205話:預金残高
「あ、あの……そんな大切なもの、見ちゃってもいいんですか?」
バレッタが通帳と一良を交互に見る。
かなり気が引ける、といった表情だ。
「バレッタさんたちになら、別にいいかなって。見て安心してください」
「じゃ、じゃあ……」
バレッタが器を台所に置き、居間に上がってきた。
一良から通帳を受け取り、開く。
リーゼも身を乗り出して、覗き込んだ。
一良の氏名と、『瑞穂銀行』という銀行名、それに口座番号などが書かれている。
「その次のページから、預金額が書かれてますよ」
言われるがまま、バレッタが1ページ捲る。
「なんだか数字がいっぱい書いてありますね……この、『差引残高』の数字ですか?」
「あ、そうなんですけど、そこに書いてあるのは大学生時代の預金額です。日付順に並んでて、後ろのページが最新のやつです。空きの行があるページの最後部分が、今の預金額ですね」
「そうなんですね。えっと……えっ?」
ぱらぱらとページを捲ったバレッタが、目を点にして固まった。
ぺらりと1ページ手前を捲り、まじまじと確認する。
少しずつ増えていっていた預金額が、ある日付を境におかしなことになっていた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん、せんまん、いちお……え? え?」
「ちょ、ちょっとバレッタ! 私に貸して!」
リーゼがバレッタから預金通帳をひったくり、数字を凝視する。
「……34億5702万?」
「うん。あと、バッグに100万円くらい入ってる」
「円? そっか、単位が……アルに換算すると、いくらくらいなの?」
「んー……物の価値がそもそも違うからなぁ。新米警備兵の初任給が1000アルだっけ?」
「うん。確かそれくらいだったと思うよ」
「それだけあれば、普通に生活はできるものなんだよな?」
「十分できると思うよ。別の街に出かけたりしなければ、生活費と住民税くらいしかかからないはずだし」
「ふむふむ。電気代とか通信費とか保険代はないんだもんな。雇われてる人は、税金は給料から天引きだっけ?」
「イステリアはそうだよ。支払いは雇い主が代行するの。農地を持ってる人は、作物で納めたりもするけど」
「ああ、そのせいで税金の処理がかなり煩雑になってたよな……えっと、前に街で見た床屋さんが1回25アルだったから……あれって、洗髪とか顔剃りもしてくれるのか?」
「ううん。大衆店は切るだけだと思うよ。顔剃りとかは、脱毛師のお店でやってもらう感じかな。家に呼んでやってもらうこともあるみたい」
「へえ、そうなのか。そういえば、ハベルさんの家にもそんな人がいたな……えっと、カットのみで3000円ってところでいいか。これをアルに換算すると――」
一良がバッグから電卓を取り出す。
「3000割る25で120だから、1アル120円とすると……全部で約2881万アルだな。おおざっぱな計算だけど」
「に、にせんはっぴゃくまん……」
予想をはるかに超えた額に、バレッタが唖然とした声を漏らす。
日本で買ってきた物をこちらの世界で売りさばくことを前提にすれば、2800万アルどころかその10倍を優に超える価値がある金額だろう。
ちなみに、バレッタの月給は5000アルであり、屋敷の中ではトップレベルの高給取りだ。
バレッタはナルソンに「給与などいらない」と言ったのだが、「金を受け取らないなら働かせることはできない」と言われてしまったため、申し訳なく思いながらも受け取っている。
エイラはそれよりもさらに高く、月に6800アルも貰っている。
以前、ジルコニアが独断で交わした給金倍額の雇用契約更新の結果、ナルソン邸で働く者たちのなかでは抜きんでた高給取りになってしまっていた。
そのおかげで、両親に街の中心街に家を買って(15年ローン)プレゼントしたり、王都の大学へ通う弟たちへの仕送りを増やしたり、社会人になった妹たちに仕事道具を買ってあげたりと、思う存分家族孝行ができている。
無給&無休で馬車馬のように働いているのは、一良とリーゼだけだ。
ナルソンとジルコニアは建前上給与を取っているため、タダ働きというわけではない。
「それ、個人の預金だよね? どこかの大都市の年間予算とかじゃないよね?」
「俺個人の預金だよ」
「そ、その……そんな大金を預けてると、銀行が何かの拍子に潰れちゃったりしたら……」
バレッタが心配そうに一良を見る。
「ああ、その点は大丈夫です。決済用普通預金っていって、利息が付かない代わりに銀行が破綻しても全額国が保証してくれる口座に預けてるんで」
「そ、そうでしたか。よかったです……」
「……カズラって、王族とか大貴族の跡取り息子なの?」
リーゼが預金通帳と一良を交互に見る。
普通に考えて、一般庶民が持っているような額ではない。
「いや、ごく普通の庶民だよ。この金は、宝くじが当たって手に入れたものなんだ」
「宝くじ? 何それ?」
「……当たりを引けた人は、大金がもらえるクジですよね?」
百科事典の知識を頼りに、バレッタが聞く。
「ええ、そうです。それで40億円当たっちゃって。あ、5億少ないのは、親にあげたからです」
「そ、そうですか。それにしても、そんなに高額な当選金が出るんですね……」
「いや、俺の場合は洒落で同じ番号を10口買ったら、たまたまそれが当たっちゃったんです。自分で数字を選んで買うやつだったんで、面白いかなと思って」
「しゃ、洒落で、ですか。すごい強運ですね」
