119話:ずっと欲しかった言葉
数日後の昼、一良はアロンドとともに、街なかの飲食店で食事をとっていた。
いつものように一良はマリーが作ってくれたお弁当で、アロンドは店で注文した料理を食べている。
先ほどまでマリーも一緒にいたのだが、今はリーゼの下に向かわせている。
というのも、アロンドが来ると伝えた途端にマリーが表情を強張らせたので、これはいかんと席を外させたのだ。
ちなみに、最近では工事は軌道に乗り、ほぼ職人任せでも平気な状態になっている。
「えっ、値段を元に戻したうえに取引量が5割減ですか? 何かの間違いではありませんか?」
先日リーゼから聞いたニーベルとのやり取りを一良が伝えると、アロンドは合点がいかないといったように眉をひそめた。
「いや、リーゼがそう言ってたんですよ。面会の時にニーベルさんからそう伝えられたらしいんです。正式な通達はまだみたいですけど」
「そうなのですか……しかし、5割減はいくらなんでも……」
アロンドは一良に依頼されてから、グレゴルン領の天候不順について調べていた。
確かに天候不順が起こっているという情報はあり、父のノールからも話を聞くことができた。
だが、取引量を半分にしなければならないというほどにまで、天候が悪化しているといった話は聞いていない。
「グレゴルン領で何かあったといった話は聞きませんか? 製塩作業に問題が生じたとか」
「若干の天候不順が続いているという話は聞きましたが、それ以外は何も聞いておりません」
「ふむ……なんだか分からない話ですね」
アロンドは神妙な面持ちで考え込んでいたが、やがて顔を上げると口を開いた。
「カズラ様、リーゼ様のご様子に何か変わったところはありませんでしたか?」
「変わった様子、ですか?」
「はい。以前より、ニーベル殿はリーゼ様に執心しているという噂を聞いております。面会を始めた4年前から塩が2割引でイステール家に販売されているということと照らし合わせて考えると、取引を盾にして結婚や付き合いを強要したといったこともありえるかと。おそらくですが、リーゼ様はそれを突っぱねたのではないでしょうか」
「え、それって、今回脅しをかけるために4年前から準備してたってことですか?」
「かもしれません。断言はできませんが」
リーゼはニーベルに脅されたり襲われかけたということを、一良を含めた誰にも言っていない。
その時の状況を証言できる者が他にいないため、何かされてしまったのではと思われることが嫌だったからだ。
リーゼが一良に伝えたことは、塩の取引量が半分になるということと、値段が通常と同じ水準に戻るということだけである。
「でも、面会をする時は必ず護衛を付けるようにするってこの間言ってたんで、脅されたってことはないかと思うんですけど……」
「その時の面会でも、確実に護衛は付いていたのですか?」
「それは……分かりませんね」
一良が答えると、アロンドは真剣な表情で頷いた。
「もし先ほど申し上げたような状況で面会がされたならば、脅されたことをリーゼ様は他人に話すことは避けたいはずです。他領の重鎮とはいえ、平民である一商人に大貴族の娘であるリーゼ様が脅されるということ自体が、大変不名誉なことですから。カズラ様に何もお話していないことにも納得がいきます」
「なるほど……だとしたら、彼のことは許せませんね」
「はい。ニーベル殿に対しては私が探りを入れておきます。場合によっては先手を打たねばならない事態に発展する可能性がありますが、対処は私にお任せいただければと」
「分かりました。でも、私も何か手伝いますよ。できることはありませんか?」
「ありがとうございます。では、力をお借りしたい時は遠慮なく頼らせていただきます」
一良の申し出に、アロンドは柔らかく微笑んで答える。
人を安心させるような、実に見事な微笑みだ。
「ナルソンさんとジルコニアさんにも相談をしたほうがいいですね。後で私から話を……」
「いえ、この件は我々だけで対処するのがよいかと。ナルソン様は大変多忙なご様子ですので、心労をかけさせるようなことは避けるべきです。それに、ジルコニア様に話が伝わると、場合によっては直接的な手段に訴える可能性があります。二ヶ領が険悪になる結果を招きかねません」
提案を否定するアロンドに、一良が首を傾げる。
「直接的な手段というと?」
「ジルコニア様は容赦がないお方なので、もし脅されたことが事実だと判明した場合、それらの情報が露見する危険を冒してでも徹底的な報復をするでしょう。あの方はそういうお方です」
そう言われ、一良は最近よく見るようになったジルコニアのほんわかとした表情を思い起こした。
