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公爵邸の対角線

第一章:スラムから王都へ ― 静かな波紋 ―

王都の貴族街。



その中心に鎮座するエルドリック公爵邸の門前に、異様な一団が立っていた。



純白の甲冑を纏った騎士、セラ。



そして、その隣で「スラムの廃棄物で作った特製計算尺」をカチカチと鳴らす、煤けた少年の姿。



「……レイン。いいですか、ここは公爵邸です。間違っても、柱の垂直度を測って『構造的に傾いている』とか叫ばないでくださいね」



「……努力はする。……だが、門の蝶番ちょうつがいの摩擦音が、さっきから周波数的に耐え難い。……油、差していいか?」



「ダメに決まってるでしょう!!」



セラの絶叫が、静謐な貴族街に響き渡る。



彼女の耳は、門番たちの怪訝な視線を浴びて、構造的な限界値まで赤くなっていた。



通されたのは、広大な中庭を見渡すテラスだった。



そこには、前日の「スライディング事件」が嘘のような、優雅な服装に身を包んだエルドリック公爵が待っていた。



「……よく来たな、少年。……いや、レイン君」



「……どうも。……公爵、この椅子の背もたれの角度、人間工学的に三度ほど深すぎる。……腰椎への負荷が非効率だ」



「ははは! 相変わらずだな。……座り心地は後で直してくれ。……それより、約束の肉だ」



公爵が合図をすると、銀の皿に載った最高級の牛肉が運ばれてきた。



王都でも限られた貴族しか口にできない、幻の『霜降り和牛』。



だが、レインは肉を見るなり、眉をひそめた。



「……残念だ。……この肉、屠殺とさつ後の熟成温度が、一・五度ほど高すぎたな。……アミノ酸の分解速度が、構造的に乱れている」



「……なっ!?」



料理長が背後で卒倒しかけるのを無視して、レインはポーチから「自作の熱電対ねつでんつい」を取り出した。



「……セラ。……あんたの剣、少し貸せ。……予熱して、熱源として利用する」



「私の愛剣を調理器具にするなぁぁぁ!!」

セラの悲鳴をBGMに、レインは公爵の目の前で、騎士の剣を摩擦熱で加熱し、肉の表面を「分子レベルで」焼き固め始めた。


……これが、レイン流の「天然やらかし」である。


数分後。


テラスには、王宮の晩餐会でも嗅いだことのない、脳を揺さぶるような香りが満ちていた。



一切れ口にした公爵は、目を見開いたまま固まった。



「……美味しい……」という、語彙力を構造的に喪失した呟きが漏れる。



「……さて。……腹も膨れたところで、本題に入ろうか」



公爵は表情を引き締め、少年の瞳を覗き込んだ。



「……レイン君。……私は君の成果を調査させた。……パンの密度、水路の流体、そして子供たちの算術。……驚くべきことに、今のスラムの一部は、王都のどの貴族街よりも『合理的』に機能している」



公爵はワインを一口飲み、問いかけた。



「……なぜだ? ……莫大な予算も、高度な魔法も、歴史もないあの場所が、なぜ王都を凌駕できる?」



レインは、計算尺を置いた。



その瞳の奥に、一瞬だけ、前世の「崩壊した都市」を眺めていた時の、深い暗影が宿る。



「……構造的に、腐っていないからだ」



「……ほう?」



「……王都のシステムは、古い梁に新しい柱を無理やり継ぎ足した、欠陥住宅だ。……既得権益というシロアリが、土台を食い荒らしてい



る。……直そうとすれば、家全体が崩れるのを恐れて、誰も杭を打とうとしない」



レインは、自分の胸元を指で叩いた。



「……スラムには、最初から何もない。……だから、正しい杭を一本打てば、そこから新しい構造が、嘘みたいに綺麗に組み上がる。……それだけだ」



沈黙が流れる。



セラの背筋が、少年の言葉の重みに、ぴんと伸びた。



「……レイン。君は、この国を壊したいのか?」



公爵の問いに、レインは小さく首を振った。



「……違う。……俺は、壊れるのが嫌なだけだ。……橋も、道も、食卓も。……俺が計算した通りに、明日もそこにある。……その『普通』が、俺には必要なんだ」



それは、前世で救えなかった人々への、届かない弔辞。



少年の熱い、しかし冷徹なまでの祈り。



公爵は、しばらくの間、無言で少年の顔を見つめていた。



そして、堪えきれないといった様子で、豪快に笑い出した。



「……くっ、ふふふ! ……ははははは! ……素晴らしい! ……構造的に腐っていない、か。……全くだ、この私を含めてな!」



公爵は身を乗り出し、レインの目を真っ直ぐに見つめた。



「……レイン君。……王都という『欠陥住宅』



を、内側から補修してみる気はないか? ……魔法、建築、経済。……あらゆる構造が停滞しているあの場所で、君の杭を打ってみろ」



「……断る。……目立つのは非効率だ」



「……学園には、世界中から集められた『最高の建材(知識)』があるぞ? ……それに、そこなら誰にも邪魔されず、最高の計算ができる研究室を、構造的に保証しよう」



レインの指が、ぴくりと動いた。



「……最高の、建材」



「……ああ。……ついでに、セラの護衛も継続させよう。……彼女なら、君のやらかしを、物理的にカバーする構造に特化しているからな」



「……閣下、人を緩衝材かんしょうざいみたいに言わないでください!」



耳を真っ赤にして憤慨するセラ。



だが、レインは彼女の隣で、ゆっくりと立ち上がった。



「……いいだろう。……ただし、俺の研究室に、勝手に斜めの家具を置くことは許さない。……それが条件だ」



「……交渉成立だな」



こうして、スラムの少年は、王都の最高学府へと足を踏み入れることになった。



それは、古い王国の構造が、一人の「修理屋」によって、根底から再設計され始める序章。



伏線は、レインが去り際に直した、公爵邸の門の「音」の中に紛れていた。



「……レイン。……やっぱり、油差しましたね?」



「……摩擦係数がゼロに近づくのは、構造的に美しい」



「門が、滑りすぎて閉まらないんですけどぉぉぉ!!」



二人の賑やかな喧騒を乗せて、運命の歯車が、かつてないほど滑らかに回り出した。


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