155話:優先順位
同日、深夜。
イステリア郊外の雑木林のなかに、ハベルの姿があった。
ハベルの前には、フードを目深に被った男が1人立っている。
「そうか、これだけ探しても……いや、分かった。もう探さなくていい」
ハベルが懐からずっしりとした布の小袋を取り出し、男に手渡す。
男は布袋の重さを計るように、少し上げ下げした。
「……少し多いようですぜ。こちとら、1人打ち損じてるんですがね」
「とっておいてくれ。その代り、今後もよろしく頼む」
「……こいつは不確実な情報ですがね、あの兄さんに似た人物が、グレゴルン領から船で北に向かったと聞きましたよ」
その言葉に、ハベルが顔をしかめる。
「何だと? さっきはそんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「かもしれないっていうだけで、確証が得られていませんからね。この情報を使うも使わないも、おたくの自由ってことです」
男は布袋を懐にしまうと、木々の間へと消えて行った。
その背を見送り、ハベルも街へ帰ろうと振り返る。
そこで、びくりと身を強張らせた。
「……誰だ」
数十メートル先の木陰に人影があった。
ハベルが声をかけると、その人物はゆっくりとハベルに向かって歩んできた。
「今の人が協力者ですか」
「……バレッタさん?」
闇のなか、聞き覚えのある声がハベルの耳に届いた。
腰に長剣を携えたバレッタが、ゆっくりとハベルへと歩を進める。
「おかしいな、と思ったんですよ」
草木を踏みしめる音を響かせながら、バレッタが口を開く。
「ハベルさん、どうして私たちの側に残ったのかなって」
ハベルはとっさに、周囲に目を走らせた。
歩み寄ってくる彼女以外に、人の気配はない。
「私もカズラさんも、軍事関係については何も教えてないのになって。祝福の力だって、どうしたら手に入るのかも教えていないのに。普通に考えたら、この国に勝算なんてないのになって」
「どうしてここに……」
「マリーちゃんに、あの日の夜はハベルさんが行くまで起きているように言っておいたらしいですね。マリーちゃんから聞きました。そこで、やっぱりおかしいなって感じたんです」
ハベルの質問をさえぎり、バレッタが問い詰めるように語りかける。
「夜の間中ずっと起きてるように指示するなんて、おかしいですよね? いったい何のために?」
「そ、それは、カズラ様に謝罪した後に別れを言いに行くためで……」
「なら、どうして彼女は侍女服を着たままだったんですか? あんな時間に、部屋で待っているように言われただけなのに。普通は私服か寝間着に着替えると思いますけど」
「……部屋の外に出るかもしれないと考えて、その服装でいたのでしょう。特に他意はないですよ」
「そうでしょうか。私には、こうしようとしていたように思えたんですけど」
ハベルの数メートル先で、バレッタは足を止めた。
うっそうとした木々が月明りをさえぎっており、ハベルから彼女の表情をうかがうことはできない。
「本当は、カズラさんを殺してマリーちゃんも一緒にバルベールに亡命するつもりだったんでしょう? だから、ノールさんはこんなにイステリアに近い森のなかでハベルさんたちを待っていたんですよね? マリーちゃんを連れずにただ亡命することだけが目的なら、もっと国境に近い場所か、街から遠く離れた場所でハベルさんと落ち合ったほうが安全ですから」
「な、何を言ってるんです。言いがかりも甚だしいですよ。さっきの男だって、兄上を探すために私が……」
「でも、もし事前に察知された場合も考えて、どう転がっても自分とマリーちゃんの身だけは助かるように手を回していたんですね。時間稼ぎと自分の行動の不自然さを隠すために、アイザックさんに最後の決闘を申し込むような小細工までして。まったく反撃せずに防御に徹していたのは、ノールさんを襲った人たちが屋敷に送ることになっていた伝令の到着まで生き延びるためですね? 結果的にアイザックさんの私兵が連絡を寄越して、余計に不自然さが薄まりましたけど。まんまと騙されるところでした」
「バレッタさん、それは誤解です! いったい何の話をしているのですか!」
叫ぶように、ハベルが言う。
バレッタは彼を見据えたまま、身じろぎもしない。
「城壁から火矢が放たれたのを見た人がいるんです。それも2回も。あの日は嵐でしたから、情報の伝達が上手くいかなかったんでしょうね。カズラさんの部屋までの廊下の一部が水浸しだったのは、アイザックさんに見つかったハベルさんが、窓を開けて外で待機している仲間に何か合図を送ったからですね」
