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137話:些細なきっかけ

 次の日の朝。

 一良は寝間着姿のまま椅子に腰掛け、マリーに頭の包帯を解いてもらっていた。

 起こしてもらったついでに、傷の具合を見てもらおうと思ったのだ。

 マリーは丁寧な手つきで包帯を解き、当ててあったガーゼを外した。


「どうです? 傷は膿んでたりしないですか?」


「いえ、特にそういったことはないように見受けられます」


「そっか、よかった。この薬を塗ってもらっていいですか? 指先に軽く掬うくらいの量を、傷口にすり込む感じで」


「かしこまりました」


 マリーは淡々と答えると軟膏のチューブを受け取り、指先に真っ赤な中身を少し出した。

 髪をそっと押さえ、優しく丁寧に傷に塗る。


「終わりました」


「ありがとうございます。包帯は寝る時だけ巻こうと思うんで、また夜にお願いしてもいいですか?」


「はい。では、お風呂上りにお伺いするということでよろしいでしょうか?」


「そうですね、それでお願いします。……あの、マリーさん」


「はい」


 今朝からずっと、マリーからは感情の起伏がほとんど感じられない。

 笑顔の一つも見せておらず、明らかに様子がおかしかった。


「もし違ってたらすみません。アロンドさんと何かあったんですか?」


「えっ」


 わずかに動揺を見せたマリーに、一良は安心させるように努めて優しく話しかける。


「昨日からずっと元気がないように見えたので、どうしたのかなと。私でよければ相談に乗りますから、よかったら……」


 一良がそう言いかけた時、部屋の扉がノックされた。

 返事をすると、扉が開いてハベルが入ってきた。

 ハベルはいつものように柔和な笑顔を見せ、深々と頭を下げた。


「カズラ様、おはようございます」


「おはようございます。どうしたんです? こんな朝早くに」


「はい、昨日いただいたガラスのコップのお礼をどうしてもお伝えしたくて……あの、その血が付いた当て布は?」


 テーブルに置かれているガーゼに気付き、ハベルがいぶかしげな視線を向ける。


「あ、これは血じゃないですよ。塗り薬の色です。先日頭を怪我してしまいまして」


「怪我……ですか?」


「ええ、ちょっとした事故があって、その時少し切っちゃったんです。今、マリーさんに薬を塗ってもらっていたところでして」


「……」


「どうかしましたか?」


 黙りこくるハベルに、一良は首を傾げる。

 ハベルははっとしたような顔をすると、心配そうな視線を一良に向けた。


「いえ、何でもありません。傷の具合は大丈夫なのですか?」


「大した傷じゃないんで、大丈夫ですよ。ジルコニアさんに縫ってもらったんですけど、あと3日もすれば抜糸できるみたいです」


「そうですか……大きな怪我じゃなくてよかったです」


 ハベルは微笑むと再度お土産の礼を言い、部屋を出て行った。

 一良はそれを見送り、背後で微動だにしないマリーに振り返った。

 マリーは口をつぐんだまま、じっと一良の目を見つめている。

 表情は若干強張っており、少し怯えているようにも見て取れた。


「さっきの話ですけど、私でよければいくらでも力になりますから、もし何かあったら何でも相談してください。エイラさんとか他の侍女さんに相談なり愚痴ってみるっていうのもありだと思いますよ。話すだけで気分が軽くなるってこともありますし」


「……はい、ありがとうございます」


 マリーは小さな声で返事をすると一礼し、すぐに部屋を出て行ってしまった。

 閉まった扉を見つめ、一良は頭をかいた。


「うーん、俺から声かけるのは失敗だったか。初めからエイラさんとかバレッタさんあたりに任せるべきだった……」


 そうしてひとしきり反省すると、もそもそと着替えを始めるのだった。




 その日の夕方。

 街なかの大工職人の工房に、バレッタの姿があった。

 ごちゃごちゃとした工房の中、テーブルに広げられた図面を職人たちと囲み、その仕組みを説明している。

 バレッタが機械や道具の開発管理を行うという話はナルソンから連絡がいっていたのだが、実際にバレッタが工房を訪れると皆が驚いた顔をしていた。

 名前から女性が来ることは分かっていたが、まさかここまで若いとは誰も考えていなかったようだ。


「これは鉱石粉砕機という機械です。水車から延ばした軸棒に突起を付けて、その隣に設置したハンマーを水車の回転に合わせて持ち上げさせます。突起が外れるとそのハンマーが落ちて、下の台座に置かれた鉱石を砕くという仕組みです」


