27話:少女の期待と鬼教官
一良がバレッタに人間だと認知された次の日の早朝。
辺りはまだ薄暗く、未だひっそりと静まり返っているグリセア村のあぜ道を、一良はボストンバッグ片手に日本に繋がる石畳の通路に向かって歩いていた。
今日の一良の服装は何時もとは違い、バレッタの縫ってくれた服ではなく、ジーパンにTシャツ姿である。
日本へ戻る目的といったら今までは物資の調達のみだったのだが、本日の目的はそれではない。
「カズラさん、カズラさんの国……日本へ行ったら、まず本屋さんへ行ってみたいです!」
一良の隣を歩きながら、期待に満ちた表情で言うバレッタに、一良は、いいですよ、と返事をする。
今回の日本帰りの目的は物資の調達ではなく、バレッタを日本へ連れて行くことである。
昨晩、一良が人間であることを話した後、バレッタから
「あの……もし、ご迷惑でなければ、今度私もカズラさんの国へ連れて行っていただけませんか?」
とお願いされ、一良も『バレッタだったら別に構わないだろう』と判断して了承したのだ。
一良から日本行きの了承を取り付けたバレッタは余程嬉しかったのか、その後深夜まで一良に日本のことをあれこれと質問し続けた。
一良の腕時計が夜中の1時を指す頃になって、バレッタはようやく自分がずっと喋り続けていたことに気付き、慌てて謝罪した後に就寝することになったのだが、『今すぐにでも行きたい!』と顔に書いてあるような表情をしているバレッタに、一良が気を使って
「少し仮眠をとったら、早速私の国に行ってみます?」
と提案し、それから3時間して今に至っているのだ。
ちなみに、これは一良は知らないことなのだが、昨夜のバレッタは興奮のあまり一睡もしていない。
「でも、本屋へ行く前に服と靴を買わないといけませんね。アルカディアの服装と日本の服装は大分違いますから」
バレッタの現在の服装は、普段どおりの無地の服に草編みの草履である。
この世界ではまるで目立たないこの服装も、日本では金髪美少女というステータスとの合わせ技で、注目の的間違いなしだ。
日本観光をするにしても、まずはどこかで服を調達し、それに着替えさせてからだろう。
「あ、そうですね……お金って、これは使えませんよね?」
念のため持ってきたのだろう、バレッタは腰紐に括り付けていた布袋から、100アル銀貨を数枚取り出した。
こちらの世界ではかなりの価値がある100アル銀貨も、日本ではただのアンティーク扱いである。
「アルカディアのお金は使えませんねぇ。日本のお金なら私が持っているので、心配しなくても平気ですよ」
「すいません……私も、アルカディアン虫でも捕って来ればよかったですね。日本のお店で売ればお金にできますし」
「ええ……アルカディアン虫はどうかなぁ……下手すると売れる前に色んな意味で大変なことになりそうだな……」
そんなことを話しているうちに、二人は石畳の通路へ繋がる雑木林へと辿り着いた。
日の出前ということに加えて、うっそうと生い茂る木々のために雑木林の中はかなり暗い。
普段は決して踏み入らない薄暗い雑木林を前にして、バレッタの表情にも若干の緊張が見える。
一良は不安そうにしているバレッタに気付くと、その背を軽くポンポンと叩いた。
「別に心配しなくても大丈夫ですよ。私はいつもここを通ってますけど、至って普通の林ですから」
「は、はい」
一良はバレッタに笑顔でそう言うと、ポケットから取り出したペンライトで足元を照らしながら、雑木林の奥へと歩を進めた。
歩き始めた一良に続き、バレッタもゆっくりと雑木林へ足を踏み入れる。
「この先に、日本へと繋がる石造りの通路があります。そんなに距離はないので、すぐに着きますよ」
「そうなんですか……言い伝えでは、この雑木林に入ると、いつの間にか入り口に引き返してしまうとされているのですが……」
薄暗い雑木林の奥へ奥へと向かって歩きながら、一良はバレッタの言葉を聞いて軽く振り返りながら笑って見せた。
「面白い言い伝えですね。でも、もしそんなことが本当に起こるんだったら、私は何時までたっても日本へ帰れないじゃないですか。大丈夫、普通に通れますよ」
「そう……ですよね、カズラさんがいつも通っているんですもんね」
