122話:スイッチ
その日の深夜。
いつものように一良がエイラとお茶をしていると、話題がグリセア村のことになった。
エイラは興味津々の様子で、あれこれと村での生活について一良に質問している。
「農村の生活って、のんびりしていていいですね。なんだか羨ましいです」
「そうですね。でも、作物がたくさん採れればいいですけど、不作になると大変みたいですよ。私が最初に村に行った時なんて酷い有様でしたから」
「確かに……つい数ヶ月前まで、近隣の街や村は酷い状態だったらしいですね。食べ物がなくて餓死者が出たところもあったと聞いた覚えがあります」
一良の支援が始まってからは、イステリアの備蓄食糧を放出して飢餓状態にある街や村に食糧支援を行ったため、状況は落ち着きを見せている。
冬には豆と芋が十分に収穫できる見通しなので、とりあえず食糧の心配はもうしなくてもいいだろう。
加えて、イステリア以外の街や村にも、すでに揚水水車の設置は始まっている。
今まで開墾できなかった土地も畑として使えるようになるはずなので、今後はさらに収穫高が増えるはずだ。
「バレッタ様はグリセア村出身の方なのですよね? 彼女は平気だったのですか?」
「だいぶ痩せてはいましたが、比較的元気でしたね。ただ、父親のバリンさんは熱病にかかっていてかなり危なかったです。あと1日でも遅かったら間に合わなかったと思います」
「そうだったのですね……バレッタ様にとって、まさにカズラ様は恩人なのですね。グレイシオール様に向かって恩人なんて、おかしな言い方かもしれませんけど」
「恩人ねえ……そんなたいそうなものじゃないんだけどな」
一良がそう言うと、エイラがくすっと笑みを漏らした。
それを見て、一良は小首を傾げる。
「いえ、カズラ様らしいな、と思いまして」
「……エイラさん、もし私がグレイシオールではなくて、実はただの人間だと言ったらどう思います?」
「えっ?」
ふと一良がそんなことを言うと、エイラは目をぱちくりさせた。
それを見て、一良は慌てて言葉を付け足す。
「あ、いや、例えばの話です。私がグレイシオールなんかじゃなくて、実はグレイシオールを自称しているだけの人間だと言ったら皆どんな反応をするのかなって」
「グレイシオール様じゃなくて、ですか? ……うーん」
エイラは少し考えるように首を傾げると、一良ににっこりと微笑んだ。
「たとえグレイシオール様ではなかったとしても、カズラ様は私たちにとっての救世主様であることには変わりありません。でも、もし神様ではないとしたら……ちょっと嬉しいかもしれないです」
「嬉しい? なぜです?」
「ふふ、なぜだと思います?」
逆に聞き返され、一良は困った顔になった。
「……分からないです。答えを教えてください」
「ダメです。ご自分で考えてください」
「ええ、そりゃないですよ……」
不満げな一良に、エイラはくすくすと笑みを漏らす。
「たとえカズラ様がどんな存在であろうとも、何かが変わるといったことはないと思います。リーゼ様も、きっとそうです」
「リーゼも、ですか?」
「はい。リーゼ様はカズラ様のことを、とてもお慕いしておりますから。いろいろと良くしてくださって、本当にありがとうございます」
「ああ……まあ、何だかんだでリーゼには色々と手伝ってもらってますからね。シャンプーとか化粧品とか、エイラさんも使ってみますか? まだいくつか残ってますよ」
「わあ、ありがとうございます……って、そういうことではなくて、友人としてリーゼ様と接してくださっているということです。最近のリーゼ様は、毎日とても幸せそうでしたから」
「幸せそう……ですか?」
そこまでリーゼは幸せそうにしていただろうかと、一緒に出かけた時のことや部屋で過ごしていた時の姿を思い起こす。
幸せそうにしているというよりは、肩の力を抜いて気楽に構えている、といった感想を一良は持っていた。
「はい。打算抜きで付き合える友人なんて、今までリーゼ様には1人もいなかったんです。それに、ニーベル様との塩取引の件もありますし……リーゼ様にとって、カズラ様以上に信頼できて頼りになる方はいないのだと思います」
