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161話:思い出の残照

 十数日後の午後。

 国境沿いの砦を視察するため、一良たちは馬車に乗って麦畑の中を進んでいた。

 季節はちょうどパン麦とラタ麦の収穫期で、あちこちで労働者たちが刈り入れ作業に精を出している。

 一良たちの乗っている馬車の形状は、外が眺められるように座席部分が大きく開放されたもので、鉄の骨組みの布張りの屋根が付いている。

 4人並んで座れる程度の広さの前向きの座席が3列並んでおり、席の前にはテーブルも備えられている。

 振動対策に懸架式(座席を車体から吊り下げる方式)を採用した、2頭引きの長距離移動用の新型馬車だ。

 街では商業区画を順々に移動する1頭引き8人乗りの乗合馬車が数十台、雨期明けから運用が開始されている。

 料金は後払い制で、1座席につき1区画間の運賃は3アルだ。

 経済の活性化を目的としてイステール家が出資しているため、料金は格安である。


「ふむ、砦内にも畑があるんですね。広さはだいたいグリセア村の農地と同じくらいか」


「はい。肥料の投入で生産量が大幅に向上しましたので、年間にしてだいたい200人~250人分の食料を安定的に生産できる見込みです」


「作っているのは穀物と芋類だけですか?」


「農地の作物はそうですが、空いているスペースに飛び飛びで果樹も植わっております。今年あたりから実が生り始めるかと」


 一良はナルソンと隣り合って馬車の前列に座り、広げられた砦の全体地図を見ながら設備の説明を受けていた。

 ナルソンは豪奢な鎧を身に着けており、いかにも『将軍』といった渋い雰囲気を醸し出している。

 イステール家の3人が揃っての移動ということもあり、引き連れている護衛や従者は総勢300名近い大所帯だ。

 一良たちの後ろにはリーゼとバレッタが座っており、リーゼは鎧姿、バレッタは私服である。

 エイラとマリーは最後尾の座席だ。

 ジルコニアは馬車には乗っておらず、アイザックとともにラタで部隊を先導していた。

 コルツも付いてくると強く主張したため、両親と一緒に別の馬車で同行している。


「すごい麦畑ですね。穀倉地帯以外にもこんなところがあるなんて、びっくりしました」


 バレッタは刈り入れ作業を楽しそうに眺めながら、隣のリーゼに話しかけた。


「……」


 リーゼは座席の肘掛けに頬杖をついたまま、返事をするでもなく反対側の景色を眺めている。


「リーゼ様?」


 バレッタは少し戸惑った様子で、リーゼに目を向けた。


「あ、ごめん。なあに?」


 リーゼは話しかけられていたことにようやく気付き、バレッタを見て微笑む。

 バレッタは、「あ、いえ……」と再び元見ていた景色に視線を戻した。

 イステリアを出発してからというもの、リーゼはどこか元気がないようにバレッタは感じていた。


「カズラ様!」


 砦の門が見えてきた頃、ラタに乗ったハベルが蹄の音を響かせて駆けつけてきた。

 ぐるっとその場で素早く旋回し、ラタの頭を一良たちと同じ進行方向へと向ける。

 素晴らしい操馬技術だ。


「ハベルさん! お久しぶりです!」


「ご無沙汰しております! 馬車の具合はどうですか?」


 実に爽やかな笑顔で、ハベルが元気よく挨拶する。

 以前のような硬さは微塵もない。


「いい感じですよ。お尻も痛くなりませんし、これなら何時間乗っていても平気ですね」


「兄さん!」


 後部座席から、マリーが大声でハベルを呼ぶ。

 ハベルは半身をよじって振り返り、満面の笑みで手を振る妹の姿ににっこりと微笑んだ。


「マリーも元気そうでよかったです。屋敷での仕事ぶりは問題ありませんか?」


「ばっちりですよ。とても元気に、きっちり働いてくれています。すごく明るくなったって、皆喜んでますよ」


「よかった。身分が変わって、気が緩んでいるのではないかと心配しておりました」


 ハベルは現在、砦の周囲に開墾した農地に新たな井戸を掘る作業の監督をしているため、砦を仮住まいとして生活している。

 その間は1度もイステリアに戻っておらず、マリーと会うのは約2カ月ぶりだ。


「そういえば、マリーさんってハベルさんのこと、前から『兄さん』って呼んでましたっけ?」


「いえ、以前は『ハベル様』でしたね。あの一件があってから、ようやく兄として認めてくれたようです」


「あ、やっぱりそうでしたか。砦に滞在中はマリーさんのお仕事はお休みにしますから、兄妹水入らずでのんびり過ごしてください。ハベルさんも連休にしちゃっていいですから」


