183話:急すぎる出撃
「カズラ……」
弱々しいリーゼの声に、一良は彼方へと向けていた視線を隣に向けた。
リーゼはぴったりと一良に寄り添っており、不安げな眼差しで彼を見上げている。
一良の右手を強く握るその手には、じっとりと汗がにじんでいた。
一良たちの背後にはエイラとマリーもおり、緊張した様子で2人を見守っていた。
「大丈夫、すぐに助け出したって連絡がくるさ」
リーゼを安心させようと、笑顔を向ける。
一良とて緊張と不安で胸が張り裂けそうだったが、彼女たちの前でそんな姿を見せるわけにはいかなかった。
『こちら救出班。イステリア聞こえますか。どうぞ』
その時、一良たちのイヤホンに、バレッタの声が響いた。
びくっ、とリーゼの身体が緊張で跳ねる。
「こちらイステリア。よく聞こえます。作戦の進捗はどうですか? どうぞ」
『ジルコニア様の救出に成功しました。ですが、救出の際に見つかってしまい、追手がかかってしまいました。現在、山岳地帯の森の奥へと退避しているところです。どうぞ』
「っ!」
それを聞いた途端、リーゼの瞳から涙が流れた。
気が抜けたのか、膝から崩れ落ちそうになってしまう。
一良は慌てて彼女の肩を抱き、しっかりと支えた。
「ナルソンさん」
一良がナルソンに声をかける。
「うむ。上手くいったようですな。予定通り、作戦を開始しましょう」
ナルソンが、待機していた近衛兵に指示を出す。
近衛兵は緊張した声で返事をすると、階下へと駆けて行った。
一良はそれを見届け、無線の送信ボタンを押した。
「了解です。こちらも行動に移ります。救出班は、回収ポイントA地点に向かうということでいいですか? どうぞ」
ジルコニア救出後に備えて、彼女たちを回収すべく完全武装の近衛兵の集団を、砦に通じる街道の脇に伏せさせている。
不測の事態に備え、回収ポイントも複数選定しておいた。
彼らにも無線機を渡してあり、今頃はこちらからの連絡を待っているはずだ。
ちなみに、無線機を預けた相手は、プチアイザックこと、アイザックの従弟のルートである。
グリセア村の村人たちも数十人付き添わせており、彼らには改良型クロスボウを数十挺持たせてある。
余程の人数が相手でない限り、負けることはないだろう。
『それが、ジルコニア様が負傷してしまって、あまり長距離は移動できそうにありません。今夜はいったん潜伏し、夜が明けたら枝と蔓で担架を作って、その後移動を開始します。回収ポイントは、一番砦から離れているC地点でお願いします。どうぞ』
「えっ!?」
それを聞き、リーゼが驚いた声を上げた。
一良のマイクを掴み、送信ボタンを押す。
「負傷って、お母様は大丈夫なの!? ねえ!? どうなのよ!?」
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着けって!」
叫ぶように言うリーゼを、一良が慌ててなだめる。
どうにも、彼女はジルコニアのこととなると落ち着いてはいられないようだ。
ジルコニアを失うことを、酷く恐れているように一良には見えた。
「バレッタさん、ジルコニアさんの傷の具合を教えてください。どうぞ」
『左肩が脱臼していたので、先ほどアイザックさんが嵌めました。あと、両足首が腫れています。折れてはいないようなので、たぶん捻挫かヒビが入っているかと思います。どうぞ』
それを聞いて、一良とリーゼは安堵の息を漏らした。
腫れているという足が心配だが、命に別状がないなら万々歳だ。
「よ、よかった。びっくりしたよ……カズラ、マイク使っていい?」
「いいぞ。ほら」
「ありがと」
リーゼはようやく落ち着きを取り戻し、マイクを受け取った。
「バレッタ、お母様はどうしてそんな怪我しちゃったの? どうぞ」
『えっと、砦の防壁から飛び降りて脱出した時にやっちゃったみたいです。本当はロズルーさんが先に降りて受け止める予定だったんですけど。どうぞ』
「え? 飛び降りてって、あの高さを飛び降りたの? 梯子とか、ロープは持って行かなかったわけ? どうぞ」
『はい。もとより、そんなことをしている時間はなかったので。それと、救出の際に、ちょっとまずいことになって……敵兵の注意を逸らすために、防犯ブザーを砦の中に投げ入れてしまいました』
思いがけぬ報告に、一良とリーゼは顔を見合わせた。
砦に投げ入れたということは、敵の手に防犯ブザーが渡ってしまったということだ。
相手方に一良のような人間がいる場合、このことがどういった結果を招くことになるのかは未知数である。
そんな人間はいないだろうという、当初の予想が当たることを祈るしかない。
『ごめんなさい。あの状況では、そうするしかなくて……どうぞ』
沈んだバレッタの声に、一良がリーゼからマイクを受け取る。