「ふうむ、こいつは便利な道具だな。もしかして、これは嬢ちゃんが考えたのか?」


 親方である年配の男の問いに、バレッタは頷く。


「はい。製材機や鍛造機を参考にして考えてみました」


 バレッタが答えると、皆が一様に感心したように「おお」と声を漏らした。


「若いのにたいしたもんだな……さすがはナルソン様のお墨付きってところか。俺なんて鉱石を効率的に砕く機械なんて考えたこともなかったぞ」


「これを大急ぎで作ればいいのかい?」


 腕組みしながら感心したように頷いていた壮年の職人が、バレッタに尋ねる。


「はい、できるだけ早く作っていただけると助かります。あちこちの鉱山や工房にも配備したいので」


「そういえば、近頃鉱石の搬入量が少し増えてきたって話をよく聞くもんな。これがあれば大助かりだろう。それと、近いうちに大量の銅と鉛の鉱石が街に届くって噂をこの間聞いたんだが、嬢ちゃんは何か聞いてるかい?」


 そう言われ、バレッタはきょとんとした様子で小首を傾げた。


「銅と鉛ですか? 鉄じゃなくてですか?」


「鉄? なんだいそれは?」


 聞きなれない単語に、今度は職人たちが不思議そうな顔をした。


「最近発見された新たな金属で、青銅よりも硬くて軽くて安いんです。今、大急ぎで採掘しているところで、街に届くのはその鉱石のはずですよ。噂が間違っているんじゃないかと」


 鉄器は生産が始まり次第片っ端から全ての産業に導入する予定なので、存在を秘匿するということにはなっていない。

 すでに何年も前から鉄器の生産に入っていると思われるバルベールを相手取って、隠してこそこそ生産しても勝負にならないからだ。

 むしろ、バルベール側にこちらが鉄器を作っているという話が伝わることによって、こちらの戦力を見直させて開戦時期を先延ばしさせるという狙いがある。

 精錬方法や加工手法はすでに確立済みな上に、木炭高炉によってすさまじい量の鉄を毎日生産できるようになるので、開戦時期が延びれば延びるほどアルカディアに有利になるからだ。

 全ての産業に鉄器の恩恵を与え、一気に国力を底上げするのである。


「ほう、そんなものが見つかったのか。しかし、確かに鉛とかの鉱石って聞いたんだが……誰かが間違えて伝えちまったのかな。銀も少し出たとか言ってたんだが、ありゃなんだったんだろうか」