「えっ!? い、いえ、さすがにそういうわけには。井戸掘りも全然終わっておりませんし」


 恐縮した様子で、ハベルが言う。

 井戸掘りにはエンジンブレーカーを使っているので、ハベルが作業から抜けるわけにはいかないのだ。


「別に数日休んだって、そこまで影響は出ませんよ。たまにはのんびりしてください」


「……かしこまりました。それでは、そうさせていただきます。マリー!」


 ハベルが振り返り、大声でマリーを呼ぶ。


「はいっ!」


「あっちに着いたら、一緒に釣りでもいかないか?」


「はい! 私、素手でお魚を捕まえられるようになったんですよ! 兄さんにもやり方を教えてあげますね!」


「そ、そうか」


 ハベルが再び、一良に向き直る。


「では、私は迎えの準備をしてまいります」


「はい、また後ほど」


 勢いよく駆け出していくハベルを見送り、一良は砦へと目を向けた。

 緩やかに延びている丘を這うようにして、防御塔を備えた長大な石造りの防壁が延びている。

 防壁の内外には労働者の住居とみられる建物が並んでおり、砦の周囲の平地部分には金色の穂を持った麦畑が広がっていた。

 防壁の内側の中央部には、兵舎や食糧庫といった施設が集まっている。

 砦という名称からして、一良は無骨な軍事施設のイメージを持っていたのだが、実際に見る砦は防壁に囲まれた田舎町のような印象を受けた。


「しかし、ずいぶんと広く作りましたね。これが戦争に使われるのか……」


 あまりにものどかな光景に、実際に戦場になっているさまが想像できずに一良が唸る。


「完全包囲されても長期間にわたって籠城できることを一番の条件として作らせましたからな。大兵力を駐屯させて守りを固めれば、敵側としてはここを無視して内地に侵攻するわけにはいきませんので」


「無視してイステリアに侵攻したら、内地の部隊と挟み撃ちですもんね。バルベールから来る補給部隊も潰せるし、確かにここは重要ですね。高台に構えてれば敵は攻めにくいですし、確かに抑えるならここですよね」


「はい。ここを抑えている限り、けして負けることはありませんな」


「丘からの下り坂に罠を張り巡らせれば正面は盤石。側面や裏手からだと敵はこちらの領土内に踏み込むことになるから、内地の部隊と砦の部隊の二方向に気を付けなければいけないと。場合によっては、クレイラッツからの援軍とで包囲できるってことですね」


「そのとおりです。戦時資料を読んだので?」


「ええ、資料を見ながらリーゼに説明してもらいました」


 その後ものんびり話をしながら、一行は砦へと進んでいった。

 南門へとたどり着き、兵士に城門を開けてもらう。

 城門は上手部分がせり出した形になっており、真下を狙えるように足場に隙間が空いていた。

 城門をくぐると、中では数百人の兵士が整列していた。

 兵士たちの前では、白髪交じりの金髪をオールバックにした老兵士――イクシオス――が、先に到着したジルコニアと何やら話をしている。

 アイザックとハベルはその傍に控えており、何やら楽し気に言葉を交わしていた。

 どちらかというと、明るい表情で色々と話しかけるハベルの相手をアイザックがしている、といった様子だ。

 馬車から皆が降りていると、ジルコニアとイクシオスが歩み寄ってきた。


「お待ちしておりました。遠路、お疲れ様です」


 イクシオスが小さく頭を下げる。


「うむ、出迎えご苦労。こちらのかたは、内政の支援をしてくださっているカズラ殿だ。このたび、軍事についても助言をいただけることになった」


「カズラです。よろしくお願いします」


 一良がぺこりと頭を下げる。


「イクシオスです」


 イクシオスがにこりともせず、名を名乗る。


「砦をご案内いたします。こちらへ」


 そう言い、イクシオスは砦の奥へと足を向けた。

 雰囲気にやたらと威圧感があるうえに愛想の欠片もない老兵士に、一良は緊張で表情を強張らせて後を付いていく。

 そんな一良に、やり取りを見守っていたジルコニアがすっと近づいた。


「ああいう人なんです。悪く思わないであげてくださいね」


 カズラの耳元に口を近づけ、小声で囁く。


「そ、そうなんですか……何か怒ってるのかと思っちゃいましたよ」


「相手が王族でも態度は同じですよ。戦時中に国王にもさっきみたいな態度をとって、取り巻きに咎められても完全に無視してましたし」


「す、すごいですねそれ。その後大丈夫だったんですか?」


「国王が取り巻きを諫めてくれたので、その場は収まりましたね。あと、王子がその取り巻きたちに『お前らいちいち細かいことで騒ぐなようるせえな』って言ってくれたおかげで、その後も何もありませんでした」


