99話:故郷へ
数日後の夕方。
一良はリーゼやジルコニアとともに、イステリア北西にある山岳地帯にいた。
今いる場所は、山の中腹付近の川べりである。
ここから少し歩いた先に、放棄された農場があるとのことだ。
すでに空は夕焼け色に染っており、周囲では兵士と従者たちが野営準備を始めている。
野営地のあちこちで焚き火が焚かれ、次々と天幕も張られ始めていた。
護衛や職人たちを含めると、100人以上は優にいるだろう。
かなりの大所帯による集団キャンプだ。
「こ、腰が痛え。いくらなんでもあの馬車揺れすぎだろ……」
一良は腰に手を当て、身体を反らすように背伸びをした。
ここまで3人は馬車で移動したのだが、山道はでこぼこしていて車内の揺れは酷いものだった。
ショックアブソーバーのような機構がないため、振動が直に車体全体に伝わるので当然である。
馬車の移動に不慣れな一良とリーゼはゆっくり休むこともできず、酔い止めの精油を染み込ませたハンカチをずっと握り締めていた。
次に日本に戻ったら、馬車の歴史を調べて振動軽減の手法をこちらの世界に持ち込んでみてもいいだろう。
ショックアブソーバーの部品や馬車そのものを購入して持ち込んでしまってもいいが、何か別の手法があればそれを用いてみてもいい。
「リーゼ様、大丈夫ですか? こちらに腰かけてください」
「うん、大丈夫。ありがとう」
エイラが荷馬車から引っ張り出した丸椅子に腰かけ、リーゼは小さく溜め息をついた。
だいぶくたびれてしまっているのか、かなり疲れた表情でぐったりとしている。
一良たちの近くでは、従者たちが夕食の準備を始めている。
その従者たちにまじって、マリーもぱたぱたと慌しく動き回っていた。
エイラもマリーも、いつものような侍女服姿ではなく、屋外でも行動しやすいようにと身軽な服装だ。
履物も、いつものような靴ではなく革のブーツを履いている。
「カズラさん、大丈夫ですか?」
一良が腰を押さえてうめいていると、ジルコニアが心配そうに声をかけてきた。
「何とか大丈夫です。でも、馬車の移動が4日も続くとさすがに辛いものがありますね……」
「道中、かなり揺れましたからね。エイラ、夕食後にカズラさんの腰を揉んでさしあげて」
「かしこまりました」
「あ、いや、そこまでは大丈夫です。少し休んでいれば治りますから」
エイラに指示を出すジルコニアに、一良は慌てて断りを入れる。
エイラたち従者とて、長時間の移動で疲れているはずなのだ。
立場的に奉仕してもらうのは当然なのかもしれないが、そこまでしてもらうのは気が引ける。
ちなみに、一良たちの世話をするエイラたちのような従者や職人たちも、馬車で移動させている。
徒歩での移動は、護衛の兵士やその他の使用人、作業人員の募集に集まってきた一般市民の労働者たちだ。
「分かりました。ですが、あまり無理はしないでくださいね。今カズラさんに倒れられたら、過労で私が死んでしまいます」
遠慮している一良に、冗談めかしてジルコニアは言う。
もうずっと朝から晩まで顔を合わせているせいか、ジルコニアからは以前のような堅苦しさがとれて、最近では冗談も言い合うようになってきた。
ナルソンやアイザックたちも同様で、最近では身の回りのことなどの雑談もよくするようになっている。
「その時は元気になる薬をたくさんあげますから、それをがぶ飲みして頑張ってください。私は草葉の陰から応援しています」
「ぜ、絶対に嫌です……というか、私ではなくカズラさんがその薬を飲むべきですよ。私たちは後回しでいいですから」
「あー……あの薬って、こちらの人たちに特化したものなので、私にはあまり効かないんですよね。全く効かないというわけじゃないんですが」
そう言うと、ジルコニアは少し驚いたような表情を見せた。
だがすぐに、「そうなのですか」と頷き、作業を続けている従者たちに視線を戻した。
もういつものことだが、こういった内容について突っ込んだ質問をするつもりはないらしい。
「それにしても、ここまで来るのにずいぶんと時間がかかってしまいましたね。まさか移動だけで4日も使うとは思わなかったな……」
山道は思いのほか険しく、山のふもとからここに到着するまでに2日も費やしてしまった。
また、イステリアから山のふもとに到着するまでに2日使っているので、本日で野営4日目である。
「連れて来ている人数も多いですし、モルタル用の材料や野営道具をたくさん持ってきていますからね。4日でたどり着けたのは、むしろ上出来だと思います」
野営地の周囲には、イステリアから持ってきた石灰や砂などの物資を載せた荷馬車が停められている。
