163話:黄昏の君へ
宿舎の外に出たリーゼは辺りを見渡し、コルツの父親がいないことを確認すると北の防壁へと駆け出した。
砦内は、まさに混乱の極みといった状況になっていた。
恐慌状態に陥った市民や使用人たちが右往左往し、あちこちから怒声が響き渡っている。
「リーゼ様! お待ちください!」
数人の護衛兵が、鎧の擦れる音を響かせてリーゼに追いすがる。
リーゼは走りながら、彼らに顔だけで振り返った。
「あなたたちはこの辺りの市民を南門まで誘導しなさい!」
「いえ、我々はリーゼ様をお守りします!」
「なら、そこの2人だけ付いてきなさい! 他の者は市民を誘導するのです、早く!」
「は、はい!」
市民は南門へ向かえ、とリーゼは大声で叫びながら、北の防壁へと走る。
しばらく走り、ようやく見えてきた防壁を見てリーゼたちは愕然とした。
まるで巨大な槌を振り下ろされたかのごとく、石造りの防壁に大きな裂け目が出来ていた。
人が通れるほどの隙間は、まだできていない。
後から積み上げられた石壁の外側部分がモルタルやコンクリートで接合されていたため、石弾の直撃を受けても一度で粉砕とはならなかったからだ。
これがもし、ただ石を積み上げただけの従来どおりの石壁だったなら、たった一度の着弾で広範囲が崩れ落ちていただろう。
リーゼたちは知らないことだが、飛んできている石弾が比較的小ぶりなものだったことも防壁の延命につながっていた。
「敵の重装歩兵5個中隊、弓兵1個中隊が3列横隊で接近中! 梯子あらず! その後方に8個中隊と騎兵約200が待機!」
防壁の上にいる兵士が、砦内に向かって大声で叫ぶ。
攻撃を受けている防壁の前には、すでに数百人の兵士たちが集結していた。
青銅製の鎧兜を身にまとい、5メートルはあろうかという長槍と円盾を手にしている者たちがほとんどだ。
自ら集まってきたのか、剣や短槍などの武器を手にした市民の姿も何人かみられた。
彼らの前には羽根付きの兜をかぶった中隊長がいて、彼らに向かって拳を振り上げて大声で激励の言葉を発していた。
「石弾、来ます!!」
防壁上の兵士が叫んで数秒後、激しい衝突音とともに、兵士たちの前の防壁が大きく崩れた。
同時に、その防壁部分から少し離れたところにある2基の防御塔が、がらがらと音を立てて中央部辺りまで崩れ落ちた。
塔内部の木の骨組みもへし折られ、無残な姿を晒してしまっている。
「リーゼ!」
「リーゼ様!」
あまりの光景にリーゼが顔を青ざめて棒立ちになっていると、背後から蹄の音とともにラタに乗ったジルコニアとアイザックがやってきた。
2人は新品の指揮官用の鉄鎧を身に着けた完全武装で、数十人の護衛兵を引き連れている。
「どうしてこんなところにいるの!? あなたはカズラさんやナルソンたちと一緒にいなさい!」
母の姿に、立ちすくんでいたリーゼは気を取り直して彼女に向き直った。
「グリセア村のかたが1人、ここにいるはずなんです! 彼を連れ戻さないと!」
「グリセア村の……?」
リーゼの言葉に、ジルコニアは防壁へと目を向けた。
兵士たちに交じって武器を手にしている数十人の市民の姿に、思案するように動きを止める。
そうしている間にも、あちこちから兵士や市民たちがこの場所へと集まってきていた。
「……分かった。彼は私が探して宿舎まで戻るように伝えるわ。あなたは先に戻りなさい」
「いえ、私が直接連れて帰ります」
「ダメよ。ここは危険だわ。先に戻りなさい」
「嫌です。彼と一緒でなければ――」
「さっさと戻れッ!!」
「ひっ!」
すさまじい剣幕で怒鳴りつけられ、リーゼは思わず肩をすくめた。
それを見て、ジルコニアははっとした様子で表情を少し緩めた。