「そ、それはいくらなんでも言いすぎじゃないですか?」
「そんなことないですよ。きっとそれは、バレッタ様も同じだと思います」
ふいに出たバレッタの名前に、一良は意図を察しかねてエイラを見る。
「リーゼ様はああ見えて、とても寂しがりやです。放っておくとしょげかえってしまいますから、ちゃんと構ってあげてくださいね」
「は、はあ」
曖昧に頷く一良に、エイラは優しく微笑んだ。
次の日の早朝。
日の出とともに目を醒ましたバレッタは、身軽な服装に着替えると軽くストレッチをし、訓練用の木剣を持って部屋を出た。
しんと静まり返った石造りの階段を、コツコツと革靴の音を響かせながらゆっくりと下る。
「あっ」
「あっ」
2階まで下りた時、踊り場でリーゼとばったり出くわした。
リーゼも身軽な格好で、腰には細身の片手剣を差し、手には小型の円盾を持っている。
バレッタのものとは違い、リーゼが持っているものは真剣だ。
「バレッタさん、おはようございます。早起きですね」
「は、はい! おはようございます!」
にっこりと優しい笑顔を向けてくるリーゼに、バレッタは緊張しながらも頭を下げる。
「剣の訓練ですか?」
「はい、どこか広い場所でと……中庭を使わせていただこうかと思って降りてきました」
「そうでしたか。私も毎朝、中庭で訓練をしているんです。せっかくですから、一緒にやりましょう」
「え……ええっ!?」
戸惑うバレッタに構わず、リーゼはさっさと階段を下りていく。
バレッタは慌ててその後を追った。
「剣術歴は何年ほどですか?」
「えっと、基礎を習ったのがだいたい3カ月半くらい前です。きちんと1対1で習い始めたのは1カ月半くらい前です」
「では、まだ習いたてですね。指導者はシルベストリア様ですか?」
「はい、毎朝2時間……1刻くらいずつ指導してもらっていました」
「そうなのですね……私も毎朝訓練をしていますが、一緒にする相手がいなくて不自由していたんです。今後は気が向いた時でいいですから、私の相手をしてくれませんか?」
「えっ」
バレッタが驚いて声を漏らすと、リーゼは振り返って微笑んだ。
「別に毎日とは言いませんから。どうでしょう?」
「は、はい!」
思わず姿勢を正して返事をするバレッタに、リーゼは苦笑した。
「そんなに硬くならないでください。気楽に、ね?」
「はい!」
そのまま階段を下りて廊下を歩き、中庭に出る。
ひんやりとした空気を肌に感じながら、2人は中央の開けた場所に移動した。
「準備運動はしましたか?」
「はい。部屋で柔軟体操をしてきました」
「なら、さっそく始めましょうか……私だけ真剣ではやりづらいですね」
リーゼは扉の前にいる警備兵を呼び寄せると、長剣を借りてバレッタに手渡した。
警備兵を戻らせ、お互い剣を抜いて構える。
「盾はなくても平気ですか?」
「はい、盾無しの訓練ばかり積んでいたので」
「分かりました。では、まずは私が受けに回りますね」
左手を腰に当てて剣を中段に構えるバレッタに対し、リーゼは盾を前面に突き出すようにして剣をやや後方に構えた。
「私は受けに徹するので、打ち込んできてください。形は習っていますね?」
「はい、大丈夫です。あの、防具は……」
「なくても平気ですよ。ちゃんと受けられますから」
「す、すみません。では、中段突きから」
バレッタは緊張しながらも、ゆっくりと剣をリーゼの胸あたりに向けて突き出す。
リーゼは盾をやや斜めにしてそれを受け、軽く払いのけた。
バレッタは形どおりに、スローなペースで剣を振るう。
「バレッタさんのことは、カズラから少し聞きました」
しばらくの間バレッタが無言で打ち込んでいると、ふいにリーゼが口を開いた。
「何でも、村でカズラはずいぶんとお世話になっていたとか。1カ月くらい一緒に暮らしていたんですよね?」
「はい、初めてカズラさんが村にやってきてから、イステリアに行ってしまうまではずっと……」
「バレッタさんは、カズラとどういう関係なのですか?」