「っ!」
ハベルが言葉に詰まる。
思わず左手を、腰の長剣に添える。
「それで、その火矢の後だと思うんですけど、別の場所からも火矢が上がったのを見た人がいるんですよ。位置は、ノールさんたちがいた辺りから少し離れた場所。私たちが今いる、この辺ですね」
「……」
「アイザックさんの部隊と戦闘になったのは、ハベルさんの私兵でしたよね。火矢の連絡を受けてノールさんを捕えようと現地に向かったら、先にアイザックさんの部隊がいて、双方が相手をノールさんの手引きした兵だと勘違いして戦闘になった、といったところでしょうか。この戦闘はまったくの想定外ですね。どういった指示を私兵に与えていたのかは分かりませんが、ノールさんを殺害したのは私兵とは別で、先ほどの人たちですね。戦闘の混乱に乗じて、私兵に紛れ込ませていた彼らがノールさんたちを殺害したのでしょう。正規の私兵はノールさんの殺害には関与していないと予想しているんですけど、どうでしょうか」
ざあっと風が吹き、揺らいだ木々の隙間から降り注いだ月明りがバレッタを照らす。
彼女は、無表情だった。
「アイザックさんに計画がばれずに、カズラさんを殺して上手く死体を隠せていたら、どうなっていたでしょうね? ノールさんたちの口封じをしなくてもよくなって、皆で一緒にバルベールに逃げられたでしょうか?」
ぎり、とハベルが歯を噛みしめる。
鞘を持つ左手に、力が入る。
その様子を見てもなお、バレッタは微動だにせずハベルを見据えたままだ。
「ハベルさん、もう諦めてください。今投降してくれれば、マリーちゃんの安全は私が保証しますから。ハベルさんのやったことも、誰にも言いません」
「……どうして、分かったのですか? あの状況で、どうして?」
「私、カズラさんが大好きなんです。あの人がいないと、ダメなんです。あなたにとっての、マリーちゃんと同じです」
「……」
「だから、私がハベルさんだったら、大切な人守るためにどうしただろうって考えてみたんです。マリーちゃんと一緒に絶対に助かるようにするには、どんな方法があるのかなって。そうしたら、すぐにたくさんの不自然な点に気づけました」
「……マリーは、このことを知っているんですか?」
「彼女は何も知りません。あなたのことを、信じきっています。まだ少しだけショックが抜け切れていないみたいですけどね。あんなことがあった後じゃ、仕方ないと思いますけど」
「……そうですか」
「ハベルさんのことは、責任を感じて自ら命を絶ったとでも言っておきましょう。一筆書いてもらえれば、それをマリーちゃんやカズラさんに渡しておきます」
「もし抵抗したら?」
ハベルが言うと、バレッタは両手を少し広げて見せた。
「してみます? ここには私しかいませんから、私を殺せば上手く誤魔化せるかもしれませんよ? このことは、誰にも話していませんし」
でも、とバレッタは付け加える。
「もし私を殺し損ねたら、その時は残念ですけど、事実を全部ナルソン様に伝えます。マリーちゃんも死ぬことになりますね。裏切り者の妹で片棒を担いだことになるんですから、許されるはずがありません」
「……もう一度聞きますが、私が投降すれば、マリーは助かるのですね?」
「約束します」
ふう、とハベルが息をつく。
腰からベルトを外し、それごと剣を地面に投げ捨てた。
バレッタは腰にぶら下げていた縄を手に取った。
「地面にうつぶせになって、手は後ろで交差してください」
ハベルは言われたとおり、地面に伏せた。
ゆっくりとバレッタが歩み寄り、ハベルを後ろ手に縛り上げる。
「……ハベルさん、これから自分がどうなるのか、聞かないんですか?」
バレッタの問いに、ハベルが小さく笑う。
「聞くも何も、どこか人気のないところで一筆書かせてから自害させるのでしょう? 生かしておいたら、カズラ様の脅威になりますからね」
「……行きましょうか」
バレッタはハベルを立ち上がらせ、縄を掴んで背中を軽く押す。
「バレッタさん」
数十秒ほど歩いたところで、ハベルがバレッタに話しかけた。
「何です?」
「妹のことを、よろしくお願いします」
「……」
「バレッタさん?」
返事をしないバレッタに、ハベルは立ち止まって首だけで軽く振り返る。
「もちろんです。安心してください」
「脅かさないでくださいよ。騙されたかと勘ぐってしまったじゃないですか」
「人聞きの悪いことを言わないでください。私はあなたみたいな嘘つきじゃありません」