氷池用のモルタルを造るにはまだまだ材料が足りないので、今後も何回かに分けて輸送しなければならない。
この場所には職人と労働者を何十人か常駐させて作業を行わせるので、食料も定期的に運ばせる必要がある。
氷池とは、氷を作るために水を貯める溜め池のことだ。
「水車を設置する位置は決めることができたので、明日は早起きしてすぐに他の作業に取り掛かりましょう。日暮れまでには職人たちに全ての作業指示を出してしまわないと。できることなら、明後日の早朝にはこちらを発ちたいですね」
そう言うジルコニアの表情には、疲労感は微塵も感じられない。
ジルコニアは激しく揺れる車内でも動じる様子はなく、壁にもたれかかってすやすやと仮眠をとっていた。
あの揺れの中でよく眠れるものだと、一良とリーゼは唖然としたものだ。
「そうですね。明後日の早朝に出発するとなると、グリセア村に行くのは早くても7日後か……まあ、工事計画書の受け取りにはちょうどいい頃合ですかね」
間もなく治水工事計画書の1度目の引渡し期日となるので、できればそれまでには日本に戻っておきたい。
数日受け取りが遅れたところで問題にはならないが、設計をしてくれている建設会社の取締役は一良に連絡がつかない状態だ。
いつまでたっても音沙汰なしでは、いくら前金を払っているとはいえ不安がられてしまうだろう。
ちなみに、河川工事計画書については、ジルコニアたちには話してある。
次にグリセア村に戻る理由も、その計画書の回収が目的だと説明済みだ。
「カズラさんがグリセア村に行っている間に、作業人員の募集をかけておきますね。何人くらい必要ですか?」
「えっと……計画書の中身がどうなっているのか私も詳しくは知らないんで、どれだけの人数を動員するのかはまだ分からないんです。大工職人や石膏職人は、ある程度確保しておいたほうがいいと思います」
「大工職人と石膏職人ですか……大工職人はすでにあちこちで引き抜いている状態なので、あまり多人数が必要にならなければいいのですが……」
さらに職人を引き抜くと聞き、ジルコニアは不安そうな表情になった。
「来年の雨季までに部分改修を終えることができればいいので、期間的にはまだ余裕があります。職人が確保できないようならば、計画を全体的に少し後ろ倒しにしましょう。こればかりは仕方がないですよ」
「そうですね……作業の内容にもよりますが、軍に所属していた者のほとんどは野営地や要塞構築の経験があります。簡単な大工仕事なら慣れているはずなので、軍経験者を優先して動員しましょう」
「なるほど、それはいい考えですね」
今回行われる河川改修工事は部分的なものなので、そこまで大人数は必要にはならないだろう。
だが、あちこちで職人を引き抜いているために職人の数が圧倒的に不足している。
工作機械の開発を遅らせるわけにはいかないので、河川工事が遅れるのは仕方がないだろう。
「あと、今回作業に充てる市民には、部分改修後の本改修や街道整備などの仕事にもついてもらいたいんです。なので、今回の工事が終わった後も解散にはせずに契約は継続したままにしておいてください。雨季の間は他の仕事に回してもらってもいいんで」
「分かりました。ある程度資金には余裕が出そうですし、失業者の受け皿として契約は継続させましょう。雨季の間は、街の防壁の工事に当たらせますわ」
「……ねえ、カズラ」
「ん?」
一良とジルコニアが話し込んでいると、それまで黙って聞いていたリーゼが声をかけてきた。
「カズラの国って、他にもカズラみたいな人が沢山いるの? オルマシオール様とかガイエルシオール様とか」
周囲の兵士たちに聞かれないようにと気遣っているのか、リーゼは小声で話す。
オルマシオールとは戦いの神、ガイエルシオールとは商売の神のことだ。
「いるといえばいるよ。それっぽいのが色々と」
「そ、そう。……だったら、その分野の人を直接連れて来て手伝ってもらえばいいんじゃない? カズラは、慈悲……ええと、救済と豊穣が管轄なんでしょ? 何もカズラが全部1人でやらなくてもいい気がするんだけど」
いぶかしむような表情で言うリーゼに、一良は何と答えるべきかと言葉を詰まらせる。
かなり際どい内容の話だが、思えば今までこういった話が出なかったことのほうが不思議に思えた。
いっそのこと神様設定を放棄してしまい、全部ぶっちゃけてしまってはどうだろうかという考えが頭に浮かぶ。
現在までの一良の行いは、グレイシオールの言い伝えをはるかに凌ぐほどの内容であることは誰の目にも明らかだ。
