104話:濃霧
日本に帰還した一良は、建設会社の会議コーナーで取締役と会っていた。
テーブルの上には、A3用紙に印刷された工事計画書が重ねて置かれている。
「前回話したとおり、今回の作業は本改修の前の事前改修って扱いだ。本改修は来年の雨季の後に、地区ごとに分けて取り掛かることになるな」
図面の見方を説明してもらい、工事の概況の説明に入る。
図面は赤黄図面と呼ばれるもので、赤色で描かれた部分が改修部位、黄色で描かれた部分が撤去部位と色分けされていた。
「こっちの旧河川は、この部分が不自然に広がって見えるだろ? 恐らくこれは、過去の増水で本来あったはずの陸地が洗掘されて決壊した上に、川裏まで土が削れて川幅が広がっちまったんだな」
「ふむふむ……あの、『洗掘』ってどういう意味ですか?」
「堤防が水流で削り取られることだ。補強はされているようだが、このままだとまたここから決壊するだろうな。それで、この部分の対策には上流側の擁壁から全部作り直す必要があってだな……」
「『擁壁』って何ですか?」
「川の斜面が削られないようにするための壁のことだ。……そうか、そういった用語も付録に付けておくべきだったか」
こりゃまいったと、取締役は頭をかいている。
「勉強不足ですみません……」
「いや、元々数千年前の人間にも分かるように計画書を作るって話だったからな。もっと気をつけるべきだったよ。本改修の図面は、もっと丁寧に作っておく」
そんなやりとりをしながら、計画書の説明を受けること数時間。
本改修部分の打ち合わせも終え、一良は事前改修計画書が入った封筒を受け取り席を立った。
取締役は終始ノリノリな様子で、『山から水道橋引っ張って噴水とか作るのはどうだ』とか『せっかくだから街の全域に上下水道を引いてみるか?』などと、説明の合間に冗談交じりに言っていたりもした。
彼からしてみれば、ほぼ好き勝手に内容をいじれる上にお金も貰えるという、気楽で楽しい仕事なのだろう。
「説明ありがとうございました。これで雨季には間に合いそうです」
「満足してもらえてよかったよ。木製の聖牛なんて学校で習ったきりだったが、まさか仕事で使うことになるとは思わなかったな。何でも勉強しておくもんだ」
一仕事終えた、といった様子で、取締役は満足そうな表情をしている。
聖牛とは、水の勢いを和らげるために川底に設置する装置のことだ。
束にした丸太の上に石を載せたもので、イステリアでも簡単に製作することができるだろう。
「それでは、また本改修の図面が仕上がる頃に伺います。よろしくお願いしますね」
「おうよ、任せておいてくれ。……ところで、1つ聞きたいことがあるんだが」
会社を後にすべく一良が一礼すると、取締役が引き止めてきた。
「工事を行った後の現場のCGも、この間見せてもらった写真と同じような具合で作ったりするのか?」
「そうですね。せっかくなので作るつもりです」
「そうか! もしよければ、俺にもそのCGを見せてもらいたいんだが……どうだろう?」
「構いませんよ。ただ、コピーして差し上げたりすることはできないんで、見せるだけになっちゃいますけど」
一良がそう答えると、取締役は嬉しそうに目元を綻ばせた。
「ああ、もちろんそれで構わないよ。楽しみにしてる。今後ともよろしく」
満足そうにしている取締役に正面玄関まで見送られ、一良はその場を後にした。
取締役は去っていく一良の背を見送りながら、感慨深げに「ふむ」と唸った。
「写真をコピーできないってことは、俺が作った工事計画書とCGをセットにして本でも作るつもりかな? 素っ頓狂だが、なかなか面白い着眼点だ。出版したらそこそこ話題になるだろうな」
取締役は1人で納得すると、作業の続きをすべく社内へと戻っていった。
建設会社を後にした一良は、バレッタが持たせてくれた弁当を車の中で食べた後、県内のとあるソフトウェア会社の会議コーナーを訪れていた。
