148話:逆鱗
数日後の深夜。
一良は自室で一人、工作作業に勤しんでいた。
中央部分を水に漬けた薄い板を暖炉であぶり、じわじわと曲げる。
先に曲げておいたもう1枚の板と重ね合わせ、中心を出す。
「むう、少しずれてるな。同じように曲げるのって難しいんだな……」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら、ノートパソコンの画面に目を向ける。
そこには、持ってきた書籍を参考にしながら描き上げたクロスボウの図面が表示されていた。
「……」
マウスをカチカチと操作し、別の資料を開いた。
画面に映し出された資料の端には、『グリセア村徴兵名簿』と記載されている。
数十人の名前と年齢が羅列されており、その中の半数ほどの名前には戦死(病死含む)を示す線が引かれていた。
一番上にはバリンの名前が書かれており、その下には『シータ』という名前が書かれていて、線が引かれている。
バレッタの母親の名前だ。
一良は息をつくと、気を取り直して作りかけのクロスボウに目を戻した。
「意外と作るのに手間がかかるなぁ。……よし」
パーツを何とか組み合わせ、クロスボウ試作1号機が完成した。
弓部分は、薄い板を2枚重ねにして蝋と樹液を混ぜて作った接着剤で接合したものだ。
板は1枚ずつ火で炙って全く同じように曲げ加工しなければいけないため、工作素人の一良にとってはかなり難しい作業だった。
持ち手の部分は木材を削って持ちやすくしたもので、後方に引き金が付いている。
弓部分と持ち手部分の接合には釘を用いた。
「よし、試し撃ちしてみるか。ちゃんと飛ぶだろうか」
用意しておいた木製の矢を持ち、弓の弦を掴んだ。
力を込めて引っ張り上げ、引き金の留め具にセットする。
中心に丸が書かれた板を壁際に置き、数メートル離れたところから狙いを定めて引き金を引いた。
勢いよく矢が射出され、鈍い音とともに板の端に突き刺さった。
「あれ、思いっきり的の中心から外れてるな……軸がずれてるのかな」
その場にしゃがみ込み、ぶつぶつと独り言を言いながらお手製クロスボウをこねくり回す。
しばらくそうしていた時、ふと背後に気配を感じて、一良は振り返った。
目の前数センチの位置に、エイラの顔があった。
「おわあっ!?」
「ひゃあっ!?」
一良の上げた大声に驚き、エイラがのけぞる。
「エ、エイラさん、いつの間にそこにいたんですか。心臓が止まるかと思いましたよ」
「も、申し訳ございません。扉をノックしたのですが、ご返事がなかったので……入室した際もお声がけはしたのですが、お気づきになられなかったので……」
「マジですか。すみません、集中しすぎてたみたいで全然気づきませんでした……で、何か用ですか?」
「あ、えっと……調理場にお越しにならないので、どうしたのかな、って……」
少し気恥ずかしそうに、エイラが言う。
一良はベッド脇に置いてある時計に目を向た。
針は、間もなく深夜1時を指そうとしている。
「うわ、もうこんな時間だったのか。すみません、待たせちゃいましたね」
「あ、いえ、私が勝手に待っていただけですから。カズラ様は、まだお仕事をされるのですか?」
「んー、そうですね。あと少しだけやろうかな。あ、でも、お茶もしたいな……」
「では、ここでお茶にいたしましょう。お菓子も持ってきてあるので、よろしければ召し上がってください」
そう言って、エイラはテーブル上の銅のピッチャーを手に取った。
どうやら、調理場からお湯を持ってきていたようだ。
陶器のティーポットにお湯を注ぎ、茶葉が煮だされるのを待つ間に菓子の乗った皿をテーブルに並べた。
今日の茶菓子はガレット(小麦粉にバターをたっぷり混ぜて焼き上げたお菓子)だ。
「お、ガレットですか」
「はい、昨晩見せていただいた本のものがとても美味しそうだったので、さっそく作ってみました」
初めて深夜のお茶会をした数カ月前の日から、一良が外出している日を除けば、2人は一晩も欠かすことなくお茶会を行っていた。
別段2人で示し合わせているというわけではないのだが、お互いが気を遣い合って調理場に顔を出しているうちに、いつしかそれが当たり前になってしまったのだ。
昨晩は一良がお菓子のレシピ本を持ってきて、それを2人で読みながら1時間近くだべっていた。
「これは美味しそうですね。バターはエイラさんが作ったんですか?」
