230話:名女優
同時刻。
ダイアスは部屋で一人、羽ペンを手に自分が今まで手を出してしまった女たちの名前を必死で思い出していた。
「ああ、くそ! どうして私がこんな目に遭わねばならんのだ! 他人の女に手を出すことくらい、誰でもやっているだろうに!」
ダイアスは吐き捨てるように言いながら、ナルソンから貰ったコピー用紙に女の名前を羅列していく。
ナルソンが言うには、どうやら不貞というものは過ちの1つに数えられてしまうらしい。
贖罪のためには、その相手に対して誠心誠意謝罪し賠償することが、一番手っ取り早いだろうとのことだった。
今までダイアスは、それこそ気の赴くままにあちこちの人妻に手を出しまくっていたので、すべての相手を思い出すことなど到底不可能だ。
しかし、やらねば地獄で怪物に切り刻まれる未来が待っているとあっては、何としてでも思い出さざるを得ない。
「この私が、平民にまで頭を下げる羽目になるとは……グレイシオール様の下に送る者の選定もしなければならないし、そいつらの管理責任まであるとはな……」
ダイアスは、「臣下の悪事を放置したり監視を怠れば、それだけ自分の『徳』というものが下がる可能性がある」とナルソンから聞かされていた。
自分だけ善行を積んでも、部下が好き勝手に悪事に手を染めていては地獄行きの可能性がある、というわけだ。
その代わりに、臣下が善行を積めば管理する者も徳が積まれるという特典も付与されている。
領政をトップダウンで強制的に浄化させるための手段として、一良がナルソンに提案したものだ。
「しかし、私のように正当な理由のもとで少しだけ摘まんでいた人間ならまだしも、ニーベルのような外道は今さらどうにもならないのではないか? どう考えても、もう手遅れだと思うのだがな……」
「あいつが地獄行きの条件を知ったら発狂しそうだな」などとダイアスがぶつぶつ言っていると、部屋の扉がノックされた。
「ダイアス様、ジルコニアです。まだ起きておられますでしょうか?」
「……ジルコニア殿?」
ダイアスは驚いて立ち上がり、扉に駆け寄って鍵を開ける。
彼が扉を開けると、ジルコニアが1人で立っていた。
「こんばんは」とジルコニアが可愛らしく微笑む。
「夜分遅く、申し訳ございません。入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ! どうぞ、入ってくれ!」
ダイアスは弾んだ声でそう言ってから、「しまった!」と内心焦った。
こんな夜更けに女が男の部屋を訪ねてくるなど、理由は1つしかない。
ダイアスは10年前に領主会議の席に居合わせたジルコニアを初めて見た時から、なかなかの上物だと評価していた。
とはいえ、領主夫人ということもあって、手を出そうと思ったことは一度もない。
手を出したことがナルソンの耳に入っては大変なことになるので、残念に思いながらも自粛していたのだ。
しかし、諦めていた相手が自分から訪ねてきてくれて、思わず舞い上がってしまって部屋に入れたのだが、今の状況を考えると絶対にまずい。
これは地獄への片道切符だ。
「す、すまぬ! ジルコニア殿!」
「えっ?」
ジルコニアが小首を傾げる。
「そ、その……お気持ちは大変嬉しいのだが、今宵、貴女と逢瀬を交わすことはできんのだ」
「……ごめんなさい。ご迷惑でしたか」
寂しそうにうつむくジルコニア。
蝋燭の仄暗い明かりに照らされた彼女の顔は、ダイアスにはとても妖艶に見えた。
思わず、生唾を飲み込む。
「ぐ……す、すまん。男として、ジルコニア殿のような美しい人に誘っていただけるのはとても嬉しいのだが、お受けするわけにはいかんのだ。どうか、お帰りいただけないだろうか」
「そう……ですか……」
ジルコニアはひどく残念そうに言うと、顔を上げた。
切なそうなその表情に、ダイアスはどきりとしてしまう。
「あの、せめてお話しだけでもさせていただけませんか?」
「……ま、まあ、話しくらいなら」
ダイアスが頷くと、ジルコニアは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。さ、座ってくださいませ」
「うむ」
ダイアスがソファーに座ると、ジルコニアは彼の隣に腰掛けた。
膝と膝がくっつくほどに、距離が近い。
これは何の拷問だ、とダイアスは内心悶絶する。
「急に訪ねて来てしまってごめんなさい。驚かれましたでしょう?」
「う、うむ。まさか、ジルコニア殿から私のところに来てくれるとは思っていなかったものでな。正直、驚いたよ」
「……ダイアス様のことは、初めてお会いした時から、ずっと気になっていたんです。素敵な方だなって」
「そ、そうだったのか」
「はい。こうして会う機会もあまりなかったので、ようやくチャンスが来たと思ったのですが」
