145話:私があなたの立場なら
それから数十分後。
たっぷりとハーブティーを飲んだアロンドは、すっかり体調を持ち直していた。
真っ赤だった顔色も元に戻り、若干まとまりがなくなっていた言動も正常な受け答えできるようになっている。
アロンドはコップをテーブルに置くと、ふう、と息をついた。
「貴重なお薬を分けていただき、ありがとうございました。これほど効く薬があるとは……おかげで、すっかり良くなりました」
「よかった。今日はこのまま家に帰って、暖かくしてゆっくり休んでください。体も疲れてると思いますし」
「いえ、私はこのままもう一度宴に行ってまいります。まだ挨拶がほとんど終わっていないので、急がなければ」
「えっ、また行くんですか!? 今日はもう帰って休んだほうが……」
驚く一良にアロンドは苦笑を向け、立ち上がった。
「いえ、そういうわけにもいかないんです。こればかりは、やらずにおくというわけにはいかないので……カズラ様は、宴には出ないのですか?」
「えっと、私はああいった場所が苦手で……」
「そうですか……あの、失礼ですが、まだ一度も顔を出していないのですか?」
「ええ、ずっと調理場で皿洗いを手伝っていたので」
「そ、そうですか……しかし、せめてリーゼ様にだけでもお会いになられたほうが……」
「うーん……でも、向こうに行くと面倒なことになりそうですし、顔は出さないでおこうかと」
「面倒なこと……ああ、確かに」
アロンドは頷いたが、心配そうな顔を一良に向けた。
「ですが、今頃リーゼ様は一人でたくさんの殿方に囲まれて苦労なされているはずです。せめて、遠くから手を振るくらいはしてさしあげたほうがよいと思いますが」
「いや、それでもやっぱり……」
「なら、カズラ様は入口のそばで待っていてください。私がリーゼ様の下へ行って、カズラ様のことをお伝えしますから、目があったら手を振ってあげてください。さあ、行きますよ」
そう言い、アロンドは一良の手を取った。
「えっ!? いや、毎日顔を合わせてるんですから、わざわざそんなことしなくても」
「いいえ、それとこれとは話が別です。カズラ様といえども、今日だけは私に従っていただきます」
困惑した様子で引きずられるようにして立ち上がる一良に、アロンドは苦笑した。
「カズラ様、女という生き物はこういったちょっとしたことを、いつまでも、それこそ何十年でも覚えているものなのです。侮ってはいけませんよ」
「いや、侮るとかそういうことじゃなくてですね」
「まあまあ、悪いようにはしませんので、騙されたと思って私の言うとおりにしてください」
アロンドは一良の手をぐいぐいと引っ張り、半ば無理やり部屋から連れ出すのだった。
その頃、バレッタは小雪の舞う中庭の洗い場で、1人で洗濯をしていた。
ごしごしと汚れを落とし、水を絞ってカゴに放り込む。
かじかむ手に息を吐きかけ、一息つくと屋敷を振り返った。
閉じられた板窓からは、楽しげな人々の喧騒が響いてくる。
「はあ……ドレス、カズラさんに見てもらいたかったな」
小さく肩を落とし、とぼとぼと屋敷へと戻る。
建物内へと続く扉を開けようとした時、先に勢いよく扉が開き、小さな人影が飛び出してきた。
ごん、とその人物の額がバレッタの鼻っ面にぶつかり、鈍い音が辺りに響いた。
「きゃっ! バ、バレッタ様! 申し訳ございません!」
「あうぅ……今日はこんなのばっかり……」
バレッタは涙目で鼻を押さえ、その声の主に目を向けた。
「……マリーちゃん? どうしたの? 何かあったの?」
そこには、水桶を持ったマリーが立っていた。
泣きはらしたかのように瞳は真っ赤になっており、表情も暗い。
「い、いえ……その……」
「……とりあえず中に入ろっか?」
「……はい」
室内に入って扉を閉め、マリーに目を向ける。
どうしたのかと声をかけようとした時、彼女が何かを持っていることに気が付いた。
それが所々に赤い染みの付いたハンカチだと分かり、バレッタは驚いてマリーの顔に目を向けた。
「それ……血?」
「……」
「どこか怪我してるの? それとも、誰か他の人の?」
「……ハベル様……が……」
そこまで言ったところで、マリーの瞳から涙が溢れた。
バレッタはマリーの両腕を掴み、少し腰をかがめて目の高さを合わせた。
「ハベルさんが怪我をしてるの? 傷は酷いの?」
バレッタの問いかけに、マリーはぶんぶんと首を振る。
「大した怪我じゃないのね?」
こくりと頷いたマリーに、バレッタはほっと息をつくとマリーの腕から手を放した。
そして、ほっとすると同時に、ふと数十分前に見たアロンドの拳に付いていた血のことが頭に浮かんでいた。
「……あの、もしかして」
バレッタはそこまで言いかけて、言葉を止めた。