「……ここは私に任せて、あなたは戻ってカズラさんの傍にいなさい。いいわね?」
「で、ですが、お母様……」
「返事は?」
「……嫌です」
リーゼは涙目になりながらも、ジルコニアをキッと睨みつける。
「彼を連れ帰るって、カズラに約束したんです! 一人で戻るなんて、できません!」
「リーゼ……」
ジルコニアはラタから降り、リーゼに歩み寄った。
少し腰をかがめ、彼女の両腕を掴む。
「聞き分けのないこと言わないで。ここは戦場になるのよ? あなたに万が一のことがあったら、ナルソンに顔向けできないわ」
「お母様、私だってイステール家の人間です。物事を自分で判断して行動できます。半人前扱いしないでください!」
ジルコニアは顔をしかめたが、すぐに真剣な瞳でリーゼをまっすぐに見つめた。
「分かった。彼と一緒なら戻るのね?」
「はい!」
「アイザック、リーゼと一緒に行って彼を探して連れ戻しなさい。カズラさんたちのところまで送り届けて」
「はっ!」
「敵部隊停止! 石弾、来ますっ!」
再び防壁上の兵士が叫び、数秒置いてから半壊した防壁と2つの防御塔から大きな破壊音が響いた。
今まで何とか耐えていた防壁は崩れ落ちて一部が瓦礫の山と化し、人が数人通れる程度の空間ができてしまっている。
防御塔もさらに足元から崩れ始め、もう何発か着弾すれば瓦礫を乗り越えて敵が侵入してくるだろう。
「敵前衛部隊、進軍再開! 弓隊、射撃用意!」
接近する敵部隊に、防壁上で横一列に展開していた数十人の兵士たちが弓を構える。
敵は接近している部隊だけで6個中隊、約1800人だ。
数十人しかいない弓兵では、焼け石に水だろう。
「リーゼ、アイザック、急ぎなさい!」
「お母様、私たちが彼を見つけたら、お母様も一緒に戻ってください! イクシオス様の指示です!」
「……分かった。早く彼を探しなさい」
「はいっ!」
「リーゼ様、お乗りください!」
アイザックの後ろにリーゼが飛び乗り、防壁へと駆け出す。
ジルコニアもラタに再び飛び乗ると、引き連れていた護衛兵とともに、戦列を組んでいる兵士たちの下へと駆けだした。
「戦闘用意! 盾を構えろ!」
それと同時に、中隊長が兵士たちに大声で指示を出した。
味方の重装歩兵たちは、崩れ落ちた防壁を塞ぐようにして、何列にもわたって横陣を組んで整列している。
最前列の兵士が盾を前方に構えて盾の壁を作り、後列の兵士はその間から槍を突き出した。
瓦礫を乗り越えて侵入を試みる敵兵を槍衾で迎え撃って防壁の裂け目の間で立往生させ、防壁上からの攻撃で殲滅するつもりのようだ。
「弓隊……お、おい、投げ槍はまだ早い! 待てっ!」
リーゼとアイザックが防壁にたどり着いた時。
防壁上にいた市民の1人が大きく投げ槍を振りかぶり、やや上方向に向かってすさまじい勢いで投擲した。
数秒置いて、防壁上の兵士たちからどよめきが起こった。
リーゼたちの位置からでは何が起こっているのか分からないが、どうやら彼が投げた槍が敵部隊にまで届いたようだ。
「弓隊、遅れをとるな! 撃て!」
「コーネルさん!」
ラタの上から、リーゼが大声で叫ぶ。
2本目の槍を投擲しようとしていたコルツの父親――コーネル――は手を止め、リーゼに振り返った。
「降りてきてください! 早く!」
「え? し、しかし……」
「いいから急いでっ!!」
コーネルは戸惑った様子ながらも、大急ぎで防壁の階段を駆け下りてリーゼの下へとやってきた。
「南門まで下がります! 付いてきてください!」
「えっ!? で、ですが、すぐにでも敵兵が侵入してきますよ!? ここを守らねば……」
「命令です、付いてきなさい! アイザック様!」