「……すまぬ。男として最低なことは分かっているのだ。ジルコニア殿には、謝ることしかできん。許してくれ」
心底申し訳なさそうに頭を下げるダイアス。
ジルコニアは寂しそうに微笑む。
「受け入れていただけない理由は、天国と地獄の話のせい、ですよね?」
「ああ。まさか、本当にあの世というものが存在していたとはな。驚きすぎて、面食らってしまったよ。はは」
ダイアスはジルコニアの太ももに目を向けながら、乾いた笑いを漏らす。
そんなダイアスの膝に、ジルコニアが手を置く。
「ですよね……あのような場所で未来永劫責め苦を味わわされるなんて。本当に恐ろしいです」
「う、うむ」
「こんなこと、皆やっているというのに。我慢しなければならないなんて、つらすぎますわ。ダイアス様も、そう思いませんか?」
「そ、それは……うむ」
頷くダイアスに、ジルコニアが微笑む。
ダイアスは彼女の顔をちらりと見て、はあ、とため息をついた。
本当ならばこのまま手を出してしまいたいところだが、天国と地獄行きの条件を知ったうえで故意に罪を犯した場合、今までの比でないくらいに徳が下がると聞かされている。
今から悪いことをしても善行を積めば帳消し、という手段は使えないのだ。
ちなみに、そういった話をダイアスが聞かされているということは、ジルコニアも知っている。
「しかしだな、ジルコニア殿。どうも、そのようなことは結構な罪と見なされてしまうようなのだよ。あの世の処遇を知ったうえでは、なおさらのことらしい」
「まあ、そうなのですか?」
「うむ。ナルソン殿から聞いたぞ。ジルコニア殿は、聞かされていないのか?」
「うーん。聞いたような聞いていないような。私も知ったのは最近のことで、まだ頭が追い付いていなくて」
「そうか……お互い、難儀なものだな」
「はい」
ジルコニアは微笑み、ダイアスの膝から名残惜しそうに手を離した。
「ダイアス様は、今までこのようなご経験は何度もあるのですか?」
ダイアスは自分から人妻に手を出すこと以外にも、彼の趣向を知った臣下が出世のために自らの妻を寄こすということを、何度か経験している。
もちろん、そういった行為に及ぶ者はハナからやり込める気できているので、行為に際してもダイアスに心底惚れぬいているような演技をするのが常だ。
そういった経験から、ダイアスは自分のことをかなりモテる人間だと自負していた。
要は、自分に女が寄ってくることを当たり前と思っているフシがあるのだ。
なので、ジルコニアがこうして自分の下に赴いたことも、特に不思議がってはいない。
「それはまあ、何度かはあるな」
「ふふ、私もです」
楽しそうに微笑みながら言うジルコニアに、ダイアスが意外そうな目を向ける。
「む、そうだったのか。失礼だが、貴女はそういった話をまったく聞かないから、てっきり色恋沙汰には興味がないものかと思っていたよ」
「そんなことありませんわ。いつもかっちりとした軍事のことばかりに関わっていると、ストレスが溜まってしまって。適度に発散しないと、身が持ちませんもの」
「そ、そうだったのか。いや、確かにそうかもしれんな」
ダイアスが内心、「そんなことならばさっさと誘っておけばよかった!」と思いながら頷く。
「ええ。ダイアス様のところからいらしているニーベルも、懇意にしていたのですよ?」
「なっ!? ニーベルだと!?」
驚愕の眼差しを向けるダイアスに、ジルコニアは妖艶に微笑む。
ニーベルは、グレゴルン領の塩取引を一手に担う豪商だ。
何年もリーゼにセクハラを続け、挙句の果てには2人だけで部屋にいた時にリーゼを襲おうとして手痛い反撃を食らい、捨て台詞を吐いて逃げた人物である。
「はい。しばらく前に誘われまして。それからは塩取引の話でこちらに来るたび、ナルソンに隠れてこっそり相手をしてもらっていました。なかなか、お上手でしたわ。ふふ」
「なんと……ニーベルめ……!」
ダイアスの表情が嫉妬と怒りに歪む。
まさか自分を差し置いて、ずっと手を出すことを我慢していたジルコニアをものにしていたとは。
平民の分際で、という元来の差別意識が、さらにそれを助長した。
「ですが、こうなってしまっては仕方がありませんね。残念ですが、ダイアス様の言うとおり、もう私もこういったことは止めにします。ニーベルも天国と地獄の話を知れば、同じように諦めるでしょうし」
「……いや、それについてなんだが」
絞り出すように言うダイアスに、ジルコニアが小首を傾げる。
「ニーベルは塩取引の責任者とはいえ、我が領の重鎮と言うほどの立場ではなくてな。グレイシオール様の話も、奴にはしないつもりなのだよ」
「まあ、そうなのですか?」
驚いたようにジルコニアが言う。
