118話:我慢の限界
数日後、一良はアイザックとともに、街なかに建設中の製材所にやってきていた。
作りかけの建物の中には製材機が設置されており、外には動力水車が置かれている。
製材機はノコギリが縦に往復運動する縦型製材機だ。
動力水車から小屋の中に延びた心棒には車輪が取り付けられており、その車輪の上に跨るかたちで製材機が置かれている。
車輪には、クランクと呼ばれる可動式の青銅製の板がとりつけられている。
これはクランク機構と呼ばれる構造で、自動車のシリンダー部分に使われているものと同じかたちのものだ。
車輪の回転に合わせてクランクが上下に動き、その上に設置されているピストンを押し引きすることで、回転運動を直線運動に変換するのである。
「今動かしますので、少々お待ちください」
アイザックが職人に命じて水車を動かすと、製材機のノコギリが上下に往復を始めた。
動きはゆっくりで、人が手で動かすものと大差はない。
「あまり早く動かすと動作部分が磨耗してしまいますが、この程度の速さなら問題ないようです。ご指示どおり油も挿していますので、長持ちするかと思います」
「ふむ、あとの問題はノコギリの刃の耐久性くらいですかね。それにしても、この製材機は精度が良さそうですね」
見たところ問題はないようで、このまま実作業に使うことができそうだ。
腕のいい職人のグループが作ったものなのか、素晴らしい出来栄えである。
「それが一番出来のいい製材機ですね。製作が上手く行かなかったグループは作業を中断させておりますが、一旦グループを解散させて他のグループに人員を割り振ってもよろしいでしょうか」
「それだと彼らのプライドを傷付けないか心配ですが……あ、前に言ってた、再設計したグループのものってあります?」
「はい、用意してあります。そこの端に置いてあるものがそうですね」
アイザックの指す方を見ると、他のものとは若干見た目が異なる製材機が置かれていた。
切断する木材を横たえる場所には、革で作られたベルトが付属されている。
ベルトはズボンに付けるものと同じ構造で、木材の厚みによって長さが調節できるような仕組みになっていた。
このベルトで木材を固定しなければ、ノコギリの刃が木材に引っかかった時に跳ね上がってしまって危険だろう。
「しまった、固定具のことにまで頭が回らなかったな……あれ、これってもしかして、ほとんどの部分がクサビで固定してあるんですか?」
「はい。釘だと不具合が出た時に分解するのが難しいのと部品を傷めてしまうとのことで、ほぼクサビを使って固定したと聞いております」
驚いて目を剥いている一良に、アイザックは少し緊張した様子で答えた。
ここで言っているクサビとは、木の板を斜めにカットした固定用部品のことだ。
斜めに切られている木材を接合部にめり込ませる固定法であり、接合する部品との接触面積が非常に広いため、釘をはるかに上回るすさまじい強度を発揮することができる。
精巧に作られたクサビは接合する木材と一体になるような状態になるため、まったく緩みが発生しない。
日本では一般的な接合法であり、木製の椅子やテーブルなどをよく見てみると、クサビで固定されているものが結構身近にあったりする。
「こりゃすごいな……ていうか、クサビって普通に使われているものだったのか。確かカンナがないと……あ、スライサーが市場に出回ったからか」
クサビの加工や仕上げにはカンナ(木材の表面を削るための道具)があると非常に便利だ。
つい最近、イステリアの市場にはカンナと似た形状であるスライサーが出回っていたため、それをヒントにしてカンナを作ったのだろうと一良は納得した。
クサビの打ち込まれている穴は反対側に貫通しており、打ち込んだのと逆側から板などを当てて木槌でクサビを叩けば取り外すことができるようになっていた。
かなり精度よく作られているようで、どこから見ても隙間はまったく見当たらない。
クサビの先端が飛び出たはずの接合面は、綺麗な平らに仕上げられている。
「これはメンテナンス性がよさそうですね。それに、可能な限り構造をシンプルにするように頑張った跡が見られますね。上手いことできてるな……」
「その方は鉱石を砕く鉱石粉砕機という機械も開発したそうです。ここに現物はありませんが、図面は預かってきております」
「ま、マジですか。その職人さんすごいですね……製材機とかの仕組みを見て思いついたのかな」
「すごく頭のいい方で、機械の設計や製造手腕には目を見張るものがあります。しかるべき地位に据えれば、きっと活躍してくれると思いますが」
「そうですね、ぜひ1度会ってみたいです。呼び出してもらうことはできますか? その方が忙しいようなら、私が出向いてもいいですよ」
そこまで頭がよく腕のいい職人なら、街の一職人としておくのはもったいない。
職人たちを取りまとめる職人頭として、機械の製造や開発を任せてしまいたいところだ。