「いえ、そのおかげでジルコニアさんたちは助かったんでしょう? バレッタさんが謝ることじゃないですよ。よくやってくれました。どうぞ」
『はい。戻ったら、経緯を詳しく報告しますね。あ、せっかくなので、ジルコニア様に代わりますね。ちょっと待っててください』
バレッタが通信を切り、数十秒後。
一良たちのイヤホンに、再びノイズが走った。
『え、もう話せるの? でも何も……うん、押してる。このボタンでしょ? なのに、何も聞こえないんだけど。……あ、押してる間はこっちは聞こえないの? え? 今はあっちに聞こえてるの!? ちょっと! この間抜けな会話も全部聞こえてるってこと!? 先に言ってよ!』
「何か大変そうだな」
わたわたとしたジルコニアの話し声に、一良が気の抜けた声を漏らす。
ナルソンはふっと微笑むと、一良に目を向けた。
「どうやら、大丈夫そうですな。カズラ殿、私は先に下に行っております。一段落したら、降りてきてください」
「あ、ナルソンさん、話していかなくていいんですか?」
「なに、すぐにまた顔を合わせることになるのです。話すのはその時でいいでしょう」
そう言うナルソンの顔からは、先ほどまであったような険しさは消えていた。
では、と一良に軽く頭を下げ、階下へと降りて行ってしまった。
『ええと、こちらジルコニア。肩と足首がすごく痛いけど元気です。……え? 終わったら「どうぞ」って言わなきゃいけないの? ……どうぞ』
「お母様、よくぞご無事で……早く、会いたいです……っ」
リーゼは大切そうに無線機を両手で握り、涙をこぼしてしゃくりあげ始めてしまった。
『……ごめんね、心配かけて。すぐに会えるから、もう少しだけ待っててね。どうぞ』
「はいっ!」
優しく諭すようなジルコニアの声に、リーゼが笑顔で返事をする。
一良が無線機を受け取り、口を開く。
「ジルコニアさん、無事でよかったです。かき氷やアイスクリームを山ほど用意してありますから、楽しみにしていてくださいね。どうぞ」
『アイスクリーム? それは何ですか? どうぞ』
「冷たくて甘いお菓子のことです。ジルコニアさんに送ったチョコレート……芋虫のお菓子と同じような味なんですが、冷たくてとろけるような食感で、いろんな種類の味があるんですよ。どうぞ」
『えっ!? あの芋虫ってお菓子だったんですか!? それに、山ほど用意してくれているって本当ですか!? どうぞ!』
突然元気になった声に、思わず一良とリーゼは吹き出してしまう。
まったく心配はいらなそうだ。
「お母様、全然大丈夫そうだね」
「ものすごく元気そうだな」
『カズラさん! もしかして、私もカズラさんの持っている食べ物を、もう何でも食べていいんですか!? どうぞ!』
がなりたてるようなジルコニアの声が、2人の耳に響く。
「はいはい。何でも食べていいですよ。好きなものを好きなだけ食べさせてあげますから」
それからもしばらくの間、ナルソン邸の屋上には賑やかな声が響いていた。
薄っすらと朝日に照らされる街の大通りを、たくさんの人々が慌ただしく進む。
招集を申し付けられていた家々からは、武具に身を包んだ市民たちが慌てた様子で飛び出してきていた。
皆が身に着けている防具は自前の物で、手にしている武器もそれぞれだ。
「お、おい、今から出撃って本当か? 俺たち、ろくすっぽ訓練もしてないぞ?」
ばたばたと軍事区画へ向かって走っていた若者が、隣を行く友人に声をかけた。
「俺だって知らねえよ。夜中にいきなり『緊急招集』って叩き起こされただけで、何の説明も受けてないんだからさ」
彼ら2人は第4階級の市民兵で、投げ槍と短槍を扱う軽装歩兵だ。
砦をバルベールに奪われてからというもの、招集命令を受けた彼らは毎日速成訓練を受けていた。
受けていたとはいえ、その日数は僅か20日ほどである。
行軍訓練、基礎体力訓練、野営地設営訓練のみが集中的に行われ、投げ槍の投擲訓練や近接戦闘訓練は申し訳程度にしか行っていない。
また、彼らと一緒に訓練を受けていたのは、第3階級から第5階級の者たちだけだった。
富裕層である第1階級、第2階級の者たちは、別の場所で隔離されて訓練を受けていたらしい。
時折、何度も物凄い音が隔離された訓練場から響いていたが、いったい何が行われていたのだろうか。
「だけどさ……もし本当に、砦を奪還するための出撃だとしたら……」
「……俺たち、死ぬよな。どう考えてもさ」
訓練不足の兵士を前線に送り込むような状況は、軍隊としては末期状態である。
街や陣地に寄った防衛戦闘ならまだ多少は利があるが、敵が待ち構えている場所へ出向くとなると話は別だ。
戦は生き物なので状況にもよるが、バルベール軍が同数以上とあっては戦いらしい戦いもできぬままに打ち負かされる可能性が高い。
