の屋上まで来れますでしょうか? どうぞ』
「うむ。すぐに行こう。アイザックには、そのまま待つように言っておいてくれ。通信終わり」
ナルソンが無線機を腰に戻す。
「では、私は屋上に行ってまいります」
「俺も行きます。クレイラッツ軍の様子が気になりますし」
「バレッタ、採血は私たちがやっておくから、カズラ様と一緒に行きなよ」
「採血管全部に血を採ったら、カズラ様の部屋の冷蔵庫に入れておけばいいんだよね?」
採血をしていたマヤたちがバレッタに声をかける。
「うん、それで大丈夫。ありがとう」
「そしたら私も行こうかな。皆さん、後はお願いしますね」
そう言ってリーゼも採血管を村娘に渡す。
その場をマヤたちに任せ、一良たちは宿舎へと小走りで向かったのだった。
屋上に到着してニィナと合流し、ナルソンは無線機を手に取った。
「ナルソンだ。どうした? どうぞ」
『クレイラッツ軍の進軍状況についてご報告です。明日の夜、バルベールとの国境に軍団が到着します。2日後の夜明けと同時に攻撃を仕掛けるとのことです。どうぞ』
「よし、予定通りだな。敵の斥候については心配しなくていいぞ。国境付近の山に潜伏している連中の位置はすべて、ティタニア様が把握している。奴らの軍団要塞に報告に戻ろうとする動きを見せたら仕留めてくださると連絡が来ているからな」
クレイラッツ方面に向かったティタニアは、ムディアの街を囲むようにしてウリボウを配置してくれている。
可能な限り敵の軍団要塞を奇襲というかたちで攻撃できるように、国境沿いの森や山の中にもウリボウを放ち、潜伏している人間を探してくれていた。
ウリボウは嗅覚が非常に優れているため、どんなに上手く潜伏していようとすべてを探し出せるとのことだった。
山に潜伏している数人のグループをすでに発見しており、複数頭のウリボウが付かず離れずで監視している。
攻撃するか否かの判断は、彼らが国境を越えて自国領土に戻った時、となっている。
クレイラッツ国内で仕留めないのは、彼らが万が一クレイラッツ国民だった場合を考えてのことだ。
ティタニアが常にすべてのウリボウと情報共有ができるわけではないので、そういう方法となった。
「こちらにいる敵軍と、そちらの敵軍との間にはティタニア様が待機してくださっている。安心していいぞ。どうぞ」
『承知いたしました。攻撃を開始する際に、またご連絡いたします。どうぞ』
「うむ。しっかりと戦いの様子を見ておくのだぞ。将来、きっと役に立つからな。通信終わり」
ナルソンが無線機を腰に戻す。
「何だか……バルベール軍は怖いくらいにこちらの予想通りに動いてくれますね」
リーゼが複雑そうな表情で言う。
作戦自体が上手くいきそうなのは嬉しいのだが、これからすさまじい殺し合いが始まることを考えると陰鬱な気持ちになっていた。
砦の治療院は、また負傷者で溢れかえることだろう。
「彼らの状況を考えれば妥当だな。私が連中の司令官だとしても、同じようにしただろう」
『カズラ様、こちらデイドです。応答願います。どうぞ』
ナルソンがそう言った時、再び無線機から声が響いた。
一良が腰の無線機を取り、送信ボタンを押す。
デイドは、グレゴルン領で連絡役をしているグリセア村の若者の1人だ。
「カズラです。何かありましたか? どうぞ」
『バルベールの艦隊が、北に姿を消したのでご報告をと思いまして。どうぞ』
「すべての船がいなくなったんですか? どうぞ」
『大型艦はすべていなくなったとのことですが、小型の船はいくらか残っているとのことです。今朝方、一斉に北へ向かって行ったようでして。どうぞ』
「ふむ。連中は海軍も蛮族討伐に繰り出したようですな」
ナルソンがほっとした様子で言う。
バルベール艦隊は、グレゴルン領との国境に一番近い港湾都市に集結していた。
内通していたダイアス(故)が領地ごと離反してバルベール側に付く予定だったが、ニーベルの反乱により彼は処刑されてしまった。
ニーベルはダイアスの名を使って偽造した親書をバルベールに送っており、その内容は
「予定通り、戦いが始まると同時にグレゴルン領はバルベールに寝返るから、バルベール海軍はグレゴルン領海軍への攻撃は避け、王都軍とフライス領軍の船団のみを攻撃してほしい。また、海岸線にある砦はイステール領との国境にある砦が陥落したのちに明け渡すから、それまでは攻撃はしないように」といったものだった。
直前までダイアスは内通しているふりをして彼らとやり取りを続けていたため、バルベールからしてみれば離反工作は上手くいっているはずだと考えていただろう。
ところが、いつまで経ってもグレゴルン領海軍が寝返る様子が見られず、バルベール軍は離反工作が上手くいっているのか失敗したのかの判断が付かずに攻撃できないのでは、とナルソンは考えていた。
実のところ、ニーベルが送った書状はバルベール元老院の抱える筆跡鑑定士によって別人が書いたものだと判断されていた。
それもあってグレゴルン領方面は睨み合いが続いているのだが、一良たちは真相を知らない。