もし一良が「実は私は神様じゃなくて、別の世界からやってきた普通の人間なんです」と白状したとしても、「そうだったのか! この嘘つきめ! ぶち殺してやる!!」とはならないだろう。
しかし、ぶっちゃけた場合のメリットといえば、めんどくさい嘘の説明をする必要がなくなるということと、嘘をついているという後ろめたさがなくなるといったことくらいだ。
逆にデメリットは何だろうかと考えると、知識の吸い上げのために一良自身が監禁や拷問をされたり、グリセア村の村人たちが人質に取られたりするかもしれないといった嫌な考えがいくつも浮かんだ。
ナルソンたちはそんなことをするような人間ではないとは思うが、こればかりは断言はできない。
だが、一良がグレイシオールという神だと信じているからこそ、ナルソンたちは何も探りを入れてこないし、一良の行動に何も制限をかけてこないということは確かだろう。
こうして考えてみると、あえて自分から正体をぶっちゃけるメリットはほとんどないように感じられた。
このままぐだぐだ状態な神としての設定でも、上手くいっているのならそのまま通したほうがよさそうだ。
神様とはこういうものだ、といった指針など存在しないので、ナルソンたちからしてみれば「こういうものなのか」と思わざるを得ないだろう。
「(ていうか、『神様』っていったい何なんだろうな……)」
「カズラさんにも色々と事情があるのよ。私たちが無理を言って助けてもらっているのだから、あまり困らせちゃダメよ?」
一良がそんなことを考えて押し黙っていると、ジルコニアがリーゼを諭すように口を挟んだ。
「え、私そんなつもりじゃ……」
「さてと、私は今のうちに畑までの道を確認してきますね。夕食は先に食べていてください」
ジルコニアはそう言うと、1人で薄暗い森の方へと歩いて行ってしまった。
去っていくジルコニアの背を、リーゼは釈然としない表情で見つめていた。
約1時間後。
一良はリーゼと並んで岩に座り、川を眺めながら夕食をとっていた。
2人が座っているのは、川べりに鎮座している大きな平たい岩だ。
それぞれの隣には敷き布が敷かれ、煮込み料理の入った木の椀や、パンや果実酒が置かれている。
本来ならば天幕の中で食事をとるのだが、一良の提案で川べりで食事をとることになったのだ。
近くで燃える焚き火の炎が周囲を柔らかく照らし、さらさらと川を流れる水の音が辺りに響いている。
転地効果というのか、こうして美しい自然の中で食べる食事は、ここ数日の間で一番美味しく感じられた。
「なるほど、確かにそんなことをされたら、『死ねばいいのに』って言いたくもなるよな」
「でしょう? 前にも身体を触ってきたことが何回かあったし、もう本当に気持ち悪くて。……あー、思い出したら腹が立ってきた!」
パンを千切って口に放り込みながら、リーゼはぷんすかと怒っている。
今2人が話している内容は、リーゼの面会相手についてのものだ。
頻繁に訪れる面会者の相手でヘロヘロになっているリーゼを見て、どんな人たちがやってくるのかと一良は以前から気になっていた。
そこで、この間の雑貨屋での一件も交えて何気なく話を振ってみたのだが、鬱憤が溜まっていたリーゼの口からは堰を切ったように愚痴がこぼれだすという結果になっている。
「でも、そんなに嫌なら断っちゃえばいいんじゃないか? そいつと結婚するつもりがないなら、別に無理して面会を続ける必要はないだろ」
「んーん、そうもいかないの。簡単に断って悪い評判広められるのも嫌だし、大抵の人は商業取引とか仕事の口利きとかでイステール家を支援してくれてるのよ。私が面会するようになってから色々と融通してくれるようになった人も多いから、無下に断ったらお父様やお母様に迷惑がかかるわ」
そう話すリーゼには、数日前まで感じられたような遠慮や堅苦しさは微塵も感じられない。
リーゼは敬語をやめて素の状態で付き合おうという一良の提案どおり、完全に素の状態で接するように心がけていた。
だが正直なところ、まだ完全には慣れておらず、やりにくさも感じてはいる。
「え、ということは、みんなリーゼが目当てで色々とイステール家に気を使ってるってこと?」
「領主の地位が目当てで言い寄ってきてる人もたくさんいるから、全員が私目当てってわけじゃないと思うよ。もう何年も前からずっとこんな感じかな」
何の感慨もなさげに、リーゼは淡々と話す。
「だから、ある程度権力があってお金持ちの相手とじゃないと結婚するつもりはないの。とはいっても、ニーベルみたいな気持ち悪い奴とか、領主になって好き勝手やってやろうって考えてるような奴は絶対嫌だけど。あと、逆にケチケチしすぎてる人も嫌かな」