「いえ、マリーちゃんにお願いして作ってもらいました。でも、作ってるうちに人が集まってきちゃって……」
エイラは今日の昼休み中にマリーに頼んで、ミャギのミルクからバターを大量に作ってもらっていた。
バターの作り方は至極単純で、生乳を煮詰めると浮いてくるクリーム状のものを集め、それを密閉された容器に入れてぶんぶんと何度も振るのだ。
そうすると、べちゃっとした半固形状のものと水分とに分かれるので、半固形状のものを取り出して塩を混ぜ、数時間冷やせばバターの完成である。
ちなみに、バター作りは今回が初めてではなく、数か月前に調理場で一良とエイラとマリー、そして複数の侍女たちを交えて作ったことがあった。
その時も容器を振る係はマリーだった。
「またバターを作ってるって言ったら、皆が自分も使いたいって言いだしたんです。しばらくはマリーちゃんが作ってくれてたんですけど、お昼休みが終わった後は見学していた警備兵さんがやることになって……『こんな大変な作業、マリーちゃんよく出来たな!?』って驚いてました」
バターを作るために容器を振る作業は、かなりの重労働である。
マリーのように身体能力が強化された人間でなければ、連続して作り続けるのは大変な作業だろう。
「ああ、あれはきついですからね……あの、さっきはお茶したいなんて言いましたけど、時間大丈夫ですか? 明日も朝早いんじゃ……」
「私、明日はお休みなんです。特に予定もありませんし、夜更かししても大丈夫です」
「あ、そうなんですか。お休みなのか、いいなあ」
「カズラ様も、たまにはお休みを取られたほうがよろしいのでは」
「うーん、ナルソンさんたちが全然休まないんで、自分だけっていうのも気が引けるんですよね」
一良が言うと、エイラは心配そうな顔になった。
「あまりご無理はされないでください。一日が無理なら半日だけでも、お仕事から離れてゆっくりする時間を取られたほうがいいですよ」
「そうですねぇ……今度、皆を誘って一日休みにすることを提案してみますか。皆でどこか出かけるとかじゃなくて、自由にダラダラ過ごすってことで」
「それがいいですよ。あと、バレッタ様はここ最近酷く疲れているように見えるので、早めにお休みの提案をしたほうがいいと思います」
「え、バレッタさんが?」
驚いた様子で聞き返す一良に、エイラは「やっぱり」と苦笑した。
「はい。ここ数日、ぼうっとしていたりため息をついていたりすることが多いように感じます。声をかけても「大丈夫」としかおっしゃらないので、心配で」
「マジですか……ううむ、全然気づかなかったな」
「カズラ様の前では努めて元気に振舞っている様子でしたから、仕方ないですよ。きっと、心配をかけたくないのだと思います」
「そうだったんですね。教えてくれて助かりました。彼女、いくら疲れてても際限なく頑張っちゃうみたいなんですよね。気を付けないと」
その後、何だかんだで夜中の2時過ぎまで、2人はだべっていた。
さすがにそろそろ寝なければ、ということで、食器を片付けてエイラが席を立つ。
「遅くまでお邪魔してしまい、申し訳ございませんでした」
「いえいえ、こっちこそお茶に付き合ってもらったうえに片付けまでお願いしちゃってすみません。お菓子、すごく美味しかったですよ」
「ふふ、ありがとうございます。また今夜、何か作ってきますね」
エイラはそう言って微笑むと、壁に立てかけてあるクロスボウへと目を向けた。
「カズラ様、くれぐれもご無理はされませんよう。何かお手伝いできることがあれば、言ってくださいね。私、何でもしますから」
「ありがとうございます。あと、これのことは……」
「大丈夫です。バレッタ様や、もちろん他のかたにも話したりはしませんので、ご安心ください。では、失礼いたします」
そう言ってぺこりと一礼すると、静かに部屋を出て行った。
「……うーん、あの人には敵わないな。ほんと、頭が上がらない」
ぽりぽりと頭を掻き、再びクロスボウを手に取った。
それから数日後の午後。
小雪の舞う高級商業区画を、バレッタは小走りで駆けていた。
厚手のコートを着込み、手には大きな木のカゴをぶらさげている。
カゴの中には、フライス領産の最高品質のパン麦粉の大袋が1つ。
その他に、あちこちの店を探し回って買い集めたドライフルーツや木の実が入っている。