もし本当にアロンドとハベルの間で何かがあったとして、自分がそれを問いただしていったい何ができるというのだろうか。
ただ余計にマリーを苦しませることになるのでは。
そんな考えが頭をよぎる。
「……申し訳ございません。失礼いたします」
「あっ……」
バレッタが口ごもっていると、マリーは袖で涙を拭き、バレッタに一礼して外へと出て行った。
バレッタは数秒立ち尽くし、小さく首を振ると一良の部屋へと足を向けるのだった。
翌朝。
一良とバレッタは、2人して屋敷の入口でアロンドを待っていた。
屋敷の中からは、目の下にクマを作った大勢の貴族たちが次々と広場に出て行っている。
皆が疲労困憊といった様子で、互いに別れの挨拶を交わしながらも、表情筋が固まってしまって笑顔が引きつっていた。
中には酒の飲みすぎで歩くのもおぼつかない者もおり、彼らは従者に支えられながらなんとか馬車に乗り込んでいっている有様だ。
「ううむ、まさに死屍累々って感じだな……貴族ってのも大変なんだな」
「昨日の夕方から今まで、皆さんずっとお酒を飲み続けていたんですもんね……」
2人も昨晩は一睡もしておらず、あの後一緒に一良の部屋でアロンドの服を乾かした後は、調理場で皿洗いを手伝っていた。
侍女たちも総動員で料理や洗い物、そして飲みすぎで体調不良を訴える貴族たちの世話をしていたのだが、その様子はまさに戦場だった。
この場で元気なのは、主人の金で目一杯街で遊び、宿屋でしっかり休んできた従者や使用人たちだけである。
「カズラッ!」
2人でその様子を眺めていると、屋敷の中からリーゼが満面の笑みで駆け寄ってきた。
目の下に少しクマがあるが、他の者たちに比べればかなり元気そうだ。
「おー、お疲れ。元気そうだな」
「うん。少し眠いけど、大丈夫だよ」
「たくましいなぁ。今朝までどれくらい飲んだんだ?」
「んー、コップで30杯は飲んだかな? よく覚えてないや」
「の、飲みすぎだろそれ。大丈夫なのか?」
「別にこれくらいなんともないよ。同じ人に2杯以上注がれたら倍の量を注ぎ返すようにしてたから、深夜過ぎた頃には誰も最初の一杯以外は勧めてこなくなったし。お酒はもう抜けてるよ」
「お前の肝臓はどうなってるんだ……それだけ強ければ、余程のことがない限り酔いつぶされないな」
「うん、それだけは自信あるよ。ていうかさ、ちょっと聞いてよ。明け方に私専用の休憩室に行ったらさ、誰かが勝手に使ったみたいで、吐いたみたいな変な臭いが少ししてさ。もう最悪だった」
「お、おう。そりゃ大変だったな」
そんな話をしていると、屋敷からアロンドが出てきた。
彼は3人の姿を見つけると、笑顔で歩み寄ってきた。
やや疲れた顔をしてはいるが、体調は良さそうだ。
彼はリーゼに丁寧に頭を下げると、カズラに向き直った。
「カズラ様、昨晩はありがとうございました」
「アロンドさん、お疲れさまでした。挨拶は済ませられましたか?」
「はい。おかげさまで、何とかひととおり済ませることができました」
「アロンド様、これを」
着替えの入った布袋を、バレッタが差し出す。
「ん、ありがとう。すまなかったね」
それを受け取ろうと差し出されたアロンドの右手を、バレッタはちらりと見た。
手の甲には、やはり傷は見当たらない。
「今日はゆっくり休めそうですか?」
「はい、そのつもりです。といっても、午後からはまた出かけないといけないのですが」
その台詞に、一良はぎょっとした。
「ご、午後からって、さすがに今日は休んだほうがよくないですか?」
「こういったことには慣れていますので。お気遣いいただき、ありがとうございます」
心配する一良に、アロンドはさわやかに微笑む。
そうして「それでは」、と3人に頭を下げ、自分の馬車へと歩いて行った。
「あれ? カズラじゃねえか」
その声に、3人が屋敷の入口へと振り返る。
そこにいた見知った顔に、一良とバレッタは「あっ」と声を上げた。
「ルグロさんじゃないですか。どうしてここに?」
そこには、他の貴族たちよりもひと際豪奢な衣装に身を包んだルグロが立っていた。
彼らの周囲には、護衛の兵士や従者が10人近くも取り囲んでいる。
リーゼはルグロの姿を認めた途端、さっと彼に向き直って丁寧に礼をした。
彼女の態度に一良とバレッタもなんとなく状況を察し、慌てて礼をする。
「どうしたもこうしたも、宴に出てたんだよ。……って、おいおい、そんなかしこまったことすんなって」
「ちょ、ちょっと!」
気さくに話すルグロの後ろから、焦り顔のティナが顔を出した。
さらにその後ろでは、彼女たちの4人の子供が不思議そうに一良たちとティナを交互に見ている。
ティナは一良とバレッタに気づくと、驚いたような顔になった。