一良の言葉を聴いて安心した表情を見せたバレッタに、一良は笑顔で頷くと、自身の行く手に見えてきた一本の木を指差した。
「あと、道に迷わないように木に印を付けてあるんです。これを見つけながら進めば、絶対に迷いませんよ」
「目印ですか、それなら迷うこともありませんね」
「ええ。ほら、こんな風に石で大きく印を付けたんで、暫くは消え……バレッタさん?」
目印の付けてある木に近づき、その印を手でなぞりながら後方を振り返った一良だったが、そこにいるべきバレッタの姿がない。
何処かの木の陰にでも居るのかと周囲を見渡してみたが、気配すら感じることが出来なかった。
「なんだって……たった今話してたのに……」
忽然と姿を消してしまったバレッタに、一良は嫌な汗を掻きながらも大声でバレッタの名前を呼ぶ。
しかし、その声は空しく雑木林に響き渡るだけで、何の返事も返ってこなかった。
一良は一瞬呆然と立ち尽くしたが、バレッタが万が一にでも神隠しに遭っていたら大変な事態である。
先ほどバレッタが言っていた言い伝えのように、雑木林の入り口に戻っていてくれと祈りながら、一良は全速力で雑木林の中を村への入り口へと向けて駆け出すのだった。
「あ、あれ!? カズラさん!?」
突然目の前にいた一良の姿が掻き消え、バレッタは驚いて周囲をキョロキョロと見渡した。
一良が大きく印の付けられた木に手を掛け、こちらへ振り向こうとした瞬間、まるで空間が完全に切り替わったかのように周囲の景色が一変したのだ。
「そんな……目の前にいたのに……」
周囲の景色は、先ほどまで一良と共に居た場所とは木々の立ち位置が異なっており、先ほど一良が触れていた印の付いた木も見当たらない。
あまりの急展開に頭が着いていかず、バレッタがその場で呆然と立ち尽くしていると、背後から自らの名を呼ぶ声が耳に届いてきた。
一良の声である。
「バレッタさん! よ、よかった、見つかった……」
「え、カズラさん、どうして私の後ろから……?」
混乱している様子のバレッタに、一良は慌てて走ってきた所為で乱れている呼吸を整えながら口を開く。
「いや、私も訳が分からないのですが、後ろを振り返ったらいつの間にかバレッタさんの姿が消えていて……さっき聞いた言い伝えを思い出して、慌てて引き返して来たんですよ。でも、神隠しとかじゃなくて本当によかった……」
心底ほっとした様子の一良とは対照的に、バレッタは一瞬で移動したとされる自身の身体や周囲の様子を、怪訝な表情で確認している。
言い伝えでは、雑木林に立ち入るといつの間にか村への入り口へ引き返しているということなのだが、こうして二人で歩いていて自分だけが強制的に引き返す羽目になるとは、さすがにバレッタも思っていなかった。
言い伝えを信じていなかったわけではないのだが、一良と一緒だったら雑木林を通り抜けることが出来ると思い込んでいたのだ。
「やはり、言い伝えのように私もこの雑木林を通ることが出来ないのでしょうか……」
沈んだ表情で俯いて呟くバレッタを見て、それならば、と一良は左手でバレッタの右手を握る。
「あ……」
「こうして手を繋いでいけば、バレッタさんも一緒に雑木林を抜けることが出来るんじゃないですか?」
少なくとも、一良は雑木林を自由に通ることが出来るのだ。
こうしてしっかりと手を繋いでいれば、もしかしたらバレッタを掴んだまま雑木林を抜けることが出来るかもしれない。
一良は自身の考えに光明を見出して頷くと、不安そうな表情をして自分を見上げてくるいるバレッタに微笑み、再度雑木林の奥へと向けて歩き始めるのだった。
黙々と歩くこと約2分。
先ほどバレッタが急に消えてしまった場所に辿り着き、二人は足を止めた。
「確か、さっきはこの数歩先辺りで急に景色が変わってしまったんです」
バレッタはそう言うと、足元に落ちている石を一つ拾い上げ、雑木林の奥へと放り投げた。
投げられた石は途中で消え去るということはなく、印の付いた木の脇を通り、地面に落ちてコロコロと転がった。
「石は大丈夫みたいですね……」
投げた石が消えなかったことを確認すると、バレッタは一良と手を繋いだまま、もう片方の手も使い、繋いでいる一良の腕をぎゅっと抱きしめる。
一良もバレッタの手を強く握り返すと、印の付いた木に向かってゆっくりと歩き出した。