「海軍が退いたのは朗報ですね。こっちの二段櫂船は数が全然そろってないですし、海戦になったらかなり危うかったんじゃないですか?」
「海戦については詳しくないので私からは何とも言えませんが……まあ、敵が減ったことは朗報です。バルベールは海からも攻撃を受けているようですな」
「蛮族は海軍も持ってるんですね。どれくらいの規模なんでしょうか」
「少なくとも、バルベール海軍よりも強大ということはないでしょう。陸と違って海では船舶の性能と乗員の技量が物を言うとのことなので、蛮族にとっては厳しい戦いになるでしょうな」
一良は頷き、無線機の送信ボタンを押した。
「報告ありがとうございました。引き続き、動きがあったらすぐに連絡してください。どうぞ」
『承知しました。それにしても、こっちでも血みどろの戦いになると思っていたのに、いつまで経っても敵が攻めてこないですね。最近じゃ、海で泳いだり釣りをしたりして暇つぶししてる人もいますよ。どうぞ』
「ええ……いつ戦いが始まるか分からないんですから、気を緩めちゃダメですよ。どうぞ」
『えっ? あ、違いますよ! 俺たちじゃなくて、王都軍の若い貴族連中の話です!』
慌てた声が無線機から響く。
『俺らは真面目にやってますから! 信じてください! どうぞ!』
「あ、それは分かってますから。遊んじゃってる人のことは、後でこっちの偉い人に伝えておきます。活を入れてもらわないとですね。どうぞ」
『はい、そうしていただけると。でも、あの人たちどうして指揮官に怒られないのかな……バレずに抜け出して遊びに行くなんて、普通に考えて無理だと思うんですけど。どうぞ』
「あー……いろいろと問題がありそうですね。何とかしますから、任せておいてください。通信終わり」
一良が無線機を腰に戻す。
「こんな時に海水浴に釣りって、そいつら頭おかしいんじゃないの!? 信じらんない!」
「気が緩みすぎですね……」
「こっちはこんなに大変な状況なのに……何だか、がっかりだね」
憤慨するリーゼと、顔をしかめるバレッタとニィナ。
ナルソンも、やれやれといった様子でため息をついている。
「まあ、どんな組織だってそういう人はいるよ。ただ、管理が行き届いてないのはまずい。ミクレムさんとサッコルトさんに知らせに行かなきゃな」
「私も行く! とっちめてもらえるように、ちゃんと言っておかなきゃ! バレッタも行くよ!」
リーゼが一良の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張る。
「いてて! 引っ張るなって!」
一良は引きずられるようにして、彼女たちとミクレムたちの下へと向かったのだった。
北門を出て防御陣地へとやってきた一良たちは、早速ミクレムとサッコルトを呼び出して事の次第を報告していた。
話を聞くやいなや、2人の顔が瞬時に真っ赤に染まった。
「何ということだ! 栄光ある王都軍の名誉に泥を塗る行いではないか!」
「ふざけた真似を! そいつらの名前は分かっているのですか!?」
激怒して怒鳴り声を上げる2人の軍団長に、周囲の兵士たちがぎょっとした目を向ける。
あまりの剣幕に、一良たちは思わずびくっと肩を跳ねさせた。
「い、いえ、そこまでは聞いていません。連絡係の人から、無線で聞いただけなので」
「ならば、すぐに確認するよう、あちらの軍団長に直接我らが話します! 無線機を使わせていただきたい!」
「重営倉にぶち込んでやらねば! 丸一日『曲げ結び』にしてやる!」
続けざまに2人が言う。
曲げ結びとは、一切の身動きが取れない状態に体を縛り上げて放置する刑罰だ。
糞尿垂れ流しで何時間も放置されるので、不快極まるうえにかなりの羞恥を体験することになる。
戦時中に兵士に怪我をさせるわけにはいかないので、軍規に違反した者にはこういった刑罰が用意されていた。
「わ、分かりました。じゃあ、宿舎の屋上に行きましょうか」
「ありがとうございます! サッコルト、行くぞ!」
「おう!」
ドスドスと足音を響かせて駆けて行くミクレムとサッコルト。
そんな彼らを追いかけて、一良たちも再び宿舎へと向かって走り出す。
「な、何か、かなり大事になりそうだな……」
「カズラさん、処罰がやりすぎになりそうだったらお二人を諫めないとですよ。あんまり苛烈にして恨みを買っても――」
心配そうな顔になっている一良とバレッタに、先を走るリーゼが振り返って鋭い目を向ける。
「バレッタ。メリハリだよ。見せしめの意味も含めて、処罰するときは下手に手を抜いちゃダメなんだから!」
「そ、そうなんですか」
「リーゼの口から、『見せしめ』なんて言葉を聞くとは思わなかったな……」
「軍隊はそういうところなの! 甘ったれた考えで生き残れるような場所じゃないんだから!」
怒り心頭といった様子で吐き捨てるリーゼ。
「これがお母様だったら、きっとそいつら足腰立たなくなるまでぶん殴られるよ。曲げ結びくらいで済むんだから、感謝してもらわないといけないくらいだよ!」
激怒しているリーゼの背を追いながら、一良とバレッタは「ジルコニアの耳には入らないようにしなければ」と小声で話し合うのだった。