「うむ。商売の功績から家名を持つことを特別に認めてはいるが、所詮はただの平民だ。可哀そうだが、貴族でもないような者に、誰彼構わずグレイシオール様のことを教えるわけにもいかないからな。こればかりは仕方がない」
「そうですか……でも、そうなると、彼は地獄行きになってしまいますね。贖罪が必要なことすら知らず、死んでいくことになるのですから」
「あ、ああ。まあ、そこは私が上手いことやるよ。正しい道に、彼を導いてみせるさ」
キリッとした表情で、ダイアスが言う。
少し溜飲が下がったのか、表情と声色が明るくなっていた。
「ダイアス様、なんてお優しい……」
ジルコニアが敬愛の眼差しを向ける。
ダイアスは得意満面だ。
「あっ。でもそうなると、彼は今の立場からは退かせる必要があるのではないですか?」
ジルコニアが、はっと気づいたように言う。
「彼が担っている塩取引の規模を考えると、このまま権力を持たせておくのはどうかと思いますが……」
「うむ。今は、国が一丸となるべき時だ。グレイシオール様のことを知らせる者以外は、権力のある地位からは外さなければならん。恨まれるかもしれんが、それも覚悟の上だ」
「ご立派です、ダイアス様。ニーベルは可哀そうですが、仕方がないですよね」
「そうだな。こればかりは、仕方のないことだ」
ダイアスが声色だけはつらそうに頷く。
内心、あいつは今からどれだけ善行を積んでも地獄行きだろう、と考えていたところだ。
これを機に、ばっさりと切り捨ててしまったほうがいいように思える。
そんなことを考えているダイアスにジルコニアは微笑むと、ソファーから立ち上がった。
「む、もう行かれるのか?」
「ええ。あんまり長く一緒にいると、変な気を起こしてしまいそうですし。そろそろお暇することにしますわ」
ジルコニアが寂しそうに言う。
「2人きりでお話しができて、とても嬉しかったです。ダイアス様、今日私がここに来たことは、どうかご内密に」
唇に指を当てるジルコニア。
ダイアスがしっかりと頷く。
「もちろん黙っているとも。というより、ジルコニア殿が夜中に1人で私の部屋に来たなどと、誰にも言えるわけがないではないか。大問題間違いなしだぞ」
「あら、それもそうですね」
ジルコニアが楽しそう笑う。
「では、失礼いたします。おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
ジルコニアが会釈し、部屋を出る。
ダイアスは閉まった扉を見つめ、はあ、とため息をついた。
「ああ、くそ! なんてもったいない! 天国行きになるということは、かくも険しい道のりなのか!?」
ダイアスがどかりとソファーに座る。
「ニーベルの奴、リーゼ嬢をなんとしても手に入れると息まいていたが、まさか親子両方手籠めにするつもりだったとは……この私を差し置いて、なんという奴だ」
ダイアスが疲れたようにため息をつく。
ダイアスはニーベルのことを、自らの手を汚すことも厭わずによく働く男だと高く評価していた。
だが、自分に内緒で領主夫人であるジルコニアにまで手を出していたとなると、放置しておくわけにはいかない。
もともと悪事をなんとも思っていないような男ではあるので、この機会に身分をはく奪する必要があるだろう。
なにより、自分が手を出すことを我慢していたジルコニアを、横から掠め取っていたことが何よりも許せなかった。
「しかし、ジルコニア殿には恥をかかせてしまったな。手くらいは握ってやるべきだったか……。罪を重ねないためとはいえ、悪いことをしたな……」
ダイアスはぶつぶつ言いながらも、過去に手を出した女の名前を思い出す作業に戻るのだった。
ダイアスの部屋を出たジルコニアは、険しい顔で廊下を進みながら息を整えていた。
我ながら、よくあそこまで上手く演技ができたものだと感心してしまう。
ダイアスのことは吐き気がするほどに嫌いだが、そんなことはどうでもいい。
利用できるものは、なんであれ利用するだけだ。
「……私の娘に手を出しておいて、ただで済むわけがないでしょう」
一年近く前の、ニーベルを殺してしまおうと一良とナルソンに啖呵を切った時のことを思い出す。
あの時は2人に反対されて押し切られてしまったが、ジルコニアはずっと諦めていなかった。
いつか必ずこの手で粛清してやると、心に決めていたのだ。
自分の家族を辱めた人間は、誰であろうと容赦はしない。
断罪できない身分にいるのなら、そこから引きずり降ろしてやるまでだ。
誰の目にも届かなくなってから、じっくりと料理してやろう。
「生まれてきたことを後悔させてあげるわ。本物の地獄を見せてあげる」
静かにつぶやくその声が、暗い廊下に消えていった。
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