144話:お気に入り
「カズラさん、まだ起きてるかな……」
休憩室を出たバレッタは、廊下を小走りで一良の部屋へと向かっていた。
いったん衣装部屋に戻って着替えてこようかとも考えたのだが、このドレス姿を見せたら一良どんな反応をするだろう、と思い立ち、着替えずに向かうことにしたのだ。
「きゃっ!?」
そのまま廊下の角を曲がった時、ちょうどその先からやってきた人物に、バレッタは思い切りぶつかった。
相手は派手に転倒し、ごん、と頭を床に打ち付ける鈍い音が廊下に響いた。
「す、すみません! 大丈夫ですか!?」
「ぐ……どこ見て……」
後頭部を擦りながら顔を上げたアロンドは、相手がバレッタだと気付くと言葉を止めた。
バレッタもアロンドの顔を見て、あっ、と小さく声を上げた。
「アロンド様! 申しわけございません! お怪我はありませんか!?」
「……ああ、大丈夫だよ。ちょっとタンコブが出来ただけだから」
アロンドはそう言って身を起こしたが、その場に座り込んだままだ。
バレッタは慌てて駆け寄り、彼の背に手を添えた。
「あの、大丈夫で……あっ! て、手から血が!」
アロンドの右こぶしに血が滲んでいることに気付き、バレッタは慌ててその手を取った。
「申しわけございません! 私、なんてことを……あ、あれ? 傷が……」
その拳に傷が見当たらず、バレッタは困惑した。
そうしてアロンドの顔に目を向け、その顔色を見てぎょっとした。
「アロンド様、顔色が……大丈夫ですか?」
アロンドの顔は真っ赤で呼吸は荒く、明らかに具合が悪そうだ。
心配するバレッタに、アロンドは力なく微笑んだ。
「ちょっと飲みすぎちゃってね。空いてる休憩室を探してるんだけど、どこも埋まっててさ」
「あ、それなら、空いてる部屋が1つありますよ。向こうの奥から2番目の部屋なのですが……」
バレッタは今来た廊下を振り返り、もう一度アロンドに目を向けた。
彼は肩で苦しそうに息をしており、自分で立ち上がるのは難しそうだ。
「部屋までご案内します。私に掴まってください」
そう断りをいれ、アロンドの右腕を自分の肩に回させた。
彼の腰に手を回し、支えながらゆっくりと立ち上がる。
アロンドは足に力が入らないらしく、ほとんどバレッタに寄りかかるような状態だ。
「……ありがとう。すまないね」
息も絶え絶えの様子で言うアロンドにバレッタは微笑むと、彼を支えながらゆっくりと歩を進めた。
身長が180センチ以上あるアロンドと150センチ少々のバレッタでは体格差がありすぎて支えにくいが、彼が転ばないようにしっかりと支える。
お互い無言のまましばらく歩き、先ほどリーゼと休んでいた休憩室へとやってきた。
バレッタが扉を開き、2人で中に入る。
「ここなら誰も来ませんから、ゆっくり休めると思います。今、お水を入れますね」
バレッタはアロンドをソファーに座らせ、棚から銀のコップを取ってきた。
水差しからコップに水を注ぎ、アロンドに差し出す。
「はい、お水です。飲めそうですか?」
「ああ……ありがとう」
アロンドは水を一口飲むと、ソファーにもたれてうなだれた。
そんなアロンドの顔を、バレッタは心配そうに覗き込む。
「気分はどうですか? 気持ち悪かったりしませんか?」
「……正直、かなり悪いね。今にも吐きそうだ」
「それなら吐いちゃったほうがいいですよ。我慢してると急性アルコール中毒になってしまうかもしれないです」
聞きなれない単語に、アロンドはバレッタにいぶかしんだ目を向けた。
「急性アル……ごめん、それはなんだい? 聞いたことないんだけど」
「お酒の飲みすぎによる中毒症状のことです。下手すると死んでしまうこともあります。一緒にトイレに……は、ちょっと無理そうですね。水桶か何か持ってきます」
「ああ……飲みすぎで倒れてそのまま死ぬやつのことか。そんな正式名称があったんだね。キミは物知り……」
アロンドはそこまで言いかけて、口に手を当てて動きを止めた。