リーゼの呼びかけに、アイザックはラタの腹を蹴って駆け出した。
コーネルは困惑しながらも、リーゼたちを追って走り出す。
「お母様!」
戦列を組む部隊のやや後方にいるジルコニアに、リーゼが大声で呼びかける。
「彼を見つけました! お母様も早くこちらへ!」
「先に行きなさい! 後から追いつくわ!」
「えっ!? で、ですが!」
「アイザック、行きなさい!」
「アイザック様、止まって!」
アイザックは速度を緩めず、リーゼの制止を無視してそのままラタを走らせた。
「……行ったか」
走り去っていくリーゼたちを見送り、ジルコニアはほっと息をついた。
気を取り直して、前方へと目を向ける。
防壁の裂け目から、敵兵の横陣が遠目に見える。
彼らは前面と上方に長方形の大盾を並べ、飛んでくる矢を防ぎながらじわじわと迫ってきていた。
「中隊長! 状況を報告しなさい!」
身構えている兵士たちの一番左端で指揮を執っている壮年の中隊長に、ジルコニアが叫ぶ。
彼はそれでようやくジルコニアの存在に気づいたようで、駆け足で彼女の下へとやってきた。
「敵1個軍団の約半数が、この場所に向けて接近中です。両脇の防御塔は石弾による攻撃で破壊されてしまい、完全に機能を喪失しています。他の塔は射程外のため、接近中の敵部隊への射撃は防壁上からしか行えません。攻撃を受けている塔が完全に崩れ落ちれば、後方で待機している残りの敵がそこから侵入してくるかと思われます」
「防御塔側の守りはどうなってるの?」
「第2中隊が集まった兵を半分に分け、それぞれ配置に付いています。片側につき、まだ100人も集まっておりません。指揮は第2中隊長と副長が執っています」
ジルコニアがぎりっと歯を食いしばり、表情を歪める。
防御塔は半壊しているが、まだかろうじてその形状を保っている。
完全に崩れ落ちるまでにはしばらく猶予があるだろうが、それまでに何らかの手を打たなければ、敵がなだれ込んできてしまうだろう。
「完全に虚を突かれました。まさかあのような武器が存在するとは……」
「敵は2個軍団かと思ったのだけど、1個軍団で間違いないの?」
「はい。今のところは」
敵の駐屯地には2個軍団がいるとジルコニアは聞いていたのだが、どういうわけか攻めてきているのは1個軍団だけらしい。
とはいえ、敵と砦の守備隊の数に絶望的な差があることに違いはない。
「……防壁の裂け目を死守して。第二中隊もここの守りに向かわせるわ。防御塔側は私が何とかする」
「かしこまりました」
「矢が来るぞーッ!」
中隊長が頷いた時、防壁上の兵士の1人が叫んだ。
「後列、盾を上げろ!」
中隊長の代わりに指揮を執っていた副長が叫び、隊列を組んでいた重装歩兵の2列目以降が一斉に盾を頭上に掲げる。
ジルコニアたちはとっさに、まだ崩れていない防壁の陰へと駆けた。
それとほとんど間を置かず、崩れ落ちた防壁の裂け目や防壁上の弓兵を狙って放たれた矢が、空気を切り裂く耳障りな音とともに砦内に飛び込んできた。
「部隊の指揮に戻ります」
「分かった。後から集まってきた兵士たちは私が取りまとめるわ」
「はっ!」
攻撃の間隙を縫い、中隊長が戦列に復帰する。
「前進! 裂け目を塞げ!」
中隊長の声が響き、防壁の裂け目を槍の穂先で完全に塞ぐように部隊は前進した。
ジルコニアはそれを見届けるとラタの腹を蹴り、護衛兵とともに防壁前の部隊から数十メートル後方まで駆けた。
その場でぐるっと旋回し、周囲を見渡す。
あちこちから、この場所へと集まってきている市民や兵士たちの姿が見えた。
ジルコニアが剣を抜き、頭上に突き上げる。
「こっちへ集ま――」
「ッ! 危ない!」