「よし、このまま行けばなんとか……なっ!?」
もう少しで目印の付けてある木に手が届こうという距離にまで近づいた瞬間、今までしっかりと自分の腕に掴まっていたバレッタが一瞬で消え去った。
左手に掛かっていた質量が急になくなり、思わずバランスを崩して転びそうになる。
「あ、あぶねぇ……こりゃ一体どうなってるんだ」
しっかりと手を握っていた上に、その姿を視界に捉えていた状況での突然のバレッタの消失に、この世界にやってきてから様々な驚くべき事態に遭遇してきた一良も、さすがに言葉を失った。
目の前で人一人が一瞬で消え去るというのは、かなりインパクトが大きい。
正直、初めて異世界への扉を通った時よりも衝撃を受けた。
一良は今までバレッタの手を握っていた左手を数秒見つめていたが、再び踵を返し駆け出すのだった。
「バレッタさん」
先ほどバレッタが瞬間移動させられていた場所に一良が戻ってくると、バレッタは落ち込んだ表情で膝を抱え、落ち葉の降り積もった地面を見ながらぽつんと座り込んでいた。
一良が傍まで歩み寄ると、バレッタは膝を抱えたまま一良を見上げ、
「……ダメでした」
と呟き、再び視線を地面に戻した。
目尻には若干涙が浮かび、相当凹んでいるようだ。
「うーん……何故か解らないけど、今すぐ日本に行くってのは無理みたいですねぇ……」
一良は自由に雑木林を移動することが出来るのに、バレッタにはそれが出来ないというのは意味がわからない。
しかも、単に通れないどころか、一瞬にしてこの場所まで移動させられてしまうという超常現象のオマケつきである。
一良とバレッタの違いといったら、性別もしくは生まれた世界くらいなものだが、もしそのどちらかが理由だとしたら、バレッタが日本に行くことは絶望的である。
「……日本、行ってみたかったな……」
寂しそうに呟くバレッタに、どう答えればいいのかと一良がオロオロしていると、バレッタは一つ大きく溜め息を吐いて立ち上がり、服に付いた土をぱんぱんと払った。
「無理なことをぐちぐち言っても仕方ありませんよね。我侭言ってすいませんでした」
そう言って無理して作ったような笑顔を見せるバレッタを見て、一良は自分が悪いわけでもないのに、何故か罪悪感で一杯になってしまう。
まさかこんな現象が起こるとは毛ほども思っていなかったために、日本へ行ってみたいというバレッタの頼みを受けてしまったのだが、期待が大きかった分、行けないと分かった時のショックも相当大きかったようだ。
「いや、我侭だなんて……何か方法があるかもしれませんし、また何か考えて挑戦してみましょう」
「……はい、そうですね」
まだ完全に無理と決まったわけでもないので、日本へ行く何か上手い方法があるかもしれない。
諦めるのはまだ早い、と前向きに考えてそう言った一良だったが、俯いて返事をするバレッタは既に諦めてしまっているように見えた。
村に伝わる言い伝えと全く同じ状態になってしまったということが、かなり堪えたのかもしれない。
二人はそうして暫く無言で立ち尽くしていたが、不意にバレッタが顔を上げて口を開いた。
「カズラさん、一つお願いがあるんですけど……」
「うん、何でも言って」
笑顔で応じる一良に、バレッタは少し照れたように目を逸らしながら笑って見せた。
「また、桃缶が食べたいです」
「え? 桃缶?」
桃缶が食べたい、というお願いに、何でこのタイミングで桃缶なんだろうと一良は内心首を傾げた。
しかし、バレッタが
「はい、桃缶です。……ダメですか?」
と申し訳なさそうに一良を見上げると、一良はすぐに笑顔で頷いた。
「わかりました、桃缶ですね。すぐに買ってきますから、バレッタさんは屋敷で待っていてください」
「はい、ありがとうございます」
了承した一良にバレッタが礼を述べると、一良は
「では、また後ほど」
と、駆け足で雑木林の奥へと消えていった。
バレッタは小さく手を振りながら走り去る一良の背を見送ると、もう一度大きく溜め息を吐いた。
「はー。カズラさんが戻ってくるまでに元気出さないと。頑張れ、私」
バレッタはそう言って胸の前で小さく拳を作って気合を入れる仕草をすると、村へ戻るべく雑木林を後にするのだった。