「今夜のうちにバターとカッテージチーズ(温めた生乳に酢を混ぜるだけで作ることができるチーズ)も作ろうかな。果実酢、確か調理場にあったよね」
バレッタはうきうきとした様子で、次の店へと急ぐ。
明日は、丸1日休みである。
何日か前に突然一良が「皆で休みを取ろう」と言い出して、賛否両論(ナルソンだけが最後まで渋っていた)が出た末に、全員が1日休暇を取ることが決定した。
マリーやハベル、アイザックとエイラも休みを取ることになり、各々好きに過ごすようだ。
突然降って湧いた休日に、バレッタはどうしようかと考えた末、1日中料理をして過ごすことに決めた。
普段から一良のために食事を作ってはいるが、仕事も兼任しているうえにマリーも一緒に短時間で作業を行うため、あまり凝った料理を作ることができずにいた。
なので、明日1日を使っていろいろな料理に挑戦し、レパートリーを広げようと計画したのである。
ちなみに、今持っている材料で作ろうとしているのは、カッテージチーズを使ったチーズケーキだ。
「やあ!」
「うひゃあ!?」
トコトコと走っていると、急に背後から両肩を掴まれた。
驚いて振り返ると、そこには笑顔のアロンドがいた。
「ア、アロンド様……」
「いやあ、こんなところで奇遇だね……って、そんなに嫌な顔しなくてもいいじゃないか。傷付くなぁ」
あからさまに表情を曇らせたバレッタに、アロンドが肩をすくめて苦笑してみせる。
「あ、いえ、そんなことは……あの、どうしてここに?」
「どうしても何も、たまたま買い物に寄ったらキミを見かけたから声をかけたんだよ。ほんと、偶然だよね」
「そ、そうですね」
「キミも買い物かい? パン麦粉に干した果物……あ、分かった。フルーツケーキかクッキーを作るんだろ?」
「はい。そんなところです」
若干表情を引きつらせながら、バレッタが答える。
十数日前に引き抜きの誘いを断ってからというもの、仕事や食材の買い出しで外出すると、ほぼ必ずアロンドと遭遇するのだ。
今日は会わずにほっとしていたのだが、結局こうして捕まってしまった。
「今から帰って作るのかい?」
「いえ、作るのは明日です。おやつ時に合わせて作ろうかなと」
「お、いいねえ。俺も明日は用事があって屋敷に行くんだけど、食べにお邪魔してもいいかな?」
「は、はい」
断るわけにもいかず、やや引きつった笑みを浮かべてバレッタは頷く。
「まだ何か買うものはあるの?」
「はい。アルカディアン虫を20匹ほど」
「アルカディアン虫? 今の時期だと、かなり手に入りにくいんじゃないかな?」
「そうなんですが、どうしても欲しくて。カズラさんの大好物(だとバレッタは思っている)なので」
「ふーん……」
あえて一良の名前を出したバレッタに、アロンドは薄い反応を返す。
アロンドとは仕事で繋がりがあるため邪険に扱うわけにもいかないうえに、バレッタから見ればかなり目上の人間なので強く言うこともできない。
なので、何とか諦めてもらおうと事あるごとに一良を引き合いに出しているのだが、彼は一向に諦める様子がない。
しいて変わった点といえば、一良の名前を出すとやや不機嫌そうな様子が見られるようになってきたことくらいだ。
「まあ、買い物が終わるまで付き合うよ。食用虫の品ぞろえがいい店を知ってるから、そこに行こうか」
「は、はい」
半ば強引に話を纏められ、バレッタは仕方なくアロンドに付いていくことにした。
以前のように強引にあちこちに連れ出されることはなくなったものの、こうしてアロンドはバレッタに付きまとうようになっていた。
自分の仕事はしなくていいのかとそれとなく聞いたこともあるのだが、彼曰く「問題ない」とのことらしい。
一度断っているにもかかわらず、こうしてしつこく付きまとわれ、バレッタはかなり困っていた。
あれやこれやと話題を振られ、適当に返事を返しながら商業区画を進む。
そうして目当ての店にたどり着き、2人して店内に入った。
「いらっしゃいま……アロンド様! ようこそいらっしゃいました!」
棚の商品をチェックしていた店員の若い女は、アロンドを見ると深々と礼をした。
アロンドと高級商業区画へと出かけると、行く先々で出会う人々の多くがこの店員と同じような反応を取る。
リーゼほどとまではいかないにしろ、アロンドもかなり顔が広いようだ。
「やあ、久しぶり。アルカディアン虫を探してるんだけど、あるかな?」
「アルカディアン虫ですか。サナギでよろしければ少しありますよ」
