重心の弾劾
第一章:スラムから王都へ ― 静かな波紋 ―
王都の北側、活気に満ちた「青空市場」。
そこは、スラムから這い上がってきた商人と、小銭を惜しむ市民がぶつかり合う、欲望の最前線だった。
「……おじさん、これ。重さが足りないよ」
澄んだ、しかし意志の強い声が響く。
声を上げたのは、レインと同い年くらいの少女――ミナだった。
彼女は、レインから授かった「算術」という武器を手に、一軒の乾物屋の前に立っている。
「あぁ? なんだい、お嬢ちゃん。この秤を見てみな。ぴったり一ポンドだ。文句があるなら、よそへ行きな」
店主の男が、鼻を鳴らしてせせら笑う。
秤の針は、確かに一ポンドを指している。
だが、ミナの目は、その「針」ではなく、秤の「底」を見ていた。
「……構造的に、あり得ない」
背後から、低い、冷徹な声が重なる。
レインだ。
彼の隣には、不機嫌そうな顔を隠そうともしないセラが、護衛として(あるいは半分以上は串焼きの恩義で)寄り添っていた。
「レイン! 見て、やっぱりこれ、おかしいよね?」
「ああ。ミナ、よく気づいたな。
……店主。この秤、重心が左に三ミリずれている。
さらに言えば、支点の下に隠した磁石で、針の振れ幅を構造的に固定しているな」
「な、なな……何を言ってやがる! 言いがかりだ!」
店主の顔が、みるみるうちに赤らんでいく。
周囲に野次馬が集まり始めた。
「レイン。……貴方、また始まりましたね」
セラが、こめかみを押さえて溜め息をつく。
「いいですか。市場には市場の『流儀』というものがあります。
それをいちいち理論で叩き潰していたら、騎士団の仕事が……いえ、私の胃が持ちません」
「セラ、これは流儀じゃない。
……ただの、計算ミスだ」
レインは淡々と歩み寄ると、店主の制止を無視して、秤の皿に自分の小さな手を置いた。
「俺の手の質量は、構造的に把握している。
……今、この秤は、俺の指先に加わる一・五ニュートンの圧力を、二ニュートンとして出力している。
……誤差、三三%。
……店主、あんた、算数が苦手なのか?」
「――っ、このガキがぁ!!」
逆上した店主が、レインに掴みかかろうとした。
だが。
「……動かないでください。
私の剣は、構造的に『無礼』を斬るようにできていますから」
セラの剣先が、抜剣すらされぬまま、店主の喉元にピタリと突きつけられた。
彼女の目は笑っていない。
だが、その頬は、少しだけ引きつっていた。
(……なによ、今の『手の質量を把握している』って。
この子、いつか自分の細胞の数まで数えだすんじゃないかしら。
……怖い。正直、引くほど怖い……!)
セラの心の中の絶叫は、誰にも届かない。
彼女はただ、完璧な騎士としての仮面を被り、耳を赤くして立っている。
「……レイン。助けてくれたのは、ありがたいけど。
……その、言い方」
ミナが、苦笑しながらレインの袖を引く。
「おじさん、真っ白になってるよ。
……『算数が苦手』なんて、この市場で一番の屈辱なんだから」
「……事実を言っただけだ。俺は悪くない」
レインは、興味を失ったように秤から手を離した。
「……構造が歪んでいると、いつか崩れる。
……この店も、この市場もな。
……俺は、それを補強してやりたかっただけだ」
その独り言のような呟きに。
セラは、剣を収める手を止めた。
(……補強。……守りたい、ではなくて、補強。
……どこまで不器用なのよ、この子は)
セラの胸の奥が、チリりと痛む。
彼女は、レインの「無機質な正論」の裏側に隠された、壊れ物を扱うような優しさに、またしても気づいてしまった。
「……レイン。もういいわ。
この件は、私が商業ギルドに報告しておきます。
……だから、そんな顔で数字を見つめるのはやめなさい」
セラは、レインの頭にポンと手を置いた。
無意識の行動だった。
「――っ!? な、何をする、構造的に不必要な接触だ!」
「……うるさいです。
これは、迷子を保護するための『物理的な固定』です!
変な理屈をこねないで、さっさと歩きなさい!」
セラの耳が、市場の夕焼けよりも赤く染まる。
レインは、むすっとした顔で視線を逸らしたが、その耳もまた、ほんのりと赤らんでいた。
「……重心が、崩れるだろ」
「……私のせいじゃありません!」
二人の歩幅は、相変わらず合わない。
だが、そのすれ違いの距離こそが、今は一番「正しい構造」に見えた。
それを見送るミナが、ポツリと呟く。
「……レイン、全然わかってない。
……あの女騎士さん、もう、計算不能なほど振り回されてるのに」
市場の喧騒の中。
新しい「波紋」は、確実にその範囲を広げていた。




