154話:元気を出して
十数日後の夕方。
一良は自室でソファーに腰かけ、膝の上で分厚い本を広げていた。
本の内容は、古代ローマ帝国の興亡の歴史を取り扱ったものだ。
当時の人々の暮らしぶりや、ローマ人たちが外敵とどう渡り合ってきたかについて記されている。
「たっだいまー! 疲れたー!」
時間も忘れて読みふけっていると、部屋の扉が開いてリーゼが入ってきた。
いつものようなドレス姿ではなく、鎧下だけのぴっちりとした服装だ。
髪はお団子頭を解いたばかりのようで、緩やかなウェーブがかかっていた。
「お帰り。お疲れさん」
「あれ、バレッタは?」
「まだ帰ってきてないな。いろいろと立て込んでるみたいで、帰ってきてないんだ」
ルーソン家の離反騒動があった翌日から、バレッタは毎日夜中まで外出し、屋敷に戻ってこないようになっていた。
アロンドの抜けた穴を埋めるために奔走しているとのことなのだが、一良たちが手伝いを申し出ても『大丈夫』と断られてしまっていた。
「そっか……最近ずっと夜中まで帰ってこないし、大変そうだよね。やっぱり、明日からは私も付いて行くようにするよ。技術的なことは無理でも、ちょっとした手伝いくらいならできると思うし」
リーゼは一良の下へ来ると、すとんと左隣に腰を下した。
横から、一良が読んでいる本をのぞき見る。
「うわ、すっごい分厚い本だね。もしかして戦争の本? なんか怪物みたいなのも描いてあるけど」
開かれたページには、象を取り囲む大勢の兵士たちが描かれていた。
鎧をまとった戦象が数名の兵士を背に乗せて、剣や槍を手にした兵士たちの中心で大暴れしている。
「戦争の本っていうか、歴史の本だな」
「歴史? 神様の国の歴史なの?」
「まあ、そんなところだ。それはローマ帝国っていう国に焦点を当てた歴史の本だな」
「そうなんだ……この怪物は何?」
「それは象っていう生き物で、人の背丈の何倍もある生き物でだな」
リーゼは本の内容に興味が湧いたらしく、描かれているイラストについてあれこれと質問をし始めた。
一良は文章を読みながら、その質問に答えていく。
「へえ、神様の世界も、私たちと同じような戦争をしてたんだね。戦い方も結構似てるし」
「そうだな、似てるっちゃ似てるな」
「どうしてこんな本を読んでたの?」
「んー、何か参考になるものはないかと思って」
「武器とか戦術とか?」
「それもだけど、土壇場になった国がどういう動きをするのかとかかな。ノールさんもアロンドさんもいなくなっちゃったし、グレゴルン領との連携もどうなるか心配だ」
あれから、アロンドの消息は途絶えたままだった。
どうやら事件の数日前からグレゴルン領へ向けて出発していたらしいのだが、肝心のグレゴルン領へ到着した後の消息がまったく分からないらしい。
「そっか……バルベールに技術が流出したってことだもんね。アロンドがいなくなったってことは、製粉機とか新型ハーネスとか、あっちも手に入れたってことだよね」
「……まだ、そうだと決まったわけじゃない」
本を持つ一良の腕に、リーゼがするっと自身の腕を絡める。
「おわ、何すんだお前……って身体冷たいな!」
「もう全身ガチガチだよ。耳とかほっぺたなんて、氷みたいになってるし」
「ああ、今日は部隊指揮の訓練をしてたんだっけか」
「うん。ずっとラタに跨ってたから寒くて。鎧はキンキンに冷たくなるし、剣も柄が氷みたいだし」
「コートとか羽織ってないのか? てか、指揮の訓練なのに剣も使うのか」
「外套は付けてるけど、指示出す時に剣を振り回してはだけちゃうからほとんど意味ないの。雪はずっと降ってるし、寒くて死にそうだった」
そう言いながら、リーゼは一良の肩に頬をくっつけた。
絡めていた腕を解き、氷のように冷たい手を一良の上着の下に滑り込ませる。
「うひいっ!?」
「へっへっへ。兄さん、いい身体してますねえ」
「や、やめろ! マジでやめろ! 冷たい!!」
「私の手が温まるまで我慢なさいな」
「手が冷たいなら暖炉に当たればいいだろ!」
「えー。あったかいし、いい匂いするし、カズラのほうがいいなあ。夜寝る時も、湯たんぽじゃなくてカズラがいいな」
リーゼたちには、この間日本に戻った時に買ってきた湯たんぽを1つずつ渡してあった。
この世界には湯たんぽのような道具は存在していなかったようで、使い方を説明すると皆が「その手があったか!」と膝を打っていた。
持ってきたうちの1つがすぐさまサンプルとして陶器職人の下へと届けられ、今では日に数十個単位で生産されているとのことだ。
「ひっ! や、やめろ! まさぐるな!」
「別にいいじゃん、減るもんじゃないし。いひひ」
「手つきがいやらしいんだよ、お前は! かわいい顔しておっさんみたいなこと言うな!」
「褒められた!」
「褒めてないよ!?」
まとわりつくリーゼから逃れようともがく一良の膝から、本がばさりと床に落ちた。
それを拾おうと床に伸ばした一良の腕を、リーゼが掴む。
リーゼはそのまま、ぐいと一良をソファーに押し倒した。
「うわっ、何すん……」
「最近、元気ないよね」
押し倒した態勢のまま、リーゼが一良を見下ろす。
「……そんなことないぞ」
「あるよ。私、いつもカズラのこと見てるもん」