「だってさ。どうする?」
「うーん、サナギですか……」
アルカディアン虫は真冬の間にサナギになり、春になると成虫へと羽化する。
成虫は直径15センチほどの枯れ枝のような色をした、ナナフシのような見た目だ。
サナギも食べることができるが、あまり美味しくはない。
成虫は硬すぎて食べることはできない。
「クロコ虫の成虫とかどうだい? 油で揚げたやつとか、そこそこ美味しいと思うけど」
「いえ、幼虫のペーストをケーキの生地に混ぜたいので、まろやかでコクがある虫がいいんです」
「それなら流木虫は? あれならどの時期でも幼虫は採れるし」
「あれはコクはありますけど、苦みが少し強いので……それに、ちょっとだけ泥臭いような風味がありますし」
「あー、確かに。俺も昔、ハベルと川遊びしてた時捕まえてよく食べたけど、ハベルは嫌な顔してたなぁ。俺は好きなんだけどね」
「それなりに美味しいんですけどね。焼くと苦みは消えるけど余計に臭みが増しますし、ちょっとケーキには入れられないかなと」
「そっか、焼くから生でってわけにはいかないのか」
「はい、なのでどうしようかなって」
「うーん。じゃあさ……」
あれこれと2人で虫談議をしていると、店員が微笑ましそうに見ているのにバレッタは気が付いた。
いつのまにかアロンドに寄り添われていることに気づき、慌てて一歩距離をとる。
「え、えっと、やっぱり虫は諦めます。ありがとうございました」
そう言ってぺこりと店員に頭を下げ、慌てて店を出るのだった。
「じゃあ、何か代わりのものを探しにいこうか。この先に、贔屓にしてる果物屋があるんだ」
「あ、あの、やっぱり今日はもう帰ろうかと……」
肩を抱こうとしてくるアロンドの手を遠慮がちに拒みながら、バレッタが言う。
「まあまあ、そう言わずに行ってみようよ。美味しいケーキを作るなら、美味しい食材が必要だろ?」
「でも、そろそろカズラさんの夕食の用意をしないといけないので」
「それはマリーに任せておけばいいじゃないか。それより、たまには俺と一緒にどこかで食べていこうよ」
「いえ、カズラさんのごはんは私が作るって決めてるんです。なので、帰らないと」
「……あのさ」
バレッタが頑なに断っていると、アロンドが目付きを鋭くした。
「いくらなんでも失礼すぎるだろ。自分の立場が分かってて、そのうえで俺をコケにしてんのか?」
「っ、い、いえ! そんなつもりでは!」
顔つきと口調をがらりと変えたアロンドに、バレッタは青ざめた。
今までの優しげな雰囲気は完全に掻き消え、声色も目付きも酷く冷たい。
「平民の分際で何度も俺の誘いを断るとか、無礼にもほどがあるだろ。ナルソン様のお墨付きだからと俺も丁寧にしてたが、こっちだって我慢の限度ってもんがあるんだぞ。一度くらい誘いに乗るのが礼儀だろうが」
「も、申し訳ございません……」
「いつもいつも、カズラさんカズラさんって……彼はリーゼ様と結婚するって前にも言っただろ。固執しつづけたってバカみるだけだぞ。隙を見てどうこうできるほど、リーゼ様は鈍くない。たとえ想いを遂げたとしても、酷い目に遭うのはキミなんだ」
「……」
叱責するように言われ、バレッタは押し黙った。
口を閉ざして視線を落とすバレッタに、アロンドは不機嫌そうにため息をつく。
「だいたい、あいつの何がそんなにいいんだ? 確かに知識はそこそこあるようだが、そこまで魅力的な男か? 周りをよく見てみろ。あの程度の男なんざ、世の中ごまんといるぞ。そこまで執着するようなレベルの相手じゃないだろ」
「……何を言っているんですか?」
バレッタが、ゆっくりと顔を上げた。
鋭い目つきになった彼女に、アロンドは再び顔をしかめる。
「あんなの、リーゼ様にくれてやっちまえって言ってるんだよ。クレイラッツの有力者だかなんだか知らないが、別に大した男じゃないだろ。喧嘩のひとつもしたことないような顔してるし、頭の回転だって速くもなんともない。下々のやつらにもやたらと丁寧に接するから使用人たちには人気があるみたいだが、あれはリーゼ様みたいに計算づくで取ってる行動じゃない。ただのお人よし、言い換えれば自分の武器も上手く扱えないバカだろ」
「ふざけないでください!!」
叫ぶように言ったバレッタに、まばらに周囲を歩いていた人々がぎょっとした様子で視線を向ける。
バレッタのあまりの剣幕に、ある程度反発するだろうと予想していたアロンドもたじろいだ。