バレッタはとっさに近くにあった果物が載っている銀皿を取り、ひっくり返して中身を捨てるとアロンドの口元に差し出した。
それとほぼ同時に、アロンドが激しく嘔吐した。
「大丈夫です、そのまま全部吐いちゃってください。落ち着いて、ゆっくり息を吸ってください」
皿から跳ねた吐瀉物が手やドレスにかかるのにも構わず、バレッタは皿を持ちながら彼の背をゆっくりと擦る。
アロンドは何度か嘔吐を繰り返し、激しくむせながら空気を吸った。
ぜいぜいと苦しそうに呼吸をしながら、顔を上げる。
「はあ、はあ……くそっ、何てザマだ……あっ、す、すまない! ドレスが……」
朦朧とした様子で謝るアロンドに、バレッタは皿を床に置くと優しく微笑んだ。
「気にしないでください。気分はどうですか? すっきりしました?」
「ああ、楽になったよ……その、本当にすまない。侍女を呼ばないと……」
「いえ、私がやりますから大丈夫です。アロンド様は休んでいて下さい」
バレッタはそう言うと、近場にあったテーブルナプキンで手とドレスを軽く拭き、小走りで部屋を出て行った。
そして15分もしないうちに、タオルの入ったカゴと水の入った水桶を持って戻ってきた。
服装もドレスではなく、普段着姿になっている。
バレッタはタオルを水桶で絞ると、アロンドに差し出した。
「これでお顔を拭いてください。動けそうですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう」
バレッタは嫌な顔一つせず、床にこぼれた吐瀉物を手際よく拭き取っている。
アロンドはそんな彼女の様子を、どこかぼんやりとした様子で見つめていた。
「大丈夫ですか? まだ気分が悪いとか……」
「あ、いや、気分はもう大丈夫だよ。ちょっとぼうっとしちゃってさ」
心配そうなバレッタの視線を受け、アロンドは慌ててタオルで口を拭った。
バレッタは汚れたタオルをカゴに入れ、もう一度床とソファーを確認した。
幸い、ソファーはほとんど汚れておらず、綺麗に拭き取ることができたようだ。
「窓を開けて空気を入れ替えますね。寒くなるので、このひざ掛けを巻いて少し我慢しててください」
バレッタはアロンドにひざ掛けを渡し、窓を開けた。
粉雪交じりの冷たい風が、びゅうっと部屋に流れ込む。
暖炉の炎がゆらゆらと揺れ、壁に掛けられていた燭台の炎がふっと消えた。
「やっちゃった……ごめんなさい、少しの間だけなので」
「大丈夫だよ。それより、キミも寒いだろ? こっちにおいでよ」
「えっ! そ、それはちょっと……」
バレッタが即座に断ると、アロンドは一拍置いて、ああ、と頭を掻いた。
「いや、ごめん。俺まだ服がゲロまみれだもんな。はは、何言ってるんだか……」
「あ、いえ、そういうことでは……」
バレッタがそこまで言った時、慌しく廊下を走る音が聞こえてきて、扉が開いた。
「アロンドさん! 大丈夫で……暗っ!? 寒っ!?」
「カ、カズラ様!?」
部屋に入ってきたのは一良だった。
アロンド用にと適当に見繕ってきた着替えを小脇に抱え、空の水桶と湯気の立ち上る銅のピッチャーが入った木箱を持っている。
なぜか服の上からエプロンをつけており、腕まくりまでしている。
「よかった、飲みすぎて倒れちゃったわけではないんですね。吐いたって聞いたから、心配しましたよ」
ほっと胸をなでおろしている一良に、バレッタが駆け寄る。
「少し前までは歩けないくらいふらついていたんですけど、だいぶ良くなったみたいです。着替え、ありがとうございます」
「うん。大き目のやつを選んできたんだけど、アロンドさんのサイズに合うかな? とりあえず窓を閉めましょうか」
窓をバレッタに任せ、一良はテーブルに向かうと木箱を置いた。
棚から新しいコップを取ってきて、ピッチャーからお湯を注ぐ。
「ええと、確か飲みすぎの時はハイビスカスとミントでいいんだったよな……く、暗い」
「ごめんなさい、今火を……あ、あれ? ここの暖炉、火かき棒しかないです。火箸ないのかな……」