バレッタと別れてから数分後。
一良は石畳の通路の脇にある墓の前に立ち、難しい顔をして墓を見下ろしていた。
「なぁ、数百年前に村に現れたグレイシオールって、あんたのことなのか?」
バレッタから昨晩聞いたグレイシオールの言い伝えによると、グレイシオールは領主の拘束から逃れた後、この雑木林に姿を消したらしい。
首に縄を掛けられて拘束されていた状況から一瞬で縄を解き、斬りかかってきた領主の剣を全て回避したとのことだが……。
「何とか縄を解いて逃げたはいいものの、剣を避けきれずに何度か斬られて、その傷が原因でここで力尽きたってのが一番しっくりくるんだよねぇ……」
通路の隅に崩れ落ちているような状態の死体と、昨晩聞いたグレイシオールの言い伝え。
どう考えても関わりがあるように思えるが、数百年も前の話なので、ここに崩れ落ちていた死体がグレイシオールか否かという事実を確認することは難しいだろう。
しかし、言い伝えが事実だとすれば、この墓の下にいる白骨死体がグレイシオールだと考えて間違いないように思える。
昨晩、バレッタから言い伝えを聞いた時点で『おやっ?』と思っていたのだが、グレイシオールという神様の物語を信じているバレッタにとっては必要の無い、むしろ伝えるべきではない情報である。
今日も、もしバレッタが雑木林を一良と共に抜けることができたとしても、一良は墓の前は素通りするつもりだったのだ。
「あんたもあの屋敷からこの世界に来たんだとしたら、俺のご先祖様だったりするのかな?」
一良が父――志野真治――に屋敷への避難を勧められた際、確か父は、『先祖代々伝わる屋敷』と言っていた。
先祖代々とは言っても、屋敷がどれくらい前から志野家の所有物だったのかはわからないが、もし数百年前から志野家の所有物だったとすれば、あながち有り得ない話でもない気がしてくる。
しかし、そうなるとわからないのが、この世界に繋がる屋敷の一室のことを、何故誰も一良に教えてくれなかったのかという点だ。
別の世界に繋がる部屋があるという情報を、知っていたのに伝え忘れたというのは考えにくい。
かといって、一良の父が一室のことを知っていたにもかかわらず、あえて一良には何も伝えなかったというのも無理があるし、第一そうする理由がない。
部屋の扉に南京錠が掛かっていたことから、もしかしたら誰もあの扉を開けようとする者がおらず、この世界に繋がっているということを誰も知らなかった、と考えるのが一番自然に思えた。
「でも、そうするとあの南京錠を掛けたのは誰なんだって話になるなぁ。そういえば、あの南京錠は畳に落ちた後何処にいったんだろ……あぁ、もういいや、今度父さんに先祖のことをそれとなく聞いてみよう」
いくら考えても明確な答えなどこの場で出るはずもなく、一良は考えるのを中断して頭を掻くと、いつものように日本へ戻るべく、石畳の通路に入って行くのだった。
一良が桃缶を買いに日本へ移動している頃。
イステリアの街中にある訓練場にて、アイザックは100名の部下と共に体力づくりの腕立て伏せをしていた。
訓練場というと少し物々しいが、3メートル程の石の壁で周囲を囲ってあるだけの殺風景な広場である。
広場と街を繋ぐ観音開きの大きな木の門は開け放たれており、扉の傍には見張りの兵士が一人立っている。
門の前を通りかかる市民も数多くおり、訓練場で行われている訓練に興味を示し、見張りの兵士に話しかける者も少なからずいるようだ。
訓練している兵士は皆若く、今年で20歳になるアイザックと彼の副官が一番の年長者である。
「48、49、50! ……ん? なんだ、遅れている奴は誰もいないのか」
予め決めてあった回数をこなしたアイザックが地面から顔を上げると、部下の兵士は全員がアイザックと同じペースで腕立て伏せをこなしたらしく、それぞれ立ち上がって手に付いた砂を払ったりしている。
ここ数週間、アイザックは部隊を離れ、ナルソンからの指示で他の職務に当たっていた。
部隊長である自分がいなかったことで多少なりとも弛んでいたはずの部下達の気を引き締めようと、かなりの速度で腕立て伏せをさせたのだが、驚いたことに全員がついてきている。