「それが、今は色々と予定が立て込んでいるようでして、すぐに会うというのは難しいと思います。都合をつけて屋敷に呼び寄せますので、それまでお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、それなら私が出向きますよ。ジルコニアさんかリーゼにも付いてきてもらったほうがいいかな」
「い、いえ、その方は街から少し離れた場所に住んでいる方でして、そこまで行くのには時間がかかります。私のほうで調整しますので、お待ちいただきたいのですが」
少し焦ったように、アイザックは言う。
若干不自然な受け答えだったのだが、一良はそれよりも話の内容に驚いていた。
「えっ、イステリアの職人さんじゃないんですか!」
「はい、イステリア以外にも優秀な人はいるようです。とてもやる気のある方なので、ぜひカズラ様の下で働かせていただければと」
驚いて目を剥く一良に、アイザックは笑顔で頷く。
「そっか、ここ以外にも職人はいますもんね。他の街にも目を向けるべきだったか……性格はどんな感じです? 気難しい人じゃなければいいんですけど」
「とても素直で、周囲に気遣いもできる方です。それに前向きで明るいので、きっとカズラ様とは気が合うと思いますよ」
「おお、よかった。早く会ってみたいです」
「今のお言葉、その方にお伝えしておきます。その方もカズラ様にお会いしたい様子でしたので、きっと大急ぎで準備をしてくれると思いますよ」
「え、私のこと知ってるんですか?」
一良が首を傾げると、アイザックは慌てた様子で手を振った。
「い、いえ! 今回の機械の製作を依頼した際に、少し街のことで雑談しまして! 他国から技術提供をしてくれている方がいると、少し話したんです」
「そうなんですか。でも、協力してくれそうなようでほっとしました。会うのが楽しみです」
なおも製材機を眺めながら感心している一良に、アイザックはほっと息をついた。
その頃、ナルソン邸の談話室では、リーゼがニーベルとソファーに向かい合って座っていた。
ニーベルから商業取引についての打ち合わせも兼ねたいとの申し出があり、人払いをしているため部屋には2人きりだ。
微笑をたたえているリーゼとは対照的に、ニーベルはいぶかしんだ表情になっている。
「ほう。塩は通常価格に戻してもよろしいと?」
「はい」
ニーベルは値踏みするようにリーゼを見ると、わざとらしく首を傾げてみせた。
「失礼ですが、イステール領の財政はかなり厳しいのではありませんか? 今ここで塩の値段を元に戻すと、ナルソン様は大変お困りになるかと思うのですが」
「確かにそうなのですが、グレゴルン領でも天候不順で塩の生産がままならないのですよね? それなら、私のわがままでニーベル様にご迷惑をおかけするわけにはいきません。なんとか自分たちで切り詰めて頑張ろうと思いますので、どうかお気になさらないでください」
「……そうですか。いや、確かに我々も今は大変な状況にありましてな。リーゼ様がそう言ってくださるのなら、少々調整させていただこうかと思うのですが……」
ニーベルはそう答えると、腕組みして考えるように唸った。
リーゼは答えを待ち、じっと彼を見つめる。
「では、塩の価格は従来の水準に戻し、取引量も5割ほど減らさせていただこうかと思います。また、今後はクレイラッツとも我々が直接取引をさせていただこうかと思います。しかしそうなると、たとえ天候が戻ったとしても今までのような取引はできなくなります。……それでもよろしいですかな?」
薄く笑みを浮かべて言うニーベルに、リーゼはにっこりと微笑んだ。
「分かりました。こちらは大丈夫ですので、どうかお気遣いなく」
「なっ……!」
「どうかいたしましたか?」
一瞬表情をなくしたニーベルに、リーゼはわざときょとんとした表情を作ってみせる。
ニーベルは慌てて表情を取り繕うと、一度咳払いをした。
「か、価格は元より、一度取引量を減らすと、いつ元の量に戻せるかは分かりませんぞ」
「はい。残念ではありますが、仕方ありませんね」
「リーゼ様がご協力くださるのであれば、今までどおり2割引の価格で……いや、もう1割値引きすることもやぶさかではありませんが」
「申し訳ございません。私も最近忙しくて、ニーベル様をお手伝いできるような余裕はないのです」
リーゼが答えると、ニーベルは怒りの篭った視線をリーゼに向けた。
「……この状況で私の申し出を断るということが、どういう結果を招くか分かっておいでか?」
「もちろんです。卸による収入がなくなるのは辛いですが、他の分野に力を入れて補おうと思います」
「塩の取引量が減れば価格が高騰し、民はさらに困窮しますぞ。それに、価格の高騰でよからぬ噂でも流れれば、イステール家が民から非難を受けることになるかもしれません」
「……噂、ですか?」
リーゼが目を細めると、ニーベルの顔がにやりと歪んだ。