「マジか。リーゼも苦労してるんだな……みんな最初から結婚を狙って言い寄ってくるのか」
何ともしんどい立場にあるように思え、同情するように一良は言う。
領主の娘というステータスが大きすぎて、言い寄ってくる者が沢山いたとしても、気軽に恋愛などできるはずがない。
しかも面会に来る者の中には、ニーベルのような常識はずれな男も何人かいるようだ。
そういった者たちの相手もしなければならないというストレスは、年若いリーゼにとってかなりの負担になっていることだろう。
「領主の娘なんてこんなものでしょ。まともに恋愛して結婚なんて、できるわけがないよ」
リーゼはそう言いながら、川に目を向けてぱくぱくと料理を口に運んでいる。
達観しているような様子のリーゼに、一良は何とも寂しい気持ちになった。
「その分言い寄ってくるやつらから色々貰えるから、それを売って美味しいもの食べたり綺麗な服買ったりしてるんだけどね。それくらいやっても、バチはあたらないでしょ」
「なるほど、贈り物を売ったお金で遊び歩いてるのは、面会のストレス発散なわけか」
「うん」
「でも、そんなに沢山面会者が来るなら、1人や2人よさそうなのはいなかったのか?」
「……いたらとっくに結婚してるよね」
「……それもそうか」
リーゼは食事の手を止めて、ジト目で一良に目を向ける。
そして持っていたパンを敷き布に置くと、「あーあ」と言って視線を川に戻した。
「やっといい人見つけたと思ったんだけどな。その人には思いっきり嫌われちゃうし、もうこれからどうすればいいんだろ」
「いや、別に嫌ってはいないって」
「本当?」
「ああ、本当だよ」
「私と結婚してくれる?」
「それとこれとは話が別だろ」
「ぶー」
頬を膨らませているリーゼに、一良は少し笑ってしまった。
辛気臭くなってきた雰囲気を気遣って、リーゼは少しふざけてみせたのだろう。
「ところで、ジルコニアさんずいぶんと遅くないか? 畑ってそんなにここから遠いんだろうか」
「イステリアを出発する前に地図を見たんだけど、そんなに距離はなかったと思うよ。……確かに、ちょっと遅いね」
リーゼは事前に地図を見て、周辺地域の地形を頭に叩き込んでいた。
畑は川から10分ほど歩いた場所だったはずなので、確かに帰りが遅すぎるようにも思える。
「向こうで何か問題でもあったんだろうか。様子を見に行ったほうがよくないか?」
「でも、護衛も付いていって……」
そこまで言いかけて、リーゼはジルコニアが去って行った時の様子を思い出した。
ジルコニアは、誰も連れずに1人で森へ入っていった。
つまり、今ジルコニアはこの暗い森の中を1人きりでいるのだ。
野生の獣が出るかもしれない夜の山を1人で歩き回るなど、危険極まりない行為だ。
「(どうしてそんな危険なことを……あ)」
「……護衛、付いていってないよな。急いで迎えにいこう。何かあったのかもしれない」
「待って」
慌てて立ち上がった一良の腕を、リーゼは掴んで引き止めた。
「もう少しだけ、待ってみよう?」
「いや、すぐに迎えに行くべきだろ。何かあったら取り返しがつかないぞ」
「ここって、たぶんお母様の故郷だと思うの」
「……故郷?」
「うん」
いぶかしむような表情をする一良に、リーゼは頷いた。
「だって、ここにはもうずっと前から誰も住んでないんだろ? この先にある村も廃村だって……」
「10年くらい前に、このあたりの村がいくつか野盗に襲われて、住民が皆殺しにされる事件があったの」
予想だにしていなかった話に、一良は驚いた表情を浮かべた。
「皆殺しって……じゃあ、ジルコニアさんは……」
「うん。たぶん、その村の生き残りなんだと思う」
リーゼはそう言うと、ジルコニアが歩いていった暗い森の獣道を見つめて目を細めた。
「だから、もう少しだけ、待ってみよう?」
「……分かった」
2人はそのまま押し黙り、暗い森をじっと見つめていた。
その頃、ジルコニアはこんもりと土が盛られて石が積まれた3つの墓の前に座り、月を眺めていた。
1つの小さな墓が2つの墓に挟まれるような形で鎮座しており、青白い月の光が辺りを照らしている。
それぞれの墓の前には、ジルコニアが道すがら摘んできた山花がいくつも置かれていた。
小さい墓の前には、毛糸で作られた女の子の格好をした小さな人形も置かれていた。
ジルコニアはそのまま暫く月を眺めていたが、小さく息をつくと立ち上がり、墓に背を向けて野営地へと戻っていった。