「ところで、嬢ちゃんは年はいくつなんだ?」


 首を傾げている親方の隣の若い職人が、興味津々といった様子でバレッタに尋ねた。


「この間16になりました」


「うわ、若いなぁ。俺の10個下かよ」


「もしかして、貴族様だったりするのか?」


「いえ、皆さんと同じ平民ですよ」


 尋ねてきた別の職人にバレッタが答えると、皆の目に期待の色が浮かんだ。


「そうなのか。出身地はどこだい?」


「イステリアの西の方にある、グリセア村っていう小さな村です」


「ああ、知ってる知ってる。グレイシオール様の言い伝えがある村だよな」


「結婚はしてる?」


「え? してませんが」


「彼氏は?」


「えっ、あの……」


「いるの?」


「い、いません」


 馬鹿正直にバレッタが答えると、数人の若い職人たちが「おお!」と声を上げた。

 明らかに声に歓喜の色が含まれている。


「じゃあさ、親睦会ってことで今夜皆で飲みに行こうぜ」


「おっ、それはいいな。いつも男ばっかりでむさ苦しかったから、今日は楽しく飲めそうだ」


「い、いえ、私は用があるので帰らないと……」


 その勢いに、バレッタは一歩後ずさった。

 職人の1人がその肩にぽんと手を置き、まあまあ、と押しとどめる。


「そんなこと言うなって。奢るからさ。なあ?」


「もちろんだ。嬢ちゃん、こういう時は素直にご馳走になっとくもんだぞ」


「店はどこにする? 前回行ったとこでいいかな?」


「あ、あの! 本当に無理なんです!」


 いつの間にか参加させられる流れになっていることに気付き、バレッタは慌てて声を上げた。

 だが、職人たちは「まあまあ」とバレッタの肩をぽんぽん叩くばかりで聞く耳を持たない。


「別にとって食うってわけじゃないんだから」


「そういうことじゃなくて、急にそんなこと言われても」


「大丈夫だって。ちゃんと美味いもの食わせてやるから」


「で、ですから……」


 その後もバレッタが必死に断ろうとしていると、不意に入口からコンコンと戸を叩く音がした。

 皆がそちらに目を向けると、いつの間にか入口に若い男が立っていた。


「すみません、戸が開けっ放しだったもので」


「ん? あんた誰だ?」


「彼女の連れですよ。帰りが遅いので、心配になって迎えにきたんです」


「あ、アロンド様……」


 バレッタの言葉に、皆が一斉に彼女に目を向ける。


「え、アロンドって、あのルーソン家の?」


「はい、アロンド・ルーソンと申します。すみませんがそういうわけですので、彼女を返していただけますでしょうか?」


 バレッタの代わりにアロンドが答えると、途端に職人たちは意気消沈したような表情になった。


「嬢ちゃん、貴族様のお手付きならちゃんと言ってくれないと困るぞ」


「そうだよな、こんなにかわいい娘が手付かずのわけないよな……」


「もう俺、明日の仕事休もうかな……」


「えっ、ち、違います! 私は……」


 バレッタがしどろもどろになって反論しようとすると、アロンドがさっと歩み寄って職人たちからひったくるようにしてその肩を抱いた。


「ほら、帰ろう」


 そうして、職人たちの視線を背中に浴びながら、2人は工房を後にした。




 アロンドはそのまま少し離れた所に停めてあった馬車までバレッタを連れて行くと、肩から手を離した。

 馬車は荷台が個室になっているタイプの豪華なものだ。


「大丈夫だったかい?」


「は、はい! ありがとうございました!」


 バレッタはとっさに姿勢を正し、深々と頭を下げた。

 未だに少々頭が混乱していたが、助けられたということは理解できた。


「君みたいな娘がこんな時間にあんな男だらけの所に1人で行っちゃダメだよ。職人にだって、ああいう節操のない輩もいるんだからさ」


「は、はい。すみませんでした……」


 バレッタは恐縮した様子でそう言うと、不思議そうにアロンドを見た。


「あの、どうしてあそこにいらしたのですか?」


「隣の工房に簡易住宅用の木材の生産具合を見に来てたんだよ。一通り見て帰ろうと外に出たら、君が隣の工房に1人で入っていくのが見えたから、少し気になってね」


 アロンドはそう言って、爽やかに微笑む。

 実に誠実そうな、できる男の完璧なスマイルだ。


「君のことはカズラ様から聞いてるよ。機械や道具の開発管理を任されてるんだって?」


「はい。リーゼ様の補佐として、お手伝いさせていただいております」


「そっかそっか。慣れない土地で大変だろうけど、頑張るんだよ。分からないことや困ったことがあったら、何でも俺に相談してくれていいからさ」


「はい、ありがとうございます」


 バレッタが礼を言うと、アロンドは辺りを見渡した。

 太陽は傾き始めており、街は薄っすらと夕焼け色に染まっている。

 あと1時間もすれば、辺りは闇に包まれるだろう。


「もうこんな時間か……せっかく会ったんだし、どこかで食事していかないかい? 帰りは馬車で送るよ」


「あ、ごめんなさい。私、帰って食事の仕度をしないといけないので」


 バレッタが答えると、アロンドは少し驚いたような表情をした。


「え? 食事の仕度って、料理人も兼任してるの?」


「兼任というか、マリーちゃんのお手伝いでカズラさんの食事を作らせてもらってるんです」


「ふうん……マリーは確かカズラ様の専属料理人だったよね? 彼女だけじゃ手が足りてないわけ?」


「いえ、そういうわけじゃないんです。私の我侭で手伝わせてもらってるだけなので」


「そっか。じゃあさ、屋敷には使いを送っておくから、今夜は一緒に食べに行こうよ。今から戻っても仕度は間に合わないだろ?」


「えっと……申し訳ございません。それでも何かやれることはあるはずですし、帰ろうと思います」


「え?」


 予想外につれない返事に、アロンドはきょとんとした表情になった。

 御者台からそれを見ていた使用人も、バレッタの返事にぎょっとしている。

 アロンドの誘いを断る女を、彼は今まで見たことがなかったからだ。

 バレッタはそんなことにも気付かず、ぺこりと頭を下げた。


「先ほどは本当にありがとうございました。では、失礼いたします」


「ちょ、ちょっと待って!」


「はい?」


 立ち去ろうとするバレッタを、アロンドは慌てて呼び止めた。

 バレッタは足を止めて振り返り、小首を傾げる。


「それなら屋敷まで馬車で送るよ。暗くなってきたし、夜道は危ないからさ」


 バレッタはちらりと馬車に目を向けた。

 馬車に乗っていくとなると、この混雑している大通りを通って大回りしていくことになる。

 だが、バレッタ1人なら細い路地や塀を乗り越えていけば屋敷まで一直線だ。

 明らかに徒歩で帰ったほうが早いだろう。


「いえ、大丈夫です。1人で帰れますので」


「……そっか。じゃあ、気をつけてね」


「はい、ありがとうございました。失礼いたします」


 バレッタは再び一礼すると、踵を返して雑踏へと消えていった。

 アロンドは表情を消し、その背をじっと見つめる。


「……ふーん」


 そう意味深に鼻を鳴らすと、馬車に乗り込むのだった。

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