「なので、お金に関しては心配しなくても大丈夫ですよ。ちょっとやそっとのことじゃなくなりませんから」
今まで一良はいろいろな買い物をしてきたが、一番お金がかかったのは村に設置した水車の代金の1000万円だ。
そのほか、大きな買い物は河川工事設計依頼費用(仕様書と工事図面のみ)、当選を機に購入したファミリーカー、中古建機といったものである。
堆肥は50トン買っても輸送費含めて30万円程度。
食料品も全体の預金額からみれば大した額ではない。
あれこれとかなりの品物を購入してきたが、金銭的な不安は今のところ皆無だ。
「……やっぱり、すごいお金持ちだったんだ。もしかして、お母様は最初からカズラが日本人のお金持ちだって知ってたの?」
昔のことを思い返して、リーゼが聞く。
「いや、そんなことはないぞ。バレッタさん以外には、グレイシオールだってことで通してたし」
「ふーん……それもそっか」
「何か思うところでもあるのか?」
「うん。カズラに私を紹介する前に、お母様が言ってたのよ。『いくら使っても使いきれないくらいお金を持ってる人』って」
「どういう説明の仕方だよそれ……」
そうしてお金の話でひとしきり盛り上がりながら、3人は昼食の支度を進めるのだった。
「ふう、美味しかった。ごちそうさまでした」
一良がスプーンを置き、手を合わせる。
食卓にはエイラとマリーも加わっていて、一良以外はまだもぐもぐと口を動かしていた。
今日のメニューは、厚焼き玉子、乾燥野菜と豆のスープ、ベーコンと葉物野菜の炒め物、缶詰のパンの4品だ。
卵と葉物野菜以外は、すべて日本から持ってきた食材である。
「すごい早食いだったね。そんなにお腹空いてたの?」
食事の手を止め、リーゼが一良を見る。
皆で雑談しながら食べていたのだが、一良はまるでかっくらう勢いで食べていた。
「いや、早く行かないと今日中に帰ってこれなくなっちゃいそうだからさ」
一良がバッグから腕時計を取り出し、左腕に着けて時間を見る。
時刻はすでに、14時を回っている。
今から日本に戻となると、山を下りて街に出る頃には16時近くになってしまうだろう。
活動できる時間は、かなり短くなりそうだ。
「ごめんなさい、ごはんを作るのが遅くなっちゃったせいですね……」
バレッタがしゅんとした様子で謝る。
預金通帳を見て料理そっちのけで盛り上がってしまい、少々時間を食いすぎてしまった。
「いや、いいんですよ。元々、今日はそんなに動き回れるとは思ってなかったんで」
「はい……お夕飯はどうしますか?」
「何か適当に買って済まそうかと……あ、そうだ」
いいこと思い付いた、といった顔になる一良。
「少し遅くなっちゃうかもですけど、もしよかったらみんなで映画を見ながら夕食にしませんか? 寿司とかピザとか、いろいろと買ってくるんで」
それを聞き、リーゼが表情を輝かせた。
レトルト食品や缶詰などの出来合い料理は何度も食べていたのだが、日本の料理はマリーやバレッタが作ったものしか食べたことがなかった。
いつか本場の料理を食べてみたいと、ずっと思っていたのだ。
「日本のお店の料理、私も食べてみたい! バレッタ、そうしようよ!」
「あ、はい。そしたら、お願いしちゃってもいいですか?」
「ええ、もちろん。街まで少し距離があるんで、冷めても美味しい料理を買ってきますね。料理以外に、何か欲しいものはありますか? 何でも言ってください」
「そしたら、私は有刺鉄線と硫黄粉末をお願いしたいです。爆弾を作るのに使うので」
はい、とバレッタが手を上げる。
自分の趣味趣向のものを頼まないあたりが、実に彼女らしい。
「わ、分かりました。どれくらい必要ですか?」
「えっと……両方ともこれから先の戦いで使えると思うので、できるだけたくさんお願いします」
「じゃあ、店にある在庫をまるごと買ってきますね」
「は、はい。お願いします」
「他には何かありませんか? 食べ物とか、アクセサリーとかでもいいですよ。何でも言ってください」
「え、えっと……何でも、ですか……」
むう、とバレッタが考え込む。
何が欲しいと言われても、特に思いつかない。
早く一良に帰ってきてもらって、自分の傍にいて欲しいだけだ。
恥ずかしくて、皆がいる前ではとても口には出せないが。
「私は、腕時計が欲しいな。あると便利だし、見た目もなんかかっこいいし。カズラとお揃いのやつがいい」
そう言って、リーゼが一良の左手首を見る。
「時計か。そしたら、カタログ貰ってくるから、何か好きなのを選んでくれ。それを買ってくるから」
「カズラも、同じの買って付けてよ?」
「分かった分かった。男用と女用があるから、それの対になってるやつを買おう」
「うん!」
やった、と嬉しそうに表情を綻ばせるリーゼ。
そしてすぐに、バレッタへと顔を向けた。
「バレッタも、同じの付けようよ。一緒に選ぼう?」
「あ、はい!」
こくこく、とバレッタが頷く。
彼女にも声をかけようとしていた一良は、それを見て内心ほっとした。
「エイラさんとマリーさんも、カタログから好きなの選んでくださいね。プレゼントするんで」
「えっ! い、いえ、私はそんな!」
まさか自分たちにまで話を振られると思っておらず、エイラが慌てる。
マリーも、同意見だと言わんばかりに、こくこく頷いていた。
だが、一良としてもバレッタとリーゼにあげて、エイラたちにあげないという選択肢は取れない。
「まあ、後でカタログ見て、じっくり選んでください。それじゃ、行ってきます」
そう言ってバッグを手に、さっさと出て行ってしまった。