「ん? ……あ!」
ティナの呼びかけを受け、ルグロは周囲を通り過ぎていく貴族たちの視線に気づき、しまった、という顔をした。
慌てた様子で表情を引き締め、再び一良に向き直る。
「いや、失礼した……近いうちに昨晩の礼をしたく思うゆえ、折をみて王都に来るがよかろう」
「はい?」
よく分からない台詞回しに、一良がいぶかしんだ声を上げる。
そんな一良に構わず、ルグロは回れ右をすると、皆を引き連れて広場に待機している馬車へと歩いて行った。
リーゼが頭を下げてそれを見送っているので、一良とバレッタもそれに倣う。
「……ちょっと、いつのまにあの人と知り合いになってたの?」
しばらくしてリーゼは頭を上げると、さっそく一良に問いかけた。
「いや、昨日の夜に街の食事処でたまたま相席したんだよ。もしかして偉い人なのか?」
「偉いも何も、第一王子のルグロ殿下だよ。この国の王子様」
「「えっ!?」」
一良とバレッタが揃って驚いた声を上げると、リーゼは納得したような表情になった。
「昨日、宴が始まった直後から殿下と妃殿下がいないって何人かが探し回ってたみたいだったんだけど、そういうことだったんだ。どうりで、夜中過ぎまで姿を見なかったわけだわ」
「宴を抜け出して街で遊んでたってことか」
「そうみたいだね。結婚してからはだいぶマシになったらしいんだけど、若いころは政務もろくにやらないでふらっとどこかへ姿を消すってことが日常茶飯事だったらしいよ。こんな大切な宴を抜け出すなんて、何考えてるんだか」
「そ、そりゃすごい話だな……」
「ティナさんは王女様だったんですね……」
「ティナさん?」
バレッタのつぶやきに、リーゼが小首を傾げる。
「はい。ルグロ殿下の後ろにいた女性です」
「あの人はルティーナ妃殿下だよ。ティナっていうのは偽名じゃないかな」
「あ、なるほど……でも、ルグロ殿下はそのまま名乗っていたような……」
「まあ、本名を名乗ったからって王子様だなんて誰も思わないだろうし、気にしてなかったんじゃない? 何も考えてないだけかもしれないけど」
「……もしかして、リーゼってあの人のこと嫌いなのか?」
言葉の節々にトゲがあるように感じ、一良が問う。
リーゼははっとした様子で、少し険しくなっていた表情を緩めた。
やってしまった、といった表情で、上目遣いに一良を見る。
「……顔に出てた?」
「顔にも口調にも出てたぞ」
「うー……」
リーゼはへこんだ様子で肩を落とし、再びおずおずと一良を見上げた。
「その……許せないの。自分の立場を何にも考えてないような、勝手な行動ばっかりとってるのが」
「……ええと、自分の立ち位置を考えて振るまえってことか?」
「うん」
リーゼは頷くと、彼らの去っていった方向へ目を向けた。
馬車の前で、ルグロが子供たちと何かを話している様子が見て取れる。
「自分の立場が窮屈で、全部放り出して好き勝手やりたいって気持ちはよく分かるよ。でも、親や臣下に迷惑かけてまでやったらダメでしょ? 替えが利く立場ならともかく、あの人は他に代わりがいないんだから。自分が背負ってるものが何なのかくらい、常に頭に置いておくべきだよ」
「……」
「な、何?」
一良がじっと見てきていることに気づき、リーゼがわずかに顔を向ける。
「いや、やっぱり真面目なんだなって思ってさ」
「……うう、やっぱり言わなきゃよかった」
「え? なんで?」
「うー……」
そうしていると、ルグロと話していた子供たちのうちの2人が、小走りで一良たちの下へと戻ってきた。
昨晩、一良とバレッタの隣に座っていた、双子の姉妹のルルーナとロローナだ。
2人は一良とバレッタの前まで来ると、同時にぺこりと頭を下げた。
「カズラ様、バレッタ様、お父様から言づてです」
「先ほどは申し訳ございませんでした」
「いつでも構わないので、王城へ遊びにきてください」
「下町にある、美味しいフルーツタルトのお店を紹介いたします」
「果物が美味しくなる、秋の中旬がおすすめです」
「もちろん、秋でなくても歓迎いたします」
「は、はい。分かりました」
「ありがとうございます、とお伝えください」
交互に話す姉妹に一良とバレッタが答えると、2人はにっこりと微笑んだ。
そうしてもう一度ぺこりと頭を下げると、手を繋いでルグロたちが乗り込んでいる馬車へと走っていった。
「……なんか、あの人たちって王族どころか貴族って感じすらしないな」
「そうですね。でも、皆さんすごく仲良しで幸せそうです」
「……」
去っていく双子をほのぼのと見送っている2人とは違い、リーゼはわずかに顔をしかめていた。
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