182話:覚悟の決断
「な、何だ! 何の音だ!?」
「何かがあっちに飛び込んできたように聞こえたぞ! 確認しろ!」
突然砦の外から飛び込んできた爆音に、防壁付近に集まりだしていた兵士たちが驚いた様子で駆けだして行く。
建物の陰に身をひそめてその様子をうかがっていたジルコニアは、一瞬肩を跳ねさせた。
今まで生きてきて、一度も聞いたことのない種類の音だ。
「す、すごい音ですね。カズラ様の道具でしょうか」
背後を見張っていたロズルーが、小声でジルコニアに話しかける。
「ええ。たぶん、防犯ブザーっていう道具の音だと思うわ。前に説明を聞いたことがあるし」
鳴り続ける音の方へと、階段付近に集まっていた兵士たちが駆けだして行く。
だが、防壁の上で死体を調べていた何人かの兵士は、砦の外を指差して何やらわめいていた。
防犯ブザーを投げた際に、バレッタが見つかってしまったのだろう。
彼女を捕縛すべく、すぐに追手が出されるはずだ。
「行きましょう。私もそのまま、防壁から飛び降りるわ。受け止めてもらってる時間なんて、ないでしょうし」
「分かりました。着地の際は、足がついた瞬間に膝を折って、前転するように肩から転がってください。もし怪我して動けなくなっても、私が担いで行きます」
「……想像しちゃうでしょ。怖いこと言わないでよ」
「す、すみません」
ジルコニアは剣が装着されたベルトを外し、路地から顔を覗かせて周囲を見渡した。
防犯ブザーが落ちた辺りへと向かって、走っていく兵士たちの後ろ姿が見える。
反対方向からも兵士が向かって走ってきているが、まだ距離がある。
「今よ」
ジルコニアの合図とともに、2人は防壁の階段へと向けて駆け出した。
通りを横断し、一気に階段を駆け上がる。
「おい! そっちじゃない! 砦の外に誰か――」
音の方へと駆けて行ってしまう仲間たちを必死で呼び止めていた兵士の1人が、階段を駆け上がる音に気付いて振り返った。
ちょうど階段下から姿を現したジルコニアの姿に、その兵士は驚きのあまりに身を硬直させてしまう。
ジルコニアはそんな彼には目もくれず、そのままの勢いで防壁のふちに足をかけ、跳んだ。
「(あ。これ、死ぬかも)」
真っ暗な闇の中に身を躍らせた瞬間、跳んだことを後悔した。
暗すぎて地面がまったく見えず、着地点との距離感がまるで掴めない。
心臓を直接掴まれるような恐ろしい浮遊感に襲われ、喉が引きつる。
まるで何十秒も浮遊しているような、妙な感覚が全身を支配した。
そして、突如として足先に衝撃が走った瞬間、反射的に膝を折り、左斜め前方へと転がった。
上手くいった、と思ってそのまま立ち上がろうと、顔を上げる。
「つっ!」
だが、両足首と左肩に激痛が走り、堪えきれずにそのまま無様に倒れ込んでしまった。
そのすぐ隣に、草まみれの人間が軽い音とともに転がりながら着地してきた。
ロズルーは流れるような動きで立ち上がると、倒れ込んでいるジルコニアの膝下と脇の下に手を差し入れた。
「失礼します!」
「きゃっ!?」
お姫様抱っこされ、思わずか細い悲鳴を上げてしまう。
ロズルーは構わず、前方の森へと向けて全力で駆け出した。
彼の腕の中で振動と激痛に耐えていると、右手から騎兵の蹄の音が聞こえることに気が付いた。
だが、その音はなぜか少しずつ離れて行っているようだ。
ジルコニアは彼の胸にしがみつきながら、その闇の中へと目を向け続けた。
2つの影が防壁から跳ぶのを目にしたと同時に、バレッタは森へと向けて駆け出した。
背後から、複数の蹄の音が迫ってくる。
今の自分なら、全力で走れば何とか引き離せるのではないか、などと微かな希望を持っていたのだが、どうもそれは無理なようだ。
200メートル以上は離れていた距離が、みるみるうちに詰まる。
「追え! 逃がすな!」
「な、なんて足の速いやつだ!」
追手の声が、はっきりと耳に届く。
前方に広がる森までは、まだかなりの距離がある。
このままでは、どうあがいても森に入る手前で追いつかれてしまうだろう。
敵は複数、そのうえ騎兵だ。
幸い、太ももには投擲用ナイフが数本装備してある。
イチかバチか、急停止してそれらを投擲し、追手のラタを仕留めようと考えた時。
行く手に広がる森の入口から、こちらに手を振る人影が目に入った。
アイザックたちが先回りしていたのかという考えが、一瞬よぎる。
だが、次の瞬間、バレッタは驚愕に目を見開いた。
その人影の後ろから、成牛ほどの大きさもある巨大な狼のような獣――ウリボウ――が姿を現したからだ。
巨躯のウリボウが、遠吠えのような咆哮を上げる。
さらに、その背後の森の中から、巨躯のウリボウよりも二回りほど小さいウリボウが数十、姿を現した。
「うおっ! な、何だありゃ!? ウリボウか!?」
「お、落ち着け! 暴れるな!」
バレッタの背後から、兵士たちの慌てふためく声とラタのいななきが響く。
ウリボウの咆哮にラタが怯え、制御不能となってしまっているようだ。
バレッタも肉食獣の群れに突っ込むわけにもいかず、慌てて急ブレーキをかけた。
――こっちへ!