しかし、国民の義務である徴兵を拒否すれば、財産没収のうえ奴隷身分に転落だ。
「やっぱり、最近流れてる噂は本当だったのかな。砦どころか、奥方様まで敵の手に落ちたせいで、ナルソン様は――」
「バカ、滅多なこと言うんじゃない! 衛兵にでも聞かれたらしょっ引かれるぞ!」
「でもさ、最近妙な噂が多くないか? ナルソン様の噂もそうだけど、グレイシオール様の噂もやたらと聞くようになったよな」
「ああ……穀倉地帯の復活はグレイシオール様の力だとか、毎年必ず洪水を起こしてた地区が今年は無事だったのも、グレイシオール様が知恵を授けてくださったから、とかのやつだろ?」
「うん。砦が奪われてから、やたらといろいろ噂を聞くようになったよな」
「そうだな。でも、噂は噂だろ。砦を奪われて皆不安になって、神様だなんだって誰かが言い始めたんじゃないか?」
「いや、それがどうも、そうじゃないらしいんだよ。ほら、例のリーゼ様の婚約者。あれ、グレイシオール様らしいぞ」
妙なことを言う友人に、男は怪訝な顔を向けた。
「は? 婚約者って、たまに2人で街を歩いてたり、馬車に乗ってたりしてる男のことだよな? 俺も1度だけ見たことあるけど、普通の人間だったぞ」
「そいつがグレイシオール様なんだとさ。詳しくは知らないけど、イステール家はグレイシオール様の加護を授かってるって話だ。神の力で、イステール領はたった一年で復興したうえに大発展したんだと」
「なんだそりゃ。まるでおとぎ話だな。お前、信じてるのか?」
「信じてるっていうか、信じたいな。もしそうなら、俺たち死なずに済むかもしれないし」
大通りをひた走り、街の中心にある軍事施設の訓練場にたどり着いた。
有事の際の集合場所として指定されていたその場所は、すでに多くの武装した市民たちでごった返していた。
「隊ごとに整列! 無駄口を叩くな!」
部隊番号を記した大旗の前で、中隊長たちが声を張り上げる。
旗の数から、どうやら招集されたのは2個軍団のようだ。
皆を見下ろせる高さに造られた演壇の上には、ナルソンとマクレガーが並んでいた。
2人とも、鎧姿だ。
市民兵たちは口を閉ざして素早く整列し、姿勢を正して指示を待つ。
あらかた整列が終わり、マクレガーが口を開いた。
「これより、我らイステール領軍は、国境砦へと向けて出陣する!」
訓練場中に響き渡るほどの大声で、マクレガーが言い放つ。
「目的は、奪われた砦の奪還である! 砦に籠るバルベール軍を撃滅し、奴らの手から砦を奪い返すのだ!」
市民兵たちの表情が、愕然としたものに変わった。
約1カ月前に行われた砦の戦いで何が起こったのか、バルベール軍がいかに恐ろしい兵器を有しているのかを、彼は噂伝いで知っている。
砦の防壁をも、簡単に破壊することができる大型投石器。
相手はそんな兵器を有し、しかも職業軍人で構成された2個軍団だ。
多数の古参兵混じりとはいえ、大半が市民兵で構成された急ごしらえのイステール領軍が太刀打ちできるとは思えない。
色を失う市民兵たちに、マクレガーに代わってナルソンが口を開く。
「領民たちよ! バルベールは、卑怯にも休戦協定を一方的に破り、不意打ちというかたちで我らの砦を奪い去った! このまま放置しておけば、奴らはこの街にも遠からず攻め入ってくるだろう!」
先ほどのマクレガーにも劣らぬナルソンの大声が、訓練場に響く。
不安に満ちた目で彼を見つめる市民兵たちだったが、次の言葉を聞いて表情を変えた。
「だが、奴らは我らの実力を見誤った! 卑怯な奇襲攻撃によって砦こそ奪われたが、我々はジルコニア将軍の奪還に成功した! 我らがここを出立すれば、ものの数日で彼女と合流できるだろう!」
市民たちが数秒、唖然とした顔をナルソンに向けた。
だが、すぐにすさまじい歓声が沸き起こった。
ナルソンは数十秒市民たちの歓声に耳を傾けた後、片手を上げて皆を静まらせた。
「諸君! バルベール軍は、捕虜1人満足に捕えておくことすらできない大まぬけだ! 彼女を奪還する際、こちらが送り込んだ兵の数を教えてやろう。たった1人だ! たった1人、それも、その兵士は正規兵ではない! グリセア村出身の狩人だ!」
それを聞き、市民たちがどよめいた。
何割かの市民たちが、近場の者と顔を見合わせてざわついている。
ナルソンはそれを視界の端で認めながらも、続きを言うべく口を開く。
「彼らの防備はザルである! 大規模な救出部隊を送らずとも、ジルコニア将軍を奪還できたことが何よりの証拠だ! 今こそ、かの砦を奪還する好機である! 我らがジルコニア将軍とともに、奴らから砦を奪い返すのだ!」
その後も数分にわたり、ナルソンの演説は続いたのだった。