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排気の定理

第一章:スラムから王都へ ― 静かな波紋 ―

「……はぁ。構造的に、私の胃壁が悲鳴を上げています」

 

スラムの広場。

 

セラ=クロードは、額を押さえて天を仰いでいた。

 

彼女の視線の先には、異様な光景が広がっている。

 

ジャックの屋台を中心に、スラムの住人どころか、身なりの良い王都の商人、さらには噂を聞きつけた魔術師見習いまでもが、長蛇の列を作っていた。

 

原因は、レインが「ついでに」と設計し直した屋台の『排気システム』だった。

 

「レイン=アッシュ。説明しなさい。

 なぜ屋台を囲むように、巨大な『蛇の抜け殻』みたいな筒が伸びているんですか?」

 

「……ただのダクトだ。

 煙が客の目に染みるのは、集客効率を構造的に阻害する。

 だから上昇気流と気圧差を利用して、煙を上空五十メートルまで一気に排気するようにした。

 ベルヌーイの定理を応用しただけだ。俺は悪くない」

 

レインは、自作の精密な計算尺(スラムの廃材製)をカチカチと動かしながら淡々と答える。

 

その筒は、ブリキの破片や古びた皮袋を繋ぎ合わせたもの。

 

だが計算し尽くされた形状により、屋台から出る煙を、信じられない吸引力で吸い込んでいた。

 

「ただのダクトが、どうしてあんな『笛』みたいな音を奏でるんですか!

 おかげで王都中に『スラムに音楽を奏でる美味しい屋台がある』と、余計な噂が広まっているんですよ!」

 

「……吸気口の形状を少し工夫したら、勝手に和音が鳴っただけだ。

 音の周波数が脳を刺激して、食欲を増進させる構造になっている。

 ……計算通りだ」

 

「計算しないでください!

 貴方のせいで、私の『静かな調査』が、今や『王都一番の観光地巡り』に成り果てているんです!」

 

セラの耳が、またしても茹でた蟹のように赤くなる。

 

騎士としての理性を保とうと、必死に剣の柄を握りしめる。

 

だが――

 

鼻腔をくすぐる「完璧な火加減で焼かれた肉」の香り。

 

腹の虫が、無慈悲に鳴いた。

 

「……セラ、腹が減ってるのか。

 血糖値の低下は、判断力を構造的に狂わせる。

 食え」

 

「っ、いりません! 私は公務中……っ」

 

レインが無造作に差し出した、黄金色に輝く串焼き。

 

セラは一瞬、剣を抜くかのような勢いでそれをひったくる。

 

周囲を警戒し――誰も見ていないことを確認し――

 

一口、思い切りかぶりついた。

 

その瞬間。

 

全身に電流が走る。

 

(……何、これ。

 肉の繊維一つ一つが、口の中で最適解を求めて解けていく……。

 脂の融点が、私の体温に合わせて設計されている……!?)

 

「……っ。

 ……認めるわ。構造的に、抗えない美味しさです。

 でも、これと私の騎士としてのプライドは別問題ですからね!」

 

「そうか。

 なら、そのプライドで、あそこの『歪み』も斬ってくれ」

 

レインが、列の最後尾を指さした。

 

そこには、明らかにスラムの住人ではない、黒いマントを羽織った男たちが三人。

 

不気味な殺気を放っている。

 

彼らは、王都の食肉市場を独占するローデリック侯爵の差し金だった。

 

「スラムの安売りが市場価格を壊している」

 

極めて“構造の古い”権力者たちの怒り。

 

「……ジャックの屋台、目立ちすぎたか」

 

レインが呟く。

 

その瞳に、一瞬だけ前世の――正しすぎて孤立した研究者の寂寥がよぎった。

 

男の一人が、隠し持っていたナイフを抜こうとする。

 

だが、それより早く。

 

一筋の銀光が空気を切り裂いた。

 

「――そこまでです。

 私の『監視対象』に、無粋な刃を向けないでいただけますか?」

 

セラだった。

 

彼女は串焼きを片手に持ったまま、鞘に入った剣で男の手首を正確に叩いた。

 

「ぐわぁぁっ!」

 

「……セラ。串焼きを持ったまま戦うのは、重心の構造的に不安定だ」

 

「うるさいです!

 これを離したら、貴方がまた勝手にどっかへ消えるでしょう!?

 私は……貴方の、その危うい『正しさ』が、また何かを壊すのを見ていられないだけです!」

 

その叫びに、レインは目を見開く。

 

怒っている。

 

だがその怒りは、レインではなく――

 

レインを狙う理不尽に向けられていた。

 

男たちは、セラの放つ圧倒的な騎士の気圧に押され、捨て台詞を残して逃げていく。

 

広場に、再び香ばしい匂いが戻る。

 

ダクトが奏でる、奇妙に美しい和音。

 

「……助かった」

 

「別に、貴方のためではありません。

 公爵家が目をつけている人材を守った。ただ、それだけ……っ、あぁ!」

 

セラが叫んだ。

 

手元にあった串焼きの最後の一口が、今の動きで地面に落ちていた。

 

耳どころか、顔全体が絶望で真っ赤に染まる。

 

「……レイン。責任、取ってください」

 

「……わかった。

 構造的に、もう三本焼く。それでいいだろ」

 

「……五本です」

 

「……強欲だな、あんた」

 

夕暮れのスラム。

 

少年の呆れた声と、少女の強がりな声が、煙と共に空へ昇っていく。

 

その様子を、遠くから変装して見守る男がいた。

 

エルドリック公爵。

 

彼は手帳に、一言だけ書き留める。

 

『スラムに、世界を再構築する「梁」を発見。

 ただし、極めて不器用な扱いが必要。』

 

物語の構造は、確実に。

 

そしてより複雑に、動き出そうとしていた。

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