135話:採るべき道は
次の日の早朝。
マリーは朝の仕事を二日酔い状態のエイラに引き受けてもらい、生家であるルーソン邸の正面玄関の前へとやってきていた。
「(ハベル様、これ見たらきっと驚くだろうな。私ももらえたって言ったら、どんな顔するんだろう)」
手に下げている布袋には、昨夜一良から預かったハベルへのお土産が入っている。
中身はマリーがもらったものと同じ柄の、薄い紫色のガラスのタンブラーのペアセットだ。
門番に扉を開けてもらい、屋敷の中へと入る。
「あら、マリーじゃない。久しぶりね」
見知った顔の若い侍女が、入ってきたマリーに気付いて声をかけてきた。
彼女と、というより他の侍女とマリーは仕事上必要なこと以外であまり言葉を交わしたことがなく、こうして話しかけられることはかなり稀だ。
別に皆がマリーを嫌っているということではなく、彼女と仲良くしてアロンドに目をつけられることを恐れてのことである。
「ナルソン様のところでの仕事はどう? 上手くやれてる?」
「はい。皆さんとてもよくしてくださるので、何とかやれています」
「そう、よかったわね。ここに戻らなくて済むように、これからも頑張りなさい」
「は、はい……あの、ハベル様はどこにおられるかご存知ですか?」
「たぶんご自分の部屋にいらっしゃるんじゃないかしら。そろそろ朝食だから、そのうち食堂に来ると思うけど」
「分かりました。ありがとうございます」
「今日はアロンド様も屋敷にいるから、顔を合わせないように気をつけなさい。何だか数日前から静かだったけど、もしかしたら機嫌が悪いのかもしれないから」
「は、はい」
その侍女に礼を言って別れ、言われたとおりにこそこそと物陰に隠れるようにして廊下を進む。
階段を登ろうとして角を曲がったところで、どん、と誰かの胸板に顔面から突っ込んでしまった。
手に持っていた布袋を取り落としそうになりながらも何とか持ち直し、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
「ん?」
その声に顔を上げたマリーは、相手の顔を見て青ざめた。
会わないようにと気をつけていた当のアロンドに、あろうことかぶつかってしまったのだ。
「ああ、お前か」
アロンドは何か考え事をしているのか、まるで興味がないといった視線をマリーに向けた。
マリーは反射的に身を縮こませる。
「あ、あのっ、申し訳ございま……」
「届け物か? ハベルなら部屋にいると思うぞ」
「えっ? あ、はい! ありがとうございます!」
思わぬ反応に、マリーは内心動揺しながらも再び頭を下げた。
普段なら間違いなく蹴り飛ばされるぐらいのことはされるのだが、今日はいつもと様子が違う。
「お前がいるってことは、カズラ様はイステリアに戻ってきてるんだな? 今日はナルソン様のところにいるのか?」
「は、はい。お屋敷におられるかと……」
「そうか。なら、例の調査の件で報告したいことがあるから会ってくれないかと俺が言っていたと伝えておいてくれ。できれば今夜にもお会いしたいと」
「かしこまりました。アロンド様は本日はずっとこちらにおられますか?」
「いや、昼から夕方までは留守にする。返事は誰かに言づてしておいてくれればいい」
「かしこまりました」
アロンドはそれだけ言うと、廊下の奥へと歩いて行ってしまった。
マリーは深々と頭を下げて見送り、殴られなくてよかったとほっと息をついた。
階段を上り、2階にあるハベルの自室へと足を向ける。
途中、執務室の前を通った時、その扉が半開きになっていることに気がついた。
ふと中を覗き込んでみるが、誰もいない。
開いた窓にかけられたカーテンが、そよそよと風に揺れているばかりだ。
「あっ!」
その時、ふいに強い風が部屋に吹き込み、机の上の書類を盛大に巻き上げた。
マリーは小走りで部屋に入り、床にちらばっているそれらを拾い集める。
「確かこっちにも……う、本棚の隙間に……」
ソファーの裏に飛んでいってしまった書類を追いかけ、床に這いつくばって本棚の下の隙間に手を差し入れる。
やっとのことで書類を掴んで手を引き抜こうとした時、部屋に誰かが入ってくる足音が聞こえてきた。
バタンと扉が閉められ、鍵がかけられる音が部屋に響く。
「ハベル、お前は今後、この国がバルベールと戦って勝利する公算はどれくらいあると思う?」
「どういう意味ですか?」
「そのままだ。答えろ」
慌ててマリーが立ち上がろうとした時、そんな台詞が耳に飛び込んできた。
マリーは思わず動きを止め、その場で固まる。
聞こえてくる声は、ノールとハベルのものだ。
「……同盟国が一丸となって戦うのであれば、もしかしたら引き分けに持ち込めるかもしれません。ですが、かなり厳しい戦いになると思います」
「うむ。では、その同盟国のうち、1国でも欠けるような事態になったらどうなると思う?」
「勝てる見込みはなくなります。奇跡でも起こらない限りは」
「そうだな。そうなれば、まず同盟国は敗れるだろう。たとえそうでなくとも、9割9分負けるだろうな」