一撃一撃を丁寧に受け流しながら、リーゼが問う。
「ど、どういうって……」
「恋人同士なのですか?」
「それは……違い……ます」
「そうでしたか。よかった」
その言葉に少し顔をしかめたバレッタに、リーゼはふっと笑顔をみせる。
バレッタはリーゼに打ち込む部位を見ているが、リーゼはずっとバレッタの目を見つめていた。
「バレッタさん、相手と対峙する時は目を見ないとダメですよ。部位を見て打ち込む癖は直さないと。攻撃をする際に隙が生じますし、相手の動きを読めません」
「は、はい」
村で何度もシルベストリアに注意されていた癖を指摘され、バレッタは慌てて目線をリーゼの目に向けた。
癖は直したつもりだったが、本能的に視線をそらしてしまっていたようだ。
「私、カズラのことが好きなんです」
「……」
じっと目を見つめたまま言うリーゼに、バレッタは何も答えられないまま黙々と剣を振るう。
「少し前に、私はカズラに酷いことをしてしまいました。でも、カズラはそんな私を許してくれて、友達としてお互い誠実に付き合おうって言ってくれたんです」
「友達……ですか」
「そう、友達です」
つぶやくように漏らしたバレッタに、リーゼが頷く。
がんがんと剣が盾にぶつかる鈍い音が、中庭に響き渡る。
その間隔が、少しずつ短くなっていた。
「それから、カズラは本当に私と親しい友人として接してくれました。私はそれが、すごく嬉しかったんです。本当に、嬉しかった」
剣と盾がぶつかる音が次第に大きくなり、間隔がさらに短くなる。
当初は盾だけで受けていたリーゼだったが、剣も使ってバレッタの攻撃を受け始めた。
「この間街でデートしたんですけど、その時に食事をしに寄ったお店でカズラったら……」
街であった出来事を楽しそうに話すリーゼに対し、バレッタは無言で剣を振るう。
剣を持つ手には力が入りすぎており、剣速は速まってリズム感の欠片もない。
時折あぶなっかしい打ち込みが入るが、リーゼはそれを冷静に受け流す。
「バレッタさんは、本当にカズラのことが好きなんですね」
「っ!」
リーゼは突き出された剣を盾で受けると同時に、自らの剣で上からバレッタの剣を叩きつけた。
その衝撃でバレッタは我に返り、慌てて剣を引っ込める。
剣を取り落としこそしなかったが、手がじんと痺れていた。
「も、申し訳ございません! 私、つい……」
「い、いえ……よくあれで剣を手放さなかったですね。びっくりしました」
リーゼは剣を腰の鞘に入れると、バレッタに驚いた顔を向けた。
その頬には汗が一筋流れていて、息も少し上がっていた。
「剣の刃が潰れてしまいましたね。それは私が後で返しておきますね」
「はい……あの、本当に申し訳ございませんでした。私、その……」
「いえ、私のほうこそ意地悪してごめんなさい。あなたの性格が知りたくて、わざとあんなことを言ってたんです」
しょんぼりして謝るバレッタに、リーゼが言う。
「え?」と漏らしながらバレッタが顔を上げると、リーゼは苦笑を向けた。
「カズラがあんなに気に入っている娘ってどんな人なんだろうと思って。あ、もちろんさっき言ったことに嘘は入っていないですよ? お話したことは全部本心ですから」
「は、はあ」
「とはいえ、あんなふうに話されたら気分悪くなりましたよね。私もいくらなんでも、やり方が酷かったです。本当にごめんなさい」
「り、リーゼ様! 顔を上げてください!!」
ぺこりと頭を下げるリーゼを見てバレッタが慌てて言うと、リーゼはすぐに顔を上げた。
「ありがとうございます。ただ……バレッタさん」
「は、はい」
「私、負けるつもりはありませんから」
「えっ」
「お互い、頑張りましょう」
「あの、負けるつもりって」
「ね?」
「は、はい!」
微笑むリーゼに、バレッタは困惑しながらも頷いた。
「(こ、殺されるかと思った)」
優しげな微笑みの裏で、リーゼは剣を交えていた時のバレッタの目付きを思い出して冷や汗をかくのだった。
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