「ルグロさんなら確かに言いそうだ……」


「面白い人ですよね。私、思わず吹き出しちゃいましたもん。取り巻きたちに思い切り睨まれましたけど」


 その時のことを思い出したのか、ジルコニアがくすくすと笑う。


「ルグロさんって、指揮を執ったりしてたんですか?」


「いえ、単独では一度も。直属の軍団は持っていたんですけど、『やり方はあんたたちに任せる』って出合い頭に言われてしまって。本当にまるごとイステール領軍の指揮下に置かれました」


「マ、マジですか。国王は何も言わなかったんですか?」


「何も。臣下に反論も許しませんでした」


「そうなんですか……ルグロさんは、戦いの間何をしてたんですか?」


「私たちにくっついて、私たちの指示をそのまま実行するだけでしたね。時々思い付いたように、意見は出していましたけど。ただ、私が最前線に出て戻ってくるたびに、本気で怒鳴りつけてくるのには参りました。『死んだらどうすんだ!』って何度言われたか分かりません」


 ルグロの思い出話を、一良は興味津々で頷きながら聞く。

 どうやら、ジルコニアは彼のことを気に入っているようだ。

 あちこちの施設に立ち寄りながら砦の建設具合の説明を受けつつ、北側の防壁へとやってきた。

 石の階段を上り、防壁に備えられた防御塔へと登った。


「おお」


「いい景色ですね……」


 一良の隣に来たバレッタが、バルベール側に広がる草原を眺めて感嘆の声を漏らした。

 防壁の先は緩やかな下り坂になっており、青々とした美しい草原や森が見て取れる。

 丘というからには結構な高台なのかと一良は思っていたのだが、平野部とはそこまで高低差はないようだ。

 ほんの2~3キロほど先には、こちらの砦ほどとまではいかないにしろ、それなりに立派な防壁に囲まれた街があった。


「目と鼻の先に街があるのか……」


「あれは、バルベール側の駐屯地です。最近になって、ようやく奴隷や市民を集めて陣地の強化に乗り出したようです」


 一良の漏らした言葉に、イクシオスが説明をしてくれる。

 駐屯地の中にはそれほど人がいないようで、あまり人の動きは見られない。

 駐屯地の外に広がる畑では、数百人の上半身裸の男たちが、兵士に見張られながらせっせと麦の刈り入れを行っていた。


「最近になって、ですか。こっちはもう砦を造り始めて5年目だっていうのに、ずいぶんとのんびりしてますね……ん? あれもバルベールの防御陣地ですかね?」


 丘を下った3~400メートルほど先に、数メートルの高さにまで盛り土をした一帯があった。

 上半身裸の男たちが、盛り土の周囲に柵や防御塔とみられるものを建てている。

 丘の上には石材と木材が山積みにされていた。


「はい。こちらからの反撃を防ぐためのものかと」


「あの位置に造られると、けっこう厄介ですか?」


「敵を撃退した後の追撃が難しくなります。あそこから矢を射かけられますので」


「なるほど……あ、女の子だ」


 男たちの中に1人だけ、その場には似つかわしくない真っ白なワンピース姿の少女がいた。

 髪も肌も真っ白で、遠目からでもその姿はかなり目を引いた。

 少女は両手を大げさに振り回しながら、柵を建てる男たちを応援している様子だ。


「何ですかね、あれ」


「さあ……あんなところで子供を遊ばせるとは、規律も何もあったものではありませんな」


 そのまま一良がその少女を見ていると、彼女は急に後ろを振り返り、ばたばたと暴れるように地団太を踏み始めた。しばらくすると再びこちら側に向き直り、ふいに一良の方へと顔を向けた。かなりの距離だが、自分のことを見ているのが何となく分かる。