足を止めたバレッタの頭に、涼やかな女性の声が響いた。
ぎょっとして周囲を見渡すが、自分のほかには誰もいない。
――早く! 捕まってしまう!
再度響いたその声に、バレッタは背後を振り返った。
ラタの制御を何とか取り戻した1騎が、すぐ間近まで迫っていた。
とっさに、バレッタは前方へと駆け出した。
「ま、待て! 食い殺されるぞ! 止まるんだ!」
背後の騎兵が、大声で叫ぶ。
まるでそれに合わせるかのように、巨躯のウリボウがこちらへと向けて猛然と走り出した。
ウリボウが、先ほどよりもさらに大きな咆哮を上げる。
その咆哮でラタはパニックを起こし、急停止しようとして転倒した。
ラタはもがきながらもすぐに置きあがり、主人を捨てて見当違いの方向へと逃げていく。
投げ出された兵士は打ち所が悪かったのか、倒れ伏したままぴくりとも動かない。
遅れてこちらに向かってきていた他の騎兵たちも、ラタが暴走して方々へと散って行ってしまっていた。
バレッタは振り返ってそれを確認すると、ほっと息をついて速度を緩めた。
視線を前方に戻す。
目の前2メートルほどの位置に、巨躯のウリボウがいた。
「う……」
間近で見据えられ、バレッタがたじろぐ。
その時、ウリボウの耳がぴくりと動き、ばっと後方に飛び跳ねた。
1秒前までいたその位置を、短槍が高速で飛び抜けて行った。
「バレッタ!」
剣を手にしたバリンが、バレッタの前に割り込んだ。
額に脂汗を浮かべながら、巨躯のウリボウを睨み付ける。
逃げ戻ってくるロズルーたちに皆が駆け寄るなか、娘可愛さに一人飛び出してきてしまったのだ。
ウリボウは一瞬目を細め、ふん、と鼻を鳴らすと踵を返した。
「あ、あの!」
声を上げたバレッタに、ウリボウの足がぴたりと止まった。
こちらを振り返り、再びバレッタに目を向ける。
――約束は、守っているようだな。
「っ! や、やっぱりあの時の!」
頭に響いた声に、バレッタが叫ぶ。
「お、おい。さっきから何を一人で話してるんだ?」
バリンは何が何やら分からない様子で、ウリボウに剣を向けたままバレッタに声をかけた。
どうやら、声はバレッタにしか聞こえていないらしい。
――我らの筋が必要なのか?
突然の問いかけに、バレッタは一瞬「何のことだろう」と言葉に詰まった。
だがすぐに、縄や弦の材料に使う動物の腱のことを言っていることに気が付いた。
「え、えっと……あれば嬉しいですが、無くても髪の毛で代用できるから大丈夫です」
――毛でもよいのか。
「はい」
――分かった。
ウリボウは振り返り、元来た森へと駆け戻って行った。
森の入口からこちらを見ていた人影が、ぺこりと頭を下げる。
ウリボウはその人影の隣で足を止め、一度こちらを振り返った。
そしてすぐに顔を戻すと、他のウリボウや人影と一緒に森の中へと消えていった。
「オルマシオール様……」
「なんだって!?」
バレッタのつぶやきに、バリンがぎょっとした顔になった。
「たぶんだけど、オルマシオール様だよ。私、今話してたもん」
「こっちは何も聞こえなかったぞ」
「頭の中に直接話しかけられたの。前にも山の中で、似たようなことあったし」
「……何ということだ」
顔を青ざめさせているバリン。
危うく、神に槍を突き刺すところだったのだ。
罰当たりどころの話ではない。
「こ、今度私が謝っておくから」
「……そんな簡単に話せる相手なのか? カズラさんのように、いつでも顔を合わせられる相手じゃないんだろう?」
「今度、毛をくれるみたいなこと言ってたから、たぶん会えると思うよ」
「は? 毛?」
「うん」
そんな話をしていると、砦の方向からばたばたと迫ってくる音が響いてきた。
2人ははっと気を取り直すと、ウリボウたちが消えていった森の中へと駆け込んだ。