「それならここにライター……じゃなくて、廊下の燭台から火を取ってきたらいいですよ」
「あ、そうですね。あと、ハーブティーより先にアロンド様に着替えを……」
「いけね、そうだった」
一良はハーブの袋を置き、着替えを持ってアロンドの下へと向かう。
バレッタは燭台の蝋燭を取って廊下へ出ると、火を灯してすぐに戻ってきた。
「すみません、うっかりしてて。はい、上着の替えです。ズボンは大丈夫みたいですね」
「ありがとうございます……あの、どうしてカズラ様が……」
「調理場で皿洗いを手伝っていたら、バレッタさんが私を探しに来たんです。その時、アロンドさんの様子を聞かされて」
「そ、そうだったのですか。お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申しわけございません。しかし、カズラ様にこのようなことをしていただくわけには……」
ふらふらと立ち上がろうとするアロンドを、一良は「まあまあ」と押しとどめる。
「そんなこと気にしないでください。あと、このことは私とバレッタさんしか知らないので、安心していただいて大丈夫です。服も今夜中に洗濯して、朝までには乾かしてお返ししますね」
一良がそう言うと、アロンドは心底驚いたような表情になった。
「そこまで気を使っていただけるとは……感謝の言葉もございません」
「お礼ならバレッタさんに言ってあげてください。他の人に気付かれないようにって、気を回してくれたのは彼女ですから」
そう言われ、アロンドは燭台に火を移しているバレッタに目を向けた。
バレッタはその視線に気づき、にっこりと微笑む。
「さて、酔い覚ましに効く薬湯を淹れますね。たぶん、これを飲めばすぐに全快すると思います。ちょっと待っててください」
「カズラさん、私、お洗濯してきちゃいますね。アロンド様のこと、お願いします」
「了解です。部屋の木箱にドライヤーが入ってるんで、それ使って乾かしちゃってください」
「分かりました。……あ、そうだ。電子レンジに入ってたタコヤキ、ラップして半分くらい冷蔵庫に入れておきましたから」
「え? あ、はい。ありがとうございま……半分くらい?」
バレッタは照れたような笑顔を一良に向けると、小走りで部屋を出て行った。
一良はその背を見送り、使い捨てのティーバッグにハーブを詰める。
「これ、少しすっぱくて驚くかもしれませんが、飲みすぎにはとてもよく効くんです。……あ、すっぱいものは平気ですか? 苦手なら別のものを考えますけど」
「……」
「アロンドさん?」
ぼうっとした様子でバレッタの出て行った扉を見つめているアロンドに、一良が小首を傾げる。
「あ、いえ……あの、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんです?」
「もしかして、彼女はカズラ様のご親戚か何かなのですか?」
「えっ? ち、違いますけど?」
思わず手を止めて一良が答えると、アロンドははっとした様子でばつの悪そうな顔になった。
「も、申しわけございません。いきなり何を聞いてるんだ俺は……その、ずいぶんと仲が良さそうに見えたもので」
「は、はあ」
「まだ酷く酔っているようでして……あの、失礼ついでといってはあれですが、もう一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「な、何です?」
「彼女は今後も、現在のような重要な役職に据えておく予定なのでしょうか?」
「一応そのつもりです。バレッタさんが地元に戻りたいと言ったら別ですけど」
「なるほど……そうですよね、彼女ほど優秀な人間を使わない手はないですよね。リーゼ様も気に入っているご様子ですし、今後も手元に置いておくのがいいですね」
何かに納得がいったかのように、アロンドはしきりに頷いている。
そんな彼の様子を、一良はいぶかしげに見つめるのだった。