「あ、手を振ってる」


 少女はぴょんぴょんと跳ねて何かを叫びながら、ぶんぶんとこちらに手を振っている。

 思わず一良が手を振り返すと、イクシオスにがしっと腕を掴まれ、「お止めください」と怒られてしまった。

 少女も、駐屯地の方向から慌てた様子でやってきた赤髪の兵士と紺色の服を着た金髪の少女に両脇を抱えられ、ずるずると引きずられて行った。


「まったく、まるでピクニックですな」


「す、すみません……」


 ふと一良が隣を見ると、いつの間にかバレッタがいなくなっていることに気が付いた。

 裏手に行ってみると、バレッタはリーゼと並んで、砦内に広がる街並みを眺めていた。


「お、こっちもいい眺めですね!」


 バレッタの隣に行き、一良も街を眺める。

 バルベール側の駐屯地と違って、こちらの砦は多くの人びとが作業に精を出していて活気があった。

 2人から何の反応もないことに気づき、一良は彼女たちに目を向けた。

 バレッタもリーゼも、もの悲し気な表情で街の一点を見つめている。

 その視線を追うと、そこには大きな石板が建っていた。


「あれは?」


「……慰霊碑。この丘で亡くなった人たちの」


 ぽつりと、リーゼが答える。

 それでようやく、一良は2人の表情の意味に気が付いた。


「カズラ殿、そろそろ次の場所へ向かいましょう」


 一良が何も言えずに慰霊碑に目を向けていると、ナルソンが声をかけてきた。


「あ、はい……」


 返事をしつつ、2人に目を向ける。

 2人とも、黙って慰霊碑を見つめたままだ。


「カズラ殿?」


「すみません。行きましょう」


 ナルソンに促され、一良は階下へと降りて行った。




 数時間後。

 砦を一通り回り終え、一良たちは宿舎で夕食をとっていた。

 宿舎は石造りの2階建ての建物で、中央に庭園を備えた立派なものだ。

 砦内に造られた各軍事施設の中心部に位置しているのだが、領主や王族が滞在することを考えて造られているため、それなりに設備は豪奢なものとなっている。

 風呂は2つ備えられており、客間も20以上あるとのことだ。


「この調子でいけば、来年の今頃には堀まで造り終わりそうだな」


 料理を口に運びながら、ナルソンがイクシオスに話しかける。


「最低限のレベルで、です。防壁をもっと高くし、防御塔も増やすべきです。砦の外へ続く道もまだまったく整備できておりませんので、それらの完成となると再来年になります」


「うむ。確かに側塔(城壁にへばりつくようなかたちで外側に飛び出ている防御塔)はもっと欲しいところだな。道の整備が一番時間がかかりそうだ」


「このままいくと今年分の予算を確実に超過しますが、追加の資金はいただけるのですか?」


「そこは気にしなくていい。必要なだけ請求してくれ。人も物もだ」


「では、資金を今の倍、秋口までに追加でいただきたい。それと、リゴとドラブラを装備させた兵も追加で3個中隊寄越してください。訓練もかねて、道の整備に取り掛かります」