ジルコニアは隣にいた護衛兵に腕を掴まれ、力任せに引き寄せられてラタから半身を引きずり降ろされた。
その瞬間、防壁を大きく越えて飛来した石弾が、ジルコニアの乗っていたラタに直撃した。
ジルコニアは腕を掴んでいる護衛兵とともに、もんどりうって地面に叩きつけられた。
「ジルコニア様!」
衝撃で胸が圧迫されて呼吸が止まり、激しく咳込む。
だが、すぐさま護衛兵たちに抱え起こされ、よろよろと立ち上がった。
「ジルコニア様、大丈夫ですか!?」
「ごほっ、ごほっ……だ、大丈夫よ……ありがと、助かったわ。こんなところまで飛んでくるなんて……」
ジルコニアは、先ほどまで自分がいた場所に目を向けた。
石弾に引き潰されて肉塊になったラタの死骸を目にし、背筋に冷たいものが走る。
「……ウォルク、集まってきている兵士たちを使って、荷馬車を10台くらい、ここに運んできなさい」
「荷馬車、ですか?」
声をかけられた若い護衛兵が、いぶかしげな顔をする。
ジルコニアは顔を上げると、崩れかかっている2つの防御塔へと目を向けた。
「そうよ。荷台に木材とか藁とか燃えるものを何でも詰め込んで、油をかけて防御塔の両脇に並べなさい。敵が侵入してくるのと同時に、荷馬車を押して侵入口を塞いで火を放つの。暫くの間は炎で進入路を塞いで足止めできるし、何人かは巻き添えにして焼き殺せるかもしれない」
「っ! はい!」
彼はラタの腹を蹴り、駆けだした。
ジルコニアは両脇を支えていた護衛兵に手を離させ、戦列を組んでいる中隊へと目を向けた。
「敵が防壁の他の部分を攻撃するまでは、あそこの進入路は塞がずにこのまま攻撃させる。侵入路を限定させて、正面と防壁上の攻撃で敵戦力をすり減らすわ。後から集まってきた兵は、全員防壁に上らせる。それと……」
そこまで言い、周囲にいる十数人の護衛兵たちへと目を向けた。
全員が平民出身の志願兵で、年齢も性別もばらばらだ。
休戦協定が締結される何年も前から付き従っている古株もいる。
かつてはジルコニアが初陣を飾った時から傍にいた者も何人かいたが、今は護衛兵の中には一人もいなくなってしまった。
「……戦えない市民も集まってきてしまっているわ。ラッド、辺りにいる市民を全員かき集めて。レナは、戦えない者たちを宿舎まで送り届けて」
「かしこまりました」
「送り届けたら、すぐに戻ってきますから!」
指名された2人はすぐに、周囲の市民を集めに駆けだして行く。
ジルコニアはそれを見届け、残った護衛兵たちへと向き直った。
「ここを維持するわよ。あなたたち、覚悟を決めなさい」
その言葉に、護衛兵たちが顔を見合わせた。
一拍置いて、クスクスと笑い声が漏れる。
「……何よ。何で笑うの?」
「ジルコニア様、ヤバイ戦いの前にはいつも『覚悟を決めろ』って言いますよね。久しぶりに聞いたなと思ったら、つい」
「あー……うん。昔、私の部隊を率いてた人が言ってたから、その真似をしてるの。少しでも、その人みたいになれるかなって」
「ジルコニア様の上官だったかたですか。今も軍に?」
「ううん。先に逝ってしまったわ。もう10年になるかしら」
久方ぶりに当時のことを思い起こし、ジルコニアが薄く微笑んで答える。
「ジルコニア様を従えられるとは、余程豪胆なかただったのでしょうなぁ」
「会ってみたかったような、会えなくてよかったような……」
「あなたたち、私を何だと思ってるのよ……」
ジルコニアはげんなりとした口調で言いつつも、皆につられるようにして小さく笑う。
だがすぐに、表情を引き締めた。
「敵を食い止めるわよ。自分から言い出した約束も守れない野蛮人どもに、攻めてきたことを後悔させてやりなさい」