180話:間の悪い訪問者
その頃、流木虫の燻製の香りが立ち込める倉庫内で、ジルコニアは床に手を添えていた。
今日の夕食後、箱詰めされていた最後の芋虫を食べ終えた。
芋虫を食べ始めてから体調は抜群であり、以前に比べれば腕力も強くなっているような気がする。
先日、試しに机を持ち上げてみたのだが、自分の身長ほどもあるどっしりとした木の机を、1人で楽々と持ち上げることができた。
収監されてからというもの、毎日腕立てやら腹筋といった筋トレはしていたのだが、今ではこなせる回数が大幅に向上し、よほどのハードワークをしなければバテるということもなくなっていた。
予想が正しければ、今夜何かが起こるはずだ。
もし本物の芋虫の数もメッセージに含まれていたら、その何かはまた数日後に先送りとなるのだが。
「……幽霊、か。本当にそんなものがいるのかしらね」
納骨堂の幽霊騒ぎを思い出し、ぽつりとつぶやく。
そんなものがもしいるのなら、ぜひとも一度お目にかかってみたいものだ。
もう一度会いたい人たちは、大勢いるのだから。
床板に手をかけ、ゆっくりと持ち上げる。
地下へと続く、真っ暗な階段が姿を現した。
ティティスがここに住まなくなったその日から、ジルコニアは食事のたびに、出されたスプーンやナイフを使って、床板に打ち付けられている釘を少しずつ引き抜いていた。
ものの数日で釘は抜き終わり、地下通路内も点検済みである。
自分を救出する算段をナルソンが立てたのだとしたら、バルベール軍に知られていないこの通路を利用することは想像に難くない。
だが、砦内まで誰かを侵入させるかどうかは分からない。
先に納骨堂まで行っているべきか、などとジルコニアが考えていると、とんとん、と扉がノックされた。 慌てて床板を閉め、ベッドに腰かける。
「ジルコニア様、ジルコニア様、私です。フィレクシアですよ」
囁き声が響き、ゆっくりと扉が開いた。
ひょこっと顔を覗かせたフィレクシアは、ジルコニアと目が合うとにっこりと微笑んだ。
「よかった、まだ起きて……くさっ!? くっさいですねここ!?」
室内に入るなり、充満する燻製の臭いに鼻を押さえるフィレクシア。
ジルコニアはすでに鼻が麻痺してしまっているため、何も感じない。
「……こんな時間に、何の用? もう寝ようと思っていたのだけれど」
何とも間が悪い訪問に、ジルコニアは内心舌打ちしながら言う。
「ご、ごめんなさいです。どうしてもお話がしたくて。そ、それと、やっぱりそんなに臭くないと思うですよ」
不機嫌そうなジルコニアの声に、フィレクシアが慌てて頭を下げて謝った。
臭いに関してもご機嫌を取ろうとしているが、そんなことはどうでもいい。
「見張りがいたでしょう? 止められなかったの?」
「少し遠くで音を立てて、そこの様子を見に行っている隙に忍び込んだですよ」
「忍び込んだって……見張りは2人でしょう? 2人とも見に行ったわけ?」
「1人がトイレに行ってる隙にやったんです! まんまと作戦成功なのですよ!」
得意げに、その控え目な胸を張るフィレクシア。
そんな彼女に、ジルコニアは呆れた顔を向けた。
「そう。でも、帰りはどうするのかしら?」
「え? ……あああ!? どど、どうしましょう!?」
「知らないわよ……」
慌てふためくフィレクシアに、ジルコニアが眉間を押さえる。
「と、とりあえず、今夜はここに泊まらせてください。朝食が運ばれてきた時に、こっそり抜け出します!」
「え、いや、それはちょっと……」
非常に困る申し出に、ジルコニアはたじろいだ。
もし地下通路を通ってナルソンの手引きした者が救出に来たら、フィレクシアは邪魔だなんてものではない。
その時は殺してしまうか、気絶させるなり拘束するなりしなければならないだろう。
戦闘中に敵兵を殺すのなら何も感じずにこなせるが、まったく無抵抗の、しかも何度か言葉を交わした相手を殺すというのはかなり抵抗がある。
10年以上前に行ったバルベールの小さな村での凶行を思い出し、背中に嫌な汗が流れた。
「お願いします! ティティスさんに見つかったら、今度は怒られるだけじゃ済まないと思うのですよ! 助けてください!」
「自業自得でしょ。知らないわよ。私を巻き込まないでくれる?」
「そ、そんなぁ」
「ほら、もう帰りなさい。今なら、勝手に入ってきたあなたを私がつまみ出したってことで済むかもしれないわ。あまり時間を食うと、それこそ何を話していたんだってことになって洒落じゃ済まなくなるわよ」
「で、でも、ジルコニア様とお話ししたいです……」
「だから、ダメだって言ってるでしょう。前に言ったように、ちゃんと許可を貰ってから出直してらっしゃい」
「……うー!」
「え、ちょ、ちょっと、どこに行くの?」
フィレクシアは涙目で唸ると、部屋の隅につかつかと歩いて行ってしまった。
すとんとその場に座り込み、膝を抱える。
そこは、地下へとつながる階段の上だった。
ジルコニアは慌てて、彼女に駆け寄る。
「いいって言ってくれるまで、ここを動かないですよ!」
「あのね、私はあなたのためを思って言ってるのよ? 悪いことは言わないから、今すぐ帰りなさい」
「……」