「はは、それもそうですね。あと、もしよければ、もう一つだけお願いを聞いて欲しいんです」
「……言ってみてください」
「カズラ様の持っている本に載っていた、写真というものがあったじゃないですか」
「ありましたね」
「将来、マリーが結婚したら、その様子を撮った写真を、私が埋められている場所に届けて欲しいんです。この目でその姿を見ることは、もう叶いませんから」
「っ……」
バレッタが言葉を詰まらせる。
「……泣いてるんですか?」
「泣いちゃ……ダメですか?」
「……いえ。こんな私のために、ありがとうございます」
ハベルは再び前方に顔を向けると、歩き始めた。
だが、縛られている腕の紐が引っ張られるのを感じ、再び足を止めた。
「バレッタさん?」
「……どうして、こんなことを?」
「それはさっき、バレッタさんが話していたと思いますが」
「そうじゃなくて……どうして、そんなにマリーちゃんが大切なんですか? マリーちゃんは奴隷の子として、ハベルさんとは別々に育てられていたんですよね? 接点なんて、ないに等しいじゃないですか」
「……マリーは、私と同じなんですよ」
ハベルが、空を見上げる。
木々のわずかな隙間から、輝く星がのぞいていた。
「私は、いてもいなくてもいい存在でした。私には、家と父、そして兄の名に傷が付かないようにすることしか求められていませんでした。別に私がいなくても、あの家は何も困らなかったんです。優秀な兄が、ルーソン家のすべてを担っていましたからね」
バレッタは黙って、続きを待つ。
ハベルはうつむき、暗い地面に目を落とした。
「成長するにしたがって、兄と私の扱われ方の差はより顕著になりました。兄は父に連れられて、文官としてめきめきと才覚を現していきました。家族の間でも、話の中心はもっぱら兄です。私の話なんて、ほとんど出たことがありません」
「……」
「そんななか、マリーが生まれました。同じ父を持ちながら、私よりはるかに酷い扱いを受ける存在が現れたんです。マリーを見て、子供心に私は思いました。『自分より哀れな存在ができた。彼女なら、この気持ちを分かってくれる』と」
ハベルはバレッタに目を向け、少し微笑んだ。
自嘲しているような、そんな力のない笑みだ。
「要は、自分の存在意義が欲しかったんです。自分無しじゃダメだと思ってくれるような、心の底から自分を必要としてくれるような、そんな存在が欲しかった。だから、私はマリーに懐いてもらえるように、『妹』という言葉を振りかざしてことさら干渉しました。血筋に誇りを持っている兄とは何度も険悪になりましたが、自分を苦しめてきた者に反抗しているっていう気がして、気分が良かったですね」
「ハベルさん……」
「幻滅したでしょう? それだけのことで、私はカズラ様を、ジルコニア様を、アイザック様を、そしてマリーを利用してきたんです」
「……そして、これからも利用し続けるつもりだった」
「ええ」
「マリーちゃんのこと、愛していますか?」
「はい。庇護欲と自己満足の延長かもしれませんが、自分の命より大切な程度には」
ふう、とバレッタはため息をつく。
ハベルの肩に手をかけ、背中を向かせた。
鞘から、長剣を引き抜く。
「……バレッタさん?」
「動かないでください」
ぶちぶちと、ハベルの手首を絞めていた縄を切った。
怪訝そうに、ハベルが振り返る。
切なげな顔をしたバレッタと、目が合った。
「このことは、私たちだけの秘密です」
「……許すのですか?」
「許しません。でも、許します」
「何ですかそれは」
きつく締められた痛みが残る手首を撫でながら、ハベルが呆れたように言う。
「あなたはもう、裏切りません。それが分かったから、縄を解いたんです」
「……本当に裏切らないと? 機をみて、今回のような真似をするかもしれませんよ?」
「もしそんなことをしたら、地の果てまででも追いかけて、私がこの手でマリーちゃんを殺します」
「……」
「あと、私の身に何かあったら、ハベルさんのしたことをすべて綴った手紙がマリーちゃんに届くようにしておきます」
「それは裏切れないですね」
「裏切らないでください」
少し笑うハベルに、バレッタが顔をしかめる。
「大丈夫です。裏切りませんよ」
ハベルが答えると、バレッタは踵を返して歩き始めた。
「バレッタさん」
ハベルの呼びかけに、バレッタが足を止める。
「ありがとうございます。あなたは優しい人ですね」
「……」
バレッタは何も答えず、森のなかへと消えて行った。