「例えばの話です。急に市場に出回る塩が減って価格が高騰を始めたとあれば、イステール家が何か不手際を起こしたといった噂が流れてもおかしくないと思いましてな。経済的に苦しい時に、さらに民の不満を増大させると色々と不穏なことにも繋がりかねません」
「……」
「ですが、リーゼ様がご協力くだされば、取引量と価格は従来のまま据え置きにさせていただきます。それに加えて、数ヶ月後からはイステール家には通常価格より3割引で販売すると約束しましょう。クレイラッツへの卸でさらに儲けることができれば、その資金を領内の事業に回すことができるはずです。ご両親も喜ばれるかと思いますが?」
「協力とは、いったい何をすればよろしいのですか?」
リーゼの言葉に、ニーベルの表情が喜色に染まった。
「お分かりいただけませんかな? 少し私を満足させてくだされば、それでよいのですよ」
「……気持ち悪い」
「……は?」
ぽかんとしているニーベルに、リーゼは心底軽蔑したような表情を向けた。
「気持ち悪いと言ったのです。そのようなふざけた提案に、私が乗ると本気で思っているのですか?」
リーゼが言い終わるのと同時に、ニーベルは額に青筋を浮かべて立ち上がった。
リーゼは冷めた表情で、じっと彼を見上げている。
「どうなさいました? 顔色が優れないようですが?」
リーゼがさらに挑発すると、ニーベルは表情を歪めてずかずかとリーゼに歩み寄った。
ソファーに座るリーゼの正面で立ち止まり、ギロリとリーゼを睨みつける。
リーゼは怯まず、キッと彼を睨み返した。
「あまり調子に乗るんじゃない。自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「立場をわきまえなさい。誰に対してものを言っているのです」
リーゼが言い終わるのと同時に、ニーベルは無言でリーゼの口へと手を伸ばした。
リーゼは反射的に右手を左手の袖口に突っ込み、隠し持っていた短剣を引き抜く。
ニーベルの手がリーゼの口に微かに触れるのと、リーゼの短剣が彼の喉元に突きつけられるのは同時だった。
「うっ」と声を漏らして後ずさる彼を追ってリーゼは立ち上がり、その喉元に刃を突きつけたまま彼を背後のソファーまで追い詰めた。
倒れこむように再びソファーに座ったニーベルの喉に刃先を少しだけ当て、くいっと手首を捻る。
小さくできた傷口に、ぷつっと血の玉が浮かんだ。
「ひっ」
「……今、何をしようとしたのですか?」
静かに冷たい口調で言うリーゼだったが、内心酷く動揺していた。
身体の外に音が漏れてしまうのではないかというほど、心臓はばくばくと早鐘を打っている。
それを無理やり圧し殺し、表情は一切変えずにニーベルを睨みつけた。
「今まで必死に我慢してきましたが、もうやめにします。二度と私のところに来ないでください」
「……っ!」
それでも鋭い視線を向けてくるニーベルに、リーゼはもう一度短剣を小さく捻る。
傷口が僅かに広がり、赤い筋が喉に流れた。
「や、やめっ」
「聞こえましたか? 声が出しにくいようなら、口をもう1つ喉に作って差し上げましょうか?」
「わ、分かった! 分かったからやめてくれ!」
リーゼはその返事を聞くと、短剣を引いて一歩下った。
「ご理解いただけてよかったです。どうか、お気をつけてお帰りくださいませ」
ニーベルは首に手を当てると、手のひらに付いた自分の血を見てリーゼに怒りの眼差しを向けた。
「よくもこのようなことを……後悔することになるぞ!」
ニーベルは吐き捨てるように言うと、足音も荒く部屋を出て行った。
リーゼはしばらく扉を見つめると、深く息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。
「あ、危なかった……」
よくあそこで身体が動いたと、リーゼは自分に驚いていた。
ニーベルの態度があまりにも頭にきて、思わず脅しに対して挑発で返してしまったのだが、まさか掴みかかってくるとは思わなかった。
もしあのまま掴まれていたら、と考えると心底ぞっとする。
ジルコニアの勧めで日ごろから左手の袖には小型の短剣を忍ばせているのだが、これがなかったら今頃酷い目にあっていたに違いない。
口を押さえられて、助けを呼ぶこともできないまま辱められていただろう。
だが、自分がニーベルを挑発さえしなければ、このような事態にはならなかったはずだ。
こんなことなら、何と言われようとも護衛を付けて面会をし、塩取引の話を出させないようにすればよかった。
「……何で震えてるのよ。あんなやつ相手に」
自分の身体が小さく震えていることに気づき、リーゼは唇を噛んだ。
両手で身体を抱くようにし、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
少ししてなんとか平静を取り戻すと、袖の中に短剣を戻した。
「……カズラのとこ行こう」
気を取り直すように言って立ち上がり、足早に部屋を出るのだった。