167話:帰還
数日後。
砦を脱出した面々は、イステリアの街なかの大通りを領主の館へと向けて進んでいた。
国境沿いの砦が陥落した、という噂はすでに街中に広がっていたようで、大量の市民たちが通りに詰め掛けていた。
皆が不安げな表情で、歩を進める者たちに目を向けている。
皆がざわざわと何事か囁き合っているが、罵声や非難の声はただの一つも聞こえてこない。
「リーゼ、馬車の中に入っていたほうが……」
兵士が引くラタに乗った一良が、隣を進むリーゼに声をかける。
リーゼは傍目にも分かるほどに憔悴しきっており、顔色が悪い。
それでも、通りに並ぶ市民たちに名前を呼ばれては、今にも消えそうな笑顔を返している。
「大丈夫、もう少しだから」
「いや、でも、酷い顔してるぞ。無理するなよ」
「皆に無事な姿を見せないと。私にできるのは、これくらいだから」
「……なら、せめてもう一回これ嗅いでおけ」
「うん。ありがとう」
差し出されたハンカチを受け取り、リーゼは少しだけ明るい笑顔を一良に向けた。
ハンカチには、不安や緊張をほぐす効果のあるラベンダーの精油が染み込ませてある。
行軍中にもこうして何度となく精油やハーブティー、それに加えて日本産の食べ物を与えていたのだが、その効能が発揮された様子はまったくといっていいほど見受けられなかった。
「リーゼ様! カズラ様!」
そうしてしばらく街なかを進んでいると、背後からラタに乗ったハベルが駆け寄ってきた。
リーゼの隣に並び、ラタの足を緩める。
「ハベルさん、どうしました?」
「たった今、砦から我が軍の騎兵が……」
「お母様は!? お母様は無事なのですか!?」
リーゼが血相を変えて、ハベルの腕を掴んだ。
「ご無事です。ご安心ください」
ハベルは落ち着いた様子で、即座に答えた。
周囲の護衛兵や市民から、おお、と声が上がる。
リーゼは目を見開き、力が抜けたようにハベルの腕から手を離した。
「大きな怪我もなく、今は敵の捕虜になられているようです。ですが、ジルコニア様は敵の軍団長と交渉し……」
「ちょ、ちょっと、ハベルさん!」
周囲の市民や兵士たちが聞いているにもかかわらず、機密ともとれる情報を話し始めたハベルに、一良が慌てて待ったをかけた。
ハベルは一良に顔を向け、『大丈夫です』と訴えるように目を見て頷いた。
そうして一度息をつくと、少しだけ声量を上げて続きを口にし始めた。
「ジルコニア様が敵の軍団長と交渉し、自らが捕虜になる代わりに砦に残されていた市民と兵士は無条件で解放させたとのことです。彼らは今、イステリアへ向かって移動中で、2日以内には到着する見込みです」
ハベルの言葉に、周囲からどよめきが起こった。
一良とリーゼも、驚きの目をハベルへと向ける。
「無条件で解放? それは本当ですか?」
あまりにも信じられない話に、一良は思わず聞き返した。
砦を脱出した際にも敵の追撃が一切なかったことを不思議に思っていたのだが、敵は砦の奪取以外は眼中になかったということなのだろうか。
そうだとしても、せっかく手に入れた捕虜を無条件で手放す理由が考え付かず疑問が残る。
「間違いありません。また、怪我人は手当を受けたうえで、荷馬車で搬送されてくるとのことです。重傷を負っている者も、搬送が可能になり次第送り届けられることになりました」
「そ、そうですか……あの、ジルコニアさんの身柄はこの先どうなるのかは……」
「はい。それについては、屋敷に到着後、ナルソン様から直接お二人にお伝えしたいと」
「分かりました。……リーゼ」
黙りこくってうつむいているリーゼに、一良が声をかける。
リーゼは声を噛み殺して、泣いていた。
「リーゼ、ジルコニアさんは――」
「よかった……よかったよう……」
何とか元気付けようと一良が声をかけようとすると、リーゼが声を震わせてつぶやいた。
生きていると知って、安心のあまりに泣いていたようだ。
捕虜になってしまったことにショックを受けているのかと思ったのだが、そうではなかったらしい。
「……きっと、またすぐに会える。だから、ジルコニアさんが戻ってくるまでは、俺たちがしっかりしなきゃならない」
「うん。そうだよね」
リーゼは手の甲で涙をぬぐい、一良へと顔を向けた。
瞳には力が宿り、先ほどまでのような弱弱しい雰囲気は消えていた。
「私、頑張る。カズラ、お願い。私たちに力を貸して」
「もちろんだ。任せておけ」
躊躇なく頷いた一良に、リーゼは久々に硬さのない笑顔を見せた。
一良は内心ほっと息をつくと、ハベルに目を向けた。
「ハベルさん、屋敷に着いたら、しばらく休ませて欲しいとナルソンさんに伝えてください。話はその後ということで」
「えっ!? そんなのいいから、すぐに話を聞こうよ!」
気がはやるのか、リーゼが不満げな表情になる。
「お前、砦を出てからほとんど眠れてないだろ? 休んだほうがいい」
「大丈夫だよ。それに、話が気になって眠れるわけがないでしょ」
「……本当に大丈夫か?」
「大丈夫。話を聞いたら、すぐに休むから」
「分かった。でも、無理はするなよ」
「うん。ありがと」
にっこりと、リーゼが微笑む。
「ハベルさん、やはりすぐに話を聞きます。あと……こちらへ向かっている人たちの中に、アイザックさんは……?」
「伝えに戻った騎兵というのが、アイザック様です」
「な、何でそれを先に言わないんですか!? どこにいるんです!?」
一良が身を乗り出して、怒鳴りつけるような剣幕でハベルに問いかける。