確かに、捕らえた野盗を尋問後に処刑(ジルコニアが自ら拷問まで行ったことを一良は知らない)して晒し首にしたといったことは以前あったが、アロンドの言うような手段に出るかと言われるといまいちピンとこない。
それに、彼女たちに秘密でことを進めるというのは、悪手に思えて仕方がない。
たとえジルコニアが直接的な手段に出ようとしても、自分やナルソンが諌めれば大丈夫だろうと一良は考えた。
「いや、ここはナルソンさんたちにも話をしておこうと思います。ジルコニアさんのことは私が見ておきますから」
「そうですか……かしこまりました。何かあれば申しつけていただければ何でもいたしますので、お声掛けください」
「分かりました、その時はよろしくお願いします」
一良は頷くと、以前から気になっていた可能性についても相談してみることにした。
「ところでアロンドさん、“塩湖”って聞いたことありますか?」
「“えんこ”ですか? いえ、聞いたことがありませんが……ご説明いただいてもよろしいでしょうか?」
「塩湖とは、塩分を大量に含んだ湖のことです。湖の底や周辺からは塩の結晶が直接採取できることもあります。もしグレゴルン領に塩湖があれば、塩の生産量や品質についても説明がつくと思いまして。ごく稀にですが、内陸にそういった場所が存在するんです」
以前、リーゼからグレゴルン領には野生動物が他領よりもかなり多いと聞いたことがあった。
そのことから、塩の品質や生産量と照らし合わせて、『もしかしたら』と考えていたのだ。
塩を摂取できる場所がある地域では、野生の草食動物の生存率がかなり高くなる。
塩には消化吸収を助ける役割があるので、頻繁に塩を補給できる環境では動物の栄養状態がぐっと良くなるからだ。
食料の乏しい冬は、その傾向がより顕著である。
「……いえ、そういったものがグレゴルン領にあるとは聞いたことがありません。それに、もしそのようなものがあれば噂になっているはずです」
「確かにそうなんですが、もしやと思いまして。私のほうでも調べますが、アロンドさんも探りを入れていただけると助かります」
「かしこまりました。もし塩湖が存在したら、場合によっては交渉の材料に使うということですね?」
「ええ。彼が自分だけの判断で塩の取引量を決定できるほどの権限をもっているとすれば、塩湖を保有しながらも領主には存在を隠している可能性があります。もしそうなら、それが公表されると彼にとって都合が悪いことが起こるはずです」
「そうですね、そのようなことを隠していれば財産没収の憂き目にあってもおかしくありません。そちらについても、早急に調査してみます」
アロンドは食事を済ませると席を立ち、一良に一礼した。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。情報が入り次第すぐにご連絡いたしますので」
「はい、よろしくお願いします。……あの、アロンドさん?」
「何か?」
立ち去ろうと背を向けたアロンドに、一良は声をかけた。
アロンドはすぐに振り返り、いつもどおりの穏やかな表情を一良に向ける。
「……いえ、何でもありません。よろしくお願いしますね」
「はい、お任せください。失礼いたします」
もう一度深く一礼して去っていくアロンドを見送り、一良は小首を傾げた。
「……なんだかアロンドさん、怒ってなかったか?」
塩湖の説明をした際、ほんの一瞬だけアロンドの瞳に怒りの色が浮かんだように一良には見えた。
それで思わず呼び止めてしまったのだが、結局なんだったのか分からずじまいだ。
一良は首を傾げながら食事を再開し、先ほどの会話を反芻するのだった。
「(あ、やばい)」
その日の夜。
自室にナルソンとジルコニアを呼び出した一良は、アロンドの忠告を無視したことをさっそく後悔していた。
リーゼの件を話した途端、ジルコニアの目付きが明らかに変わったからだ。
「そ、それでですね、今アロンドさんに探りを入れてもらっているところでして」
「おそらく黒です。殺してしまいましょう。彼が次に領地にやってきた時、薄暮を狙って移動中のところを襲撃し、連れの者ともども皆殺しにします。これなら目撃者も出ませんから」
「おいおい、そんなことすれば大問題になるぞ。どう見ても我らが手を出したということが丸分かりだろうが」
「そうかしら? 野盗にでも襲われたと思われるんじゃない?」
「いや、基本的に使者はかなりの数の護衛を連れているから……というか、たとえ少数でも護衛が付いている集団を野盗が襲うことなんてまずないだろう。明らかに不自然すぎる。むしろ、どうしていきなり暗殺にまで話が飛ぶんだ」