「あなたにあの人の何が分かるっていうんですか!? 何も知りもしないで、勝手なこと言わないでください! あなたなんかよりよっぽど頭もいいし、あなたみたいな人の痛みも分からないような人と違って、カズラさんはとても優しい人なんです! 発言を撤回してください!」
「おーおー、言ってくれるじゃないか。あいつの代わりにキツイ仕事や汚れ仕事をやってやってるのは俺なんだぞ。感謝されこそすれ、貶されるような覚えはないな。キミは自分の理想をあいつに投影して、そういう人間だって思い込んでるだけなんじゃないのか? どういう経緯でイステリアに来ることになったのかは知らないが、どうせ村でくすぶってる時にあいつにたまたま目に止められて、取り立てられたか何かだろ? 舞い上がって、叶いもしない夢を見てるだけなんだよ」
そう言い、バレッタの腕をぐいと掴む。
「俺のものになれ。好きなだけ贅沢させてやるし、やりがいのある仕事が欲しいなら何だってやらせてやる。さっきは平民の分際でなんて言っちまったが、俺のところに来るなら正妻として迎えてやってもいい。家族ごと、一生貴族としてこの街で暮らせるように手を回してやる」
「お断りします。死んでもあなたのものになどなりません。私はずっとカズラさんの傍にいるんです」
バレッタは掴まれた腕を払いのけ、怒りのこもった眼差しでアロンドを睨みつける。
「俺の話を聞いていなかったのか? 傍にいるったって、あの用心深いリーゼ様がいつまでもキミを近くにいさせるわけないだろ。キミの願いは叶わないんだよ」
「そんなこと関係ありません。私は絶対にあの人の傍を離れません」
「どうしてそこまであいつに固執するんだ? あいつじゃないとダメな理由でもあるのか?」
「……あなたは絶望の淵にいる時に、手を差し伸べられたことはありますか?」
アロンドは睨みつけてくるバレッタを怪訝そうに見つめ、黙って続きを促す。
「何日も何十日も、お椀一杯分の薄いスープだけで過ごしたことは? 大切な人の命が消えそうなのに、何もできずに見ていることしかできなかったことは? 次々と病に倒れていく仲間たちを見て、自分の番はいつくるのだろうと、ただぼうっと考えたことは?」
ぎりっ、と、バレッタは音がしそうなほどに歯を噛みしめてアロンドを睨む。
「あの人はそんな私を、私たちを救ってくれた。絶対に手に入らないと思っていたものを、すべて与えてくれた。見返りなんて何もないのに、恩返しなんて何もできないのに、すべてを与えてくれたんです」
バレッタの瞳に、さらに怒りがこもる。
その瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「あの人は、同じ目線でずっと私を見守ってくれた。自分のことそっちのけで、私の身を案じて駆けつけてくれた。あの人は、私にとってのすべてです。あの人を貶したりバカにしたりする人を、私は絶対に許さない!」
「ふーん」
怒りに身を震わせるバレッタに、アロンドは何の感慨もない視線を向ける。
「要は、死にそうなところを救ってもらったから好きってことか。そんなことで好きになってもらえるなら、俺もあちこちの村を回っていい女を探しておくんだったな」
「何をバカなことを言ってるんですか! そんな単純な話じゃありません!」
「いいや、単純な話だろ。さしずめキミは、窮地を救いに現れた英雄に恋する乙女ってところか。別に助けに現れたのがあいつじゃなかったとしても、結果は同じだっただろうよ。俺が同じことをしてたら、キミは俺のことを好きになってたわけだ」
「あなたみたいな人がカズラさんと同じことなんてできるわけありません! 物事を損得だけで考えるあなたとカズラさんは全然違います!!」
「はっ、何を言ってるんだか。あいつにできて、俺にはできないだって?」
「できません。絶対に」
「言い切るねぇ。ま、いいさ」
そう言うと、アロンドは周囲に目を向けた。
立ち止まって2人のやり取りを見ていた数人の通行人が、慌ててその場を後にする。
「今日のところは諦めよう。また今度、夕食でも一緒にとろうよ。もちろん、2人きりでね」
「嫌です。お断りします。私はあなたが大嫌いです」
「まあ、そう言うなよ。それに、その時はきっと受けてくれるさ」
手をひらひらと振り、アロンドは去って行った。
バレッタはしばらくの間、彼の背を睨みつけていた。