一人でも遅れる者がいれば、次に控えている長距離走を予定の倍の距離で行うと宣言しておいたのだが、それは行わずに済んだようだ。
アイザックが部下達に感心していると、隣で腕立て伏せをしていた彼の副官である男が、手とズボンについた砂を払いながら溜め息を吐いた。
「隊長が居ない間、何故かジルコニア様が部隊の様子を時折見に来ていたんです。そこで出される訓練指示といったら、正に地獄のようでしたよ。隊長の計画した訓練が神の慈悲に思えます」
「ジルコニア様が指導してくださったのか……それならお前達の体力がついているのにも納得がいくな。よかったじゃないか」
アイザックがそう言うと、副官の男は心底疲れたような表情でアイザックに目を向けた。
「よくないですよ。2週間程前、あまりの訓練の過酷さに思わず舌打ちをしてしまった奴がいたんですが、その直後に全員がジルコニア様と模擬短槍を使った実戦訓練をさせられたんです。結果は……」
「何!? ジルコニア様が手合わせしてくださったのか! 何と羨ましい……で、どうだったんだ!?」
余程その実戦訓練に参加したかったのか、アイザックはなんとも悔しそうな表情を見せた。
そんなアイザックを見て、副官の男は、
「(何をどう考えたらそんなに羨ましく思えるんだこの人は……)」
と気持ちの悪い物でも見るような目でアイザックを見ると、遮られた続きを口にした。
「散々でしたよ。誰一人として20秒持たずに地面を舐める羽目になりましたし、倒れても動けなくなるまで無理やり立たされました。私も『貴様は戦場でも同じようにずっと倒れているつもりか!』って怒鳴られながら何度も立ち上がらされては、しこたま槍で殴られて地面を抱擁ですよ。次の日は身体が痛くて動けませんでした」
「そうか、さすがジルコニア様だな……」
心底感服した様子で感心しているアイザックに、副官の男は
「(いや、俺の話聞いてたのかよ。何が『さすが』なんだよ)」
と心の中で文句を言うが口には出さない。
「ジルコニア様に訓練のお相手をして頂けるなんて、お前達が期待されている証拠だぞ。6日後から俺はグリセア村の視察で部隊を留守にするが、俺が居ない間にジルコニア様が指導にいらしても、しっかりとご期待に応えられるように訓練に励めよ。よし、次は……」
「えっ!? 6日後からって、また居なくなるんですか! 勘弁してください、殺されちゃいますよ!」
さらりと重大なことを言って次の訓練に移行しようとするアイザックの台詞に、副官の男は激しく反応した。
そのやり取りを聞いていた部下の兵士達も、一斉にアイザックに駆け寄って懇願する。
「隊長だけ逃げるなんて卑怯ですよ! オルマシオール様に見放されますよ!?」
「隊長が居なくなったら、あの人絶対にまたここに来ますよ! 俺達も連れて行ってください!」
皆切羽詰った表情をしていることから、ジルコニアの訓練が余程トラウマになっているのだろうか。
アイザックは自分達も連れていけと連呼する部下達に圧倒され、数歩後ずさった。
「お、おい、落ち着け。ジルコニア様に来ていただけるなんてありがたい事じゃないか。何をそんなに嫌がってるんだ」
「嫌なものは嫌なんですよ。お願いしますから、何か理由をつけて部隊も一緒に連れて行ってください。グリセア村まで行くのでしたら、野外行軍訓練も兼ねて部隊を連れて行けるじゃないですか」
副官の意見に、アイザックは腕組みして考え込んだ。
副官の言うとおり、グリセア村までならば距離的にも手頃であり、行軍訓練をするにはうってつけである。
ジルコニアから逃れたいという理由からくる不純な希望ではあるが、部下の全員が望んで行う訓練ならば、やる気も違うだろうし身にもつくはずだ。
何より、この場で無下に断った後の部下達の自分に対する評価が下がることも避けたいところである。
「わかった、連れて行くよ。ただし、グリセア村までの視察はナルソン様からの指示だから、ナルソン様の許可が降りなかったらその時は諦めろよ」
アイザックが部下たちにそう言うと、部下達は一様にほっとした表情を見せた。
「了解です。その時は腹を括りますけど、何とかお願いしますよ。戦争前に訓練で死ぬのは御免ですからね」
真顔で言う副官に、アイザックは
「大げさな奴だ」
と溜め息を吐くと、次の訓練を部下に指示するのだった。