ぎしっ、とソファーが軋む音が部屋に響く。
「カズラは悪くないよ。いろんな人にあっちこっち仕事を振り分けないといけないのは仕方のないことだし、完全に信用できる人間だけで全部をこなすなんて無理なんだから」
「……」
「あなたのせいなんかじゃない。あんまり思いつめないで」
心の中を見透かすような眼差しに、一良は何も言うことができなかった。
この娘はどうしていつも、自分の考えていることを簡単に見抜いてしまうのか。
「今回はたまたま、運が悪かっただけだよ。ルーソン家の裏切りなんて分かりようがなかったんだし、元々アロンドは優秀だったから仕事を任せることにしたのも当然だったし」
アロンドが姿を消した際、彼の今後の業務予定についてこと細かにまとめられた資料が、綺麗に整頓されてまるごと彼の部屋に残されていた。
バルベールに亡命するというのになぜそんなものが残されていたのかと一良は疑問に思ったのだが、ハベル曰く、『亡命に失敗して途中で捕えられた場合に備え、亡命するつもりなどなかったと言い訳するための証拠づくりではないか』とのことだった。
従者や使用人をわずか数人しか連れて行かなかったのも、亡命を察知されることに万全を期したのだろうとのことだ。
なくなっていた物もいくつかある。
彼が保管していた、製粉機、唐箕、鉱石粉砕機、スクリュープレス、ハーネスの設計図の複写図だ。
図面を複写した職人に保管者がアロンドであるという裏付けを取ったので、それらの図面が持ち出されたのは確実である。
高炉の設計図や手押しポンプ、鍛造機などの工作機械類の設計図は外部への持ち出しが禁止されており、彼の手には一度も渡っていない。
工作機械の製造には複数の工房が個々に部品を製造しているため、それらの職人から個々に図面を得ようとしても非常に手間がかかるうえに、その行動がバレッタの耳に届く可能性が非常に高く、アロンドからしてみればリスクがありすぎるのだ。
アロンドが工作機械類の設計図を持ち出した可能性は低いという事実が判明した際、ジルコニアとナルソンが心底安堵したような表情を浮かべていたことを、一良はよく覚えている。
「……でも、もっと役割を細分化して関わる人間を隔離しておけば」
「でもとか禁止。過ぎたことは仕方ないんだから」
「お、おう」
リーゼはくすりと笑うと、一良の頬に手を添えた。
「一人で無理しないで。どうしても嫌になったら、全部投げ出しちゃえばいいんだし」
「な、投げ出すってお前、そんなことできるかよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「神様だから、助けてくれるの? この国の人たちが祈りを捧げる、慈悲と豊穣の神様だから?」
「……違う。そうじゃない。そうじゃないんだ」
リーゼが微笑んだまま、小首を傾げる。
「俺は、神様なんかじゃない。別の世界からきた、ただの人間だ」
「うん」
「うん、っておまえ……」
「やっと、教えてくれたね」
リーゼはにっこりと微笑み、一良の頭をよしよしと撫でる。
「……驚かないんだな」
「何となくだけど、そんなところなんだろうなって思ってたからね。カズラ、全然神様っぽくないし」
「う……ま、まあそうだよな……てか、怒らないのか? 今までずっと騙してたのにさ」
「怒らないよ。こんなにも私たちのために一生懸命になってくれてるあなたを、怒れるわけないじゃない」
リーゼは一良の頭を撫でていた手を、その頬へと添えた。
愛おしそうに、指先で優しく頬をなぞる。
「誰でもさ、辛いこととか苦しいこととか、全部1人でなんて背負い込めないよ。弱音を吐ける相手がいないと、いつかは潰れちゃうと思う」
「……そうだな」
「というわけで! これからはカズラの弱音でも愚痴でも、このリーゼさんが全部聞いてあげます! 秘密は厳守するので心配ご無用! お酒飲みながらでも問題ないよ! 私、絶対に酔い潰れないから!!」
身を起こし、自身の胸をどんと叩いて言い放つリーゼ。
その妙な振る舞いに、一良は思わず笑ってしまう。
「お前なあ……いや、ありがとう。気にかけてくれてさ」
「だから、そんなの気にしなくてもいいって。ちゃんと相談料も貰うから」
「え、金取るのか」
「お金じゃないよ。あ、でも、少しお金も必要かな」
そう言い、一良の腕を掴んで引き起こす。
「遊びに行こ! カズラのおごりで!」
「え、遊びにって、もう夕方だぞ? そろそろ夕食……」
「外で食べればいいでしょ! 今日は夜まで遊ぶの!」
リーゼは一良の手を引っ張り、無理やりソファーから立ち上がらせた。
「わ、分かったから引っ張るなって。ていうか、その恰好で行くのか?」
「時間がもったいないもん。このままで何か上に一枚羽織っていくよ。ダメかな?」
「まあ、お前がそれでいいならいいけど……」
「やった! 行こ行こ!」
一良は苦笑しながら、手を引かれて扉へと向かう。
「リーゼ」
リーゼがドアノブに手を掛けたところで、一良が声をかけた。
彼女が振り返り、小首を傾げる。
「ありがとな」
「……にひひ」
「な、何だその笑い方は」
「気にしない気にしない。ほら、行くよー!」
すこぶる機嫌の良い声でリーゼは答え、勢いよく扉を開けるのだった。