「そ、そうですよ。それに、まだ本当に黒だと確定したわけじゃないんですから」
2人が諌めると、ジルコニアは不満げな表情になった。
「なら、どうするというのですか? 娘を辱められて、このまま黙っていろとでも?」
「ですから、まだ辱められたと決まったわけじゃないんですって。脅されたかもしれないっていうだけで」
「過去のニーベルからのセクハラの件を考えれば、ありえない話ではないでしょう。最近のイステール領の状況を見て、好機とばかりに弱みに付け込んで、リーゼに手を出したに違いありません! 塩取引の話からしても、それくらいのことがあったと考えるのが普通ではないですか!!」
「落ち着け! 声を荒げたって仕方がないだろうが!」
今にも立ち上がらんばかりにまくしたてるジルコニアを、ナルソンが怒鳴りつけた。
ジルコニアは、はっと我に返ると、ばつが悪そうに一良に目を向ける。
「……ごめんなさい。つい興奮してしまって」
「い、いえ……」
まさかここまで彼女が激昂するとは思っておらず、一良は面食らってしまっていた。
ナルソンは一つ咳払いをすると、黙ってしまった2人に代わって口を開いた。
「取引量の減少が取り消されたならともかく、半減するという話をリーゼがしているということは、たとえ脅されたとしてもリーゼはそれを突っぱねたのでしょう。ただ、面会の時はニーベルと2人きりだったというのがどうも……」
「私が直接リーゼに聞くわ。埒が明かない」
「いや、それはやめておけ。自分から言わないと言うことは、たとえ親にでも知られたくない理由があるのだろう。本当に脅されたのだとしたら、の話だが」
「……」
「とりあえずは様子見ということにいたしましょう。後ほど、私からアロンドに話をして、今後の対策を再度調整することにいたします。リーゼの様子はエイラに注視させることといたしましょう。ジルもそれでいいな?」
「……ごめんなさい。少し頭を冷やしてきます」
ジルコニアはつぶやくように返事をすると、立ち上がって部屋を出て行った。
ぱたんと閉まった扉を残された2人は見つめ、しばし沈黙する。
「……カズラ殿、申し訳ございませんでした。ジルは時折、あのように感情的になることがありましてな」
「いえ……でも、彼女の心配することも分かりますよ。母親ですもんね」
一良がそう言うと、ナルソンは少し困ったような表情を浮かべた。
「まあ……そうですな」
歯切れ悪く返事をするナルソンに、一良も以前ジルコニアから聞いた2人の馴れ初めを思い出して曖昧に頷く。
再び、短い沈黙が流れた。
「今までリーゼのおかげで商業取引や支援回りではだいぶ助かっておりましたが、少し頼りすぎてしまっていたようです。カズラ殿のおかげで領内は持ち直すことができましたし、今後面会するかどうかの判断は、極力リーゼ本人に任せようかと思います」
「分かりました。そうしてあげてください」
その後、ジルコニアが戻ってくるまでの間、2人は対策について話し合うのだった。
それから10日後。
一良は自室で、ハベルから街なかの井戸掘りの報告を受けていた。
部屋にはリーゼとエイラ、そしてマリーもおり、皆で3時のおやつを食べている状況だ。
お茶はチョコレートフレーバーティー(ノンカロリー)で、お茶菓子はエイラお手製のフルーツクッキーである。
最近になってマリーもようやくこの空気に慣れてきたのか、くつろいだ様子でクッキーをぽりぽりと齧っている。
近頃は工事の監督業務もほとんどしなくてよい状態に落ち着き、一良の食事を作るたびの試食も相まって、身体は健康そのものだ。
精神的にも余裕が出てきたようで、普段からよく笑顔を見せるようになっていた。
「そっか、5つだけですか……」
「はい。全部で150ヵ所近く掘ったのですが、それ以外はすべて岩盤に当たってしまいました」
残念で仕方がない、といった表情でハベルが頷く。
「水が出た場所に特徴はないだろうかと調べてみたのですが、特徴らしい特徴はありませんでした。このまま手当たり次第掘り続けるしかないかと思いますが……続けますか?」
「いっそのこと街なかの試掘は全部取りやめて、別の場所で井戸掘り機を使ったらどうかな? 150ヵ所掘って5箇所しか水が出ないんじゃ、効率が悪すぎるよ」
2人が唸っていると、リーゼが口を挟んだ。
リーゼはあれからも普段どおりで、一良は気をつけて見ていたが特に変わった様子は見られなかった。
エイラから見ても何もおかしな点は見られないということで、ニーベルについての話題がリーゼとの間で出たことも一度もないらしい。