来社の目的は、数日前にナルソンやリーゼと話した時に思いついた『あちらの世界の言語で書き込めるソフト』の開発の依頼だ。
「それで、全く新しい文字をキーボードでローマ字を打つような感じで、メモ帳みたいなものに出力するソフトを作って欲しいんですけど」
「それは俗語を作るってことですか?」
テーブルの対面に座る女性社員が、一良の質問に首を傾げる。
「俗語というか、創作言語を作ってそれを使えるようにしたいんです。どう説明すればいいのかな……」
「えっと……簡単にいえば、オリジナルフォントを作ってそれに文字などを連動させるといった認識でよろしいでしょうか?」
「あ、そうそう、それです。できますかね?」
素人丸出しな一良の質問に、女性社員は頷いて見せた。
「できますよ。というか、それなら私どもに開発をご依頼されなくても、既存の市販ソフトで十分対応できます」
「え、そうなんですか? それって、表計算ソフトとか文章作成ソフトとかでも、作成したフォントが使えたりします?」
「WEB上で第三者が閲覧するのは無理ですが、その辺りは普通のフォントと同じ扱いでいいと思います。自分のホームページを作って、そこにそのフォントを第三者でも閲覧可能なように工夫をすれば大丈夫ですよ」
女性社員の説明に、一良は「おお」と声を漏らした。
工夫がどうのと言われてもさっぱり分からないが、オフラインでしか使う予定はないので問題ない。
「あ、WEBに上げたりするつもりはないんで、そこは大丈夫です。そのソフトってどこで手に入るのか教えてもらってもいいですか?」
「確かダウンロード版とパッケージ版があったと思います。パッケージ版でもネットの通販で注文すれば、明日には手に入りますよ。ソフト名は○○で、値段は6000円くらいだったかと思います」
「ありがとうございます、早速注文してみます。……何か、質問だけしに来たみたいになっちゃってすみません」
一良が申し訳なさそうに謝ると、女性社員はにこりと微笑んだ。
「いえいえ、お役に立ててよかったです。また何かありましたら、いつでもお声掛けくださいね」
こうして、タダでお茶だけ飲んで情報を貰い、一良はソフトウェア会社を後にした。
その後、ネットでオリジナルフォント作成ソフトを注文した一良は、もはや行き付けとなっているホームセンターへやってきた。
いつものように園芸コーナーへと向かうと、顔なじみの主任店員が近寄ってきた。
「志野様、ご来店いただきありがとうございます」
「お久しぶりです。今日は耐火レンガを……あれ? 役職変わりました?」
ふと主任店員の名札に目をやると、そこには『主事 フロアマネージャー』と肩書きが記載されていた。
「ええ、この間昇進しまして、主事になったうえにフロアの統括を任されることになったんです。といってもなるべく売り場には出ているつもりなので、今までどおりお申し付けいただければと思います」
「おお、それはよかったですね! おめでとうございます!」
「ありがとうございます。今後とも頑張りますので、ご贔屓にしていただきたく思います。それでは、耐火レンガですが、こちらに何種類かありまして……」
主任店員改め主事店員は一良に深々と頭を下げると、レンガが置かれている売り場へと移動した。
途中、農薬コーナーに硫黄粉末が置いてあったので、根こそぎ取り置きしてもらった。
「レンガは全部でいくつご入用ですか?」
「んー、どれくらい必要なんだろ。製鉄炉を作ろうと思ってるんですけど」
一良はバレッタからレンガを頼まれはしたが、どれくらい必要なのかは聞いていなかった。
バレッタの口ぶりからすると「試しに作ってみたい」といった程度の話だったので、そこまで大量には使わないだろう。
「製鉄炉ですか。炉の大きさにもよりますが、少し多めに用意しておいたほうがいいかと思います。耐火モルタルも必要になると思うので、合わせてご案内いたしますね。燃料はコークスでしょうか?」
「いえ、燃料には木炭を使う予定なんです」
コークスとは、石炭を蒸し焼きにして作った燃料のことだ。