 ぶっ、とナルソンが料理を吹き出しかけ、げほげほと咳き込む。


「いかがいたしました?」


「い、いや、もう少し遠慮して言ってくれると助かるんだが……」


「これでも遠慮しておりますが」


「領の財政を破綻させる気か、お前は」


 笑うところなのかどうなのか判断しにくいやり取りをしている2人を横目に、一良は隣の席に目を向けた。

 バレッタがいるはずのそこには、彼女の食事が手付かずで主の帰りを待っている。

 バレッタは砦巡りから一人離れ、あれからずっと防御塔にいるようだった。

 夕食前にリーゼが一度呼びに行ってくれたのだが、「もう少しだけ」と言ってその場を動こうとしないらしい。

 もう食事が始まってからだいぶ経つのだが、いっこうに戻ってくる気配はない。


「俺、ちょっとバレッタさんのとこ行ってきます」


「……カズラ」


 一良が席を立つと、対面のリーゼが声をかけてきた。


「今日は、ずっと一緒にいてあげて」


 暗い表情でぽつりと言う彼女に、一良は頷いた。




 息を切らせながら、バレッタがいるであろう防御塔へと向かう。

 すでに日は落ちかけており、空は夕焼けから夜の闇へと移り始めていた。

 防御塔にたどり着き、上を見上げる。

 塔の柵に手をかけて彼方を眺めている、バレッタの姿があった。

 何と声をかけようかと思案しながら、階段を上る。


「……」


 バレッタの後ろ姿を前に、一良は立ち止まった。

 どう声をかけたらいいのか、むしろ声をかけていいものかと、言葉に詰まる。


「……私、母のことをほとんど覚えていないんです」


 とりあえず隣に行こうかと一歩踏み出した時、バレッタが急に口を開いた。


「ここで母が死んだんだって。それだけを、あの慰霊碑を見た時にやっと思い出したんです」


「バレッタさん……」


 どう答えていいのか分からず、一良はバレッタの後ろ姿をじっと見つめる。


「おかしいですよね。毎日一緒にいたはずなのに。今までずっと、母の存在すら忘れていたんですよ?」


 バレッタはうつむき、柵に置いた自身の手に目を落とした。


「だから、この景色を見ていれば、もっと何か思い出せるかなって。でも、ダメですね。顔も、声も、何も思い出せない」


 バレッタは息をつくと、少し一良に振り返った。

 今にも消えてしまいそうなほどに儚げな微笑みを、一良に向ける。


「ごめんなさい、すぐに戻りますから。先に――」


 そう言いかけたバレッタを、一良は後ろから抱きしめた。


「……俺も、一緒にいるよ」


「……っ」


 漏らしそうになった声をかみ殺し、バレッタは一良の腕に手を触れた。

 冷え切ってしまった指先が、わずかに温もりを取り戻していく。 


――ああ、そうか。

――だから自分はこんなにも、この人のことを追い求めているのか。


「……どうして……忘れちゃったのかな」


 バレッタは再び、遠目に見える慰霊碑へと目を向けた。

 目の前の景色が涙でかすみ、喉が震えて嗚咽が漏れそうになる。


「どうしてっ……何も思い出せないんだろっ……」


 母と過ごした、優しい想い出。

 母を亡くした、悲しい想い出。

 どれもかけがえのない、自分の中の大切な記憶。

 忘れられるはずがない。

 忘れていいはずがない。

 それなのに、どうして何も覚えていないのか。

 どこかに母の姿を探すかのように、母が斃れたという小高い丘を、バレッタはじっと見つめていた。 




「っくしゅん!」


 防御塔の壁に寄りかかるようにして眠っていた一良は、すぐ目の前から聞こえたくしゃみの音で目を覚ました。

 一良の胸に抱き着くような格好で眠っていたバレッタが、ぶるっと身を震わせて薄っすらと目を開く。


「おはようございます……いてて」


 ぼんやりと顔を上げたバレッタに、一良は微笑んだ。

 こうしてバレッタを抱きしめるような格好のまま、塔の上で一晩を明かしたのだ。

 誰かが様子を見に来てくれたのか、厚手の毛布がバレッタの肩に掛けられている。


「あ、おはようございま……」


 バレッタはそこまで言いかけて、みるみるうちに顔を赤くした。

 そんな彼女に一良は苦笑し、よしよしとその頭を撫でた。

 昨夜、バレッタがここを離れたくないと言ったため、一良はそれに付きあって深夜まで塔の上で過ごしたのだ。

 そのうちバレッタがうつらうつらし始めたので、少し休もうと彼女を抱きしめたまま塔の壁に寄りかかり、そのまま2人して眠ってしまい、今に至る。


「身体、大丈夫ですか?」


「あ、はい! 大丈夫です!」


 ばっと身を起こし、あたふたしながらバレッタが言う。

頬には涙の流れた跡があるが、昨日のような暗い表情はすっかり消えていた。

 すると、そのお腹から「きゅー」っとかわいらしい音が響いた。

 バレッタが慌ててお腹を手で押さえ、さらに顔を赤くする。


「はは、お腹空いちゃいましたよね。朝ごはん食べに行きましょうか」


「うう、はい……」


 よっこらしょ、と2人して立ち上がり、砦へと目を向けた。

 まだ日が昇り始めたばかりのようで、空は若干薄暗い。

 カップラーメンでも食べるか、と考えながら階段を降りようとする一良の腕を、バレッタが掴んだ。


「ん、どうしました?」


「カ、カズラさん、あ、あれって……」


 バレッタは酷く動揺した様子で、バルベール側の斜面を指さしている。

 バレッタの指し示す方向に視線を向け、一良は目を疑った。


「……え? な、何だあれ。何であんなも――」


「伏せてっ!!」


 バレッタに飛びつかれるようにして2人して床に転げた瞬間、すさまじい衝撃と破壊音が頭上を襲った。

 2人同時に、ばっと顔を上げる。

 防御塔の屋根部分が、根こそぎ消し飛んでいた。

 一良は反射的に立ち上がり、飛びつくようにして目の前の柵にしがみついた。


「カズラさん! 塔を降りないと!!」


「ど、どうして……!」


「カズラさん!!」


 バレッタに腕を引っ張られながら、一良が驚愕に目を見開いて震えた声で叫ぶ。


「どうして、あんなところに『平衡錘投石機トレビュシェット』があるんだよ!?」

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