「父上、はっきりおっしゃってください。いったい何の話なのですか?」
「戦争が始まる前に、我々はバルベールに亡命する。もちろん、お前もだ」
「なっ!?」
父から発せられた驚くべき台詞に、ハベルが息を飲む様子が伝わってくる。
マリーは驚愕のあまりに、思わず取り落としそうになった書類を慌てて押さえた。
「本来ならばもう2、3年後になるはずだったのだが、事情が変わってな。予定を繰り上げることになったんだ」
「何年も前から、バルベールと内通していたのですか?」
「うむ。前回の休戦条約締結後、政策会議で軍事政策が復興政策よりも優先されると決まった直後からだ。私はそれで、この国を見限った。そんな滅茶苦茶な政策をしていては、とても次の戦争に耐えることなどできないと思ったからな」
「なんということを……まさか、兄上もその頃から?」
「いや、アロンドもお前と同じで何も知らん。3日ほど前に、初めて趣旨を伝えた」
「兄上は何か言っていましたか?」
「特に何も言わなかったな。驚いた様子もなかった。あいつのことだ、薄々感づいていたのかもしれん」
「そう……ですか……」
「バルベール側には話を通してある。もうしばらく先の話にはなるが、時が来たらお前はできるだけ怪しまれないようにイステリアを抜け出せるよう手を回しておけ。数日の間街を出る予定でも作ってな」
「ですが……」
「心配しなくても、マリーも一緒に連れて行く」
突如出た自分の名前に、マリーはびくっと肩を跳ねさせた。
見つからないように必死でソファーに身を寄せ、震えながら身体を縮こませる。
「向こうに行ったらマリーの所有権はお前に譲ろう。立場が落ち着いたら2人で家を出ることも許す。お前が望むなら、マリーを娶って妻にするがいい」
「いえ、兄妹で結婚をするつもりは……」
「何だ違うのか? 私はてっきり……まあ、そのことはいい。マリーのことは好きにして構わん」
ハベルは何も答えず、沈黙したままだ。
ノールはそれを肯定と受け取ったのか、再び口を開いた。
「バルベールに亡命するまでに、お前はできる限り軍部で情報を集めておけ。向こうで我等の地位を安定させることに役立つ」
「父上、一つお伺いしたいのですが、バルベールは同盟国軍に絶対に勝てるという保証はあるのですか?」
ハベルの問いに、ノールはきょとんとした表情になった。
「勝つに決まっているだろう。バルベールは国土も人口も我々の国とは比較にならん。それに、彼らは次の戦争に備えて軍制改革までして大々的に準備をしている。前回のような間抜けな戦いを繰り返すことはないだろう」
「ですが、前回の戦争ではバルベールは終盤になっても同盟国軍を打ち負かすことができませんでした。絶対に勝つと断言するのは、早計なのでは」
「前回バルベールが攻め切れなかったのは、北方の蛮族の全面攻勢と同盟国側の連携のせいだ。次の戦いでは、蛮族は前回のように攻めてはこない。同盟国側も……」
「同盟国側も?」
「……少し話しすぎたな。この件については、バルベールに行ってから詳しく説明してやる。お前は私の指示通りに動け」
ノールはそう言うと、ハベルの目を真っ直ぐに見つめた。
ハベルも目をそらさず、父と視線を交える。
「お前はイステール家に重用されて恩義を感じているのかもしれないが、情に流されて大局を見誤れば、その次に待っているのは身の破滅だ。大切なのは身を守ること、生き残ることだ。お前はマリーを守りたいのだろう? 一番大切なものを守りたいのならば、その他のものは捨てる覚悟を持て」
「……父上の一番大切なものはなんですか?」
「お前たちに決まっているだろう」
「それにマリーは含まれていますか?」
「もちろんだ、と言いたいところだが、私はマリーに対して特別感情を持ち合わせておらん。だが、マリーがお前にとって一番大切な存在ならば、私にとっても大切な存在ということになるな」
「……そうですか」
「バルベールへ行ったら、私もマリーを娘として扱うように心がけよう。もちろん、アロンドや他の者にもそれは徹底させる。つまはじき者扱いは二度としないと約束する」
その答えに、ハベルは父から足元に視線を落とした。
ノールはやれやれといったふうに息をつく。
「いいか、もう一度言うぞ。アルカディアは次の戦争で必ず敗北する。それは我らがアルカディアに残って、持てる全ての情報を王家やイステール家に引き渡したとしてもだ。大局を見誤るな。一番大切なものをいかにして守るかだけを考えろ。情に流されて生き残れるような時勢ではない。分かったな?」
「はい」
「よし。では、亡命の日取りが決まるまで、お前は今までどおり職務を続けろ。分かっているとは思うが、マリーには詳細を話す必要はないからな。向こうに行ってから、説明してやればいい」
「かしこまりました」
「うむ。では、朝食に行くとするか。遅くなってしまったな」
話を終え、2人は部屋を出て行った。
マリーはソファーの陰にしゃがみ込んだまま、しばらくの間ガタガタと震えていた。