しいて挙げるとすれば、リーゼは前よりも一良の後を付いて回るようになってきたということだろうか。
一良にはだいぶ気を許しているのか、リーゼは2人きりになるとソファーでうたた寝していることが何度かあった。
一良はその都度毛布をかけ、寝かせたままにしていたのだが、リーゼはものの30分もすると目を醒ましていた。
「そうだな……岩盤だらけの街なかを掘るより、そのほうがよさそうだ。国境付近に建設途中の砦にでも持っていくか」
「それならば、砦の周囲に作っている畑も効率よく広げることができますね。あちらでも岩盤に当たることが時々あるらしいので、役立つかと思います」
しばらく話していると、部屋の扉がノックされてアイザックが入ってきた。
「カズラ様、以前お話した職人が間もなく……あ」
「お、ついに来ましたか。……どうかしました?」
一良が首を傾げると、アイザックは慌てた様子で表情を取り繕った。
「い、いえ……間もなく職人が屋敷に到着しますが、こちらにお連れすればよろしいでしょうか?」
「いやいや、無理言って来てもらったんですし、出迎えますよ」
立ち上がる一良に続き、他の4人も席を立った。
一良とリーゼを先頭に、ぞろぞろと連なって廊下へと出る。
皆で出迎えなければならないというわけではないのだが、2人が立ったので皆が続いたかたちだ。
「職人って、前に言ってた機械を再設計したり自分で新しいのを作ったりしたっていう人?」
「そうそう。イステリアから離れたところに住んでるらしいんだけど、無理言って来てもらうことにしたんだ」
広場へと続く廊下を隣り合って歩きながら、一良とリーゼが言葉を交わす。
その様子を、アイザックは背後から『ヤバイ』といった表情でちらちらと見ていた。
「かなり頭のいい人みたいだから、なんとかお願いして職人の取り纏めをしてもらおうと思ってるんだ。イステリアの職人でも機械の改良を提案してくれた人はいたけど、その人の発案してくれたものは数段優れてたからね」
「そうなんだ。性格もいい人だといいね」
「話を聞く限りでは、すごくいい人らしいぞ。素直で明るいんだってさ」
「職人なのに素直って珍しいね。どんな人なんだろ」
和気あいあいと話す2人の後ろで、アイザックはこっそりとハベルに顔を寄せた。
「……おい、リーゼ様は今日は面会じゃなかったのか?」
「そう聞いておりましたが、急遽キャンセルしたとのことです。何でも、『何だか今日はカズラの部屋にいたい気分』とのことで」
「そ、そうか……」
「……アイザック様、何かやらかしたんですか?」
若干顔色を悪くしているアイザックに、ハベルが問いかける。
「ああ……いや、たぶん大丈夫だ。すんなり終わるはずだ。たぶん」
そうこうしているうちに、6人は広場に到着した。
それと同時に、1台の馬車が騎兵に連れられて広場に入ってきた。
「お、あの馬車か。さて、どんな人かな」
ぱからぱからと蹄の音を響かせて、馬車はゆっくりと近寄ってくる。
以前一良が乗ったような個室タイプの豪勢な馬車で、上段にはスラン家の家紋が描かれていた。
「……ん?」
目の前に横付けされた馬車の窓からのぞく青い瞳と目が合い、一良が声を漏らした瞬間。
馬車の扉が、ばんと開いた。
「カズラさんっ!!」
「げふっ!?」
小奇麗な衣装に身を包み、満面の笑みを湛えたバレッタが、体当たりするかのような勢いで一良の胸に飛び込んだ。
その衝撃で危うく吹っ飛びそうになったその身体を、背後にいたハベルが慌てて支える。
「バ、バレッタさん!? どうして……」
「私、色んなことができるようになりました!」
驚いて目を剥いている一良の言葉に被せるように、バレッタは一良を見つめて一気にまくし立てる。
「機械設計も建物の建築も、武術も医学も薬品の精製も! もう、絶対に足手まといにはなりません! きっと役に立ってみせます!! だから……」
そしていっそう強く、掴んでいる一良の服を握った。
目尻には若干涙が浮かび、縋るように一良を見上げている。
「だから、カズラさんの傍にいさせてください」
「あ、はい。お願いします」
鬼気迫る様子で言うバレッタに、思わず一良は気の抜けるような返事を返してしまう。
「ほ、本当……ですか?」
「もちろんです。それこそこっちからお願いしたいくらいで。ていうか、職人ってバレッタさんのこと……ってちょっと!?」
「ふえええん」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣き出したバレッタを、一良は慌ててなだめる。
皆が唖然とその様子を見守るなか、アイザック1人だけが頭を抱えていた。