先ほどからハベルの台詞回しにどこか妙なものを感じていたせいか、疲れも相まって苛立ちを露わにしてしまった。
そんな一良に対し、ハベルは動じるどころか、少しだけ表情を柔らかくした。
「それが、まったく休まずにここまで戻ってきたようで……ナルソン様に話を伝えるなり、気を失ってしてしまいました。ラタも潰れてしまいましたし」
「じゃ、じゃあ、無事なんですね!?」
「はい。どうかご安心を」
「よかった……」
心底安心したといったふうに、一良は大きく息をついた。
その様子に、ハベルが微笑む。
「……アイザック様が聞いたら喜ばれます。それほどまでに、心配していただけていたとは」
「え?」
「カズラ」
きょとんとした顔をする一良に、リーゼがすっとハンカチを差し出した。
「ん? 何でハンカチ……あ」
そこでようやく、一良は自分の頬に涙が流れていることに気が付いた。
「あ、あれ? 何で、こ、こんな……」
勝手に溢れてくる涙に、一良は瞳を手で覆った。
喉が詰まり、嗚咽がこぼれてしまう。
2人の無事を聞いて、張っていたものがぷつりと切れてしまったのだ。
砦を出てからの数日間、一良はずっと考えていた。
自分さえこの世界にこなければ、この戦いは起こらなかったのではないのか。
たとえまた戦争が始まったとしても、それは何年も先のことだったのではないのか。
自分が行った支援により、イステール領は急速な復興と発展を遂げることができた。
だが、そのせいでバルベールに危機感を抱かせてしまい、砦への侵攻を招いてしまったのではないか。
しかし、2人の無事を聞いた瞬間、それまで考えていたことはすべてどうでもよくなってしまった。
ただただ、2人の無事が嬉しくて、頭が真っ白になってしまったのだ。
「カズラ、泣きすぎ」
一良の号泣ぶりにもらい泣きしたのか、リーゼは笑いながらも再びぽろぽろと涙をこぼしている。
「リ、リーゼだって人のこと言えないだろ!」
一良はリーゼからひったくるようにしてハンカチを受け取り、乱暴に自身の涙をぬぐった。
「うん、おそろいだね。ふふ」
リーゼは微笑みながら、指で自身の涙をぬぐう。
そんな2人の様子にハベルは微笑み、失礼します、と頭を下げ、後方のナルソンの下へと駆け戻っていった。
荷馬車のなか、バレッタは微かに聞こえてくる一良とリーゼの話し声を聞きながら、こんこんと眠り続けるイクシオスを見つめていた。
今のところ容体は落ち着いており、何とか峠は越えたようだ。
腕の傷は水でよく洗浄したのちに縫合され、化膿止めの軟膏を塗ってガーゼを当てた上から包帯が巻かれている。
足を貫通していた矢は引き抜かれ、傷口をこてで開いて焼いた短剣を押し当てて、感染症を防ぐ目的で焼灼止血されていた。
施術の際はカモミールの精油を使って若干の麻酔を施したが、傷口を焼かれる痛みは尋常なものではなかっただろう。
イクシオスは朦朧としながらも、歯を食いしばってそれに耐え、うめき声の一つも上げなかった。
日本産の食べ物や栄養ドリンク、そして塩分濃度を調整した水を与え続けたことも、快方に向かった大きな要因だろう。
「バレッタお姉ちゃん」
隣から声を掛けられ、バレッタはそちらに顔を向けた。
「ん、なあに?」
心配そうな顔つきのコルツと目が合い、優しく微笑む。
イステリアに着くまでの間、コルツは自分からバレッタに手伝いを申し出て、イクシオスの看病を手伝っていた。
その働きぶりはバレッタも目を見張るほどで、睡魔に負けて眠ってしまう時以外はイクシオスの傍を片時も離れなかった。
そのおかげでエイラとマリーは行軍中の食事の用意や体調を崩した者たちの世話に集中することができて、非常に助かっていた。
「え、えっと……大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。そんなに疲れて見える?」
「そうじゃなくて……その……」
言いよどんでいるコルツに、バレッタは小首を傾げた。
「……さっきからずっと、何だか怖い顔してたから」
「……」
「その……どうしたのかなって」
恐る恐る聞いてくるコルツにバレッタは答えず、視線をイクシオスに戻した。
コルツも口をつぐみ、沈黙が流れる。
「……前にね、ニィナに言われたことを思い出してたの」
しばらくして、ぽつりとバレッタが口を開いた。
コルツは様子をうかがうように、バレッタへと少し顔を向ける。
「もっとカズラさんを信じなさいって。あなたはカズラさんのこと、信じきれてないって言われて」
「……信じるって、何を?」
言葉の意図が読み取れず、コルツがいぶかしげな視線を向ける。
「んー、何て言えばいいのかな……素直になって、思ってることをちゃんと伝えなさいってことかな? 言ったら嫌われちゃうかも、とか、そんなふうに思って悩んでないで、全部信じて正直になる……みたいなことだと思う」
「……」
「ごめんね。分かりにくいよね」
「そんなこと……ないよ」
消え入るような声で、コルツが答える。
バレッタは少し微笑むと、膝に置いた自身の手に目を落とした。
「本当、取り返しのつかないことになるところだった。あの人のためだとか、全部自分がとか、ただの独りよがりだったってようやく分かったの。あの人が殺されるかもしれないような状況に遭って、ようやく分かった」
「……バレッタお姉ちゃん?」
一人話し出したバレッタに、コルツが顔を向ける。
「隠しごとなんて、もうしない」
自分自身に言い聞かせるように、バレッタは言い切った。