気泡の弾劾
第一章:スラムから王都へ ― 静かな波紋 ―
水路改修から数日。
スラムは疫病の気配もなく、驚くほど活気に満ちていた。
だが、その活気が一箇所に集中し、妙な「歪み」を生んでいた。
「……納得がいかない。構造的に、この質量保存の法則は無視できないはずだ」
レインは、スラム唯一のパン屋の前に立っていた。
手には、焼き立ての――いや、焼き上がったばかりのフカフカの白いパン。
「レイン……いいじゃない、美味しそうよ?
ほら、こんなに膨らんでて、見た目は王都の高級店みたいだし」
セラが、隣で空腹をこらえながら(耳を少し赤くして)パンを覗き込む。
最近の彼女は、レインの「やらかし」を監視する名目で、すっかりスラムのグルメツアーに同行する騎士と化していた。
「……セラ、騙されるな。
これはパンじゃない。……『パンの形をした空気』だ」
「はぁ? 何を言って……」
「……ミナ。このパンの体積を測れ。
……俺は今から、この生地の密度を算出する」
「了解、レイン! 水置換法でいくね!」
ミナが手際よく、スラムの子供たちが集めてきたバケツを用意する。
市場の秤不正を暴いて以来、ミナはレインの「筆頭助手」として、完全に数字の虜になっていた。
「おいおい、ガキども! 営業妨害だぞ!
うちのパンは、最新の製法でフワフワに仕上げてるんだ。文句があるなら食うな!」
店主の太った男が、店の奥から顔を出す。
だが、レインの冷徹な黄金色の瞳が、店主の眉間を射抜いた。
「……最新の製法? 違うな。
あんたがやったのは、イースト菌の過剰発酵による容積の偽装。
そして、生地に不自然な『気泡』を混入させるための、構造的な撹拌だ」
「な、何を……っ!」
「……セラ。このパンの重さを言ってみろ」
「え? ええと、見た感じだと三〇〇グラムくらいかしら?」
「……正解は、一二〇グラムだ」
一瞬、空気が凍る。
「……体積に対して、質量が構造的に欠落している。
つまり、あんたは客に『六割の空気』を、パンの値段で売りつけていることになる」
レインが計算尺をピシャリと叩いた。
周囲に集まっていた主婦たちがざわつき始める。
「えっ……」
「確かに、食べてもお腹が膨らまないと思ったわ……」
「……ミナ、算出結果は?」
「出たよ! このパンの空隙率、通常のパンの三倍以上!
ほとんど『網』だよ、これ!」
「……だそうだ。店主。
あんたはパン屋じゃない。……空気の小売業者だ」
「この、クソガキがぁ!! 証拠を出せ、証拠を!」
店主が激昂し、巨大な麺棒を振り上げた。
だが――
「――そこまでです。
空気を売るのは自由ですが、暴力を売るのは私の管轄ですので」
セラの剣が、鞘に入ったまま店主の喉元を優しく(物理的には冷徹に)押さえた。
彼女の手には、いつの間にか半分にちぎったパンが握られている。
「……レイン。これ、確かに酷いわ。
噛んだ瞬間に『無』になるもの。騎士団の兵糧攻めに遭った時の方が、まだ噛みごたえがあるわね」
「……セラ、食ったのか。
構造的にスカスカなものを食うと、血糖値が急上昇して太るぞ」
「――っ!! それを早く言いなさいよ!!」
セラの絶叫が響く。
彼女は慌ててパンを店主の口に突っ込んだ。




