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流体の慟哭

第一章:スラムから王都へ ― 静かな波紋 ―

王都の空が、鉛色に塗り潰されふた。



バケツをひっくり返したような豪雨が、スラムの脆弱な屋根を叩きつける。



「……このままでは、構造的に『詰む』な」

レインは、時計塔の窓から濁流と化した路地を見下ろしていた。



スラムの排水能力は、もともと皆無に等しい。


前世の都市工学の知識が、最悪のシミュレーションを脳内に投影する。



浸水まで、あと十五分。



土砂崩れによる倒壊まで、三十分。



「レイン! 何をしているんですか、避難を! 公爵閣下からも、貴方の安全を最優先にと命令が出ています!」


セラが、ずぶ濡れの甲冑を鳴らして駆け込んできた。


彼女の碧眼には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。


「……セラ。避難は非効率だ。



高台への道は、すでに地盤が緩んでる。構造的に、あそこは真っ先に崩れる」


「な……っ!? なら、どうしろと言うんですか!」


「……直す。この街の『流れ』をな」


レインは、ポーチから一本の「杭」を取り出した。



それは、彼が夜な夜なスラムの地下に打ち込んできた、魔力伝導率を極限まで高めた合金製の杭だ。



「レイン、まさか……一人で土木工事でも始める気!?

狂っています、この雨の中で!」


「……狂ってない。計算は合っている」


レインは土砂降りの外へと飛び出した。



泥濘に足を取られながら、彼はかつて自分が補強した排水溝の「起点」へと走る。


(……また、間に合わないのか?)

脳裏をよぎるのは、前世の白い研究室。

崩落する橋。



叫び声。



自分の「正しさ」が、誰一人救えなかった、あの雨の夜。



「……二度は、壊させない」



レインは泥の中に膝をつき、杭を地面に突き立てた。



その瞬間、彼の小さな体から、スラム全域の地下構造を把握するための「探査魔力」が放出される。



「――っ、レイン!!」



追ってきたセラが、息を呑んだ。



彼女の目には、レインを中心に、スラムの地下に張り巡らされた「黄金の幾何学模様」が浮かび上がるのが見えた。



「……流体抵抗、キャンセル。

……全排水路、強制同期」


レインが杭を深く打ち込む。



次の瞬間。



――ゴォォォォン!!




地響きと共に、路地に溜まっていた濁流が、まるで意志を持った生き物のように一箇所へと吸い込まれていった。



それは、レインが事前に「構造改修」を施していた、古びた地下水路への最短ルート。



「……え? 嘘……水が、引いていく……?」

セラが呆然と立ち尽くす。


数分前まで足首まであった水が、魔法のような速度で消えていく。



だが、レインの顔に余裕はない。



彼は、全神経を集中させて、スラムの地盤にかかる負荷を「分散」させていた。



それは、一人の人間が背負うには、あまりに巨大な「構造」の重み。



「……ふぅ。……これで、当面は大丈夫だ」

レインが、泥まみれの顔を上げた。



雨はまだ降り続いているが、街が崩壊する音は止んでいた。


「……レイン。貴方、今、何をしたんですか?

……これはもう、土木とかいうレベルじゃ……」



「……ただの排水管理だ。……あ、それと、セラ」



「な、何ですか」



「……あんたの後ろ。構造的に、地盤が緩んでたみたいだな」



レインが指差した先。



セラのいた場所のすぐ後ろで、大きな民家の壁が、ゆっくりと、しかし確実に「逆側」へ向かって倒れていった。



レインが意図的に、崩落のエネルギーを「人がいない方向」へ誘導した結果だ。



「――っ!? ちょっと、危ないじゃないですか!」



「……だから、そっちに倒れるように計算したと言っただろ。



……おかげで、公爵家から支給されたあんたの高級馬車が、構造的にペシャンコになったが」




「…………は?」



セラの視線の先。


無残にひしゃげた豪華な馬車が、瓦礫の下から車輪を覗かせていた。




「レ、レイィィィィィン!!



あれ、いくらすると思ってるんですか! 私の給料、何年分だと……!」



「……知らない。……俺は、街を守っただけだ。



……馬車は、構造的に犠牲になってもらった」




「犠牲にしすぎです!!」



セラの絶叫が、雨音を突き抜ける。



彼女の耳は、怒りと、そして「また助けられた」という言いようのない感情で、真っ赤に染まっていた。



そんな二人の前に、一台の質素だが重厚な馬車が近づいてきた。



中から現れたのは、落ち着いた仕立ての服を着た、知性溢れる初老の男。



「……お見事だ、少年。……いや、レイン=アッシュ君」



エルドリック公爵、その人だった。



彼は、水が引いたばかりのスラムを満足げに見渡し、レインの前に立った。



「君の『構造』への理解。……これほどとはな。



……もはやスラムに置いておくのは、世界の損失だ」



「……公爵。俺は、静かに暮らしたいだけだ」



「……ならば、より『頑丈な構造』の内側へ来るといい。



……王立魔導学園。……そこで君の力を、正しく使ってみないか?」



レインは、泥のついた自分の手を見つめた。



隣で、セラが不安そうに自分を見ている。

(……壊れないものなんて、ない。

……でも、補強することはできる)



「……いいだろう。……ただし、俺の『普通』に文句を言わないのが条件だ」



「……ふふ。善処しよう」



公爵は笑った。



だが、セラは、これからの自分の苦労を「構造的」に予感して、深く、深い溜め息をついた。

スラムを去る朝。



ミナが書いた、たどたどしい数式が、石畳に刻まれていた。



それは、レインがこの世界に初めて打ち込んだ、消えない「補強」の証。



「……行こう、セラ。……構造的に、遅刻は非効率だ」



「……まだ、準備もできていませんよ! この、天然やらかし賢者!」



二人の旅路が、ここから本格的に、歪んだ世界の構造を叩き直し始める。

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