ぷいっと顔を背け、いじけたように口をつぐむフィレクシア。
だがその時、彼女は何かに気づいたように、自身が座っている床に目を向けた。
床板の隙間から、ぎょろっとのぞく青色の瞳と目が合った。
「っ!? はひゃああああ!?」
フィレクシアが耳をつんざくような悲鳴を上げ、思い切り後ずさって背中を壁に押し付けた。
同時に、部屋の扉が開いて2人の警備兵が駆け込んできた。
「おい! どうし……げっ!?」
「何でフィーちゃんがいるんだ!?」
フィレクシアの姿を目にし、警備兵たちがぎょっとした顔になる。
「め、目がっ! そこに目がっ!」
フィレクシアは半泣きで壁に張り付きながら、自分の座っている床板の隙間を指差した。
警備兵たちは顔を見合わせ、つかつかとフィレクシアの下へと歩み寄った。
床に目を向け、隙間を見つめる。
部屋が薄暗くてよく見えないというのもあるが、特に変わった様子は見られない。
「……何もないじゃないか。ていうか、フィーちゃん、どうやってここに入ったんだよ」
「あ、まさか、さっきの物音立てたのってフィーちゃんだったのか!? その隙に、ここに入ったんだろ!」
1人の言葉に、フィレクシアが「うっ」と言葉を詰まらせる。
それを見て、彼はやれやれと頭を掻いた。
「あのさ、こういうのほんっとうに勘弁してくれないか。バレたら俺たち、減給食らったり懲罰労働食らわされたりするんだよ」
「う……ご、ごめんなさいです。でも、目は本当に見たんです! 床下に何かいるんですよ!」
「分かった、分かった。後で調べてやるから、今日はもう行こう。な?」
「ジルコニア様、大変申し訳ありませんでした。できれば、このことは内密にしていただけると……」
「え、ええ。分かったわ。誰にも言わないから」
「ありがとうございます。ほら、フィーちゃん、行くぞ」
警備兵の1人が、フィレクシアの腕を掴んで無理やり立たせ、引き寄せる。
「ま、待ってください! 本当に見たんです!」
フィレクシアは警備兵の手を振り払うと、床板をばん、と叩いた。
下に空間があるような、軽い音が響く。
その音に、警備兵たちの顔色が変わった。
「フィーちゃん、こっちに来――」
1人がもう一度フィレクシアの腕を掴んだ時、突如として床板が跳ね上がり、中から草にまみれた腕が伸びて警備兵の腕を掴んだ。
一瞬のうちに、彼は真っ暗な床下に引きずり込まれる。
それと同時に、ジルコニアはもう一人の警備兵の喉元目掛けて思い切り拳を叩き込んだ。
ぐしゃっ、という嫌な感触とともに、その警備兵が力を失って床に崩れ落ちる。
「ひっ!」
突然の出来事に引きつった声を漏らすフィレクシアの口を、ジルコニアが手のひらで掴んで壁に押し付けた。
「……だから、早く帰れって言ったのに」
「んうっ! むー!」
やるせないように息をつくジルコニアに、フィレクシアは涙目で、いやいやと小刻みに首を振る。
腕を掴んで引きはがそうとするが、どんなに力を込めてもびくともしない。
「ジルコニア様、お急ぎください」
引きずり込んだ警備兵を仕留めたロズルーが、血濡れの短剣を手に床下から顔を覗かせる。
彼はフィレクシアを押さえつけているジルコニアの姿に、顔をしかめた。
ジルコニアもまた、まるで草の化け物のような格好をしている彼の姿を見て、ぎょっとした顔になる。
「……失礼します」
ロズルーは床下から這い出すと、フィレクシアの首に両手を添えた。そのままぐっと締め上げ、数秒でフィレクシアは白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
ロズルーがちらりと、ジルコニアに目を向ける。
「とどめはいかがなさいますか?」
ジルコニアは倒れているフィレクシアを見下ろし、逡巡した。
しばらく前に彼女が初めてここを訪れた際に、話していた言葉を思い出す。
「……いいのよ。放っておきましょう」
ジルコニアは警備兵の死体から長剣をベルトごと奪い、腰に装着した。
倒れているフィレクシアを一瞥して、再びロズルーに向き直った。
「あなた、名前は?」
「ロズルーです。カズラ様の意に従い、グリセア村からやってまいりました」
「……そう。よく来てくれたわね」
ジルコニアが言うと、ロズルーは胸元に伸びる無線機のスイッチに手を添えた。
「こちらロズルー。ジルコニア様と合流した。これより脱出する。どうぞ」
「……それは?」
何をしているのだろう、とジルコニアが小首を傾げる。
「無線機という道具です。同じ道具を持っている者同士なら、別々の場所にいても話ができます。遮蔽物がある場所だと、話せないこともあるようですが」
「そんな道具が……ああ、そういえば『監視カメラ』も同じように離れた位置にいても声が聞けたりしたわね」
感心したように頷くジルコニア。
ロズルーは数秒動きを止めていたが、イヤホンから何も応答がないと判断すると、ジルコニアに目を向けた。
「ここからでは連絡できないようですが、問題ありません。行きましょう」
ロズルーが懐からペンライトを2つ取り出し、スイッチを入れて1つをジルコニアに手渡した。
真っ暗な階段を照らし、速足で下っていく。
ジルコニアも彼に続き、地下へと足を踏み入れた。