木炭に比べて持続性も安定性も優れているので魅力的だが、使い方によっては石炭内の硫黄分のせいで鉄をダメにしてしまう恐れがあるので注意が必要だ。
バレッタは山で炭焼きをしているということなので、燃料に使うのは木炭だろう。
以上の情報は、バレッタに買っていった金属精錬の本に詳しく記載されていた。
一良はまだ細かく読み込んではいないので、詳しいことは理解していない。
「木炭ですか。木炭高炉のような本格的な炉を作るようなら、かなりの量の耐火レンガが必要になるかと思います。お作りになろうとしている炉は、どんな形式のものですか?」
木炭高炉とは、塔のような形をした大型の炉のことだ。
1日で軽く1トン以上の鉄を生産できる優れもので、炉の高さは4メートルから5メートルに達する巨大なものである。
「いや、手動のフイゴで風を送りながら鉄鉱石を溶かして、それをひっぱたいて作るような原始的な製鉄なんで……というか、ずいぶんと詳しいんですね」
「フロアマネージャーですので」
きりっとした表情で答える主事店員。
彼は質問すれば何でも答えてくれるので、非常に頼りになる。
ちなみに、一良が言っている炉は、『レン炉』といわれる原始的な炉のことだ。
1日の鉄の生産量は数キロがいいところで、量産には向いていない。
バレッタはどんな炉を作るとは言っていなかったが、作るとしたらレン炉だろうと一良は考えた。
「そ、そうですか。じゃあ、とりあえず少し多めに買って行くことにします。大体の数を見繕ってもらえますか?」
「かしこまりました。それでは、店内の在庫全てということで……」
「うん、それ少し多めとかいうレベルじゃないですよね」
「す、すみません、少し調子に乗りました」
そんなこんなで、主事店員に協力してもらい、製鉄炉作りに必要な部材を見繕ってもらった。
燃料として備長炭を強く勧められたので、せっかくだからと何箱か購入した。
その他にも、モルタル作りの際に使う簡易マスクや防塵ゴーグル、ナルソン邸で使うLEDライトなども一緒に購入した。
バレッタに頼まれた他の品物も、一通り揃えることができた。
メモ紙には、木製の樽、針金、鋼鉄製の円刃や方位磁石など、村や山で使うと思われる品物が色々と記載されていた。
以前頼んだ脱油機もメーカーに在庫があるとのことなので、明日着で屋敷まで届けてもらうことにした。
「とりあえずこんなものですかね。また立ち寄った際はよろしくお願いします」
「毎度ありがとうございます。志野様のご注文には最優先で対応させていただきますので、何卒今後ともよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる主事店員に見送られ、一良はホームセンターを後にした。
「思ったより時間かかっちゃったな。バレッタさん、待ちくたびれてるかな……」
その後もグンマー牧場で堆肥の発注を済ませたり、スーパーでグリセア村用の食料品を買い込んだりしているうちに、いつの間にか時刻は19時を回っていた。
大慌てで屋敷へと戻り、買い込んだ荷物は屋敷に置き去りにして、ボストンバッグ片手に異世界への扉に向かって走る。
そんなに遅くならないとバレッタには言ってしまっていたので、きっと今頃心配していることだろう。
「お、雨が降ったのか」
異世界への敷居を跨いで石畳の通路を抜けると、一面水浸しになっている地面が目に飛び込んできた。
かなりの大雨が降ったようで、あちこちに小さなぬかるみができている。
それに加えて、雑木林には濃い霧がかかっていた。
「こりゃすごい霧だな……全然先が見えないぞ」
完全に日が落ちて真っ暗な上に、ペンライトで照らしても濃霧のために一寸先すら見えない。
だが、村までの道のりは一直線だ。
万が一にも道に迷うことはないだろうと、そのまま雑木林へと踏み込んだ。
そうして歩くこと、約30分。
「……やばい、迷った」
ものの見事に、一良は遭難したのだった。